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2021年6月25日金曜日

つれづれ雑草「愛犬」

出血覚悟の食べ物といえば、ノザキのコンビーフだった。長方体の中に小山のような肉の塊りがある。それを入れた缶の底には、変型T字型で大きな横穴のすぐれ物がへばりついている。コンビーフは少年の頃、超のつくごちそうだった。肉が詰まった胴体の下腹部分には、それを一周するように切り口専用部分があった。大きな横穴に入れられるように、下腹部に突起部分がある。アメリカ軍が戦場で缶切りがなくても中身が食べられるように、細密に工夫したのだろう。栄養も満点である。ウワァ~コンビーフだ、とよろこんで、底にあるT字型の先きの横穴に突起物を入れて、胴体の下腹をグルグルと巻く。この時、気持ちが早まると、胴体を切腹させるのに大失敗する。ブチッと途中で切れてしまうのだ。こうなるともう一大事だ。チクショウと短気を起こすと、指先きを怪我して鮮血にまみれる。コンビーフのガードはすこぶる頑丈なのである。なんとしてもコンビーフが食べたいと、道具箱から錐(キリ)とかペンチを持ち出し、血だらけになりながら、悪戦苦闘する。それでも肉の塊には到達できないのだ。初めに大きく深呼吸をし、心をしずかにして、いざお腹を切らしていただきますと会釈して、ゆっくりとおだやかにグルグルしないと駄目なのだ。こんがらがった夫婦間が、元に戻ることがないように、細心に事を運ばなければならない。先日釣り番組のテレビを見ていて、船の上で食べるコンビーフはサイコーだな、やっぱりノザキのコンビーフ。とつぶやいていたら、愚妻が二個買ってきていた。オッオオ、コンビーフだと手にするとかなり様子が変わっているではないか。切腹方式は危険だから(?)と、なんとフタがついていて、それをパコッと外すと、中に肉塊が悲しそうに入っているではないか、肉塊は自己主張を禁じられた、香港市民のように、身を固めている。出血するようなことはない。缶と違って重さも違う。軽くなってしまった。私の中のノザキのコンビーフとは別物であった。なんとなく味まで違ったようにかんじた。オッオオ、なんだ都こんぶではないか、私が映画を見ながら、むかしは映画館に行ったら、都こんぶをペロペロなめながら、こんぶについた白い粉を指につけてやはりなめる。酢こんぶの味がツーンと鼻に抜ける。映画と都こんぶは極上の味だとつぶやいていた。小さな長方体の都こんぶの箱が三個買ってあった。ヤッホー、サイコーだとよろこんだ。一本映画を見終ると、黒いジャージは白い粉だらけだった。歯と歯の間に入った都こんぶを楊枝で取りながら、お前久しぶりだったなあと言葉をかけた。「A Dog's Way Home ~ベラのワンダフル・ホーム~」愛犬家がこの映画を見たら、涙の洪水となるだろう。子犬の時からかわいがってくれた若者の家から、訳あって600キロも離れた所に連れて行かれる。成長した犬は自分の大好きな若者が住む、自分の家に向って苦難の道を行く。山あり、谷あり、狼あり、大雪や飢餓との戦い。車の洪水の中を行く。帰りたいんだよと、ひたすら臭いを頼りに向う。犬の嗅覚は人の一兆倍との説もある。そして二年半の月日を経て、自分の家に帰る。これだ、これが僕の育った毛布だと。若者は……家族は……。おそらく実話を基にしているのだろう。日本でも同じようなケースがいくつかあった。犬は人間を裏切らない。何百キロ離れていても、自分を愛してくれた人の臭いを忘れない。「DOG」という題Netflixで見られる。深夜この映画は見て泣いた。人間は平気で恩人を裏切るが、愛犬は決して裏切ることはない。海の男、ヨットマンたちが見たら、泣ける映画がある。「ダンケルク」だ。1940年フランス北端の町ダンケルクに、追い詰められた英仏軍、生と死の瀬戸際で陸から、空から、そして海から史上最大の救出の作戦が展開される。ドイツ軍は空から猛攻撃、若い兵士たちは桟橋の上で、ビッシリと身を寄せ合って恐怖と闘う。その兵士たちを救ったのが、数多くの民間人、ヨットマンたちだった。彼等はセールを外して救出に向った。空ではメッサーシュミットとスピットファイアが空中戦をする。次々とヨットに乗り移った若い兵士たちが遠くに見たものは、自分たちの故国だった。ドーバー海峡の荒海の上で、若い兵士たちは歓喜の声をあげた。戦争には大反対だが、戦争はいろんな物語を生む、コンビーフも、ヨットマンたちの勇気も。この映画はアカデミー賞を受賞した。名作「戦場のピアニスト」もぜひ。ドイツ軍将校も悪い奴ばかりではなかった。IOCの五輪貴族たちは、悪い奴ばかりだ。その悪臭にDOGたちは、吠えつづけるだろう。帰れ! 帰れ! と。大変お世話になった大巨匠小林亜星先生。正に小林巨星だった。先生との思い出は、もう少し月日が経ってから書きたいと思っている。




2021年6月19日土曜日

つれづれ雑草「人類の災典」

雨にも負けて、風にも負けて、権力にも脅しのすごさにも負けて、丈夫でない心を持ち、欲も出し、そっと怒り、いつも自分たちのことだけを考え、一日四合の酒を飲み、たくさんの肉と魚を食べ、あらゆることを自分の勘定に入れ、よく見極めて、そして忘れる。みんなからデクノボォと呼ばれ、ほめられずもせず、見向きもされない。そういうヒトに私はなりたい(分科会一員?)。人類の祭典オリンピックは人類の災典となった。政府の選んだ人が雁首を揃えた分科会:会長の尾身茂会長の提言は、予想した通り玉虫色だった。妥協の産物を生む、調整能力に優れた尾身茂会長は、オリンピックは中止すべきと断言できなかった。返り血を浴びることを怖れた。東に文句を言う委員がいれば行って麻雀をし、西に一言居士がいれば行って麻雀をしつつ説得をしたのだろうか(?)。否現在麻雀はポンだチーだと声を発するので、禁止かも知れない。ともあれ雁首たちの意見は研究の成果として少しは役にたったのだろう。人と人が会えば、ワクチン打った(?)があいさつ代わりとなった。えっ、打ってないの、ヤバイよあの人はと、同調圧力がかかる。この国の民は付和雷同する強い傾向がある。ワクチンではない、ワクチン風の薬の副反応が今後いろんな形で出るはずだ。老人たちの多くがそれを知る頃は、この世から旅立っている。幸い私はホタテアレルギーなのでワクチンもどきを打つことは許されない。会社もやっていけない、店もやっていけない。その一人ひとりの命と、オリンピックの選手一人ひとりの命の重さは同じだ。アスリートはずっとこの日のために、血の出るような練習してきたからカワイソー。そう言うが、我々弱小企業も、レストランのオーナーも、中華店のご夫婦も、クラブやバーのママさんも、テレワークで仕事をするパパさんも、みんな、みんな職業の数だけ、血の出るような過酷な日々を送って来た。アスリート達と等しくカワイソーなのだ。カワイソーでないのは、莫大な利権のおこぼれを手にした悪い奴等なのだ。より速く。より高く。より強く。がオリンピックの目標だった。初めは未だ人類が未熟だったからだ。そもそもアマチュアが参加する祭典だった。徹底的にバカヤローな組織が生まれ、より多く賄賂を。より高価なプレゼント。より強情に(要求)。五輪貴族たちのための災典となった。話は代わって、国土計画に就職した「A」さん。90年代前半に国土計画からJOCに出向して国土計画を辞職後、そのまま再雇用されて経理を担当していた。その「A」さんは長野オリンピック(大赤字)の時、T氏から金庫番を命じられていた。以来ずっとオリンピックの金庫の中の動きを知っていたらしい。その「A」さんが、先日突然列車に飛び込んで死んだ。それを目撃したという人がいるというが、その人は出て来ない。遺書もない。ごくフツーに出社して行ったと家の人たちは言う。Why何故(?)なんだかサスペンス映画みたいだ。昨日深夜「南山の部長たち/KCA」を見た。韓国映画はここまでリアルに権力と対峙するのかと感心した。今ブタ箱に入っている朴槿恵元大統領の父朴正煕元大統領が、最側近に食事中に暗殺された大事件をイ・ビョンホン主演で映画化した。日本も韓国もアメリカに全て支配されている(同盟国という子分)オセロのイアーゴは誰だ、という言葉が出る。2020東京オリンピックが、無事に終り(ありえないが)万才! 乾杯! ヤッホー、ブラボー、となることはない。イアーゴ(密告者)だらけの大会なのだ。あの店は酒を出しているぞ、あいつはワクチンを打っていないぞなんてことになる。オリンピックの時には、毎回ん十万個のゴム用品が用意されるというが、今回はいくつだろう。濃厚接触は禁止だけど。アドレナリンが多く出る選手は、男女問わず、ハケ口を求める。私たち市井の民はアドレナリンなどもう出ない。ハケ口も求めない。南無無辺行菩薩……南無安立行菩薩。雨ニモマケズ 風ニモマケズの最後は経文で終る。宮澤賢治先生の黒レザーの手帳には、南無妙法蓮華経の文字が、ページの中央にひときわ大きく書いてあった。今回のオリンピックに、仏様は味方しない。(文中敬称略)





2021年6月12日土曜日

つれづれ雑草「石に感動」

THE STONE/石の仏、神の獣。西村裕介写真展」を六本木21_21DESIGN SIGHTギャラリー3に友人と行く。六月七日(月)である。アートディレクションは、巨匠井上嗣也氏、デザインは稲垣純氏である。全国を訪ね訪ねて撮影した、10数万点に及ぶ写真の中から、選び抜かれた30余点が見事にディスプレイされていた。午後四時頃に行きますと伝えていたので、井上氏、稲垣氏、そして西村さんが会場に来てくれていた。一ミリでなく、一ミクロンにもこだわる井上さん、稲垣さんのグラフィックデザインの最高峰のセンスが、西村さんが撮った、石仏、羅𣿮像、馬、犬、猿、蛇、羊、亀、蛸、猪、獅子、鯰、虎、などなどの石像写真と対決する。感性と感性ががっぷり四つとなり、誰が彫ったか分からない石像たちが、熱い息を発する。久々に興奮する展覧会であった。意志を持ち無言の言語となっている。すばらしい写真集が、リトルモア刊で発売されている。(8000円)会場を出る時に写真界の巨匠と会った。ウワァ~、〇〇さん久しぶりとなった。この写真家を使いこなすアートディレクターは、日本国で二、三人しかいない。猿がウォークマンをつけて、湖のほとりに立っている名作で有名だ。六月九日(水)観ておかねばなら吉永小百合さん主演の「いのちの停車場」を二時十五分から観た。レディースデーで館内は、女性客でいっぱいだった。金沢で訪問看護をする女医さんが主人公。東京の大学病院で救急医をしていたが、ある事で辞めて父親がやっているまほろば診療所に帰って来る。さまざまな苦難の病と共に生きる人たちを診て回る。あ~嫌だ嫌だ、なんて人間は汚いんだ、と思っている人は、吉永小百合さんの映画を観ると。あ~なんて人間はいい人なんだと心が洗われる。一年365日看病をしつづける人々は、私から見ると神の領域にいる。年老いた父や母、生まれながらの難病奇病、あるいは不慮の事故により、不自由になった夫や妻や、兄弟姉妹、そして愛する我が子。日本国中屋根の下で生きる家族の数だけ、何かしらの病がある。若くして事業に成功したのに、全身麻痺になってしまった男が言う(映画の中で)金はいくらでも出すからと。人は運を買うことはできない。人生とは不公平なりという。好事魔多しともいう。悪い奴ほどよく眠るとも言う。ネバー・ギブアップだ。希望は人間だけが持てるものだから。今月中に来日すると言ったIOCのぼったくり男バッハ会長が訪日中止、七月に来日をすると延期した。そんな折来年の冬季五輪開催を目指したが途中で立候補を降りた、ノルウェーのオスロが、IOCのバカヤローこんなことやってられるか、という内容がどこからともなく流出した。とにかくゆすりにたかりである。空港は特別にしろ、滑走路で式典風に迎えろ、開会式には国王と面会させろ、その後にカクテルパーティを、その費用は王室かオスロ五輪委が出せ、車移動には専用道路を作れ、ホテルでは支配人が、季節の果実とケーキを持ってあいさつに来い。ホテルのバーは委員用に深夜も営業しろ、ミニバーには必らずコークを、競技スタジアムにはワインとビールを。当然ホテルは一泊ん百万円のツイン、ワインはあれこれ、シャンパンはあれこれと細かい銘柄、きっと毎晩美人とか美男子をと、秘密用語であったはずだ。五輪貴族はうす汚い者共なのだ。ひょっとしたら小池百合子都知事は、五輪返上を宣言するかも知れない。今のままでは、都議選は大敗北(都民ファーストの会)となる。中止を宣言してコロナと闘うと言えば、年を取ったジャンヌ・ダルクになれるはずだ。もっともジャンヌ・ダルクは処刑されるのだが。熱中症で救急搬送される人が増えて来た。救急医療の現場に、吉永小百合さんみたいな医師はいない。コロナで手一杯なのだから。飲食店のオーナーや店主、おかみさんたちの怒りは、頂点に達している。何をチンタラチンタラやってんだよ、早く給付金を振込めよ、何をスットコドッコイの事言ってんだよ。こんな中でオリンピックなんて、できる訳はないだろう。子どもにだって分かるだろう。バカも休み休み言え、こちとらはずっと休んでんだからヨオ。小池百合子はジッと状況を見ているはずだ。親分の二階幹事長も次があるか分からない。二人が組んでコロナ最優先、給付金援助最優先に、とやったら一気に拍手だ。オリンピックはやれないと思ったら、スパッとやめると言った言葉を思い出す。それにしても日本の政治ジャーナリストは、田崎史郎しかいないのか、顔が見たくないから、スイッチを変えるとそこにもいる。又、変えるとそこにいる。局をハシゴしている。収録を重ねている。展覧会で見た犬の石像には、哲理とか、真理を感じたが、政権の犬には、ヌメヌメしたナメクジのような気配しかない。目覚めよ大マスコミよ。奮い立てジャーナリストよ。何んのために政治家になったのか、思い出せよ。青雲の志を。昨日深夜「なぜ君は総理大臣になれないのか」という、ドキュメンタリー映画を見た。東大→官僚→さまよう野党の議員、17年間に及ぶ作品だ。国会議員になるということはとにかく大変だ。一家一族、全員、お願いします清き一票をの、積み重ねだのだ。選挙は近い。一言一句が当落に影響する。韓国では36歳の若者が、議員経験なしで韓国最大野党の党首となった。時代は動いている、若手准教授の著作、「人新世の『資本論』」がベストセラーなっている。(抜群にオモシロイ)絶望は愚か者の結論なりその教えを噛みしめている。(文中敬称略)



2021年6月4日金曜日

つれづれ雑草「婉という女」

オッ、オヨヨ。コロナ対策の医療チーム分科会の会長尾身茂が、現在の状況では普通はオリンピックなんてできないと言った。(フツーというところがミソ)やるとすれば徹底的な対策が必要と言った。(やるとすればがミソ)尾身さんやるじゃん、と見直しの言葉がドドッと出た。伝聞だったか、何かで読んだか記憶が定かでないが、この人は無類の麻雀好きで、ポン、チーをしながらの調整力に優れているらしい。医学的見識や専門的知識は、さほど持ち合わせてない(?)。政府が選んだ人間だから、政府のためにならないことは決してやらない。アメリカ資本の圧力で、何が何んでもオリンピックをやらねばならない日本国政府は、戦時中体制の如く開戦じゃない、開催に向かう。国民の命なんか知ったことはないと邁進する。尾身茂たち分科会にとっては、何かしら面目を保つことを言い残さねばならない。でもって政府と尾身茂たち分科会は、しっかりと役柄を決めて芝居を打っているのではないかと思う。分科会以外の医師会などは、ちゃんとした専門知識があるので、オリンピックなんかできるはずはないと、次々に発言する。七月、八月、日本は猛暑の中、熱中症などで夥しい数の救急車が出動する。しかしコロナ禍の中でオリンピックをすると、救急患者はさてどうなるか。囲碁や将棋の世界で、カタチをつくるという言葉がある。名人、達人たちは打ち続けていると、もう敗けたと分かる。が、観戦記者やファンは終わるまでを知りたがる。テレビ放送などがあれば、敗けと分かっていても手を進める。このようなことをカタチをつくると言う。つまり尾身茂たちはカタチをつくってやるだけやったとなる。碁の言葉に征(しちょう)というのがある。強い人と弱い人が勝負をしている時、弱い者が自分の陣地を広げたり、守ったりするために、必死に手を打ち続けるが、どこまで進めてもその手は征、つまり死んでいて、バシッと手を打たれて、ゴソッと陣地を取らてれ敗ける。今の政府はその征に見える。将棋なら詰んでいる。囲碁なら死んでいる、ということになる。日本国軍歌の中に、世は一局の碁なりけりとかいうフレーズがある。政局とは囲碁からきているのかも知れない。狭い部屋の中で、ゴッツイニシキヘビを三匹も飼っていたペットマニアに、蛇が大嫌いな私は、檻の中で三匹の蛇と一生暮らせばと言いたい。嫌いな訳は、少年時代伝書鳩を飼っている時、蛇のヤローに小鳩を何羽も殺されたからだ。中国では象の親子が街中に出現した。かわいそうに、食べ物がなくて出て来たのだ。ミナミジサイチョウなる巨大鳥が出現した。ペットショップが飼っていたらしい。かわいそうに長いくちばしの先きが切られている。それ故食べ物をつっつけないので、かなり不自由で怒っている(そう見える)。ドサクサにまみれて高齢者の医療費が1割負担から、2割負担になる法案が成立した。日本語というのは実に情緒がある。雨を表現するだけでも、400500程あるという。通り雨、夜来の雨、遣らずの雨、六月四日現在、だらしない雨がシトシト降っている。 通り雨にはすがれない いっそ明日が来ないでほしい すがるこいさん涙にぬれて……。森進一の歌った曲を口ずさむ。銀座、赤坂、六本木、すすき野や中洲、キタの新地やミナミの女性たちが、お客さんが来なくて泣いている。行ってやりたいが、行くに行けない。禁酒法下の中にいる。すっかり甘党になって、深夜から朝まで映画を見ながら、頂き物のチョコや、甘納豆を楽しんでしまう。カラシの効いたところ天で気分転換をする。ステイホームの見本のような苛烈な映画がある。巨匠今井正監督、岩下志麻主演の「婉という女」だ。野間文芸賞を受賞した。高知県出身の女流作家大原富枝原作。(大正生れの作家で記念館がある)土佐藩の家老であった婉の亡き父は学識があり、先見の明が大であった。藩政を立て直すために、あらゆる手を打った。また学問の大事さを身をもって実践した思想家でもあった。政治の世界はできすぎる人間、やりすぎる人間をそのままにはしない。政敵は、婉の父が世を去ると、その優れた血筋を恐れ、四歳であった婉をはじめ、兄弟姉妹、老母たち一族を山の中に幽閉する。外出は一切禁止、外との交流も禁止、竹矢来の柵外には番をする者が見張る。やがて、三人の兄と一人の弟は狂死、病死する。男系の血がなくなり血筋が断たれた時、婉はやっと放免される。幽閉されること四十年、外に出た時は四十四歳となっていた。婉にとってただ一つの救いは、父の門下生であった、一人の学問の徒との文通であった。その一行、一行の中に男を知らぬ身は、男を感じた。二十六歳の時からそれは始まった。美しい婉は外界に出ると藩中の噂さとなったが、六十五歳でこの世を去るまで処女であり続けた。お歯黒もせず女であり続けた。掟が厳しいステイホーム四十年だったのだ。原作は文庫本三篇の中の一作166ページ、講談社から出ている。日本語を勉強するにはこの上なき名作である。(先日再読した)土佐には婉の父が遺した幾多の事業の足跡が今も生き続けている。人々はその上で生活をしている。(文中敬称略)