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2016年10月14日金曜日

「ボブ・ディランと村上春樹」



午後十一時五十八分、世田谷区用賀インターから第三京浜へ、そして辻堂に向かってクルマは走っていた。午後十二時NHKラジオの時報が流れた時、私は一歳年をとった。

ニュースでタイの国王が死去したのを告げたあと、今年のノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞した事を告げた。村上春樹が予想では第二位だったが、今年も受賞をしなかったと。何故村上春樹がノーベル賞をと思われるのがよく分からない。
ボブ・ディランはそのオリジナル性が選ばれた理由だとニュースは教えた。

村上春樹の文学にはアメリカ文学の下敷きが色濃くあるのがオリジナル性に欠けていると判断されたのだろうか(?)フランツ・カフカにも影響を受けているというか、発想の方向がほとんどカフカ的である。
それにサリンジャー、フィッツジェラルド的世界観を加え、植草甚一、常盤新平、片岡義男的ブランドスパイスを効かせ、レイモンド・チャンドラー的トーンを盛り込むと、村上春樹的ワールドは生まれる。
私は村上文学は自らへのコンプレックス文学と思っている。
もし彼が身長180センチ、見るからにイケメン、スポーツ力に優れて陽灼けが似合い、ブルージーンズに白いTシャツが筋肉と共に日々の制服となっていたら、決して今の村上文学は存在しなかっただろう。私はそう思っている。

最も手紙も満足に書けない私の村上春樹へのコンプレックスかもしれない。
私はむしろ村上龍の方がよりノーベル賞的だと思っている。
何しろオリジナル性があり、現代文明に対して鋭く斬り込み、暗示性に富んでいるからだ。村上ファンのハルキストの人たち、勝手を書いてゴメンナサイ。
来年はきっと受賞するはずです。


♪~いったいどれだけの道を歩めば 人として受け入れられるのだろう いったいどれだけの海を渡れば 白いハトは休息できるのだろう どれだけの銃弾を打ち合えば 弾はそこをつくのだろう 答えは友よ風の中にある 答えは風の中にある…。
Blowin' In The Wind(風に吹かれて)をボブ・ディランはベトナム戦争真っ只中、ベトナム戦地のアメリカ兵の前で唄った。ジョーン・バエズと共に反戦の歌手であった。
フォークとロックとブルースの要素が入った歌を独特の音階としゃがれた声で唄う。
ボブ・ディランの歌い方はクルーナー唱法といわれ、囁くような優しい唄い方だ。

あらゆるミュージシャンはボブ・ディランを追った。ビートルズも。
文学的、宗教的、哲学的、反戦のメッセージ・ソングがすっかり聴けなくなった。映画「ビリー・ザ・キッド」の主題歌「天国への扉」は私をしびれさせた。
ビリー・ザ・キッドはご存知西部劇の無法者である。

イーグルスの名曲「ホテル・カルフォルニア」、レッドツェッペリンの名曲「天国への階段」は私のベストソングであった。
無法者を 戦争好き国家アメリカに置き換えると、アメリカがいかに病んであの世へ向かっているかが分かるはずだ。
ヒラリー・クリントンとトランプとの虚しい姿を見るとその答えが風の中に舞っている事を知る。

♪~またひとつずるくなった 当分照れ笑いが続く。
ボブ・ディランに憧れた泉谷しげるの歌が聴こえてくる。
私は一つ歳をとって、またひとつずるくなった。
そしてまた一歩、天国か地獄に近づいた。(文中敬称略)

2016年10月13日木曜日

「停電の原因考」




西村寿行の「滅びの笛」という本と開高健の「パニック」は同じテーマであった。
関東の山中で熊笹が異常発生し、それを食べるネズミが異常に大繁殖する。
そのネズミたちが黒い大津波のように食べ物を求め東京へ向かう。
ネズミの繁殖力は天文学的数を生む。田畑を食い尽くしながら村を町を滅ぼす。
道路や線路を占領しつつ東京に向かう。

ある年ねネズミの集団自決が東京湾であった。実話であるという。
東京湾はネズミの死体であふれ漁師の魚網はネズミの大漁となった。
人々はパニックを起こした。ネズミは地下に押し寄せ配線を食べていく。
電線はショートしやがて火災を起こし、街の機能を失わせてしまう。
歴史的には100年に一度そんな異常事態が起きていたという。

小学生時代の天才的少女だった友に今の日本は滅びの笛、パニックに近いというような手紙を書いて今日ポストに入れる。すでに封筒はガムテープで止めてあった。
13日にする意味が私なりにあった。

昨日私は四時過ぎ区立練馬美術館に向かっていた。
五時に友人二人と待ち合わせをしていた。
池袋までタクシーを飛ばし西武池袋線で中村橋に向かうつもりであったが、停電で池袋線は止まり、佃煮ができるほど人、人、人であった。
仕方なくまたタクシーに乗ったが渋滞が凄い、携帯を持っていないのでタクシーの運転手さんに借りて友人に電話した(五百円払った)。
友人たちも同じ状況であった。
夜、家に帰るまで50万世帯以上が停電とか、映画館、劇場も停電になった事を知らなかった。

区立練馬美術館の館長は、日本最大手の酒飲料メーカーの宣伝部長をされていた有名な人、美術に関することで知らない事はないのではと思う程、正真正銘博覧強記の人。
日本のルオー、日本のピカソ、否、ルオー、ピカソ以上にもの凄い画家「朝井閑右衛門展 空想の饗宴」を観て、その後館長と友人二人と共に割り勘(いつもそうなのです)で一杯飲み、館長より美術についてご教授を願う。
五時半までに着かないと美術館は終わってしまう。

江古田、練馬駅近辺も渋滞、運転手さんが携帯を見て「なんか停電しているみたいですね」と言う。車が動かないので薬局まで歩いて行って、目薬とグリーンエバー(フリスクが売ってなかった)を買った。
で、五時二十三分受付に。あ~間に合った。

朝井閑右衛門については後日にするとして、停電の原因はネズミではないかと思った。
東京の地下にしこたま太ったネズミが数億、数十億といるやもしれない。
ネズミ算的に増えるから食べ物がなくなると何でも食べる。
漏電防止のテープなどグルグルに巻いても食べてしまうだろう。
一カ所火がつけば燎原の火の如く広がって行く。

丁度友人にネズミの話を書いたのですっかりそう思ってしまった。
朝井閑右衛門は電線だけを難点も描いていた。
たっぷり厚塗りの絵はただの電線をこれ以上なく肉感的に描いていた。

エレベーターは停止したのだろうか。
今日はエレベーターの保守管理をする会社の社長さんと会うので詳しく聞いてみることにする。館長が案内してくれた日本料理「味三昧」の料理は朝井閑右衛門に匹敵するほど凄いものであった。総料理長は新橋「京味」で修行した人だと紹介された。

2016年10月12日水曜日

「焼き海苔」



♪~アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい 夜が明ける 日がのぼる 朝の光りのその中で 冷たくなった私を見つけて あのひとは 涙を流して くれるでしょうか…。


現在の大学生たちは知らないだろうが、その昔大学には全共闘の時代があった。
西田佐知子が切々と唄うこの歌は戦いに敗れた全共闘世代に圧倒的支持を受けた。
“冷たくなった私”は抵抗に屈した自分たちの姿に思えたのだ。

現在65~68才位の大人たちは、中核、革マル、ブンド、民青等々、それ以外はノンポリと言われた。全学連は一つのファッションでもあった。
今や定年となりかなり無気力、無重力化した65~68才世代はやがてプチブルジョア(プチブル)化していく。
実は国家権力者側に内通して情報料をしこたま手に入れたり、権力者側に踊らされていた。
全共闘時代を経て日本国の警察組織は捜査一課第一主義から“公安”にその力関係は変わって行く。

全共闘は鬱屈した学生たちにとって格好のはけ口となった。
フリーSEXがまかり通った。処女であることは権力者側にいることと同義語であった。
“暴力は最後の理性だ”なんて空気を入れる学者たちがいた。
全共闘たちに思想的影響を与えた学者たちが真っ先に権力者側に転向したのは言うまでもない。

私が最も影響を受けた、ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督が九日死去したということをニュースと記事で知った。九十歳であった。
歩行補助具を使いながら遺作(Afterimage)を今年のトロント映画祭に出品したと記事にあった。
五十年代の抵抗運動(レジスタンス)三部作「世代」「灰とダイヤモンド」「地下水道」は珠玉の名作であり、全共闘世代の若者の心を捉えた。

私の好きなシーンがある。
「灰とダイヤモンド」の中で若いテロリストが、白い洗濯物がズラーッと干してある下を逃げるシーンだ。カメラワークが抜群であった。
モノクロームの映画であったがまばゆいばかりの映像美であった。
白と黒の対比が抵抗運動の明と暗を表していた。
黒澤明監督に影響を受けたとアンジェイ・ワイダは後に語った。

私の拙作であるピンク・レディーのMIEが唄った灰とダイヤモンドの題名はこの映画からいただいた。革命はガレキと灰の中からしか生まれないと言った。
当時レジスタンスという言葉は流行り言葉となった。
暴力革命は全否定するが、抵抗しない社会はファシズムを生む。
ペンは銃よりも強いはずだが、現代のペンは暴露でしかない。

午前二時八分〇五秒、いつものグラスにお酒を注いだ。つまみは焼き海苔。

2016年10月11日火曜日

「佐助君(?)」




その少年は昨日も試合に出られなかった。

午前十一時二十三分プレイボール。
神奈川県少年硬式野球大会のシニアの部、第三回戦であった。勝てばベスト8だ。
平塚市にある河川敷の球場には、二宮から秦野から、そして中2の孫たちの相手横浜都筑から、そこに集結していた。

私は十時三十分頃に着いた。
前の試合の最終回(七回まで)を両軍戦っていた。
どういう訳か茅ヶ崎の少年たちは小さいのだ。それに人数が毎年少ない。
今年は新人が二人しか入らなかったとか。
シニアは中1と中2まで、相手はまるで高校生のようにでかい。
私は175センチだがそれに近い子が多い。

茅ヶ崎といえば165センチ位の子が二人、あとは150センチから158センチ前後で子ども、子どもしている。
相手はすでに大人びていてバットを振ると、ビュンビュンと風を切る強い音がしまくるのだ。相手チームは25人、こちらは11人であった。
試合は残念ながら一方的に打たれて0対8か9で負けた。
最後はランナーがまとめてホームベースに入って来たので0対9かもしれない。

試合の結果は仕方ないとして、私がここ何試合か応援に行って気になったことがあった。背中にSASUKEと縫い込まれたチームでいちばん長身の子が試合に出してもらえない。
大きな声を出し、ボールを拾い集め、その汚れを取る。
試合に出ている選手のヘルメットを並べ、バットなどをきれいにふいて並べる。
守備に入っている時は二人しか残っていない。攻撃の時はベースコーチに入る。

とにかくSASUKE君は忙しいのだ。私はこういう子に飛び切り愛情がわくのだ。
何で試合に出してもらえないのかをある人に聞いたら、打てない守れない出たら勝てないからという。勝つことだけが少年野球の目的だろうか、それもたった11人しかいないのに。せめて代打とか代走とかでも出してあげてもらえないだろうか。
私が監督なら等しく機会を与えてスポーツの楽しさを教えてあげるのだが。

がんばれSASUKE君、一生懸命練習すれば野球はきっと上達する。
きっと監督は見てくれている。勝つだけを教えるのが少年野球ではない。
フレーフレーSASUKE。本名は佐助かも。

2016年10月7日金曜日

「ロックよ静かに流れよ」




ある地方の里山に行っていた。
山の上から峡谷、黄金色に染まる米畑、今は詳しく書けないが地方創生へのお手伝いをさせていただいている。驚いたことに一人も子どもに出会うことがなかった。

若者もいない、カタカタとカートを押す老女二人と、杖をつく初老の女性一人。
背中が45度に曲がった古老が一人。
農家は兼業、若者は街へ都会へ仕事を求めて出て行ってしまっていた。
学校はすべて廃校であった。
「そして誰もいなくなった」という映画の題名を思い出した。
♪~兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川…を想った。
この国は本当に滅びると感じた。否この地球が滅びの笛の中にいる。

昨夜後楽園ホールで友人のボクシングジム会長のところのボクサーの王者決定戦を友人二人と観た。新チャンピオン誕生に声援を送り、見事勝ったのを見届けて一緒に観た友人と銀座の仕事場に戻った。
小さなテレビをつけると、サッカーの試合が1対1、相手は世界ランク128位のイラク、ちなみに日本は56位。勝負の世界は何が起きるかわからないが、ランクはランクだ。
そんな格下に6分間のロスタイムの中でやっとこさ2点目を入れるまでWカップに優勝したような大騒ぎをしていた。

この国のスポーツジャーナリズムはある時からピタッと停止した。
鋭く、怖ろしく、時に母親のようにやさしく選手を批評することを忘れた。
私が知るところ一人しかいない。勝って当たり前なのだから。
何やってんだ格下相手に何億円も報酬をもらっているのに、しっかりしろと言われないから進歩をしないのだ。釜本茂やセルジオ越後のようでなく。

イラクは戦争をしている中で練習をしている国だ。
相手に敬意を表すならせめて3対1とかでなければならない。
この国はいつからか、甘、甘の国になり、テレビの中継をし、コマーシャル収入や種々の利権を追うことが主体となった。辛口を言うとスポイルされてしまうのだ。
ボクシング日本タイトルマッチ、何百発も殴られながらやっと掴んだチャンピオンベルト。しかしギャラは雀の涙だ。

10Rを終わり共に強かったと言葉を交わし、それぞれ相手のコーナーに行ってありがとうございましたとお辞儀をする、負けた金髪の選手はリングの上で土下座して声援を送ってくれたファンにお詫びをしていた。
仕事場の隣にあるセブン-イレブンに行って、ウィンナー巻き、ちくわぶ、昆布、大根、がんもどきを買って食べ仕事を始めた。

400字のリングの一週間ぶりのスタートは、本物のゴングと共に始まった。
ボクサーはリングに上がったら殺すか殺されるかの気持ちで挑む。私もまた、生き残るためのリングに上がる。アリスの名曲のボクサーのように。
♪~立たないで もうそれで充分だ おお神よ 彼を救いたまえ。
私は白い灰になるまで地獄道、修羅道を行く。勝負は最後に勝った者が勝ちだ。
若い才能が育ち花咲く日を求めて。

長いお付き合いをさせてもらっている知人の息子さんから感動的な結婚報告の手紙をもらった。この一通は私の宝物として大切にする。
「ロックよ静かに流れよ」私の大好きな映画のことが書いてあった。

2016年9月29日木曜日

「一週間の休筆」

400字のリングはスケジュールの都合で十月六日まで休筆いたします。
暑さ、暑さも彼岸過ぎです。
体調に十分お気をつけ下さい。

年賀状とかお歳暮とか、おせち料理の文字が否応なく心をせかします。
休筆前、日本ハムファイターズの歓喜のビールかけを見ながらいつものグラスにお酒を少し、つま味はハムでなく、昨夜の残りのおでんです。
かなりクッタクタです。午後十二時五十五分〇八秒。
外は少し雨です。

2016年9月28日水曜日

「プールとおでん」




朝、裸になりシャワーを浴びる。
その前に体重計に乗るのを日課としている。
別にダイエットをしている訳ではない。
太ると腹が出っ張ってシャツのボタンがきつくなったり、Tシャツやアロハが着られなくなったりする。そうでなくても見た目がダメなのに、輪をかけてダメとなる。
現在ダメ進行中だ。

食べたいものをたらふく食べてしっかり太っている人を見ると、実にウラヤマシイと思い尊敬する。私は中途半端者なのだ。オッ、な、なんだこれはと思う朝がある。
なんでだついに体重計は壊れたかと思う。
位置が悪いのかと足で体重計を動かして再び乗るが1980円で買った体重計は古くても正しい。あっそうかと思うのは決まって夜のおかずが“おでん”の時だ。

おでんは大、大、大好きなのでつい食べ過ぎる。
商店街からおでんの種屋さんが消えてなくなったので、袋に何個も入ったおでん種を大きな鍋でつくってある。
こんなに誰が食べんだよと言えば、息子たちが来るからと、だが来るはずが来ないこともある。こんにゃく、糸こんにゃく、スジ、つみれ、巾着、ゴボウ巻き、ウィンナー巻き、里芋、ゆで玉子、ロールキャベツ、イカ巻き、厚揚げ豆腐、竹輪、ちくわぶたち。ハンペンなんかパーンと破裂しそうに膨れ上がっている。
もったいない、食べねばとなる。

小腹が空くとまた食べる。
夜食として午前二時、三時頃にまた食べる。
いつものグラスでお酒をチビチビ飲みながらちょいとおつまみ感覚で食べてしまう。
夜中お酒飲んで火を使わないでよの言葉などはなんのそので、鍋に火を通す。


時間が経つほど味が染み込んでおでんはその才能を増す。
白いちくわぶなんかかなりだらしなくなっているが、黄色いからしをつけると俄然異才を放つ。
こんにゃくはツルンツルンしているのでからしをちょっとつけただけで、目にツーンと来て涙が出る。泣きながらふくれっ面になっているハンペンにからしをつける。
三角形の真ん中あたりにからしをつけ、それを広げる。美しいではないか。

高級おでん種の牛スジやネギマグロやバクダンやイイダコなどは入っていない。うちは“やす幸”や“お多幸”じゃないと言うに決まっている。
戦後生まれのもったない世代なので次の日もあれば食べる。


少年の頃の夏休み、プールに行くと好きな女の子が水着で泳いでいる(当たり前だが)。杉並区関根町にあったプールの横に公園があってそこにおでん屋台が出ていた。
友だちとおでんを食べながら公園の滑り台のうえからプールを見る、オイ、飛び込んだぞなどと言いながら串に刺さったこんにゃくを食べる、何を食べても一つ10円だった。
野球部員はプールは厳禁だった。嫌な先輩が見張りに来るのだ。
おでんが好きになったのは、プールのせいかもしれない。

今夜はおでんである。
現在午前一時六分四十一秒、小腹が空いて来た。
テレビからブラタモリの再放送「広島」が流れている。

2016年9月27日火曜日

「ハヤシもアルデヨォー」




カレーライスとハヤシライスといえば、かつては王と長嶋、大鵬と柏戸、力道山とルー・テーズみたいな最強のライバルだった。
読書などとは縁遠い私だが、ハヤシライスを食べに東京丸善まで行った事がある。

ハヤシライスの考案者といわれているのが早矢仕有的(ハヤシユウテキ)である。
早矢仕有的は幕末に江戸で医院を開業し、維新後は書店「丸善」を創業した。
医師と実業家の二足のわらじで活躍していた。
横浜にいたころ友人に滋養をつけさせたいと思い、牛肉と野菜を煮たものを振る舞ったのが、ハヤシライスの起源という。


カレーライスといえば横須賀の海軍バルチックカレーが有名だが、カレーライスも乗務員(勿論軍人たちも)の健康を守るために考案されたという。
軍人たちの敵は脚気であった。
人間離れしているイチロー選手は毎朝カレーライスを食べていると何かで知った。

私が少年の頃カレーといえば、オリエンタルカレーとか、キンケイカレーであった。
貧しい家庭で兄姉六人、家に変えるとプーンとカレーの香りがして、やったぁ今日はカレーだと思えば、鍋の中には兄姉が食べたあとのカレーが底にへばりついていた。
チキショウと思っていると優しい母は別の小さな鍋の中にカレーをとっておいてくれた。お母ちゃんは兄姉平等の女性であった。
ハヤシライスが食事に出た記憶はない。カレーよりハイカラだったのだ。

カレーライスには赤い福神漬けがいわば法律であった。
白いご飯に淫らな赤い汁を出す福神漬が染み込む、それをカレーと共にスプーンで口に運び入れる。口の中でカレーとライスと福神漬を染み込ませたライスが混然一体となってフハァー、フハァーとなる。
食べている最中に水を飲んではいけない、これもいわば法律である。
すべてを食べ終わったあとに、冷たい水を一気に飲み干す、コップには冷たさが生んだ水滴がにじみ出ている。カレーライスには色んな決め事があり、フハァーカレーという声が出るが、ハヤシライスにはそれがない。辛くなく甘いからだ。
庶民的というより、ブルジョワ的であった。

最強のライバルはいつしかカレーライスの一人勝ちとなった。
脱線トリオの南利明がテレビCMで“ハヤシもアルデヨォー”と名古屋訛りでハヤシを盛り上げた。早矢仕有的は岐阜出身という。

日本橋高島屋側にカリーライスのみで経営していた超人気の古いcafeがあった。
メニューは普通盛りか、大盛りのみ。
二人に一つ冷え冷えの氷が入ったアルミのヤカンが置かれる。
ゴロン、ゴツンとした大きなジャガイモが二個、ライスに激辛カリーがかけられて出て来る。途中で水を飲むのは初心者だ。
店から出ると汗びっしょり、口の中にカリーと冷たい水との会話が始まる。
カリー店に赤い福神漬けはない。
アイビーがからむcafé、いつからか消えてなくなっていた。
昼時は人があふれ出て行列だったのに。

2016年9月26日月曜日

「ワンカップ大関」


力士が丸い土俵の上で勝負する相手は怪我でもある。
どこもかしこもガタガタでボロボロ、もう駄目だ、今度こそ引退だと思うほどの苦難の連続。中継するアナウンサーなら、残った、残った、徳俵に片足一本親指一本で必死に持ち堪えていますとなる。

大相撲は子どもの頃から大好きでずっと観て来た。
最近は大怪我から這い上がって来た力士を追っている。
好きとか嫌いとかでなく、人生の見本、男の見本、ネバーギブアップの見本としてだ。
大相撲の世界は厳しい。
140キロから220キロ近い体重の力士が、思い切り頭と頭でぶつかり合う(小兵力士の里山とか宇良などは太った一般人と変わらない)。

で頭突き、張り手、突っ張り、かち上げなどボクシングや格闘技のようなものになり、赤い血が土俵の上に飛び散る。それ故お清めの塩をまく。
ガバッとつかんで天までとどけとまく力士も入れば、ほんのちょいとつまんでチョボっとまく力士もいる。これを波(浪)の花(華)という。

一場所15日間負け越した力士の番付は下がる。
体中どこも悪い箇所がないという力士は一人もいない。
もしいたとしたら手抜き相撲をしている無気力者だ。
横綱は絶えず優勝争いをすることを求められ、最低でも12勝が義務だ。
それ以下の成績が続けば資格なし、綱の威厳にかかわると引退する。
大関は二場所負け越すとその座から落ちる。
次の場所10勝以上すれば返り咲けるがこれは非常に難しい。

横綱、大関、関脇、小結、前頭、十両までを関取といい、毎月給料がもらえるが、十両の下の幕下、三段目、序二段、序の口の力士は給料をもらえない。
私たちの世界も同じで戦いに勝って行かねば仕事にならず、次の仕事の声が掛からなくなる。業界には目に見えない番付がある。
どの世界も同じで、人一倍、人の何倍も努力した者が、残った残った、残りましたとなる。

大関豪栄道は怪我ばかりを重ね、弱気となり、引き技ばかりをしていた。
いつからかクンロク(96敗)大関、カド番大関と呼ばれていた。
稽古熱心であり稽古場では強かったが、本場所になると逃げ技に頼った。
今場所もカド番であった。
その豪栄道に何かが乗り移ったのか、初日から連戦連勝を続けた。
引くという逃げ技は使わず、ひたすら前へ前へと進んだ。

14日目横綱日馬富士に土俵際まで追い込まれ、首投げでやっと勝った一番以外は正攻法だった。カド番大関の全勝優勝は史上初であり、大阪出身の優勝は86年振りであった。
土俵の側で手を合わせている母親の姿が印象的であった。
敗ける度に笑われ、バカにされ、罵声を浴びた。相撲の神様は怪我にもめげず一生懸命稽古をした力士にひと花を咲かせた。
十両まで落ちた人気力士遠藤は、大怪我をしても決して包帯をしなかった。
再起不能ではと言われたが這い上がり今場所前頭で132敗で最後まで優勝争いをした。

外国人力士の栃ノ心は大怪我をして幕下まで落ちたが、ネバーギブアップで日本人より日本人らしいと言われ、十両優勝を重ね幕内に返り咲き、小結にまで上がった(今場所は負け越し)。
次の大関といわれる高安もやはり大怪我で落ちる所まで落ちてから這い上がった。

豪栄道は先々場所、横綱白鵬との一戦で顔面骨折という大怪我をしたが休場せずに土俵に上がった。そんな姿を相撲の神様は見ていたのだろう。
傷だらけになって生きて行くことを人生という。這い上がった力士たちに乾杯をした。
酒は勿論“ワンカップ大関”だ。

横綱寸前だった大関稀勢の里はクンロクで終り、一から出直しとなった。
強いのにここ一番で弱い力士の典型であった。力水を差し出す相手がカド番クンロク大関豪栄道で、来場所自分に代わって横綱を目指すとは夢にも思っていなかっただろう。
世の中とは皮肉なものである。一寸先に備えて努力を重ねるしかない。

2016年9月23日金曜日

「自宅にて」




九月二十二日(秋分の日)朝からずっと雨、予定していた行動が出来なかった。
九月に入って雨が降らなかった日は二日だけ、つまり二十日間が雨模様である。
こんな日の夜は秋刀魚だなと思った。
茅ヶ崎の駅ビルに行く用があり、それを済ますと地下の食品売場に行った。
午後六時四十分頃であった。今年は去年より更にサンマ漁が不漁と知っていた。

一度目黒のサンマ祭りというのに行った事がある。当時サンマは大衆魚であり、一匹100円以下であった。サンマ祭りで焼いたのを食べたが、なんだか配給の食べ物を食べさせてもらったようで味気なかった。何十人も並んでいて、何百人が食べていた。
ハイヨ、ハイヨ、ハイヨと焼き上がったサンマを紙の皿の上に置いてもらう。
アリガトウゴゼイマスと一人一匹頂く。

お醤油がなかったのも味気ない要因であった(あったが無くなっていた)。
立って食べたのもイケなかった。サンマをのせた紙の皿を持つ姿はかなり侘しい。
安物でもいいから陶器皿の上にのせ、三角形の大根おろしがあって、やはり三角形に切ったカボスなんかがサンマさんの側にそっとある、サンマと三角形の方式が緊張感を持ってあることに味がある。

東京タワーの下で大船渡から運ばれた、三千三百三十三匹焼かれて食べられたとニュースで報じていたのを見て目黒のサンマ祭りを思い出した。
茅ヶ崎駅ビル地下にあったサンマは一匹三百円前後であった。
旨いサンマを見分けるには口先が黄色く、腹がたっぷり太っていて鱗が銀色にというのがいいと物知りの友人から教わっていた。
昨日そんなサンマは無かったので買うのをやめた。
二十日(水)に特上のサンマとハタハタを、太っ腹の人にごちそうになっていたからかもしれない。一週間まい日サンマを食べても大丈夫なほど大好物の魚なのだ。
上手く食べるにはサンマをのせるお皿を一日ずつ変える事なのだが、ウチは料理屋さんじゃないわと言われるに決まっている。
相手はいちばん美味しい腹ワタを全部残すのだから言っても始まらない。

雨で予定していた墓参りができず、リンゴ三個、大きな梨一個、佐賀産のミカン六個入を買って仏前のところに新しく供えた。先夜おみやげにと頂いたスモモも一緒に。
大福餅や羊羹などお菓子もたくさん供えた。父と母が、亡き友たちが写真の中にいる
白と黄色の菊の花とお線香の白い煙は、しばし心を落ち着かせてくれた。
花瓶は石原裕次郎さんの名が書いてある白い瓶、もともとは松竹梅のお酒が入っていた。百合の花は未だ開いていない。自宅にてのお墓参りであった。