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2022年4月30日土曜日

ゴールデンウィークのため休筆します

 ゴールデンウィークということで休筆致します。皆さんも健康に気をつけてエンジョイしてください。

2022年4月24日日曜日

つれづれ雑草「眼を閉じる魚類とは」

どんづまり、どんづまり、売るべき物はなにもない。難民の男の恋人は国境を離れて他国へ行ってしまった。金もないしビザもない。シリア人の恋人に会いたいが、殺戮が繰り返されている中東シリアである。そんな男に目をつけたのが一人の現代アーティストだった。その芸術家は男にじぶんの作品をつくらせてくれと言う。そのために体を提供してほしいと言う。芸術家が男に求めたのは男の背中であった。背中にタトゥーを入れそれを作品にしたいということであった。どんづまりの男はじぶんの皮膚を売ることで大金と自由を求めることに同意する。芸術家が男の背中に入れたタトゥーは、パスポートである。“VISAビザ”のデザインであった。何日もかけて芸術家は男の背中一面にパスポートを入れた。そして男はロダンの“考える人”のようなポーズをして美術展に展示される。生きている芸術作品は話題を呼びやがてオークションにかけられる。会場はどよめき価格がどんどん高くなりついには500万ユーロとなる。生きている人間は果して芸術か、それとも見世物か。美術館の真ん中に展示され、スポットライトをあびる男は、やがて精神に異常をきたし始める。難民という既知の事実の上に成り立つ稀有な芸術作品としての人工的価値に関心を寄せる人々の、人間と世界に対する無関心と冷淡な本質を浮かび上がらせる。チュニジアの映画(合作)「皮膚を売った男」は現在ロシアがウクライナに侵攻している中、逃げるに逃げられないウクライナの人々の現状と重ね合わせると、背中が痛む。この作品を生んだ監督は、ベルギーの現代アーティスト、ヴィム・デルボアのアート作品にインスパイアされたとラストに文字が出る。きっとこれに近いような芸術作品があるのだ。愛は国境を越えるというが、さてどうなったかはご想像にまかせることとする。どんづまりになっても人間には売れるものがあることを知った。タトゥーとは刺青のこと、ヤクザ者は“モンモン”とか“ガマン”という。激痛をじっとガマンすることからそういう。映画をつくるためなら体のどこを売ってもいいが、傷だらけの人生、私の体では売る個所はない。全身刺青を入れた男が言った。どこがいちばん痛いかというと、おしりの穴のところだとか。油汗でぐっしょりとなると言った。この頃ではファッションタトゥーが流行っていて、若い男女が好き好きに入れるがあとになって消したいと思ってもかんたんではない。火傷のように残るから気をつけてほしいと思っている。思春期の子を持つ親の方は特に気をつけてほしいものだ。「ジョー・ベル 心の旅」という映画がよかった。そして悲しかった。実話である。高校生の男の子を持つ親子がアメリカのオレゴン州にいた。弟が一人いる。二人とも美男子であった。ある日、兄が父と母に僕はゲイなんだと告白する。父と母は言葉を失う。さらに学校で酷いいじめにあっていると告げる。学校の対応は日本も米国も同じで教師たちは責任逃がれをする。そして愛する息子は自殺してしまう。父と母と弟は悲しみに沈む。やがて父ジョー・ベルは徒歩でニューヨークを目指す。町を訪ねながらゲイへの差別とイジメをみんなでなくそうと訴えて歩きつづける。その行為はネット上で評判となり行く先々でジョー・ベルは人を集める。小さな荷物を引きずりながら歩く。寄付してくれる人も多くなりジョー・ベルの話に多くの人々が聞きいる。人間はストレートばかりじゃないんだと。だがジョー・ベルに待っていたのは悲惨な最後だった。広大な荒野の中、長い一本道を歩いている時、トラックにはねられて死んでしまう。映画のラストに実際のジョー・ベルの写真が出る。親子四人幸せそうな写真に胸を打たれた。思春期の子を持つ親の人々にぜひ見てほしい。ゲイで悩む高校生はどんづまりだったのだ。人口1500人、インドネシア・ラマレラ村、インフラもなく作物も育たない。ここに住む人々の命の支えは鯨漁だ。年間10頭のマッコウクジラを獲れば、村人全員が生きていけるのだ。石川梵監督は2017~2019年の3年間かけてこの村を撮り、鯨漁を追った。漁法は原始的である。銛(もり)を持った男がマッコウクジラめがけて飛び込み体当たりで銛を刺す。村民にとって鯨は神さまであるが、生きる源でもある。村民総出で引き上げられた鯨をそれぞれに分配する。石川梵さんは30年かけて村人たちと信頼関係を生んだ。分配する部位は400年の歴史を守って行なわれる。すばらしい映画の題名は「くじらびと」。魚類の中で死んでゆくとき眼を閉じるのは鯨だけだと教えられた。ガキの頃給食で小さな鯨の立田揚げが出ると大よろこびだった。今でも好きだがこの映画を見てしばらくは鯨のベーコン、立田揚げ、缶詰は控えようと思っている。文明は進化しているが、人間は退化しているのだ。戦争で大儲けする不純な金持ちという鯨に、銛を持って体当たりして仕止め、解体しなければならない。ロシアという名のクジラも同じだ。ウクライナの製鉄所の地下で、どんづまり状態にある人々を救うことはできないのだろうか。3本の映画を見終わって朝となった。(文中敬称略)



2022年4月16日土曜日

つれづれ雑草「不覚にも」

 ホーホケキョ、ホーケキョと大きな鳴き声がした。だがやけに大きく、やけに数多い。外に出ると公園で、近所の子どもがおもちゃの笛を吹いていた。それでもなんだか良い気分になった。奥多摩の山の中を歩いてパンパンになっていた足腰だが、スポーツの感動でそれを忘れた。交通事故で片足切断か、あるいは再起不能かと言われていた、アメリカのプロゴルフのスーパースター、タイガー・ウッズがオーガスタのティーグランドに立った。少し足を引きずりながら現われると、大喚声が空をも割らんばかりに突き上がった。ヒーローを待っていたのだ。私は不覚にも涙を流した。で、4日間深夜から朝まで見つづけた。タイガー・ウッズは見事予選を通過して4日間プレイをした。ボクシングはやっぱりキング・オブ・スポーツだ。私が最も尊敬する世界ミドル級チャンピオン(元WBC世界ミドル級王者、現IBF・IBO世界ミドル級王者)カザフスタンのGGGことゲンナジー・ゴロフキンとWBA世界ミドル級チャンピオン、日本の村田諒太選手がさいたまスーパーアリーナで、統一世界チャンピオンの座をかけて激突した。前日計量で両選手リミットピッタリの72.5kでパスした。ボクサーは体重との闘いでもある。きっと両選手とも80k位から72.5kに落とすために、想像を絶する練習をこなし、水分を摂らずひたすら、減量したはずだ。最後には一グラムも落ちなくなる。40歳になったゴロフキンだがやはり強かった。日本中のスポーツファンがこのビックマッチに熱狂した。村田諒太選手も強かった。他の選手なら殺されていたかも知れない。9R強烈なパンチを受けた村田諒太選手がリングにガクッとひざをついた。ここが限界と見たセコンドが、白いタオルを持ってリングに上った。TKO負けだ。ゴロフキン選手の大ファンであったが、村田選手のファンでもあった。リングに上がる時、そして敗者となった時、村田諒太選手がグローブで十字をきった。クリスチャンになったのだろうかと思った。変形した顔だが長いインタビューにしっかりと応え、無事リングを下りれることを神様に感謝したいと言った時、不覚にも涙を流した。ボクシングの世界では左は世界を制すという格言がある。右利きのボクサーの場合の左ジャブ、左ストレートの大事さをいう。ゴロフキンはその左がすばらしかった。昨日夜九時過ぎ甲子園球場は、阪神タイガースが日本一になったような大興奮の渦となった。応援歌六甲おろしが高らかに響いた。マスクをした大観衆は泣きながら相手をした拍手をした。やっと阪神が2勝目を巨人を破って勝ち取ったのだ。4対1であった。私はBSで途中から見ていたのだが、逆転ホームランを打った佐藤輝明選手が、試合後のヒーローインタビューで、最高です! と言った時、不覚にも涙を流してしまった。阪神タイガース2勝15敗1分。あきらめるなこれからだ。20歳の若者が劇画のようなことをした。完全試合達成だ。な、なんと27人の打者から19奪三振。13人連続三振、プロ初完封が完全試合であった。最速164kの直球と150kに近いフォークボールが落ちる。その豪球を一球も落球することなくナイスキャッチングしたのが、高卒のプロ一年目18歳の捕手だった。これは実にすごいことであった投手の名は佐々木朗希選手、3・11の津波で親や叔父さんを失った。108球目がミットに入った時、不覚にも涙を流してしまった。捕手の名は松川虎生選手。神様なんかいるはずはないと思っていたが、スポーツの神様はいるのではと思った。金曜日ひっそりとした仕事場で、敬愛する某大学の教授から送っていただいた、青い表紙の聖書を読んだ。これをすべて読むためには数年はかかるなと思った。死刑囚の多くは聖書を読み終えるという。永山則夫という十代の死刑囚は、貧困で学校に行けず文字の読み書きもできなかったが、長い刑期の中で読書を重ね、ベストセラーになった本を書いた。無知の涙だったと思う。刑は執行されたが著作は生きつづけている。聖書を読んだかどうかは分からない。愚妻がホッケがあったから買ってきたわと言った。いいねホッケと食べたのだが、北海道で食べるホッケとは味が違った。札幌に佐藤水産という有名な海産問屋さんがあるが、ロシア産のものが最高に旨い。きっと輸入ができず難儀しているはずだ。一人殺せば殺人者、100万人殺せば英雄だというが、ロシアの独裁者はどんな末路となるのだろうか。神様はどんなシナリオを用意しているのだろうか。教師や警察官の破廉恥な所業が続出する。盗撮やロリコン、下着ドロボーに性行為。さらに覚醒剤などおぞましい。交番の中で警察官の男女がSEXをしまくっていたなんて、お巡りさんにいいつけるぞだ。園子温という映画監督が女優さんにやってはイケナイことをやっていた。シオンという名は聖書の中にあった気がする。洗礼を受けているのかも知れない。デビュー時は天才的なものを感じたが、映画を愛する者としては許されざる者だ。スポーツに感動した一週間であったが、全体的にはスカッとしない。本物のホーホケキョが待ち遠しい。(文中敬称略)




2022年4月10日日曜日

つれづれ雑草「乾いた街」

ちょっと気を抜くと机の上の植物は、へなへなとうなだれる。ごめん、ごめんと水をあげると、へなっていた植物の葉はむくむくと生きかえり、老年が青年になったようになる。長引くコロナ禍の中で私たちの生活はへなへなになってしまった。その上、水がない。水をくれる国のシステムがない。給付金というなみだ金があるが、これらはいままでしこたま税金を払っているので貰ってあたりまえである。過日市役所の納税係の女性から電話があった。固定資産税46800円が納められてませんから納めてください、書類を送ってあるはずですが、うん届いていたよ、支払わないと差し押さえするというのも届いたよ、だからぜひ差し押えに来てよ、何を差し押さえると46800円になるのか見てみたいからと言ったよ、でも来なかった。ぜひ来てちょうだい待ってますからと言った。それになんで午後8時なんて時間に電話するのと言った。その時間が納税者の方がいちばんいらっしゃるのでと言った。とにかく来てよ待ってますからと言って電話を切った。数日後封書が届きそこにでっかい文字で差し押え通知書と書いてあるものが届いた。嫌な茶色の封筒だった。私はああ又かと封を開けずに置いておいた。一度ぜひ差し押えを見てみたかった。きっとテーブル50円とか、椅子10円とか値をつけ赤紙を貼るだろうと期待した。が役所は来なかった。2週間後位に又嫌な茶色の封筒が届いた。そこには、ぶっとい文字で、差し押え済通知とか書いてあった。封を切ってみると私の少ない銀行預金を差し押えたと書いてあった。通知先に電話をすると、私に関する預金関係を全部調べて実行しましたと言った。差し押えにぜひ来てくださいと言ったじゃないのと言った。人のものを全部調べるなんて許されるの、もっとも財産なんて何にもないからいいけどねと言った。すると中年の男に電話が変わって、あ~もしもしこの度は〇╳〇╳〇╳〇╳という法律により、預金を差し押えました。だったら最初からそう言いなよ、差し押えに来るというから、ぜひ来てとお願いしたのに、封書の無駄づかいだよ。で、愚妻に後日銀行に行ってとたのんで通帳を見たら、差押と残り少ない数字のところに印字されていた。バカヤローと思った。差し押えに来たらお茶菓子でも出そうと思っていたのに。銀座の街を歩くと、水を失った花のように生気がない。銀座百店という有名なタウン誌があるが、そこに載っているはずの店が、コロナの影響でいくつか閉めていた。水を失った植物でも、植物の生命力はしたたかに強い。地球が滅びても植物は生き残るといわれている。銀座の水は何んであったかと考えると、中国人客であった。コロナ前銀座は中国人客で洪水のようであった。その水のおかげで異常繁殖した植物群のように、銀座の街は満開の花となり、こんな狭い所にホテルかよと思う小さなホテルも建てられていた。がそれらのホテルもなくなっている。銀座は乾いた街になってしまった。へなへなにへたっている大好きな銀座の姿と、そのウインドウに映っている自分の姿がやけにダブって見えた。長生きしすぎたのは予定外であった。水をくれ、水をくれとジャングルの中で声をしぼり出す、旧日本兵の姿が見えた。(昨夜「野火」という旧日本兵の映画を見た)夜の銀座にはすっかりごぶさたしている。夜の蝶たちの水といえばお客さんだ。今ではスマホやケータイを二つも三つも持って、きっと来てね、絶対ね、と和服姿で声を発しているママさんやホステスさんの姿がなつかしい。赤い灯、青い灯がなつかしい。差し押えますよと言った市役所の女性の声がなつかしい。今度はきっと家に来て赤紙をペタペタ貼ってほしい。46800円になるほどのモノはないはずだから。ちなみに日本国の国民のタンス預金は1000兆円だとか。桜は見る間もなく散っている。 春をながめる余裕もなく 夏をのりきる力もなく……泉谷しげるの名曲春夏秋冬を歌っている。春の海は強い風を楽しむように大きく波立っている。むかし古川ロッパという名コメディアンがいたが、コロナ禍も六波となり、七波に向っている。(文中敬称略)



2022年4月2日土曜日

つれづれ雑草「賛成と反対」

「暴力は最後の理性である」こう言った賢人は誰だったか忘れてしまった。否いなかったか、インテリヤクザの親分だったかも知れない。過日アメリカのアカデミー賞授賞式で、主演男優賞を見事受賞した、ウィル・スミスが自分の妻の脱毛症に対する侮辱だとして、司会者のコメディアンを平手打ちした。映画..ジェーンに引っかけてジョークを飛ばした。脱毛したウィル・スミスの妻のヘアースタイルをGIカット(軍人のヘアー)みたいだねと言ったのだ。私は思う、私だったらきっと頭突き一発、パンチ数発、蹴り二発位は入れただろう。そして受賞を返上して、一年程留置所入りだ。決して許されないのが暴力行為だが、一家一族、一門の人間、まして親や兄弟姉妹、女房子どもが大衆の面前で笑いの種にされたら、へらへらしている場合ではない。世が世でもし武士社会の日本であったら、果し合いを申し込んで恥を晴らすか、その場で斬り殺して、腹を切っただろう。もしそうしなかったら、恥辱を晴らさない弱腰として、閉門蟄居の上一族断絶とされただろう。私は思う。いつからかこの国は、何もかもがヘラヘラ社会となってしまった。例えば自分の上司が、部下が取引き先から、バカだアホだと言われても、泣く子とスポンサーにはかなわないと、ヘラヘラ笑って帰る。例えば自分の子がコケにされ、親の顔が見たい、お里がしれるなんて言われて帰って来ても、仕方ない我慢だ、あの家の方が学歴が高く、一流会社の役員だ、ウチは安月給のペーペーだからなと。私は武士道を札讃しているのではない。友人、知人、先輩、後輩、あるいは自分の会社の社員が、いかにスポンサー、クライアントだろうと、そこまで言われることはないという場合は、怒りを表現して恥をかかせたことへの対価を払わせねばならないと思い、ずっとそうして来た。怒らない人間にはヘラヘラ歯を出して笑ってんじゃないと怒った。私の後輩の女性に自慢の男がいた。長身で美男、空手をやっていた。一緒に歩いていれば人もうらやむ二人だった。が、ある夜、会社の飲み会があり、二次会へと向かった。夜の新宿である。美男美女のカップルに、不良たちが声をかけ、女性の手を一人の男が引っぱった。会社の仲間も七人いた。引っぱられた女性は自慢の彼氏の名を呼んだ。だがその彼氏がとった行動は、仲間にヤバイよ、警察を呼ぼうよであった。ズルズル逃げ腰だった。やめろよと言って、不良の手から女性を守ったのは、飲み会の中みんなから、いちばんモテない男と言われていた小柄な男だった。不良たちはその男の殺気に気負されて、その場から去った。結婚間近といわれていた。美男と美女は、一緒にならなかった。女性の方から弱虫の男はサイテーとなったのだ。空手は使ってはいけないんだと言い訳をしたそうだが、お坊ちゃんの黒帯だったのだ。空手を使わなくても、体を張って守る気力を女性は感じたかったのだ。その姿勢を見せた、小柄な男の株はグンと上がったのはいうまでもない、カッコいい人になったのだ。この話と同じような事はいくらでもある。ウィル・スミスをアカデミー協会は脱会させるとか言っているらしい。本人は暴力はいけなかったと謝罪している。ハリウッドに暴力はいらない! なんて会員たちは言っているが、ハリウッド映画の殆どは暴力肯定の映画だ。この矛盾に対して論議しなければならない。ジョークを飛ばしたコメディアンのセンスに対してもだ。大衆の面前で、オイハゲ、イエ~イ、次もいいハゲの役待ってるぜ、ユーのワイフに円型のハゲがある、これ以上悩ますなよ。イエ~イ。なんて言われたら、ヘラヘラ笑ってられないはずだ。日本のサラリーマンよもっと理不尽に対して怒れよと言いたい。朝、昼、夕方までは、何を言われてもナメクジみたいにちぢまっている人間に限って、夜、酒が入る程に元気一杯となる。俺はよ、やるときはやる、言う時は言うぜ、知ってんだろ、ウィッ、ヒクッとしながら、あいつなんて目じゃないよ、俺はよォ、ウィッ、ヒクッとでかい声を出す。そしてカラオケに行くと、もう絶好調だ。次の日の朝、あいつと言っていた上司に、又酒臭いな、キミは本当に使えないね。なんて言われて青菜に塩みたいになって夜を待つのだ。アナタ、昨夜どこで寝たの、帰って来ないなら電話してよ、まさか公園のベンチかなんかじゃないでしょうね。ち、ち、違うよ、◯╳君が深酒しちゃって、仕方ないからカプセルホテルに泊ったんだよ。なんて電話で人のせいにするのだ。私は、ウィル・スミスの平手打ちに大賛成、謝罪には大反対。女房をオチョクラれて黙っていられるか。アバヨアカデミーが正解だな。3031日奥多摩に取材に行って来た。花粉症は最高潮で、鼻はグズグズ、目はショボショボ、クシャミを連発しながらも、いろんな人と会って来た。長い長い石段の上の神社に行った。ヤマトタケルノミコトは、この御嶽の山の中で狼に命をたすけられたという伝説がある。男は女性を守る狼でなくてはならない。(文中敬称略)