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2012年6月28日木曜日

「スターがいた」


六月某日、その日の中野サンプラザはギッシリ超満員だった。
その数二千人位だろうか。我々四人はステージから六列目であった。

中野サンプラザはその昔陸軍中野学校(スパイ養成所)があり戦後は警察学校であった。
中野にあった高校に一年程通っていた私は学校をサボってはその警察学校の通り向の喫茶店に友人といた。
時々パーン、パーンと拳銃の練習の音がした。

「おい、アキラの新しい映画観たか、主題歌聞いたか、もう覚えたか」が挨拶代わりだった。
当時は日活全盛時代であった。タフガイ石原裕次郎はもう“神であった。劇中に歌われる主題歌は観た日に覚えた。
日活には十代、二十代の若者が押し寄せ扉も開いたまま、映写室から観ている猛者もいた。

第一回目は朝九時半頃始まる。
とうぜんその何時間も前から長者の列となる。
入場!となると学生服や鞄を手にどっと入り込み、どけよ、どけどけと進み空席に服を投げ、鞄を投げ、時には靴を投げてそこは俺の席だと皆争うのだ。みんな学校をサボって来ているのだ。男も女も入り交じり大混乱となる。

膝の上にはノートブック、手には鉛筆が必携だ。
大人達の煙草の煙で館内は灰色となりそれを切り裂く様に映写機からの灯りがスクリーンに向かう。
白い光の帯がタフガイ石原裕次郎を映し出す。

“おれは待ってるぜ“風速四十メートル“赤いハンカチ流れる歌の詞を必死にノートに書き写す。
タフガイの次のスターがマイトガイこと小林旭だ。脳天から発する高音が中・高生の全身を突き抜ける。
映画のストーリーなんて問題外、何しろ都会のキャバレーに突然バンダナを首に巻きカウボーイハットを被りギターを抱えてマイトガイは主題歌を歌いながら唐突に現れるのだ。

みんな必死にノートに歌詞を書く。
勉強のためになんかノートを買う奴はタフガイやマイトガイに会う資格はないのだ。
“赤い夕陽が燃え落ちて〜と始まる。学校に行く予定はないが、タフガイとマイトガイを観るスケジュール予定はバッチリなのだ。誰が先に覚えるかが大事なのだ。

「何?観てないだと」となり話について行けないのだ。
“ダンチョネ節“ツーレロ節“北帰行ノートはタフガイの歌詞をマイトガイの歌詞で真っ黒となる。
喫茶店で声を出して歌い合う。神社に行って大声で歌うのだ。

中野サンプラザに登場したのはマイトガイ小林旭と八代亜紀。二人のジョイントコンサートだった。
何故に行ったかは聞くだけ無用だ。そこに歌があるからだ。“夜がまた、来る。思い出連れて。
俺を泣かせに足音もなく。何を今更淋しかないが、街の灯りが、今日も今日も点るよ〜”いいね、さすらいだぜ。“お酒は温めの燗がいい、肴は炙ったイカでいい〜”ときて“しみじみ飲めばしみじみとぉ〜思い出だけが行きすぎる〜”と続く。

阿久悠はやっぱり大天才だなとしみじみ舟唄を聞く。
二人の大スターはピッカピッカに輝いていた。遠い昔との違いがある。
私は学生服ではなく、ノートと鉛筆を持っていない。タフガイがいない事だ。


「山から新茶」




今年もやってきました、日本一の新茶。
私が初めて仲人をした夫婦(社内結婚)がつくった新茶だ。

夫は元コピーライターで妻は元デザイナー。
都会生活は僕達に向いていないと二人合わせて年収一千万(当時)以上を放棄して三十年位前、浜松から車で二時間半もかかる春野町という山の中に住むことになった。
お化けが出そうな古民家を二人で修復し、川から水を引き、薪を割りそれでご飯を炊き料理を作った。
五右衛門風呂も勿論薪である。

みんなで盛大な送別会をした。贈り物は金のスコップだった。
私は挨拶でこういった。毎日仕事が終わったら一緒に飲んだ。十二時前に終わる事はまず一日もないので、早くても午前二時とか三時だった。それから朝日新聞本社近くにあった赤テントで飲み、それから六本木で夜が明けるまで飲んだ。
銀座で、赤坂で、私といつも一緒だった。
だから二ヶ月もすれば寒さに耐えきれず、夜の銀座・赤坂・六本木が恋しくなり帰って来ると言った。
ところが二ヶ月はおろか、一年、二年、三年、いつまで経っても帰ってこない。

やがて地元の新聞や東京のテレビで紹介され始めた。
生来明るく、優しく、何事にも前向きで人に愛される男。
山の中の風習が色濃く残る集落の中に溶け込みリーダーとなっていった。
養豚をし自分達でハムを作って送ってくれた。畑を耕し野菜を作った。椎茸栽培にも挑戦した。
 家の前には鶏やチャボやヤギなどを飼って動物園にした。

夏になると川にキャンプに来る人たちが入園料10円を払って連れてきた子供たちを楽しませた。
何にでも挑戦する夫婦はキャンプ場に自分たちでログハウスを建ててしまった。そこにバーベキュー場を作った。
お客さんが沢山訪れる様になった。

電話で話すと決まって「とうもとさ〜ん会いたいよ、来てけれ一緒に飲みてぇーだよ」といった。
息子が生まれ、娘が二人生まれた。三人を立派に育て成人させ娘二人を結婚させた。
全てに前向き、陽気夫婦なのだ。私は拙著の中で「夫婦鏡は山の中」と書いた。

六月二十二日(金)夜遅くに家に帰ると「新茶が届いているわよ」と愚妻がいった。
先日の台風で春野町はバケツをひっくり返した様な大雨が降っていた。テレビでそれを知っていたので直ぐに電話した。「もしもし俺だ」というと気持ちよさそうな一杯気分で「あーとうもうもとさーん、来てけれ、会いていだよ〜」といった。

男と男はこの言葉だけで十分「分かってるよ」といった。
「新茶ありがとうな」と御礼をいった。自分達の茶畑でつくった新茶だ。
ラベルには奥さんのデザイン画が書いてあり言葉がそえてある。これ以上の「茶の味」はない。
かつて岡倉天心が「茶の味」という名著を残したが、岡倉天心に味わってもらいたい銘茶だ。

土砂が崩れ美しい川が濁流となったといった。
長男が近々ペルー人の娘さんと結婚するという。インターネット上でペルーの人々と会っているらしい。
必ず行くからな、あの美しい川で釣り糸を垂らしてハヤやヤマメを釣りたいものだ。
都会を離れた人間はとに角目が澄んでいる、声が澄んでいる。
山の中には樹があり、木があり、気に満ちている。都会には緑もなく石塔の様なビルだけが林立している。

2012年6月26日火曜日

「高倉健命」




人間は一年経つと等しく何をとるか。
そうです、一歳、歳をとるのです。

高倉健(八十歳)の主演映画「あなたへ」の試写会を電通本社(14F)にある映画館のような試写室で観させてもらった。ソトコト編集長小黒一三さんからお誘いを頂いたのだ。
八十歳になってもさすがに健さんの存在感は何ともいえない味わいがあった。

白い丸首のTシャツは相変わらず似合う、それにコットンのシャツ、襟を立てたジャンパー目出し帽、独特の歩き方、背筋をビシッと伸ばしていた。映画を愛する一人の大スターの生き様があった。
私たち世代はオールナイトシネマで唐獅子牡丹、網走番外地を観て意気揚々と映画館を出た。
 「死んでもらいます」の決め言葉を背負って。

明け方みんなでラーメンをすすった。
この頃六十歳で定年になって、ただ無為に過ごしている人々が多い。
しっかり年金をもらって海を散歩し、山を歩き、川に釣り糸をたれ、テニスコートや公園で汗を流す。
時間がある、ヒマがある、年金もある。

ただ夢も野心も野望もロマンもない。生産性がない人々が何をしたらいいか分からないなどという。
勤め人だった頃はさしても仲良くなかった夫婦が公園にゴッソリ集合し、子供の遠足の様に東海道線にズラリと座っている。

夫婦二人共、目に輝きはなく、体からは生気がない、ただ時間が経つのを目的に箱根や大雄山、丹沢や江ノ島の灯台、鎌倉を目指す。

最近ある雑誌で、妻に先立たれた男の心のアリバイを探す事に苦心しているという記事があった。
作家城山三郎は「君はもういないんだね」という本を遺して逝った。評論家江藤惇は妻を追うように自死した。
ジョージ秋山という漫画家は未だ心の中が“浮遊雲”の様だという。
存在だけが世のためにならないエセジャーナリスト田原総一朗は妻に先立たれて我を失ったというが、ずっと妻を裏切る事をしていた。

夫に先立たれた妻たちはすっかりせいせいしたのか、皆さん目はキラキラ輝きすこぶる元気で、今日はあそこに行って美味しいものを食べよう。明日みんなで芝居に行こう。次の週からはあの温泉に行こうなんて前向きなのだ。

高倉健はきっと長い長いロケの中で死んだってかまいやしない、それが映画屋だと思ってカメラの前に立っていたのだろう。人生と戦わない男、夢を追わない男、ただ健康第一などといっている男たちは一日も早く消えた方が世のため妻のためだ。

私の敬愛してやまない師匠、知人、友人たちは夢を追いたくても追えない身となりながらもベッドの上で愛読の書を辛い姿勢で読んでいる。


高倉健が車の中で妻に書き遺してもらった料理のレシピを片手にひじきを作るシーンは心に染みた。
私は結婚して四十三年台所で料理を作った事などない。台所に男は入るなといわれたからだ。勿論ひじきなど作れない。

八月二十五日東宝系で大公開だ。
世の老人よ、戦う健さんに拍手をだ。
唐獅子牡丹は流れないが。

2012年6月25日月曜日

「早朝の感動と、うんざり」




六月二十五日早朝六時十五分十四秒、壮絶な戦いはPK戦になった。
イングランドVSイタリア、UEFA EURO 2012は今まで見たどのサッカーの試合より最高の試合だった。

午前三時四十分八秒、ウクライナからのLIVE中継を見始めた。
これぞ国と国との誇り、名誉と意地と意地をかけた試合だった。前半ロスタイムなしという全力の戦いだった。
後に回すパスはなし、時間稼ぎのパスはなし。ひたすら前へ前へ前へ前へ。そして後半、そして延長、そしてPK戦。

やっている選手に疲れの表情は一切なし。見ている私はもうヘトヘトグッタリ。
PK戦の始まる前に朝刊三紙に目を通す。PK戦がまた凄い。入れる、外す、入れる、止める。もうハードコアSEXと同じ、もう凄いのなんの、で結局イタリアが最後に決める。

六時二十五分三十三秒試合終了。会場は興奮の大音響だ。
イタリアは守りが主体であったが監督が替わりどんどん攻めるチームに変わった。
この試合で何より素晴らしかったのはレフリーだ。無駄な笛は一切吹かない。公正無限に試合を見事にさばく。
名人芸だ、両チーム互いにそのファイトと祖国愛とスポーツマンシップを讃える。

先日の八重樫東VS井岡一翔のタイトルマッチと同じだ。途中目を通した新聞に、民主党の内紛が書いてあった。
賛成だ反対だ、離党だ、棄権だ、除名だ除籍だ、やれ54名だ、50名だ、もうしっちゃかめっちゃかな記事が載っている。どの世界にこんな阿呆な政党、政治があるのか。

八十歳老害の極みである渡部恒三などという存在だけが迷惑な黄門様だか肛門様が相変わらずスットコドッコイな事をいっている。フェアにさばくレフリーはいない。

ある調査では次の選挙で民・自・公合わせても過半数には届かないという。
増税に命をかける政党党首は世界の歴史上誰一人もいない。私は二、三時間寝なければならない。
今までみた一番いい試合に酔い、今まで読んだ一番腹ただしい新聞を破ってゴミ箱に捨てた。感動の後うんざりして。
民主分裂、崩壊の夢を見る事にする。男同士の喧嘩に危険はあっても、棄権は決して許されない。



2012年6月22日金曜日

「サッカーの夜」





その夜、銀座の店はガランガラン。
何故か、それはサッカーの試合があったからだ。

私は来年勤続四十年を迎える小社の大番頭と三十九年を迎える系列会社の社長と一緒だった。
もう一人はそのむかし霞ヶ関ビルの二十一階にあった広告代理店で経理をしていた女性。
今は押しも押されぬ銀座のクラブママ。指には高価なダイヤの指輪。

映画を作る予算が不足しているからご協力をといえば絶対に駄目だと(当たり前だが)。
来ている着物は値段不明。その四人でおでんの名店「お多幸」に入っていた。
いつもはビッシリ満員店内も(一階、二階)ガランガラン。
胸章に「李」と書いてある眼鏡をかけた女性がオーダーをとりにくる。中国人の店員はとに角ぶっきらぼうで、愛想がない。基本的にサービス精神がないのだ。

今は初鰹の季節、おでんの前には先ず鰹のたたきだ。
あるかいと聞けば「ね~ヨォ」「何、ねえヨォ」だと。ここで怒ってはいけません。
私は何度か経験済み「ね~ヨォ」は、「メーヨー」であり、「メーヨー」は、ないよ、ありませんよの意味なのだ。

気の短い人はこの「ね~ヨォ」に初めて出会うと必ずお客をバカにしてんのか、エッ、オイ、責任者呼んでこい!となるのです。はんぺん、ちくわぶ、ねぎま、つみれ。
後は串カツ一本(これはうまいよ)アジのお刺身を頼んで、むかし、むかしの話で盛り上がる。

知人のアーティストが作ったオリジナル作品の置物をママさんが買ってくれたので、そんじゃちょいと一杯とママのお店へ。美女、熟女四人、なじみのマスター、ピアニスト一人。で飲んでいるとお客さんは一人も来ないでないか。
誰か来たら帰るぞといって待つ事長し、十時になっても一人も来ない。

よし、帰るぞと決めて外に出た。雨がしとしと降っていた。
それじゃ又なと外に出て一歩、二歩、三十五歩歩くとワァ~、ヤバイ、目と目が合ってしまった。
何、どこにいたのと、時々友人と行くクラブの女性。

お客さんを送った後。
ネェ〜、サッカーがあってお店ヒマなの。寄って寄ってというからそれじゃ一杯だけだぞといって店内へ。
確かに若い美女軍団で有名な店もサッカーにはかなわない。
ガランゴロン、犠牲者となった我等は、一杯が二杯、二杯が三杯となって終電間近か。

この店は、私の親愛なる友人の行きつけの店。
夜の掟では人の行きつけの店にその人抜きで行ってはいけないのだが、その男はもう自分の家。
一緒なら高い伝票をチェックしてくれるのに。次の日電話を入れると、ご愁傷様でしたみたいに笑っていた。

銀座通りは空車のタクシーがズラーっと並び、白タクの運ちゃんはお客がいないので、磯部焼きの屋台の横にヘタリ込み。バラ売りのオバチャンはもう、バラのバラ売り状態でした。

2012年6月20日水曜日

「最後の一枚」


安来節


パンツを脱がすぞ、なんてお下品な言葉は「性事」の世界の犯罪的フレーズだ。

ところが「政治」の世界では、パンツを脱がすぞ、といえば自分達の要求をトコトン呑まし、最後の一線まで追い込む事をいう。花柳界とかでは野球拳という遊びがある。
ハイ、のホイ、ハイ、のホイとか訳の分からない手の動きをして負けると着ているものを一枚、又一枚と脱いでいくのだ。アホらしいというか、バカらしいというかはやった事がないので分からない。
脱がすなら、脱がしてみようホトトギスだ。

で、これは民主党と自民党と公明党の話です。
マニフェストだなんて横文字で人をだまくらかした民主党が、アメリカの命令で次々そのマニフェストを撤回している。行け行けどんどんの自公はもうベッドの上でドジョウすくい状態だ。
ヨシ、もう一枚、ヨシ、もう一枚と要求を飲ませて行く。
なにすんの、やめてよ、やめてとドジョウ首相は逃げる、民主はもうすぐパンツ一枚だ。

持ち慣れない権力を持ったがその使い方がサッパリ分からない。
宇宙人の後がスッカラ菅、その後が丸飲みドジョウ。サア、どうじょ最後のパンツ一枚も脱がしてください、なんて、ドジョウが、どうじょといっている。まったくもって食えない奴だ。ダジャレも冴えない。
ここまできたらガンバレ自・民、総選挙だ。





2012年6月18日月曜日

「ヒマな人々」



○△有識者会議設立。
×□有識者会議設立。
△?×有識者会議設立。
×?××有識者会議を設立するための会議設立。

とに角この国には有識者会議なる無駄な会議が多い。
何とかの第一人者、何とかの第一人者という人がゾロゾロ集結する。
第一人者というのは唯一一人しかいない筈なのに山ほどいる。有識者会議マニアの学者や官僚OB、評論家なんかはアッチコッチ掛け持ちだ。テレビや新聞で名を売って講演や著作でしこたま儲けるのだ。全く始末の悪い連中だ。

20人も30人もの自称第一人者が集まったって何の結論も出やしない。
政府のアリバイ作りの使いパシリみたいなものだ。出席者なんて、ひと言、ふた言いってはい、お役ご免。
何も喋らない人間の方が多いという。学者はちゃんと学内の研究室で自分の専門分野を更に深く、広く、鋭く研究して世の中に、そうなのか、そうだったのか、やっぱりあの学者こそ第一人者だといわしめる努力を続けなければない。

研究室の片隅で辞書や学術書を枕に息を引き取るのだ。
その側には食べ残しのソイジョイとか、板チョコとか、半分になったコッペパンと飲み残しの小岩井コーヒー牛乳とか。これが第一人者の姿なのだ。

有識者会議とは超ヒマ人、超目立ちたがり屋、超権力主義者、超ケチンボ、超銭ゲバの集合なのだ。
私の知っているかなりいい加減な○×研究所の所長なんか、五つも六つも掛け持ちして、ああ忙しい、ああ〜忙しいを連発している。時代遅れのダブルのスーツと分厚いノート手帳が目印だ。

このオッサン達は競馬や競輪の評論家より始末が悪い。
政治、経済等の予想は全て当たらない。責任もとらない。
さあ、有識者会議を無くすための、有識者会議を開催しよう。

2012年6月14日木曜日

「使い捨てだよ人生は」




一体何処に目を付けてるんだよ、と逃亡犯を見つけられない警察に歯がゆい思いをしている国民は多い。

監視カメラはつけているのに。
あの駅、この駅、あの階段、あの道路、田んぼのあぜ道から公園の中、そこいら中のトイレの中にも監視カメラがついていたのだ。オシッコしたらちゃんと手を洗えと見ている。
 酔っ払ってバアロー何処走ってんだちゃんとナビを見てんのか、辻堂っていったのに何で経堂に着いたんだよ、えっ、相模原っていったのに何で相模湖に着いたんだよ、ワカサギ釣りに来たんじゃねえっつーの。
で、ばーんと座席を蹴れば、ハイそれまでで御用となる(私ではありません)。

タクシーの殆どに監視カメラがついているのだ。もう世の中カメラ、カメラだらけ。
小学校の先生、中学校の先生、高校の先生たちが教え子のスカートの中を撮影しては捕まっている。
ミラーマンなんていう教授もいた。その先生達を監視カメラが撮影している。

私は三十余年愛用のキャノンオートボーイが故障してついにリタイアして以来はもっぱら使い捨てカメラを愛用。
近所のカメラのキタムラでは超VIP待遇だ。今時こんなに使い捨てカメラを使う人はいないんですよ。
およそ一週間に二台は写しまくる。五人の孫たち、家の前の公園、池の金魚、海、灯台、砂浜、会社に来た人、草花たち、小庭の小さな樹木。それなりの写真が撮れる。

数年前の正月、とんでもない大雪が降った時、車をチャーターして鎌倉の報国寺まで行った。
一万本の孟宗竹と雪は絶景だった。使い捨てカメラ史上最高傑作が撮れた。まるで雪舟の絵よりも上手い。

キタムラの女子店員はいう。
お客さん使い捨てカメラ一台980円、27枚撮りを現像すると約1500円、2480円×2台で5960円です。
だからとっても無駄ですからそこのズラッと並んでいるカメラを買った方が絶対お得ですよ。何枚でも撮れますから。

駄目、駄目、やっぱり使い捨てが一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂って法律で決まっているの。
オヤッ、あそことあそこに監視カメラがついてるんじゃない?といえば、いえ、あそこと、あそこもですといわれた。この間なんかカウンターに隠れて見えないからと思って靴を脱いで裸足でお客さんと接していたらめっかって叱られたんです。なんで裸足になっていたのか聞いたら、ずっと立っていると足がむくんでしまうんですといった。

六月十一日朝、茅ヶ崎駅で早朝友人と待ち合わせをしていたら、こんにちはとその子に会った。
男の子と二人連れ、コラッ朝帰りか、ホラ、あそこの監視カメラに写っているぞといったら、そのカメラに向かって二人はピースサインをした。
年の頃は男の子が26歳位、女の子が22歳位。あそこの店やめたんです。一日立っていると足が太くなってしまうし、足はむくむし、それに一日中監視されているのが嫌なんです。

それじゃ、アバヨサヨナラといったら、そろそろちゃんとしたカメラ買った方がいいですよだって。
使える位ならとっくに買っているよ。今日もバッグにサークルKで買った使い捨てカメラが一台入っている。
コラッ、オウムの高橋克也いつまで逃げてんだ。

2012年6月13日水曜日

「御岳山ロープウェイ」


 御岳登山鉄道


人格者と言われる人の定義はあなたならどうでしょうか。
私は1,仁と義に篤い人。
 1、約定を守る人。
 1、弱者の味方。
 1、金銭に対不始末しない。
 1、人を蹴落としてまで上を目指さない。
 1、向学心がある。
 1、行動で表す。
 1、目上の人間に対し礼を尽くす。

えっ、そんな人がいるかって?それがちゃんといるのです。
その人の名は、今野耕作氏(73)元京王エージェンシー社長、その前は京王電鉄取締役の人だ。六月七日(木)午後十二時〜二時十分まで京王プラザホテルにて久々にお会いした。
 美しく、美味しそうな京懐石料理が出たが、食べる時間も惜しいほど話が弾んだ。

相変わらずダンディで全く老け込んでいなかった。
埼玉大学で教授を勤めながらエッセイを書き続けていた。現在は大学を退かれ、日本エッセイストクラブ会員として健筆をふるっている。

同席したのは今度京王電鉄系の御岳登山鉄道会社社長に就任する仲田美治氏と私のデスクの女性。その席で今野耕作氏からこの頃学校のカリキュラムから日本語の「古文」が消えていっていると言われた。

「古文」といえば、日本語の「親分」だ。
親分を大事にしないからこの頃すっかり日本語が乱れに乱れて居るのだ。
まともに挨拶もいえない人間が増えている。「おはようございます」「こんにちは」「お先に失礼いたします」「お疲れ様です」こんな基本すら満足に言えない大人は給料を貰う資格がない。
そんな大人に給料を払う必要はない。辞表を出して貰った方が世のためだ。
世界に類のない美しい国語を持つ日本人として、子供達、孫たちにぜひ「古文」を必須科目としてもらいたい。親分の「古文」を大事にせよだ。

巨漢の仲田美治氏は、かつての親分今野耕作氏に対してとても美しい敬語を使って身を正していた。とてもいい光景であった。
夏になったら是非御岳山のロープウェイに行こうと思っている。
コラッ!今入って来たのは誰だ!ちゃんと大きな声で挨拶しろ!これが人格形成の全ての基本です。

2012年6月12日火曜日

「ある戦友」

青木ご夫妻




俺さ、トーチャン(こういう人も多い)と初めて会った時、なんだいこの生意気で嫌な奴は、絶対仕事なんか出すものかと思った、といわれた。

その人は青木勤氏(67
武蔵野美大を出た後大手広告代理店に入り、小さな体に闘志をみなぎらせ、ファイトを全面に出しグイグイ頭角を表し、やがてクリエイティブ制作部門の頂点を極めた。

広告業界は士農工商代理店そのまた下のプロダクションという。
私はそのプロダクションの経営を始めていた。泣く子とスポンサーには勝てない。
大手広告代理店は何から何までスポンサー、クライアント、お得意のために対応する。
その代わり競合プレゼンテーションに勝利すれば何億、何十億、何百億のアカウント(仕事)が任される。

小さなプロダクションにとって代理店との取引窓口が出来る事は何よりの力こぶとなる。
それ故代理店のクリエイティブ制作局長にはプロダクションが日参する。
今から37,8年前、業界の大先輩望田市郎さんから、私が制作局長をやっていた処を紹介するから行ってみなよと言われた。

その大先輩はCM界で大ヒットを飛ばしていた業界の大物。
真野響子さんを起用した「カティサーク」というスコッチの仕事をご一緒させてもらっていた。
で、その代理店のロビーで初対面、私はジーンズにアロハ、それに手ぶら(44歳まで鞄とか手帳とかは一切持たなかった)一日何個も打合せやオリエンテーションがあってもメモを取らずやって来た。

記憶力だけは自信があった。電話帳も勿論持たなかった。
青木勤氏と仕事をする様になった時、「メモはしないの」とか「ちゃんと分かった」とか「ホントに大丈夫なの」とかよくいわれた。初対面は悪印象であったが、ある大きな仕事を一緒にする事となり、その仕事が決まった。

私は人に好かれる為の手段は一切しない(挨拶はちゃんとするが)。
ただプロとして全身全霊をかけ、えっ、ここまでやってくれたのという仕事をする。
その結果がいい付き合いになると思っていたから。


六月六日午後三時過ぎ、東京銀座並木通りにある名門画廊「並木画廊」に青木勤氏を訪ねた。
代理店引退後引っ張られて入っていた日本の最大手の通信会社系代理店の取締役制作局長の任を無事終えて四年目を迎えていた。青木勤氏は水彩画の名手、定年後二年目に初めての個展を大成功させ、今度が二度目であった。
いつも可愛い奥さんと二人で迎えてくれた。一週間開催の最終日であった。
32点の素晴らしい絵は既に27点赤い印がついていた。
男と男、共に戦ってきた仲はガッチリ握手すれば全て通じる。

私の会社の30周年パーティーを今は時事通信社本社となった銀座東急ホテルで行った。
その時わたしはこう挨拶した。この会場に私と初めて会った時、なんて嫌な奴、生意気な奴、仕事なんかするもんかといった人が来てくれています。今その人とは最も仲良く、ご家族共にお付き合いしている。
又、あらゆる仕事を共に戦い、共に勝利をモノにしてきたと。又、悔しい思い、死ぬ程辛い思いもしてきたと。
人間と人間の良好な関係は全てをさらけ出さなければならない。
お上手、お世辞、ヨイショ!八方美人、日和見からは生まれない。
大量の血が流れる事は一緒に血を流さなければ信頼関係は生まれない。

青木勤氏は今回イギリスを描いた。次はベルギーに行くといった。
ちなみに青木勤氏は戦いがゴチャゴチャ、グチャグチャになればなる程その力を異常に発揮する。

私はこう呼んだ、ベトナム戦争の将軍“グエンカオキにちなんで“グエンアオキと。
あの頃は365日、毎日がベトナム戦争の様であった。4
5歳の時大先輩との打合せに遅刻してしまった。これからスケジュール手帳を持ちなさいと叱られた。
今はすっかり手帳を頼りにしている。oh!脳!脳は使わないと、夢を追わないとその力がどんどんトンズラしていく。去る者は追わず主義だが、今や去った後の脳内は砂漠の如きものとなっていく。

2012年6月11日月曜日

「どうなっちゃったのか」




どうやって殴られたのですか、こうやってです。
そんな事でこんな怪我をしないだろ、え。コノヤローとか、コロスゾとか、シメるぞとかいいながらこうやって殴ったんじゃねえのか、オイ、しっかりべしゃれ(しゃべれ)。
いえ、違います。私がこうして、こうしたら、ガァーンとこうして来たんです。
そんじゃ何も訴える事はねえだろう、ただのケンカだろうが。このボンクラが。
ボンクラはないでしょお巡りさん。
俺たちはよぉー事件になんなきゃ成績になんねえんだよ。もっとしっかり殴られろこのボンクラが。

と、その後ガガガァーン、バババアンとお巡りさんを壁に押しつけパンチを入れる。
公妨、公妨(公務執行妨害)で逮捕だ。
何いってんだよ、ひとの事ボンクラボンクラいいやがって。

ある夜の交番での事。私が丁度そこを通りかかり見物した。交番の中で起きた小事件です。やがてパトカー二台、酔っ払った会社員風のおじさんはパトカーの乗客となったのです。

後日聞くところによると、その際パトカーを思い切り蹴ってヘコませたので器物損壊罪、お巡りさんは殴られ唇を切って全治三日で暴行罪、何て事はない、殴られて交番に訴え出たのに自分がパトカーへ。そして十日間は留置所暮らしです。

いや、ずーっとずーっと、もしかしたら一生出てこれないかもしれません。
冤罪はこうした後、生まれたりするのです。お前○△事件の手配書の男にソックリだな、血液型もAB型か、珍しいな。六月八日夜、目の前を通り去って行くパトカーを見ながらふと、数々の冤罪を思い出したのです。

2012年6月8日金曜日

「芸術の裏」




歌劇の生みの親ジャコモ・プッチーニの映画を借りて来て見た。
「プッチーニの愛人」という題名であった。映像はまるで中世絵画のように重厚かつ壮重であった。

物語は「西部の娘」という歌劇を創作中のプッチーニ、その妻、その娘、船着き場兼酒場の女、そして召使いの娘が生む物語。とある日、召使いの娘はプッチーニの娘の秘事を思いがけず見てしまう。
プッチーニの娘は、もうたっぷり肉がついた母親は嫉妬の炎をメラメラと燃やす。
そして親娘で執念深く召使いの娘を追い込んでいく。

プッチーニの愛人とは実は船着き場兼酒場の女であった。
湖の隅にある小さな家の中で娘は悩み苦しむ。そして服毒自殺をする。イエスキリスト像がクローズアップする。(自殺は許されるのか?)
召使いの娘は一通の遺言を残していた。それには私が死んだら検死をしてほしいと書いてあった。
 その検死の結果は、召使いの娘は純潔であった。 

82分の歌劇と名画を見る様な作品であった。TSUTAYAの新作コーナーにある。
歴史に残る名曲、名画、名作小説、そして歌劇などには必ず秘められた悲劇があるものだ。
虚と実を、創造力と創作意欲を、ミキサーの中に入れてハチミツやミルクなどと共にミキシングして生まれてきた。
映画の字幕に「純潔」という二文字が見えた時、ああ日本語の中にこんなにも美しい響きをもつ文字があったのかと思った。

50代までに結婚を一度もしていないという男性が五人に一人もいるという新聞記事を読んだ。
こういう人は何て表現したらいいのだろうか。純潔ではあまりに切ない気がする。

頑張れ男よ、いかなる女性(レズ以外は)も君たちの出現を待っている。
私の大好きなファッションブランド、YSのヨウジヤマモトこそ山本耀司がいっていた。
「人生は女」「ファッションは女」だと。今YS青山店でヨージの絵画展をやっている。ヨージのない人はぜひ。

「その日から」



私が未だ子供だった頃、こんな夜があった。
父を亡くし貧しい家であった。母は外に出て働いていた。

家に帰って電気をつけるのが末っ子の私の役目であった。
暗くなるまで働いている母が電気の点いていない暗い家に帰ったら可哀相だと思いどんなに楽しく遊んでいても暗くなると家に帰り電気をつけた。

ある日いくらヒモを引っ張っても電気が点かない。
そこに長兄が帰ってきた。おかしいな、停電かなといってロウソクをつけてくれた。
やがて姉たちが帰りロウソクは一本増えた。隣の家は電気が点いているわよといった。漏電でもしているのかと兄はいった。

そこに母が帰ってきた。
真っ暗な中でローソクを囲んでいる私たちを見て「アラッ、電気代を払ってなかったから元を切られたわ」といった。
長兄と二人自転車で電力会社に電気代を払いに行った。家に帰ると家は電気が点いて明るくなっていた。
東京電力が大嫌いになった日であった。

2012年6月6日水曜日

「俺でも泣く」




新藤兼人監督百歳がその生涯を終えた。
 反戦、反骨、反体制を貫いた稀有の映画人であった。
映画人としてはすでに何をか語らんである。

はじめて「裸の島」を観たのは確か東京都内を走る中央線荻窪駅近くにある“新東宝であったと思う。
座席は石の長椅子であった。五人位が一緒に座れる。夏は通路に氷などが置かれた。真冬には練炭を七輪に入れたオジサンがいた。広いが暗く、寒く、臭い。

十五歳の頃だった。
当時新東宝はヒット作を連発していた。荻窪には大映、東映、日活、東宝、そして外国映画のスター座が勢揃いしていた。十四歳の時「第五福竜丸」を観て原爆の恐さを知った。小学生の頃だったか「綴り方教室」を学校教育の一つとして観た。
これ程涙があるのかという位泣いた。同じ位泣いたのは松本清張原作「砂の器」だ。野村芳太郎監督の名作だ。新宿ミラノ座の通路で泣いて、泣いて、泣きじゃくった。

また同じ位泣いたのは愛犬が目の前で車にはねられた時だ。
あまりに泣く私を見て愚妻は、「あなたも泣くのね」なんていいやがった。
男は人前で泣くんじゃネエなんていっていたのだが。

片親で育ち父親を知らない私は、母と子、父と子の映画は涙の泉となってしまう。
だから泣きそうな映画は必ず一人で行く。三益愛子主演の「日本の母」これも泣けた。
長男やその嫁、長女やその夫などに冷たくされた母親はとある施設の前でバッタリと倒れる、大雪の日に。やがて思想犯(だったと思う)で入獄していた末っ子が帰ってきて、兄姉をなじる。
「バカ、バカ、バカヤロー、お母さんは僕がちゃんと見る、お前たちとはもう縁切りだ。」と、ソウダ、ソウダ(末っ子は確か宇津井健だった?)ともう涙、涙だ。
 あれも、これも新東宝は涙の歴史。新宿ミラノ座は涙の大洪水の場であった。

さて「裸の島」である。全編セリフなし。
友達と観に行っていて、おい、映写機が壊れてんじゃないの、声が聞こえないよ。それでも殿山泰司と乙羽信子はただひたすら働く。オイ、オイ、声が聞こえないよ、という。お前ちょっと映写室行ってこいよ。手に持った酢昆布とあんずを食べてもいつもの味がしない。酢昆布の白い粉が学生服のズボンに白い点と線を作る。

私がいつか自分の手で映画を作りたい、そう決意したのがこの「裸の島」であった。館内が明るくなった。
側にいたオジサンにこの映画壊れていなかった、声が出なかったけどと聞けば、オジサン、これはセリフのない映画なんだよと教えてくれた。なんでだかよく分からないがいい映画なんだという事は分かった。
今でもよくこの「裸の島」を観る。きっと生ある限り見続けるだろう。百歳の宝物に合掌。
ここ数年で観た映画で泣いたのは、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」だ。これも母と子の物語だ。それ以来一本もない。

2012年6月5日火曜日

「見た事がない」




街をのんびり歩いている時、外人さんが近づいてきて「正義」について語ろう。なんて言われたら、さあ、どうする。
「正義」なんてこの国にあったのかと、ふと我に返らずにおえない。突然の大テーマにドギマギするはずだ。

ハーバード大学のある教授がこの「正義」について評判を呼んでいるというディスカッションDVDの資料を訳あって見た。それは熱気に満ちたものであったが、なんとも“胡散臭いものであった。

A君、君の考えはどうかな、なるほど。それではB君はどうだろう、なるほどそういう考えもある。
ではC君はどうかな、フムフムなるほど。それではA君とB君の意見を足して、C君で割ったらどうだろうかみたいに。

教授は片手をポケットに突っ込んで動物園の熊の様に右に左に動き回り、時に身振り手振りで盛り上げる。
この光景は何かに似ているぞと思った。そうだ、投資セミナーかなんかで会場に人を集め洗脳していくあのシーンだ。
教授は決して自分の意見はいわない、結論もいわない。「正義」について結論なんてある訳がないのだから。

一人を殺せば殺人だが百万人を殺せば英雄だといって歴史は革命家を賞賛してきた。
世界史も日本史もそうして作られてきたのだ。そもそも「正義」などという代物は玉虫色、見方によってその色は様々に変化する。ハーバードの教授は「正義」という形のないものをプロダクト化して、きっとしこたまの報酬や印税を手にしているのだろう。アメリカ人はやたらとジャスティス「正義」をいうがその「正義」の裏にコンフィデンシャル「疑惑」が隠されている。

戦争資本主義の国では勝てば全てが「正義」なのだ。
古来より口舌の徒が、世の中を悲惨な目に遭わせてきたのだ。
もしハーバードの教授と私が「正義」について一対一で論争したら、私は絶対に負けないだろう。
これが「正義」だというのを見た人がいたら教えてほしいものだ。

これが私の「主義」だというものや、これが俺の「仁義」だというのは見た事がある。
「正義」という言葉が広く世の中に出て来ると悪い事が起きる。
何処の誰だか知らないが、正義の味方月光仮面はテレビで見た事がある。

「盗っ人の目」



尾崎士郎の人生劇場の主題歌。
“やると思えばどこまでやるさ、それが男の生きる道といってちゃんとやる人が好きです。その逆にやるとも思わない、やる気も起きない、能書き、言い訳、弁解のてんこ盛りの人はお付き合いはゴメンです。
人の不幸は自分の不幸だと思い、弱き者に手を差し出す人には心から尊敬です。
その逆に人の不幸は蜜の味とばかりに酒を飲む輩はどついたるねんです。


だがまてよ、私は今日も能書きを言ってまった。
言い訳を歳のせいにしてしまった。弁解をしてしまった。
しまった、しまった、シマッタだ。

世の中又、始まった。年金未納問題の時の様に。
お前ガッツリ稼いでいるのに生活保護をおっかさんにはネエだろう、エッ、オイッ、次長課長、キングコングよ。あ〜嫌だ、嫌だ。

大事件じゃあるまいし、もう少し報道の仕方があるだろうと思う。
昨日、人を笑わせてくれた芸人が、まるで殺人犯の様に扱われている。


あ〜嫌だ。菅直人だ、枝野だなんていう奴がシラ、シラ、シラーと能書き、言い訳、弁解している。あろう事か開き直っているではないか。
一度ばっかり話を聞いてハイ終わり、儀式終了。
一度ばっかり政権持たしたら飛んでも八分、歩いて五分。お前の命はあと一分だ。

だから言ったじゃないの、私が会った政治家のなかで最低最悪の政治家は菅直人だって。
何しろ人の顔見て話さない人間にロクな奴はいない。それと目がキョロキョロ泳ぐ奴。警察用語では盗っ人の目といい、ヤクザ者の世界ではキョトッテル目という。

気をつけましょうそういう人に。
お笑い芸人が泣いている姿なんて見たくない。ビートたけしが売り出しの頃いっていた。
よく売れなくなった夢を見てうなされると。

頑張れ次長課長よ、次は部長社長になればいいんだ。
精一杯応援するよ、おかあちゃんは大切にするんだよ。