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2021年12月25日土曜日

つれづれ雑草「良いお年を」

400字のリングは、2021年の最終ラウンドとなる。今年あなたの目は何を記憶しているだろうか。あなたの耳は何を記憶しているだろうか。あなたの口は何を記憶しているだろうか。あなたの体は何を記憶しているだろうか。権力、腐敗、隠蔽、堕落、絶望、失望、不信、不況、不安、虚言、暴言、消毒、疫病、感染、監視、殺人、狂気、成長、歓喜、憤怨、富裕、貧困、格差、混乱、幸福、底辺、権利、欲望、閉店、自粛、未練、怨念、謀略、選挙、勝利、敗北、不正、正義、発明、発見、天才、恋愛、賛美、醜悪、放火、道連、自殺、親子、兄弟、姉妹、別離、絶縁、借金、地獄、快楽、倒産、解消、不倫、大食、飲酒、肥満、卑怯、密告、悲哀、運命、宿命、寿命、宗教、奇蹟、人間。書き始めたら終りなき、この身に出会った二文字の群れだ。一年365日、一日24時間がもうすぐ終わり、丑から寅へと干支が変わる。アンソニー・ホプキンス主演の映画ではないが、日本人は怒りを忘れた羊たちの沈黙となっている。自浄装置が壊れてしまった国家はどこへ行くのだろう。世界一高給取りの日本の政治家は、世界一働く政治家になってくれるだろうか。権力の走狗となっている経済人たちは、少しは存在感を出してくれるだろうか。パンドラの箱の中に残っていた希望の二文字を持たねばならない。地球上の生き物で希望が持てるのは人間だけなのだ。夢が見れるのは、人間だけなのだ。今年見た映画の中でいちばんいいと思った作品を記す。台湾映画の「ひとつの太陽」だ。一人の不良少年が犯罪を犯して少年院に入る。悪ガキたちに激しい暴力を受けながらも、少年は黙々と耐えつづける。そして戦う時は、戦う。ある日食堂で食事をしているとき、院内放送で少年に退院する準備をと放送される。刑務官に見張られながら食事をしていた悪ガキたちが、ある歌を歌いだす。一人二人三人と歌は広がる。その歌は沖縄のミュージシャン喜納昌吉が歌った「花~すべての人の心に花を~」だった。詞は台湾バージョンになっている。 花の心は蕊(しべ)に隠れ 盛りを逃す 君の心は季節を忘れ 扉を閉ざす 私と手を取り合い 太陽と月の歌を 共に聞こう 昼夜は巡る 昼夜は巡る 人生の喜びは あとどれほどか 春は過ぎ また訪れる 花は枯れ また咲き誇る 君が望むなら 君が望むなら 心の海に 夢の船を浮かべよう……。小さな体の少年の根性は、いつしか悪ガキたちからリスペクトされていたのだ。ある人は言う。この地球で平等なのは一つだけだ。それはひとつの太陽だと。少年を見捨てたと思っていた父親は、究極の決断をして少年の更生を支える。無言の愛だ。年が終り、年が来る。ひとつの太陽が、きっとみんなに陽を当ててくれるだろう。沈黙する羊は、戦う寅となるだろうか。地球が氷河期になった時、地の底で生きつづけたのは、逞しい植物たちだった。ひとつの太陽は平等だ。花は咲き誇る。その日がきっと来る。みなさんよいお年を迎えてください。友よ答えは風の中を舞っている。メリークリスマス。



2021年12月18日土曜日

つれづれ雑草「12という数字」

12月は一年の内で最も嫌いな月である。少年の頃、亡き母が一生懸命働いて稼いだお金を卓袱台の上に出して、これはお米屋さん、これは魚屋さん、酒屋さん、布団屋さん、肉屋さんと、たまっていた支払い金を封筒に入れて行く。無尽とかいってご近所さんから借りていた金を入れる。目の前のお金がどんどん消えて行った。嫌な月なんだと思った。それを引きずっている。気がつけば私自身も長い長い間、12月は支払いに追われつづけてきた。給与と賞与を支払いつづけてきた。一人二人だった頃の会社がなつかしい。ガボッと揃えることもなかった。チョコットだった。一人で始めたら一人に帰る。これが芸人の掟と思っている。鮭は川を上り産卵する。奇跡的な旅をしたあと、生まれた川に帰ってくる。そこで産卵する。その死骸は分解され、海洋で得た栄養分を運ぶことで、川や陸地の栄養分となる。産卵前に熊やキツネ、鳥たちに食べられた鮭も、排泄物が森のなかで木々の栄養分となり、その木々は落ち葉となり大地を育む。森から生まれる水は集まり川となり、水生昆虫やエビなどの小動物を育てる。産卵から生まれた鮭の子たちは、それらを食べて生まれた川を出て奇跡の旅に向う。そして母なる川に帰ってくる。一つ一つの命が大自然を育てるのだ。人間はこの営みを忘れてはいけない。自らを生んでくれた母を大地や川と思いつづけねばならない。母とは命なのだ。それじゃぁ父はとなるが、これは存外役に立つものでない。射精は小さな花と書いた人がいたが、そんなものである。長澤まさみが主演女優賞を受賞した「MOTHER マザー」という映画を見ると、幼い兄妹がどうしようもない母親だが、決して離れない姿に涙する。少年の頃見た映画に「日本の母」というのがあった。終戦して何年か経った頃の物語だ。現代社会に置き換えられる。年老いた母を三人の子たちは、たらい回しのようにして面倒から逃れようとする。息子、娘、嫁たちは自分たちの生活が大切だから。ある雪の夜、老母は老人保護施設の前で倒れてしまい施設に救われる。やがてシベリアの捕虜生活から、やっと日本に帰ってきた末っ子の男が、母を見捨てた兄や姉をなじり倒す。そして施設にいた老母を見つける。お母さんもう心配ないですよ、僕がしっかり守りますよと言う。今の世はちっとも豊かになってはいない。むしろ精神構造は貧しくなっている。一度立ち止まり、富のことばかりで生きてないかを考えねばいけない。アマゾンの原住民たちの方が、全然心が豊かなのだ。鮭に学べよ人間たち。12という数字には興味ある。Zodiac(ゾディアック)は12宮、太陽と月とおもな惑星の中を運行する獣帯(星座の何なっている)。カレンダーは何故12月まで、時計は何故12時から始まるのか、干支は何故12種か、キリストの使徒は何故12人か、一ダースはなぜ12個か、考えるといろいろある。花札も12月までだ。探せばきっとまだまだある。嫌な12月も残り少なくなってきた。ザ・ヘビーセイムオーを聞きながらこれを書いている。私の親愛なる友が、19日矢沢永吉さんのライブコンサートに行くと聞いた。人生はロックンロールだ。石は転がって丸くなったり、砕けてしまうが、転落こそ生なのだ。人の心をゆさぶる生きた言葉はそこから生まれるのだ。鮭の人生はロックそのものなのだ。つまんない名誉を追ったりしている人間は、遠くから見ると実にむなしく、富ばかり追っている人間は実にかなしい。とはいえ12月はまったなしなのだ。ソフトバンクの孫正義さんの顔つきが、すっかり変わってしまって見える。亡き母を苦しめた金貸しの顔だ。気分を変えるために、ちあきなおみの「紅とんぼ」を聞く。 新宿駅裏 赤とんぼ 想い出してね 時々は……。いい歌だよこの曲は。人間の本当の愛、やさしさがある。五年間やっていた小さな飲み屋を閉める歌だ。本当にお世話になりました、ツケなんて忘れていいのよ、今夜はみんなで歌ってねと。誰ももらってくれる人がいないから、故里に帰るのよと歌う。美空ひばりと並ぶ天才。ちあきなおみは、愛する男、郷鍈治を病気で失ったあと、歌うことも、顔を出すことも一切芸能活動をやめた。見事と言うしかない、男と女の愛だった。広尾駅の側で郷鍈治が喫茶店“COREDO”をやっている時に、時々店に行った。日活のスターだった宍戸錠の弟郷鍈治はスターにはなれなかったが、大歌手の心を手にした。ゴッツイ顔であった。いい顔とはこんな顔である。肺がんにより五十五歳没であった。午前三時を過ぎた。若者たちの間では静かな昭和ブームだ。私は演歌が流れる時代をと思っている。いい演歌は、いい文学である。で、故船村徹がギター片手に歌った名曲「別れの一本杉」を聞く。 泣けた 泣けた こらえ切れずに 泣けたっけ……。もうすぐ12月とお別れだ。(文中敬称略)



2021年12月11日土曜日

つれづれ雑草「メン食い」

「悪女の深情け」という言葉がある。離れたくても離れられない。別れたくてもどこまでもついて来るのだ。これと同じような食べ物がある。ひとたびこの食べ物をつくると、三日三晩家中がその魔性のような香り、臭いが漂いつづける。その名を「ペヤングソースやきそば」という。人間はタレ物の香り(ウナギ、ヤキトリ、磯辺焼き)などにひとたび出会うと、その香りに引きずり込まれる。と、同じようなソースやきそばとか、たこ焼きなどのソース系の香りから逃げられない。この女はヤバイ、マズイ、イケナイと思いつつもジャンクな味を思い出す。美人は三日で飽るというが、悪女とか性悪女はその逆で、すこぶるデブと思っていたのが、湯上がりにゾクッとするほど色気があったり、顔中にマスクをしとけばと思っていたのが、スッピンになり日本酒を一杯二杯とやっている内に、「黒田清輝」の描く美人画みたいになる。ゆかたの間から豊かな乳房の谷間を見せていたりしつつ、今日は暑いわね、などと言いながら団扇かなんかでソヨソヨ風を起こされると、身の危険を感じるはずだ。ペヤングソースやきそばは、実にそんな食べ物なのだ。東海道線の車中かなんかでこの食べ物を食べている豪傑がいたが、コロナ禍となりそんな豪の者は消えた。ケンタッキーフライドチキンと、吉野家の牛丼(つゆだく、紅しょうが大盛り)そしてペヤングソースやきそばは、ある日ある時突然食べたくなる。昨日朝千葉県の蘇我という所で葬儀に出席し、午後二時出棺、二時三十三分の久里浜行の横須賀線に乗る。快速で約二時間だ。鎌倉で親愛なる友人と、グラフィックデザイン界の巨匠井上嗣也さん、高弟の稲垣純さんと待ち合わせをしていた。「今道子」さんという空前絶後、説明不可能の写真家の展覧会を美術館で開催しているのを観て、その後に食事をすることになっていた。私は葬儀出席があり展覧会は一緒に観れなかった。一月三十日まで開催しているので近々観に行く。会場には丁度今道子先生がいらしたとか。鎌倉小町通りに古くからある、卯月という炉端焼きの店を予約しておいた。カウンターの目の前にはいろんな食材がある。こはだの酢の物、きぬかつぎ、ヤキトリ、ナスの煮物、揚げ豆腐、ブリの照焼き、サンマの開き、ギンナン、などをみんなで食し、三人は釜めしで仕上げた。私は前日に千葉に泊るために移動、ビジネスホテルの小部屋に泊まって十一時からの葬儀へ。そして鎌倉へだったので、電車に乗りくたびれて釜めしがうらめしいが食べられなかった。久々に巨匠にお会いして、数々の受賞のお祝いを言った。御三人は満腹だとなりお茶を飲んでいざ帰宅、大船駅で別れて私は東海道線へ。さてさて家に着くと、突然ペヤングソースやきそばを食べたくなった。確か一個あったはずだと思った。近所に住む息子が大好きなので立ち寄った時に食す。で愚妻が買い置きしているのだ。腹が減ったのでペヤングをつくってと言った。えっ鎌倉で食べてきたんじゃないのと言った。きぬかつぎとヤキトリ四本を食べたが主食は食べなかったんだよと言った。着替えている内にプーンと臭ってきた。魔性の臭いが。そして一気にペヤング・ザ・ワールド全開だ。ちりちりのメンにヘナヘナのキャベツ、ふりかけの中の少しばかりの紅しょうが、(あまり紅くない)気持ちだけのキザミノリ、これが絶妙なのだ。あえて割り箸で食べるのがコツ。白い長方形のカップの中のメンをグルグル、グルグルかき回す。たまんない香りとなり心が踊る。縁日でヤキソバに行列ができるのはこれと同じ。ジャンクな気分が疲れをとってくれる。スーパーやコンビニに行くと、でか盛りみたいなでっかいのもある。いつか挑戦してみたい。ニュースを見ると日大の学長が、ドンである田中理事長と永久に決別する、なんて今頃スットコドッコイのことを言っている。ドンは現在クサイメシ食っている。かなり泣きが入っているようだ。私はペヤングソースやきそばとは決別しない。毒マンジュウをゴッソリもらっている役人や政治家たちは、落ち目のドンにバックレる。故松尾和子に誰よりも君を愛すなんて歌があったが、誰よりもペヤングを愛すだ。但し年に二、三回でしかない。性悪女とはバンタビ(度々)会ってはいけない。という法律がある(無いか)。私はその手の話はずっと昔に卒業したが、世の中には蟻地獄に入って出るに出られない者もいる。やきそばのメンと違って、面食いという不勉強者がいる。見た目重視なので、きっとメン食らう。化粧ばかりしていて、家のことは何もできない。おにぎりなんて絶対にぎれない。おいなりさんなんか作り方も分かんない。街角インタビューかなんかで若い男に、どんな女性と結婚したいですか(?)なんて聞くと、そうですね、やっぱ肉じゃがを作れるヒトとか、お弁当を作ってくれるヒトなんて応える。中にはオフクロみたいにヒジキとかキンピラゴボウが作れるヒトなんて応える。見た目いいヒトはまず期待できない。ペヤングソースやきそばを自分で作って食べてよで終り、とまあそんなことを思いながらペヤングソースやきそばを食した。今度鎌倉へ行ったら、釜めしを食べるのだ。「フィリア今道子 philia ―KON Michiko」神奈川県立近代美術館別館で大開催中。一度観たら一生忘れられない。日大のドンにソースやきそばを差し入れしたら、きっとその香りで東京拘置所は大混乱となるはずだ。
                               (文中敬称略)



2021年12月4日土曜日

つれづれ雑草「さらば鬼平」

無学の徒を自認している私にとって読書は友ではない。映画ならオシリにタコができるほど見れるが、本は苦手で読むことを必要とされる場合は、一日50ページがやっとこさである。歌舞伎界の宝、人間国宝「中村吉右衛門」さんが七十七歳でご逝去した。私にとっては池波正太郎原作の人気シリーズで「鬼平犯科帳」の主人公である、火付盗賊改方長谷川平蔵の死である。盗っ人たちは鬼平と言って恐れた。2011年人間国宝となった。その芝居、その演技力は、実兄松本幸四郎(当時)を凌ぎ認められた。この兄弟は犬猿より仲が悪いので有名であった。俗に言う口もきかない仲であったとか。私は長旅に出る時はいつも、池波正太郎の本と、向田邦子の本を持って出た。過日ご逝去した私の師匠(亡き親友の師匠であり、食通にして名文家で私が親友の後釜となった)その師匠は約8年池波正太郎先生の内弟子をしていた。(ちなみに東大出身である)親友が健在の頃三人で「忘憂会」というのを年に三、四回行なった。中国では酒を飲むことを忘憂という。池波正太郎の文章は私のようなバカにも読みやすい。その師匠にある日親友と共に忘憂会をしながら、先生はこの国でこの人がいちばんと思う作家は誰でしょうかと聞いたら、それは向田邦子だよ、オイラは(鬼平調になり)あの女史ほど、オソロシイ人は、ついぞ会わなかったよ、池波正太郎もそう言っていた。どんなにいい本も読めば、いくつか気になる下手なところがあるものだが、向田邦子はついに1箇所もなかったな、恐いほど上手い作家だった。私は砂漠の中で鬼平犯科帳を読み、ローマの広場で父の詫び状などを読んだ。二人の本は旅の必需品で、これさえあれば、待ち時間やホテル生活もまったく苦にならなかった。鬼平は初代松本幸四郎や萬屋錦之介、丹波哲郎などが演じたが、やはり中村吉右衛門が私にとって、いちばんの長谷川平蔵であった。歌舞伎の俊寛は鬼気迫る圧巻の芝居であった。今、この日本国に必要なのは、鬼平こと長谷川平蔵だ。悪がはびこっているからだ。日大のボス田中英寿は検察がずっと追っていたが、安倍政権はパクル(捕まえる)のを抑えていた。が岸田政権へと変った。そして検察に逮捕OKを出した。これは弱々しいといわれていた岸田文雄が、安倍晋三一派に対して、ガタガタいうと、モリ・カケ・桜問題へもOKを出しますぜのサインだった。一度握った権力は強いことを、安倍晋三本人がいちばん知っている。そしてごあいさつだと言って、先日安倍晋三は官邸に表敬訪問(?)をした。一寸先は闇の世界だから、いつ、何が起きるか分からない。政治家はコツコツと心を込めて、日常活動をしていることが何より大切だ。鬼平がいたならば、安倍晋三一派はおそらく、とうのむかしに島流しになっていただろう。勿論女房である安倍夫人も、島流しの女になりそこで差し入れの大好物のワイン漬けとなる。愛妻家(?)である安倍晋三はそれをいちばん恐れている。勝てば官軍とはよく言ったものである。「テンモウカイカイソニシテモラサズ」なのだ。コロナ分科会の尾身会長一派は、鬼平的にいえば、急ぎ働きで138億円もの資金をせしめ、すっかり姿が見えなくなった。次に出て来た新型コロナウイルスの名が「オミクロン」とは笑うしかない。新潟県知事であった、泉田裕彦が先きの衆議院選挙で、県議会のボスから、2000万~3000万位用意しなきゃダメだよ、ジョーシキだよ、みたいなオドシ(?)を受けていたのを録音していた。(約30分)鬼平がいたら、このオッサンはやはり島流しだろう。生々しい二人のやりとりは、もはやマンガである。テレビに橋下徹が出まくっている。子だくさんだから養育費もかかるのだろうが、無節操を極める。自分が生んだ維新の会に、帰る場所はもうない。台湾映画の名作を一本紹介する。「ひとつの太陽」という名画だ。たくさんの賞を受賞している。この世に平等なのは一つしかない。それは太陽だ太陽は地球上に住む人々一人ひとりに平等にある。悪友にさそわれちょっとしたことで少年院に送られ、出所した少年に待っていたものは。この映画で特筆すべきものは、その圧倒的映像だ。デジタルな現代の映像時代に、日本映画全盛時代の映像美がある。照明がすばらしい。おそらく監督は、徹底的に日本映画を学んだはずだ。文化大革命でフランスに体をかわしていた、中国の巨匠張芸謀(チャン・イーモウ)は、文革以後中国に帰り、一日中日本映画を見まくっていたと言っていた。かつて第三国人と言って、中国、韓国、台湾の人々を敵視した。戦勝国であったからだ。チャンコロとか、チョンコウ、と言っていた。今、こんなこと言ったら大変だ。中国、韓国はエンタメを国家戦略として育てている。日本はわずか3000億程度の映画市場。対して中国、韓国は3兆円市場だ。ちなみに世界を代表する映画監督たちが選んだ、世界の30作の中で、第一位は、小津安二郎監督の代表作「東京物語」であった。私たちの中にはすぐれた映画屋のDNAがあるのだ。昨夜久々終電で帰ってきて一本の映画を見た。ニコール・キッドマンが夫とベットでするべきことをする前に、洗面所で歯間ブラシで汚れを取り、うがい薬でガラガラと口の中を洗い、口から放出する。ニコール・キッドマンの乳房は大きくなく、手の中に丁度よく入るほどの大きさですこぶる形がよかった。(文中敬称略)