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2015年11月26日木曜日

「もうすぐ師走」




九十三歳。
かつて文壇のエロババアといわれた女性は五十歳を過ぎた頃に仏門に入った。
以来SEXはしていないと笑う。
髪の毛が沢山ある日々の名は瀬戸内晴美さん、ツルツルの頭になっている今の名は瀬戸内寂聴さん。

1957年文壇デビュー以来小説を400冊以上書く。今も書く。
昨年五月に背骨の圧迫骨折、同年九月に胆嚢がんの摘出手術を受ける。
九十歳を超えての手術に挑ませたのは“文学への執念”だ。

ある地に寂聴庵がある。
原稿用紙に向かい、万年筆で老と書き、病と書く。
実に力強く美しく気高い文字だ。
窓から差し込む先に映しだされている姿には後光が満々とある。
ここで死んでもいいと上京して戦争法案反対の集会に参加し戦争は二度としてはいけないと叫んだ。

世の男を食べて文学の肥やしにしていた時と違い、今の主食は肉だ。
執筆を終えた深夜0時から牛の霜降り肉をしゃぶしゃぶで食す。
ある日は赤みの牛ステーキ、またある時はすき焼き。
23人いるスタッフに「肉を食べよう、肉を食おうよ」という。

医師からがんを宣告された日、ベッドの中から手術しますといって覚悟を決める。
苦しそうで死にそうで、ものすごく気持ち悪そうだが、手術後何日か経った日、出された病院食の中のひとつをすすり、美味しい!といった。
生への限りなき執念の言葉のようであった。長寿とエネルギーの源は文学と肉食にあった。

九十三歳現役で小説を書いた人はいません。私が初めてですよという。
静かに一字一字を書き進める。四時間執筆後、全然疲れません。
テンションが上がっているからと笑う。
手術後十一ヶ月ぶりの法話には泣きながら手を合わせる人、人、人。
現在進行形の小説の題名は「いのち」自ら体験したことを小説にしなくてなんとする。
こんな気合が漲っていた。

かつて宇野千代というとんでもなくモテた女流作家いた。
とにかく作家殺し、画家殺し、評論家殺しという位に次々と男を食べ尽くした。
捨てられた大作家、人気作家たちは我を忘れた(?)。
九十歳を過ぎた頃に、「私かわいい」というほどチャーミングであった。
女流作家はみんな強いと思う。

22日放送のNHKスペシャル「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」と題したものの再放送を見た。この番組の担当者に、あなたにならと言って密着取材を許可したようである。
書く女と造る男の命をかけた緊迫感と、こぼれるような愛情が見えるドキュメントであった。昨日夕方銀座に長い列が延々とあった。

晩秋の終わりを告げるように降る無口な雨、いきなり7度位になって寒い、人もまた皆無口だ。列をつくっている人々は宝くじを買うためであった。当たれば10億円らしい。
誰かが当たる。無口の先に歓喜があるのだろう。
米倉涼子がポスターの中でガハハハと大きな口を開けて笑っていた。
所ジョージも笑っていた。オジサン当たるといいねと声をかけると、何故かカクンと傾いた。私の声が大きかったのか不意をついたのかもしれない。祈!オジサン・10億円。
もうすぐ師走だ。

2015年11月25日水曜日

「蓬とスイカ」




内科医細川◯×がこんなことを言った(あるTV番組)。
ブタ草、スギ、ヒノキ…などの花粉アレルギーのある人は、将来スイカやメロン、きゅうり、ズッキーニなどが食べれなくなるかもしれません。
花粉たちと果物、野菜が、私流に言えば性悪女と性悪男のようなロクでもない関係になって口腔内で事件を起こすのだと。馬鹿言ってんじゃないよと思った。

私はブタ草とヨモギアレルギーだからその対象となる。
花粉症の多くの人は主にスギ、ブタ草、ヒノキなどだから、果物屋さんや八百屋さんの売上はダウンする。
高級果実店の千疋屋や高野フルーツパーラーなんかで一個数千円もするスイカやメロンは買うのヤーメタとなる(元々高いので買えない)。

このTV番組を関係者が見ていたら、医師の細川◯×余計なこと言ってんじゃないよと怒るはずだ。最近この手の医師がアチコチに出てきては様々な恐怖訴求をする。

きゅうりに空気入れを差し込んで膨らませたようなズッキーニは、殆ど食べないがきゅうりは昆虫になった気分になれるので、時々塩をかけたり、味噌をつけて丸かじりする。
グラスの中にきゅうりを千切りにして入れる、水と氷と共に焼酎を飲むと、臭みがとれて色爽やか愛の水中花みたいな恋しい味になる。
これを飲んだ後にデザートでスイカやメロンをほんのちょっと出してくれる店がある。
この場合どーなるの、医師細川◯×の説だときっとダメなはずだ。

ブタ草というのは嫌な名前だね、私は蓬(ヨモギ)アレルギーといわれたが蓬餅は食べれないのだろうか。今度私が信頼する先生に聞いてみようと思った。
アレルギーがなんだいと思うが、知らないでいると酷いことになるやもしれない。

人間の体質はある時コロッと変わるらしい。
生牡蠣大好きな人が、あ〜うまかったと食べた後に、サバの刺し身大好きな人が、やっぱ酒の肴はサバだななんていった後に、救急車の乗客になったりする。
友人、知人、恩人の中に、もしかして何かのアレルギーではと思う人がいる。
一度血液検査をすすめたい。

ホタテ貝大好きだった私が、ホタテ貝が入っているのが売りの崎陽軒のシュウマイを食べれなくなってしまった。一人で一箱食べていたのに。
時々夢の中にシュウマイ弁当が出て来る時もある。
東海道線の列車の中で、崎陽軒のシュウマイをヒョータン型の醤油入れから醤油をかけ、小さなカラシを入れた袋から指で押し出してシュウマイにつける。
それを旨そうに食べている奴を見ると、泣きたいほどウラヤマシイのだ。

地球全体、人類全体の体質が変化している。
アレルギーは文明病らしい。マサイ族などもアレルギーに悩み始めているという。

2015年11月24日火曜日

「ズキ」




自切り(ジギリ)をかける。男を売る社会の言葉だ。
何か大事を成し遂げるために自分に何かを課すことをいう。

それは任された仕事をやり切ることや、親の仇討ちや、兄弟分の仇討ちや、可愛い後輩のためだったり、惚れた女のためや、恩義を決して忘れない事だったりする。
滝に打たれたり、座禅を組んだり、好きな酒を断つ、好きな博打を断つ、自分の体に傷(ズキ)をつけて、決してその目的を忘れないと誓う。

武士にとって額の傷は男の紋章、背中の傷は武士の恥といわれた。
額の傷が正面なら敵と堂々と戦った証で有り、背中の傷は敵から逃げ背を向けた証である。戦場で我が子が死んだと聞いた時、親はたずねる。
我が子の傷は額であったか、背中であったか。
悲しいかな背中の傷であったりするとお家は断絶されたり、親は腹を切って果てた。
家門の恥であるからだ。

中にはハッタリ傷といって自分の顔に傷をつける者もいる。強そうに見せるために。
だがハッタリ傷の人間はすぐにバレてしまう。本当の根性がないからだ。
いざという場面でその傷がハッタリであったとバレる。

この一年間ずっと自切りをかけていたことがある。
やり遂げないと恩に報いられないからだ。何をやったかは言ったら終わりなので書けない。が、今はひとまず自切りから開けてほっとしている。

“矢切の渡し”は細川たかしだが、自切りの私である。念ずれば通じる。
為せば成る。苦の後に楽ありという。楽ちんな気分からは大事は生まれない。
大恩に報いられない。

さあ、あなたも今日から自切りの私に。
えっ、何!痛いのは嫌!滝は冷たくて風邪をひく、座禅は足が痺れるから嫌だと。
走ったりするのは嫌、禁酒、禁煙も嫌。それなら肉を断て、魚を断て。
えっ、それも嫌だと。そんじゃゲームかテレビを断て、メールやスマホを断て。
えっ、考えられないだと。

そんなあなたは自切りの私にはなれません、背中に傷を負う事になるのです。
お家断絶!一家滅亡!

2015年11月20日金曜日

「気狂いピエロ」




「山が嫌いだと、海が嫌いだと、都会が嫌いだと、勝手にしやがれ」
今から半世紀ほど前フランス映画全盛期の頃、ヌーベルバーグ(新しい波)という激しいクリエイティブの動きが始まった。既成の概念を打ち破るものであった。

監督ジャン=リュック・ゴダールは「勝手にしやがれ」、「気狂いピエロ」などで一躍ヌーベルバーグの旗手となり、その斬新な映画手法は世界中に伝播した。
はじめに書いた言葉は、いとも簡単に人を殺し、車を盗み、煙草をバカバカ喫い、運転しながら主人公が口にしたセリフである。
カメラは手持ちなので揺れ動く。
人を殺すことをまるでファッションの一部位にしか思っていない若者。
ファンキーなジャズがその生き方にまるで正義を与えるように被り続ける。

主演はジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグである。
フランスの若者とアメリカの若い女性が、チューインガムを噛むように気安く知り合い抱き合い、無目的な時間を共有し、何の未練も無き命の行方も共有する。
そこには一切の感情はない。かつてのフランス映画の恋愛の表現はない。
運命的出会い、芽生える愛情、血脈や家柄により引き裂かれる宿命もない。

ジーン・セバーグのショートカットは大流行となった。
ボーイッシュなスタイルが旧態的恋愛劇を全面的に否定した。
ヌーベルバーグは旧文脈への破壊行為であった。
モラルなどクソ食らえ、権力や法律などクソくらえ、文句あるか、上等だよ“勝手にしやがれ”なのであった。

ゴダールに影響を受けた大島渚、篠田正浩、吉田喜重など当時松竹映画にいた若き才能たちは日本のヌーベルバーグの旗手となり、小津安二郎や木下恵介に代表される監督たちに、自分たちの作りたい映画手法により挑戦状を突きつけた。

何故こんなことを書くかといえば、自爆するテロリストとゴダールの作品に出てくる若者とが重なったからだ。改めてゴダールの映画を借りて来て観た。
当時衝撃的ラストシーンといわれた映画「気狂いピエロ」で通称ピエロといわれたファンキーな主人公は、やりたい放題やって体中にダイナマイトを巻きつけて自爆する。
本来なら自殺なのだがそれとは違う。
死ぬ意味すら深く考えない一つの虚無的行動なのだ。
ゴダールは今でも実験的作品を作っている。
今から半世紀ほど前にゴダールは現在の人間状況を見越していたのだろう。


松竹の三人の監督は大好きであったが気に入らないことがある。
大島渚は小山明子、篠田正浩は岩下志麻、吉田喜重は岡田茉莉子という松竹の三大スター女優を手に入れてしまった事だ。監督ほど女優にモテる仕事はない。

時間があったらぜひ、ジャン=リュック・ゴダールを借りて観て下さい。
無分別なテロリズムの原点が見えるはずです。三枚で450円位です。

ヌーベルバーグを基点にして日本の若者たちは、銀座みゆき族、六本木野獣会などを生みファンキーでファッショナブルな行動を起こして行く。
テロリストは観ているのかもしれない「気狂いピエロ」を。

この頃あまりにファンキーな犯罪が多い。老若男女その全てに。
人間関係がギシギシと音をたてるストレス社会では誰もが一瞬にして犯罪者になる可能性を持っている。

2015年11月19日木曜日

「悲しき少年兵」




「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」
傘を買って持つことを禁じて来たので、昨日たっぷり濡れた。
ついつい西南戦争時の詩などを口にした。

何故傘は買わないか、持たないかというと、私の仕事には雨はダメージ、外での撮影やロケが雨で中止となってしまうからだ。
それ故縁起の悪い傘はダメ、行いが通じたのかおかげで超のつく晴れ男であり、雨でダメージを受けた記憶はない。
が、それ以外の時は困る、傘がないので当然濡れてしまう。

昨日夜辻堂駅に着くとタクシーやバス乗り場は人の行列、行列大嫌いなのでヤキトリ屋で一杯やるかと雨の中歩き出すと、突然ドバーと来た。
大事な資料を入れた紙バックを抱きかかえて店に近づくと、定休日であった。
ヤキトリがバタバタと雨を破り飛んで行ってしまった。
マッタクよく降りやがるとなり、トボトボと駅に戻った。

その途中に田原坂のことなどを思った。
ここ数日九州の活性化についての相談を受け、その答えを考えていたので頭の中がすっかり九州になっていた。大好きな大相撲も九州場所だ。
白鵬が強すぎてどうしようもないが、九州出身の琴奨菊や嘉風、松凰山とか千代鳳ががんばっている。

坂本龍馬を暗殺させたのは誰か諸説あるが、私は西郷隆盛と大久保利通たちが首謀者だと思っている。
諸事全般の生き証人には歴史の舞台から消えてもらわねばならないからだ。
また、事が成った時じぶんたちにとって、ずっと頭の上がらない人間が存在してしまう。これはあくまで私の推理である。

見えないところで大きな絵図を描く者を第一級の政治家という。
“西郷さん”はそれを演じ、それ以上の大久保にやられた。
その大久保もまた、それ以上の者にやられた。歴史は謎に満ちている。
最後に笑った者が超一級の政治家(つまり悪党)ということになる。
ウルトラ女性好きの伊藤博文か、ウルトラ金好きな(庭園好き)山縣有朋かとなる。

そして日本は日清、日露戦争に突入して行った。
ある歴史家は日清戦争は伊藤博文の女性遊びへの金儲けといい、日露戦争は山縣有朋の庭園造りのための金儲けとだったという。

テロ、テロ、テロのニュース。見えないところで握り合っているのが大国同士だ。
マッチポンプ同士が世界中を血の演出で騒乱させている。
誰かが損をすれば、誰かが得するのが世の常だ。田原坂で戦ったのは少年たちであった。

さてこれから世界はどうなるか。
原子力規制委員会の委員長が、日本の原子力発電所へのテロを警戒と語った。

テレビではビキニパンツの芸人が、安心して下さい履いてますよと全裸で笑っている。
そうか、大丈夫なのかもしれない。少年の頃アメリカで大ヒットした曲がある。
曲の名は「悲しき少年兵」であった。歌手の名が思い浮かばない。