神田明神下に、「左々舎(ささや)」という店がひっそりとある。
余り人に教えたくないのだが一昨日の夜に会社の女性二人を誘って行った。
この季節は「鱧(ハモ)しゃぶ」である。春は「鯛しゃぶ」、冬は「河豚鍋」である。
さてその夜は雨模様であったせいかいつもよりお客さんは少ない。
風情十分のこの店はかつて芸者さんが住んでいた所を工夫しお店にしたと聞いた。
食通だった亡き友に連れて来てもらって以来通っている。
作家の故山口瞳さんも通った店で、山口さんが書いた味わい深き書が、その季節に応じて飾られている。山口瞳さんも食通であった。
文人、編集者、イラストレーター、音楽家、女優、画家、書家、俳人など、その世界でその名を知られている人が来る。
ミシュランなどの目には絶対触れさせることはない。
みんなでそうならないようにしている。
ひっそりとした路地にポツンと河豚の提灯がぶら下がっている。
これ以上は説明できない。有名にしない掟がある。と私は思っている。
顔見知りと会っても近づいてくることはないし、こちらから近づくこともない。
その夜美味しい鱧料理を食べた後帰りがけに、「骨はなかったでしょ」と店主がいった。
えっと私はいった。
鱧一本の中には細い骨がビッシリとあるのは知っている、聞けば今日の鱧は完璧に骨を抜き取ったのだとか、一日に一本位しか完璧な骨抜きはできないのだと。
いや~、それとは知らずいつものように食べたがいわれてみると本当に骨を感じていなかった。
小首をかしげていたずらっぽく話す店主が、雨ばかりで時間があったので、予約した私たちのために完璧に抜いてくれたと、泣けるようなことをいわれた。
私のように人相というか、魚相の悪い鱧は、その鋭い歯以外はすべて料理されて出た。
皮、心臓、肝、浮き袋、そして極上の中味。
名人芸は神田にあり。
緋毛氈が敷かれた小さな長椅子の上に交通事故で亡くなった愛猫の写真がある。
20年の生涯であった。
生ある頃は、そこに座りニャーといって迎えてくれていた。