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2019年9月30日月曜日

「カレーパンとカフェラテ」

犯人が分かった。前回、小庭の池の中の金魚(鯉みたい)が食べられた。そのショックを書いた。その夜犯人を午前3時半頃、お隣のご夫婦が発見してくれた。金属の屋根の上で、何か爪をかく音がうるさい。何だろうと思い懐中電灯で使って照らすと、ギョ、ギョ、ギョ。両目を大きく見開いて光る目、立ち上がり両手で金魚をムシャムシャ食べている「アライグマ」がいたのだ。ビックリして懐中電灯をコイツめみたいに動かしても、まったく動じず食べつづけていたらしい。大変ご迷惑をおかけしたので私は事情を聞きに、おうかがいし、玄関先で、ご主人から詳しくご説明を受けた。「本当にいたんです。『アライグマ』が。もしかしたら、あと一匹いたかも」とご主人は言った。小さなアライグマは見た目はかわいいが、大きくなったものは、怒るともの凄く狂暴になるらしい(獰猛とも言う)。咬まれると狂犬病になることもあるとか。市役所の駆除係に電話をしたら、仕掛けの鉄系網の箱を取りに来るように。そこにアライグマの好む物を入れて入ったら、保健所が取りに行きますからと。十分に気をつけてください。きっとどこかの空き家とか、人家の屋根裏とかに住んでいて、夫婦、親子で移動する。夜行性なので明るいうちは行動しない。天敵がいないので全然物おじをしないとか。あのかわいい“ラスカルちゃん”(仕事ではお世話になっている)とどうしてもイメージが合致しない。ペットのうちはかわいいが、大きくなると手に負えない。人間も動物も同じだなと思った。今、私は大いに悩んでいる。一匹だけ生き残った金魚をどうするか(?) きっと、また来るからどこか川に放ってあげるか、どこかの池に入れてあげるか。大きな池を持っている“うなぎ屋さん”に頼むか、それとも一匹でさびしそうにしている姿を見て暮らすか、エサが3本残っているから、それをあげ終わったら行動するか、などと悩んでいる。9月25日午前3時半の惨劇は、かなり生々しいシーンだったようだ。9月25日は大先輩の告別式の日であった。敬愛していた人と。愛情を込めた生き物との別れの日だった。忘れ得ぬ日となった。ラグビーW杯で日本が世界ランク2位のアイルランドに勝った。私はライブで見ていたが、ニッポン、ニッポンと言うのだが、選手の半分ぐらいは屈強な外国人であった(日本国籍を持つ)。これが昔のように全員日本人だったら、どうなっていただろうと思った。日本はすでに移民の国である。東京駅9番10番ホームに“NEWDAYS”という店がある。3人のアルバイトさんがいる。左から女性(ヘ)さん、真ん中の女性(ヒ)さん。右に男性(カ)さんだった。3人ともに若い。しょっちゅうメンバーは変われるので、よく胸章の文字を見る。かつて「ア」「イ」「ウ」とか、「カ」「キ」「ク」とか「オ」「ナ」「ラ」さんというのもあった。テキパキと実によく働く。昨日午後1時から、平塚にある須賀公園球場に少年野球の試合を応援しに行った。アロハを着た私は少し異質だった。試合時間は70分と決まっている。ダブルヘッダーだった。須賀公園に来るとき、一級河川があった。金魚のケイコちゃんを、そこに放ってあげようと心に決めた。ラグビーW杯のせいで、世界陸上もプロ野球も全然盛り上がらない。織田裕二のあの裏返った声も聞こえない。日本のプロ野球を支えているのが、外国人ばかりなのが気になっている。ボールが飛びすぎてホームランの大量生産だ。関西電力では、原発誘致で大量のワイロを生んでいた。ワイロを保管していて、「返しました」と言う珍問答。これが通るのが日本である。少年野球にも厳しいルールがあるのに。一塁を守っていた少年が「お腹が痛い」と言った。選手交代かと思ったら、審判がトイレに行かせてあげた。その間試合は中断。そしてスッキリした少年が一塁に戻って試合は再開した。こんなオリジナルルールは気持ちいい。みんなで拍手した。「アンデルセン」で買ったカレーパンをアイスカフェラテを飲みながら食べ応援をした。気分が少し晴れたのは、少年の風だ。(文中敬称略)



2019年9月27日金曜日

「犯人は?」

朝6時25分、カーテンを開け、硝子戸開けて、さあ金魚ちゃん(と言っても体長20センチぐらいに成長して鯉みたい)にエサをと行動したら、ウギャと思った。沓脱ぎの細長い石の上に、頭部を食べられた金魚の姿。池をみると8匹いたはずの赤い金魚がいない。ずっと以前にも同じことが2度あった。犯人は分からなかった。7、8年前、平塚の七夕祭りの金魚すくいで子どもたちが持ち帰って来た。そのときは数センチであった。以来ずっと、愛情をかけて育てていたら、りっぱな鯉みたいになっていた。今年の夏の猛暑で12匹のうち4匹が死んでしまい、小庭の隅にお墓をつくってやった。オ〜イ! 起きろ、また金魚が消えたぞと、上の階で寝ている愚妻に言ったが、さしたる反応はなし。きっと熟睡していたのだ。以前、神隠しのように1匹残らず消えたときから、もう金魚はヤメテ、ブキミだからと言っていた。それ以来、池には太い竹で、水面の半分以上かくしていた。よく見ると、竹の上に金魚のウロコが生々しくへばりついている。右隅の方に水を流すところがあるのだが、そこにもウロコがあった。池の中をよく見ると1匹が生き残っていた。恐怖心が残っているのか、ジッとして動かない。チクショウかわいそうにと思いながら、再び上の階に向かって、「オ〜イ、小さなシャベルは」と大声を出すと、「何よ」などとネボケながら、物入れからシャベルを出して来た。「キモチ悪い。だから言ったじゃない」などと言った。私は池の側の土を掘り、頭のない金魚を手にして埋めてやり、2本のお線香を立てた。私は3時頃まで映画を見ていたので、それから6時の間の出来事だ。7時59分、庭師の人に電話した。「それはサギですよ、サギ」と言った。以前から犯人説はイロイロあった。鎌倉の故義兄はタヌキだと言った。長く通ってくれていた故庭師は、「サ、サ、サギですよ。ダンナ、サギはひと飲みですよ」と言った。立派な錦鯉を何匹も池の中に泳がせている、藤沢のうなぎ屋さん(うな平)のご主人も「サギですよ」と言った。確かに海の側なのでいくつか川があり、サギがたくさんいる。以前の時、「夜中に撮影する装置をつけましょう」と言われたが、「何が写し出されるかキモチ悪いからイヤ」と反対された。ご近所の人は、カラスとかハクビシン、トンビではとか、野良猫説を言った。「う〜ん、小さな庭にある3メートル程の池に、空からサギが飛んで来るか、鳥なら羽根ぐらい落ちているんじゃないの」と言った。羽根はまったくない。それに今度は食べ残しがある。飲み込んでない。ウロコがいっぱいある。赤い金魚全匹に名前をつけていた。「あ〜あ、チクショウ、そうだ物知りの鍼灸の先生に聞いてみよう」と思い電話した。先生は明快に、それは「アライグマですよ」と言った。「何! アライグマ(?)」。先生は言った。「鎌倉に住む私の患者さんの家では、錦鯉をパクパク食べられましたよ。防御用のネットを食いちぎって池の中に入って」「え! そうなの、アライグマなんているの」と聞けば、「この頃、異常繁殖して、市から駆除していいとの許可まで出ている」と言った。ペットとして飼っていたのを自然に帰してあげようと、鎌倉山あたりで起きたことが、すごい繁殖力を持つ、アライグマを大量に生み出し、それが藤沢、辻堂、茅ヶ崎、平塚と東海道線みたいに移動しているらしい。アライグマの資料を読むと、サギ、ハクビシン、タヌキ、猫、カラス、トンビなどの説より、いやにリアリティがあった。私が今の家に引っ越して来たときは、周辺は小さな山がたくさんあった。山の香りが残っているのだろうか。昨夜、帰宅して池を見ると、赤い金魚が1匹悲しそうに泳いでいた。日曜日、川に放流してやろうと思ったが、サギのエジキになるかとも思った。「夜中の撮影をするか」と言えば「キモチ悪い」と言う。傷心の私は思案に思案を重ねている。みなさんはこんな経験がありますか(?) アライグマを見たことありますか。金魚は鬼のようになって生きている。私の身代わりになってくれたのかもしれない。犯人は私の天敵である。アライグマには、天敵がいないらしい。
小庭の池


2019年9月26日木曜日

「小さなオルゴール」

♪ 遠き別れに 耐えかねて この高殿に のぼるかな 悲しむなかれ 我が友よ 旅の衣を ととのえよ ♪(惜別の唄) 人間は出会ったときから別れに向かって生きて行く。共に飲み、笑い、怒り、食し、愛し合い月日という目盛りを重ねる。人間の生涯で親友というべき人間が、一人でもつくられたなら、それはいい人生だと言う。それほど心を許し、信じ合い、助け合う。“親友”を得るのは難しい。先輩も同じである。生涯命をかけて付き合う先輩に出会うことも、親友と同じで難しい。幼年から少年になり、青年を経て大人になり、長じて年配者から老人になるまでに、一人、二人、三人と失望し、絶望して「サヨナラだけが人生だ」ということになる。これは人間に生まれた宿命である。私は親友を失い、そして先輩を失った。友は62歳、先輩は79歳であった。9月25日幼年時代から、可愛がってくれた中学時代の先輩を見送った。初代東急文化村社長「田中珍彦(ウズヒコ)」さんだ。野球部の先輩だったので、会えば直立してごあいさつをした。父はかの右翼玄洋社の「頭山満」の流れを持つ思想家であった。兄上は「武蔵野美術大学」を苦労して創設した人である。武蔵美の校史として、田中珍彦さんがインタビューに応えている別冊がある。長いもみあげと大きな声、誰よりオシャレなファッションセンス。ステキな生き方。音楽を愛し、オペラを愛した。生涯お金には無頓着であった。東急グループの総帥だった故五島昇さんから、“もみあげ”と呼ばれていた。石井好子事務所から、東急エージェンシーに途中入社、そして、東急文化村創設の役をまかされた。ある日電話があり、「オイ、赤坂のふぐ屋に来てくれ、頼みがある」「ハイ!」とばかりに夜、会った。そこで文化村のプランを聞き、ポスターやらカタログや蜷川幸雄さんを起用した全面広告などをまかせてくれた。柿落に門外不出と言われたワーグナーのバイロイト祝祭楽団、総勢約240名を飛行機数便に分けて、日本に呼んでしまった。世界的奇跡の事だった。詳しくは、伝説の編集長「小黒一三」さんが経営する「木楽舎」発行の「珍しい日記」をぜひ読んでいただきたい。快男児の躍動と男のロマンが見えるはずだ。この場を借りて小黒一三さんと編集者の方に心より御礼申し上げる。告別式の出棺のとき、小さなオルゴールを回しながら、一人の女性が美しい歌声で先輩を送ってくれた。生涯の大親友だと言っていた歌手の「森山良子」さんだった。私の心の中に底なしの井戸のような穴が空いている。



2019年9月24日火曜日

「内臓のような雲」

秋分の日。晴天午後5時頃、強風の中、近所の海岸に出る。暗雲、黒雲とあかね雲が混在する。砂が目に入るので、海辺までは出なかった。荒々しい波の中、サーファーが何人かいた。自転車か50ccのバイクで来ているサーファーは地元の人間だ。男はともかく女性サーファーは体の灼け方が美しくない。特に細身の女性は“ゴボウ”のようだ。近所のセブンイレブンの駐車場の片隅にある、水道を使って体を洗っていた。男二人、女性一人。男は60歳前後、上半身は裸である。美しくない。女性はウェットスーツの肩の部分を外していた。側に3軒サーフショップがある。潮と塩で焼いた肌は、小麦色でなく、お味噌色だ。朝、久々に少年野球を応援に行った。試合時間は70分で、3回で終わり、7対6で応援するチームが勝った。ギョーザがおいしいので有名な店、ジャンボのご主人が息子さんの応援に来ていた。ご主人は甲子園球児であった。コンニチワ、イヤー、コンニチワと言葉を交わす。無気力で目に輝きがなく、努力せず、ヤル気を出さず、なんとか楽して人生をと思っている。ヒマを持て余している、定年後の人々。定番のように図書館通いの人が多い。海岸でバンカーショットの練習をしている人々を見ると、ゴルフをする資格なしと思うほど、ビンボーたらしい。一個50円ぐらいで買ったロストボールで練習している。私は傷心であった。少年の頃よりもっとも敬愛する、カッコイイ大先輩が19日亡くなった。ご家族の意志で名は伏す。強風の中、妙に美術的でグロテスクな雲は、人間の体を切り刻んだときの内臓のようであった。グニョグニョとしていて、何種類かの血の色であった。夕陽がそれと共に沈んでいく。先輩の内臓もきっとこんなかんじになっていたのだろうと思った。いかなる美男美女も、“九相図”のように、目玉はなくなりやがて皮も肉も、鼻も内臓もなくなり、骨だけになる。顔はドクロとなる。人生とはそのドクロになるための月日のことである。無常と言うのだが「死は一睡の夢」である。私は無常観が好きである。どんな偉い人や、凄い人や、良い人や悪い人も、ドクロになった顔を想像する。海から生まれて、土になる。骸骨になる。先輩、いつか私も行くから、あの世とやらでまた先輩の大好きな“うなぎ”を食べましょうと、海に向かって行った。ずっと思っている二人を道連れにしてやりたい、裏切り者と恩知らずのヤローがいる。黒くて、赤い雲の中その顔が目に浮かんだ。チンケなヤローだが、私は許せない。二人とも金に汚い奴だ。荒々しい海は人間の心も荒々しくする。山に登ると人を赦したくなる。なぜだろうか。大きな黒いカラスが何羽もいて、海岸に打ち上げられた乾いた魚を突っついている。少年たちが必死に転がるボールを追っている姿に、先輩と野球をやった日がたくさん思い出された。この人ほどかっこいい人生を送った人はいない。私はこれから鬼になり、仏となって人生の落とし前をつけて行かねばならない。人間は一人で生まれて、一人で終わる。誰もが逃れられない、掟である。いつものグラスにスコッチを入れ、ドライフルーツを食べながら別れに涙した。外はすっかり明るくなっていた。
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2019年9月20日金曜日

「斬と明太子」

ある軍事評論家がこんなことを言っていた。同じ人数、同じ武器で闘ったら、世界で一番強いのは日本人(日本兵)だろう。次に死を恐れぬ韓国人兵。個人の殺傷能力は北朝鮮兵だ。日常的に刀を腰に差して歩いていたのは日本の武士たちだ。欧米人はサーベルや銃を持って歩いていた。刀と刀が触れただけで、殺し合ったのは日本人ぐらいだろう。つまり日本人ほど「血」を好む人種は、どこかの奥地で生き続けている、ヒトたちぐらいしか比べようがない。生麦事件というのがある。島津久光一行の行列に英国人がシカトをして通った。綱淵謙錠著作の「乱」によると、その斬劇はすさまじい。当時日本人の標準的体型は、150〜160センチほどだ。その武士が持つ刀は長くてヒジョーに重い。相当に鍛錬していない、ほとんど大地を切ったり、自らの足を切ってしまう。一人でバッタバタと斬れるものではない。人をブッタ斬ると、内臓は飛び出し、血は吹き出る。骨は露出し、その激痛のために屈強な武士も、のたうち回って血の海の中で死ぬ。近代戦争も戦国時代と同じで、日本兵が白兵戦で刀だけを持ち突撃すると、相手はその狂気と残忍さに恐怖を受けつけられた。やがて、それが特攻隊の自爆攻撃となった。欧米軍は「LIVE→生きろ」が命令であり、日本軍の生きて帰るな「死ね」とは、宗教感がまったく違う。我々日本人の中に、実は、狂気のDNA、人殺しのDNAが脈々と生きている。渋谷のセンター街でナンパばっかりしている若者も、いざとなれば一変して人殺し集団となるDNAを持っている。昨日深夜、塚本晋也監督の、カンヌへの出品作(受賞は逃した)「斬、(ざん、)」という映画を見た。ずっとレンタル開始を待っていた。80分の作品であり、塚本晋也は主演を兼ねている。他に池松壮亮と蒼井優他、綱淵謙錠の名作の「斬」は首切り浅右衛門の話であった。日本最後の首切り刑は「高橋お伝」であり、その死体の標本は東大の医学部にある。そう書いてあった。山田浅右衛門一族は、首切りの功として、死体の肝臓を手に入れることを許され、それを薬剤として売って財を成した。「斬、(ざん、)」の時代考証、美術、衣装はリアリティがある。よく時代劇にキラキラ美しいサムライが出るが、そんなことはありえない。みんな薄汚れていただろう。クリーニングのない時代に、相当位の高い人間以外はありえない。「斬、(ざん、)」はリアリズムを徹底的に追求していた。映画の主題が何であったかが、不明快であったのが残念だ。北辰一刀流の使い手、汚れに汚れた剣の達人を塚本晋也はよく演じていた。池松壮亮と蒼井優はやはりいい役者だ。南海キャンディーズのピンクメガネの山里が、蒼井優を抱いている姿をイメージしたが、上手に浮かばなかった(ホントかしらと思った)。情の深い女を演じたら、蒼井優はNO1だろう。室町時代の頃は武士と言われず“悪党”と言われた。日本人に武器を持たせたら極めてマズイ。防衛大臣が変人というのは、不幸中の不幸である。ほぼ自腹で映画を製作する。映画界の根性者、塚本晋也監督に、いつものグラスで乾杯した。昼間あまりいい日ではなかった。深夜、酒のつまみを明太子を少し焼いたのにした。それと焼き海苔。現在一日一合、水割り一杯か二杯を心がけている。人生は“斬”と同じで実に痛いものである。
(文中敬称略)


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2019年9月19日木曜日

「付け焼き刃」

ブルーシートと言えば、雨、風をしのぐホームレスの人の家の色であった。今、千葉県で台風15号の被害にあった家々の屋根の上に、ブルーシートが張られている。あるいは、張るために落下死したり、張るための大工さんや、職人さんたちの不足で、ブルーシートが張ることができない。何でもお金さえあれば手に入る時代、スーパー、コンビニには捨てるほど、あらゆる品々がある時代。インターネットやスマホや携帯で何でも情報が入り、何でもすぐに宅配してくれる時代。ところが、何でもある時代は、実は何もない時代であることを証明する。地震や台風、洪水、火山は「災害列島」日本の宿命である。日本の歴史は災害の歴史でもある。だがしかし、日本国はイツマデモいつまでも、行政は予想外、学者たちは想定外、たて割り行政の責任のなすり合いだ。この日本国で大事な行政は、「防災省」を作ることであり、この大臣は総理大臣より強い決定権を、災害に対して持たせるべきだ。学者たちは研究、分析すれど何の責任を負うことはない。無責任者たち。自分の考えを言うだけだ。オレこそ正しいと。島国日本は電気と水と食料というインフラを失ったら何もできない。原発事故がもし、あと2、3起こったらアウトとなる。原油が輸入できなくなったら1年も持たずアウトとなる。「付け焼き刃」。すでに付け焼き刃がこの国の施政である。裏情報の収集や官庁人事ばかりやっている。闇の組織化した官邸は、問題が起きても他人事で“それは当たりません”“それは各省庁に指示を出しています”というワンパターンしか言わない。つまり自分たちの権力争いのほうが大事であって、台風が来ると分かっていても、ゴルフやフィットネスや閣僚人事を練るほうに時間を使う。災害などには気が回らないのだ。為政とは「治山治水」である。先進国で子どもへの教育予算比は最下位、東京大学は世界ランクでは40位前後、中国、シンガポールなどの下のまた、下である。個性ある才能をのばすことをせず、何事も過去問題がベースだからだ。何度も私は言いたい。日本国は幼少より始め、小・中・高と「防災」を必須科目にすべきなのだ。先人達の知恵を結集し、一家に一つ自家発電装置や、給水&給食のストック装置を持つべきなのだ。学問は使ってこそ学術だ。太陽光パネルの普及は義務づけ、予算をつけるのだ。原発のテロにあったら即ジ・エンドの国、大パニックとなる国なのだ。久々にパンが食べれてウレシイ、水が飲めてウレシイ、おにぎり食べれてウレシイ、仮設の風呂でも入れてウレシイと涙を流す人々。これが来年オリンピックを迎える「お・も・て・な・し」の国の現状だ。おもてなし→表なし、だが実情は、おもてなし→表なし→裏ばかり国家なのだ。小泉進次郎議員などはその代表で、すでに言うことがアヤフヤ、モグモグとなっている。閣外にいた姿はもう変形している。オール電化だ、SNS社会だ、IoT社会だと言っても、エネルギーがあり、電気、水道があっての話だ。ブルーシートを張るのは、非常に危険で難しい。日本は職人の国であった。大工さんの国であった。工事人夫さんの国であった。港湾労働者の国であった。農業、林業、漁業、第一次産業を復活させねばならない。国をあげて防災を学び、国をあげて職人さんたちを手厚く守らなければならないのだ。島国は国境線がない。それ故、呑気な政治がまかり通り、“防災を履き違えて”改憲再軍備だなどと言っている。この国に必要な政治は、バルカン、八方美人でいいのだ。政党間の垣根を外して、これからも、いくらでもある大災害に備えなければならない。近いうちに東海や大東京に大地震が来るのは間違いない。みんなで考えよう。自助、共助、公助について。
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2019年9月18日水曜日

「孫さんと、損」

大借金王は果たして大経営者か(?) ソフトバンクグループは金融機関から有利子負債約13兆円以上もの借金をしている。利子だけで年間1兆円近く支払っていることになる。通信事業だけではとても株価の維持ができず、時価総額が下がってヤバイ。そこでアッチコッチを買収したり、M&Aを繰り返している。地球という大きな車輪を持った、大自転車操業グループで、今ではファンド会社になっている。借金は小さくするな、でっかくしろの格言通りを実行している。大きければ大きいほど銀行は返せ返せと言えない。万が一のことが起きたら、金融機関がブッ飛んでしまうからだ。30年ほど前、日本に携帯電話社会の推進をさせた。博士&経営者の方と親しくさせてもらい始めた。そのとき、「オレは天才だが、このオレがかなわない大天才がいるんだ。そいつは何百年先の文明社会が見えているんだ」と言った。誰ですか(?) と聞けば、それは「孫 正義」と言う。これからの日本をリードするはずだ。ZOZOTOWN(ゾゾタウン)の創業者・前澤友作が、突然会社のトップを退社した。目に涙をため、ハンカチでそれはぬぐっているとき、ステージに孫 正義が現われた。ニッカニカ笑いながら、「前澤坊やキミのつくった、2000〜3000億円の借金なんて、私から見れば端数みたいなものだ。キミが生んだ若者たちルートの部分が欲しいので、イタダクよ。後はかわいい彼女と、仲良く宇宙へでも行くトレーニングとやらに精を出しな、ワッハハハハ」。前澤氏は株の売却益2400億を手にするとマスコミが書いていたが、実はバスキアの絵など集めた現代絵画など、他の財産はすべて金融機関の担保、また、借入金の保証人。新居の工事もストップとなる。孫 正義から見ると、前澤友作は赤子同然であった。だからもっと大借金をしとけばよかったのだが、担保力がなかった。また、孫 正義のような悪運がなかったのだ。ただし、天はジッと指をくわえて悪運の人間を見ている訳ではない。きっと、あっとオドロクような結末を用意しているのだろう。身の毛のよだつ、ゾゾッとするシナリオを。私が「短編映画のいいシナリオがあるんだ。ちょっと300
〜500万円融資しろよ」と言えば、「ヘヘヘ、スミマセン担保を出してください」と信金の人間が言った。そんなモンある訳はないのだ。絶対、カンヌの賞をとれる自信があるのだが。孫 正義は映画に出資したりは、ほとんどしない。なぜなら、必ず「損」をするからだ。嫌な金もうけ好きのオッサンだ。アメリカの大投資家の死亡記事があった。いかなる財産を持っていても「命」は買えない。孫 正義にもいずれその日が来る。映画にバンバン出資すれば、寿命は伸びるだろう。千葉では電気を失った文明がいかに無力化するかを証明している。孫さん、太陽光パネルへの熱意失わないでくださいよ。(文中敬称略)

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2019年9月17日火曜日

「平等の色々」

英南部オックスフォード近郊のブレナム官殿で、美術品として特別展示していた「黄金の便器」が盗まれた。66歳の男が事件に関与したとして逮捕された。が、イタリアの現代アーチストが制作した18金製、作品名「アメリカ」、約5億4000万円以上の価値があるというが見つかっていない。貧富格差をテーマとして、用を足すのに財力は関係ない、とのメッセージが込められていた。9月12日から10月27日の期間中、来場者が使用できるようになっていたという(9月16日 読売新聞より抜粋)。私は以前、茅ヶ崎の知人ご夫婦が経営していた不動産屋さんのポスターを制作してあげたときのキャッチフレーズを思い出した。それはどんな大金持ちの“ウンコの色”と、どんなビンボー学生の“ウンコの色”も変わりはない。背伸びせず、身の丈にあった物件選びをと。短くキャッチフレーズ化した。「金持ちのウンコは金色ではない」。ご夫婦はポスターを見て、キャッとオドロキ、2、3日貼って、やめた。皇帝ナポレオンの色と、ロスチャイルド家やロックフェラー家の人々の色と、金髪のドナルド・トランプの色と、我らと違いはない(濃い薄いとか、固いやわらかいの差はある)。先日、イングランド女王と、スコットランド女王の確執をめぐる映画を見ていたとき、王妃がトイレに行きたくなる。しかしやたらに服の下に服、その服の下にガッチリ固められたコルセットやガードル。玉ねぎの皮をはぐみたいに従女たちが急いで脱がすというより、はがしていく。早くせよ! 早くして、おねがい早く! となった。やがて女王二人の内一人は断頭台で首を切り落とされる。別にトイレのせいではない。権力闘争のせいである。大金持ちも、我らビンボー人も、腹の調子で「軟便は何便も出る」。私は思う。「ウンコ」は平等だとの精神を、全世界の人々が持てば、世界は平和になる。日本の戦国時代、“早メシ、早グソ、武士のたしなみ”と言われた。戦場でゆっくりと用を足したりしていれば、首を切り取られてしまうからだ。サラリーマン社会では、トイレの長い人間は出世をしないと言われる。ケツの軽い人間はダメだが、マンガの本かなんか持って、ずっと出て来ないケツの重いのはダメ。ヤルべきことはさっさとヤル人間が求められる。トイレ内でスマホでゲームをやったり、メールのやり取りをしたりしているに間に、人事異動で飛ばされてしまうだろう。そのとき、クソッ! と怒っても自業自得となる。連休の間、秋葉原からつくばまで行ったり来たりした。イベントの取材と撮影であった。つくばエクスプレスでつくば駅に着き、小用のためトイレに行くと、壁に貼り紙がしてあった。そこには“禁煙” “禁スマホ” “禁食事”と大きく書いてあった。聞けば、学生たちがトイレ内で、この三つをするからとのことであった。トイレ内で食事をする奴はどんな学生だろうか。そうそう、もう一つ小さく書いてあった。“変な落書きをしないでください”。この文字はどうも学生が書いたような文字だった。休み中によく働いたので、きっと「運」が回ってくるだろう。ちなみに盗まれた「黄金の便器」は、米ニューヨークのグッデンハイム美術館の所蔵である。もう溶かされて、金の延べ棒や、金の首輪になっているかも知れない。少し金の臭いがついているので(?)、すぐ足がつくはずだ。運のつきと言う。



2019年9月13日金曜日

「行合い雲」

だだっ広く青い空、下のほうに真夏の入道雲がニョキニョキ、モクモクと白く立ち上がり、そのずっとずっと上のほうには形を成さない雲がキレギレとある。行合い雲と言う。夏と秋が不倫の男女のように別れては会う。入道雲はまるで若者のいきりたつシンボルのようであり、ちぎれた雲はもう少しで女性でなくなる年頃のこころの動きのようである。会ってはならない、してはならない雲の道である。私は今の季節から初冬にかけての海岸が好きで、時々海岸を歩く。引いても、引いても大したものが入らない、地引網の船が陸揚げされている。風に向かってトンボがたくさん空中に止まっている。台風一過の海岸には汚れた物や、流木やいろんな貝殻が流れついている。ペットボトル、空き缶、ビニール袋、プラスチックの品々、だらしなく伸び切ったコンドーム。死んで乾いた魚、カラスの群れ。釣り人が二人いてその遠くに烏帽子岩。その遠くに大山連峰が黒々とあり、血の色をした夕陽がそこに沈んでいく。右に目を向けると、血色の中に黒富士が美しい。圧倒的に美しいのはこの黒富士だ。いかなる絵描きも真似は描けても、自然の色にはまったく及ばない。私は自然をそのまま描いて、大家と言われている人を認めない。それは芸術ではなく技術だからだ。愛と憎悪、生と破がない。ただ自然を描いて、自然を犯している方は認める。例えば片岡球子さんだ。この人は50代になるまで画壇で認められなかった。あまりにというか、途方もない才能に、保守的ボスたちが逃げて回ったのだ。上野の森は美術展の季節だ。有能な若い才能が、ボスたちによって名作をただのゴミにされてしまう。ヒマを持て余した老人たちが上野の森に集まるが、絵とは何たるものかを分かっている人はほぼいない。マア富士山がキレイとか、ナンテ富士山にソックリなのとか。アライヤダこの富士山はなんでゴツゴツしているのとか言って混雑する。大自然の色をもっとしっかり見ようと思うのが、私にはこの季節だ。貝殻にへばりついた伸び切ったコンドームに、短編映画への創作意欲がフツフツと沸く。これを使った男女は、行合い雲のような関係だったのではないかと。夕焼けに勝る赤は誰も描けない。



2019年9月12日木曜日

「なぜか寒い」

「今は黙して行かん 何を又語るべき」。昨日深夜の新大臣たちの記者会見、今朝のテレビの各局のMCたちの低レベル。小林旭のヒット曲「北帰行」の心境である。遠くから軍歌が聞こえてくる。みなさん、この国の未来を考える週末にしてください。右もよし、左もよし、まん中もよし、ノンポリもよし、いっそ何も考えざるもよし。思想は“今は”自由だから。「寒いこころ寒い 哀しみ本線 日本海」という。森昌子の名曲を朝日を浴びながら口ずさんでいる。

2019年9月11日水曜日

「晴れの国で、ママカリ」

私は原始生活に憧れて来た。文明の進化に対して心よく思って来なかった。何故か(?)人間が人間でなくなってしまうからだ。誰かが何のために創ったか分からない人間という生き物は、果てしなき無尽蔵の才能を生む。現代社会においては、誰もが迎える「死」をまぬがれる以外のほぼすべてを、コンピューターや人工知能AIや遺伝子学がやってくれる。いずれは「死」を迎えたくても、薬一錠、注射一本、放射線のようなものを一瞬浴びせただけで、「死」ぬことはなくなる時代になる。人間社会は四苦八苦の世界だが、いつかは極楽へ行けるという、唯一の「楽」がなくなってしまう。もちろん、私のような人間には地獄が待っている。もうこれ以上、進化しなくてもいいよというくらいになった文明社会も、大自然の猛烈なパワーの前では、まったく無力化する。停電となれば、何もかもが機能しない。大洪水、そして大地震となれば、一本のマッチ、一本のローソク、一本の懐中電灯、一個のパン、一個のおにぎりのありがたさが分かる。私がこの歳になって今、考えている人生のコンセプトは、若かれし頃に一度提案し、拒否された言葉、「人間は、人間に帰ろう」である。もっと原始に戻って行こう。24時間明るい電気がついている街をやめよう。オール電化の家など停電したら、死ぬほど不便な状態になる。飛行機は飛ばず、列車は動かず、テレビもラジオも使えず、パソコンやSNSも使えなくなる。ピースジャパン、ピースワールド、ピースコスモスには、文明進化はいらない。太陽の光りと、日の明かり、星空の輝さえあればいいのだ。私の故里岡山、倉敷に行って来た。台風15号の影響でダイヤは乱れて、とんでもなく時間がかかった。でも久々に倉敷美観区入り口近くの、瀬戸内魚料理の店「浜吉」は、旨かった。同行のカメラマンの友人に、はじめて名物の「ママカリ」をすすめた。酢漬けと照り焼き、コハダほどの大きさだが、私は何より好きだ。シャコ、エビ、イカ、平貝、穴子、タコ、サワラ、それにホタルイカ、みんな旨かった。それに安い。店内は当然のごとく満員であった。ぶっかけうどんの名店を次の日探したが、まだオープン前だった。倉敷美観区を代表する林源十郎商店の熱血社長、辻信行さんが車で、アチコチ案内してくれた。真庭市でコンサートを終えて来てくれた。歌手の女性をマネージメントをしている人も一緒だった。以前、私の所にいた女性アートディレクターが無事第二子出産、その御祝いもかねていた。まだ2ヵ月弱。今は岡山で仕事をしている。名前がなんと「虎和」君、正しくは「トワ」ちゃんというらしい。岡山生まれのご主人が熱狂的虎キチ(タイガースファン)であった。辻社長は幸い私が持っていた、新作のジャムのポスターをみなさんと大感激してくれた。パリシャンゼリーゼ通りでも通用する斬新なデザインをした。ADの青木美穂さんが期待に応えてくれた。次は甘酒のポスターに挑戦する。久々の晴れの国、岡山は正に大快晴であった。帰路、小泉進次郎の入閣を知った。石破茂支持者だった。今回、石破派は完全に干されて、アジの開きにされた。小泉進次郎を取り込んで、これからの2年では、難しいという憲法改正のために、4選の手を打った。小泉進次郎は口舌の徒。いかようにも行動を変えるだろう。衆議院選挙がぐっと近づいた。必ずやるはずだ。そして、その後最大派閥のボスとなる安倍晋三は、総理大臣を辞めた後もずっとずっとキングメーカーとなる。さて、ユダは誰か(?) ブルータスは誰か(?) 裏切り者はすぐ側にいる。屈折した野心と共に。金と権力は一度手にしたら離せない。まったく非原始的社会にうんざりとする。が、これが人間社会なのだろう。小泉進次郎の次は橋下徹vs山本太郎がニュースを騒がすだろう。
                               (文中敬称略)



2019年9月6日金曜日

「おいしいことは、たのしい人と」

昨日午後2時〜5時、あっという間の楽しい時間を楽しんだ。私が国宝といっている、天才葛西薫さん。名門サン・アドに長く勤める、もと私のところにいた美女二人。ところは中野駅北口大アーケードの主流からちょいと外れた路地裏。店の名は「第二力酒蔵」、なぜ2時からと思ったら、店は2時オープンだった。世界的グラフィックデザイナー葛西薫さんは、北海道出身で魚の善し悪しに目が効く。この店がまるで札幌の市場がそのまま移動してきて、広々とした店を構えているが如く、メニューは超のつく新鮮魚類図鑑であった。イカ、平貝、カワハギ、サバ、白身魚たちの盛り合わせ、絶品のキンキの煮つけ。ずっとむかし話、ちょっとむかし話。最近の話、直近の話、内緒の話は、アノネノネなど、あっという間に3時間、ソロソロ次のお客さんがと、店の人に言われなければ終わりなき、おいしい、たのしい、うれしい時間であった。当然、お金にまつわる下世話な話は一切なし。私は葛西薫さんを国宝と言っている。人格、見識、明朗、才能の宝庫だ。私の敬愛する神の申し子「仲畑貴志」氏との、サン・アド時代のサントリー、ソニーの名作の数々、その後も日本の広告史を二人で創った。二人は今も光り輝く作品を世に出している。サントリーが生んだ、サン・アドという会社の功績の大きさは計り知れない。私たちの業界もSNS社会の台頭により、すっかりしょげかえっている。だが、生活の糧、今日のパン、明日のパンのために、働かねばならない。広告主の担当はゲーム世代なので、エモーショナルな広告を好まない。つまり感情の広告を必要としない。でも私はあきらめない。きっと言葉の時代、メッセージの時代、叙情的世界の広告の時代が来ると信じている。若い人材たちの感性で。そして、香港の若者たちのような、怒りが噴出する時代が来る。そのとき、必要なのがメッセージ広告である。広告は社会の鏡と言う。久々4人でたっぷり「北の味」を食した。「キンキ」はやっぱり北海道がいちばんだ。数日前、天才中野裕之監督と昼食をともにした。天才は東京の離島を撮影しに行くとか、まずは青ヶ島、ライフスタイルデザイナー山藤陽子さんと三人であった。山藤さんは全身黒のファッション、すき透るような美しい女性。才能あふれる人たちと会うと、私の闘志に火がつくのだ。水曜日まで400字のリングは休筆となる。みなさん、いい週末を。私はいろんな天才に会いに行く。
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2019年9月5日木曜日

「クジャック&マムシとマングース」

9月5日早朝、ニュースを見ると、イギリスの国会で、ガンガン議論をしていました。我が国の国会議員がコソコソと野党から、自民党に移って行くのと違って、議場で議員がEU離脱反対の意志として、その場で相手陣営に移動するという分かりやすい行動をした。かつての海賊国家、植民地政策国家も、国家の損得となると談論風発、熱烈議論となる。イギリスは我が国の議会制民主主義の先生である。生徒の我が国は相手の傷を見つけると、ひたすらそれのみの追求に終始する。その間に国民にとって最重要政策は官僚たちによって楽々と進み、強行採決となる。マイクを握る委員長、そこにオレ・ワタシは、テレビに写っているとばかりに絶叫し委員長席に殺到する。が、顔はしっかりテレビに向かっている。つまりは茶番である。世界史上、イギリス、フランスほど戦争ビジネスを支配して来た国はない。マッチポンプである。9月4日の日経新聞に、「クジャク繁殖に困惑」「宮古島、台風で逃げ出す」「絶滅危惧種・農業に被害」と大きな見出しがあった。小さな頃はじめてクジャクを見たとき、その美しさに立ちつくした。まさかその美しいクジャクが猟友会の人たちの散弾銃でバンバン殺されているとは。宮古島には天敵のトラやヒョウがいないので、異常繁殖して今では2000羽ぐらいがいて、農業被害が酷いことになっているのだとか。奄美大島ではハブ被害を防ぐために、マングースを持ち込んだら、あらよ、あらよという間に1万匹近くなり、生態系を壊してしまい、あわてて殺しまくって現状は50匹以下になったとか。話を国会に戻すと、近日中に内閣改造がある。官房長官留任、幹事長留任、財務大臣留任、政調会長留任という報道が流れている。内閣の外に出すとタメにならないので、閣内にとじ込んでおいて改憲を目指すのだろう。つまるところ長期政権において若い政治家が一人も育っていないことになり、リベラル派の台頭は許さないということなのだ。そのむかしこの国の国会も、マムシとマングースみたいな議論は行なわれていた。今の荒探し国会ではなかった。今は罪深きであり、情なきなかである。韓国の玉ネギ教授は、11時間インタビューに応じて恥の上塗りをしていた。この玉ネギを料理できないかと、韓国内は香港のようにデモの嵐となるだろう。我が国に不正を正すための国民のエネルギーはない。日々の生活とバラエティーな情報社会の中で、SNSだけが自己表現手段という陰湿社会なのだ。いい人材は登用しなければ国が滅びる。歴史がそれを証明している。出て来い、マムシとマングース。セクト主義でキレイごとぶった、野党クジャクは猛省せよ。逃げるように野党から与党に移った政治家は、消え去るべきだ。
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2019年9月4日水曜日

「赤いウィンナー」

対面(トイメン)同士の店。私の主な仕事場は銀座2丁目。この近辺で何度か引っ越したが、ほぼ50年銀座で芸を売っている。仕事場から京橋方面に歩いて3分ぐらいのところに名もなき小さな公園がある。その斜め前地下1Fに「銀つね」というかなりレトロな飲み屋がある。初老の夫婦、主人は社交ダンスをしているようだ。写真がべたべた貼ってある。店内にはいつも小林旭の名曲が流れている。古いスピーカー がある。常連たちが来る。私の仕事仲間はここが大好きだ。ご夫婦はとてもかんじがいい。主人は私の人相が悪いのでお酒を注いでくれるとき、ブルブルと手先が震える。冷奴、赤いウインナー炒め、厚揚げ豆腐、ヤキソバ、肉ヤサイ炒めなのが定番である。むかしながらの店好みにはたまらない。マイナーな店である。その店の対面(トイメン)にある年、ポツンと一軒のイタリアンレストランができた。昭和通りの一本裏で人通りは少ない。路地裏の角っこであった。こんなところにイタリアンなんかつくって、大丈夫かなと思った。オープン当時はガランガランで人が並ぶことなど見たことがなかった。ある年になると、朝8時、9時から人が集まり出した。店の前の木の椅子に女性たちが腰掛け、予約名を書いていた。オッ、オッ、オッ、何があったか。ある情報でとにかく旨い、安い、新しい。サイコーだと広がり「予約のとれない店No.1」となった。LA BETTOLA da Ochiai(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ)、「LA BETTOLA」はイタリア語で食堂というらしい。オーナーシェフが落合務さんであった。落合さんはママチャリによく乗って、店の近辺を走っていた。ステキなオジサンである。その落合さんの連載コラムがある新聞で始まった。昨日はその第2回。なんと落合さんの父親は6度結婚して、6度離婚していた。親に反発して、名門一貫校の高校を中退して料理人の道に進んだ。今は月の半分を後進の指導のために全国を回っているとか。一度コーヒーメーカーの仕事に出演を依頼に行ったが、そのときは「一社だけは、ダメナンダヨネ〜、ワカッテ、ゴメン」と言われた。落合さんは魚海岸や野菜市場に行き、半端ものや、形崩れしたものを安く仕入れて来て、絶品の料理にする。だから値段を高く設定しないのだ。だからお客さんが集まるのだ。「食堂だからネ、安くて旨くないと」がモットーなのだ。落合務さんが銀つねに行っているか分からない。対照的な二つの店の前を歩いて通ると、何だかうれしくなるのだ。「銀つねよ、がんばれ」と声をかける。「社交ダンスで優勝しろよ」と言う。以前行ったとき、私の好きな小林旭の曲がなかった。「ダメじゃないの」と言ったらブルブルッとした。銀座の一等地にたくさんの名のある店があるが、これはと思うお店は、高くて気どっていて、たいした味はしない。能書きの多いイタリアンが増えて、ワゴンにのせた料理をイチイチ詳しく説明する。一度「ウルセイ、食べれば分かるよ」と言ったら、シュンとした。今流行らしい。「銀つね」なんか、何も説明しない。メニューが豊富だから、一度ぜひ行ってやってほしい。一人1000円〜2000円で十分気持ちよくなる。小林旭の「さすらい」「北帰行」「純子」「昔の名前で出ています」、これを聞くとたまらない。年に二度ぐらい行くのだ。ラ・ベットラ・ダ・オチアイは、現在夏休み中。
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2019年9月3日火曜日

「表と裏」

コインに表と裏があるように、この世は表と裏でできている。人間という生き物を創ったのが誰かは分からない。ある学者は創造主と言う。ある学者はある奇跡の掛け算の結果と言う。ある学者はただの偶然の進化だという。この世に真実はあるかと言えば、間違いなくNOである。嘘のない人間もいなければ、嘘のない人生もない。この世は嘘という粘土でできている。雲に常形なく、水に常形がないように、ヒトの人生に常形はない。昨夜、相変わらず眠れぬ夜に映画を見た。原題は「THE WIFE」。日本語題は「天才作家の妻 40年目の真実」。時代設定はクリントン大統領時代、空には超高速ジェットコンコルドが飛んでいる。老夫婦(70〜75歳)がベッドの中にいる。妻は眠っているが、スケベジジイの夫は眠れない。腹が減ったと言い何か食べる。妻が起きて「糖分のとりすぎは体によくないわよ」と言う。夫はなんと妻に「SEXをしよう」と言う。老妻は「何言ってるの」と言う。そして老妻の体をいじる。「若い男に抱かれているのをイメージしろよ」と。そこに一本の電話が入る。なんとノーベル賞の選考委員の事務局からだ。「オメデトウございます。ノーベル文学賞に選ばれました」と。この映画はノーベル賞授賞式を見事に再現する。相当の予算がかかったはずだ(否パーティ会場のシーン以外は工夫して予算をかけていないかも)。映画はノーベル文学賞がいかにバカバカしく、イカサマに満ちているかを風刺的に描く。そもそも文学賞なんてものは最初はなかった。ストーリーは単純だ。作家夫婦はもとは大学の文学部教授とその教え子だった。教授は女性大好き人間だった。当然のように美しく才能ある教え子に手を出す。結婚をするが若い女性には目がなく、浮気ばかりする(そのシーンはない)。妻はジッと耐え忍ぶ。小説家としての才能は自分のほうがある。夫は自分の書いた小説を世に出す道具でしかない。ラストにあらん限りの言葉を使って夫をなじり倒す。一日8時間小説を書いた自分こそが受賞者だと言う。ノーベル文学賞を受賞すると、一人の伝記作家が現われ妻がゴーストライターであったことを暴いていく。結婚して40年ずっと秘密にしていた過去を探し出す。伝記作家は言う。「あなたは何であったのか」と。妻は言う。「私はキングメーカーよ」と言う。確か松本清張の本だったと思う。ある画壇のボスの絵はほとんどが弟子が描く。ボスは絵の最後の仕上げにチョンチョンと筆を入れるだけだ。そしてそれが日展の最高賞になる。すべてはボスたちの間で談合され、取り決められている。表彰式かなんかの会場で、「次はソロソロ入選させるか、キミの弟子を」と言って配分が決まる。今の世の中、日展に入選しても最高賞になってもニュースにもならない。読書はあまりしないが、夏休みの間に「文士と編集者」という本を読んだ。講談社の純文学専門雑誌「群像」の名物編集長であった「大久保房男」の著作である。創刊以来20年もの間、編集長をやっていたので日本の純文学史みたいな人物だ。この本は実に面白く、読み応えがあった。文士なんて言える小説家は現在いないが、明治、大正、昭和中期頃まではいたと言う。その表と裏の表情が読むと分かる。純文学とは徹底的に私小説でなければならない。ちなみに大久保房男氏が最後の文士と言ったのは、「高見順」であった。9月3日午前1時46分38秒、外では鈴虫が鳴いている。遠くで潮騒の音が立っている。台風がまた生まれたようだ。残暑がキツイ日がつづく。季節に表と裏はない。誤差だけはある。植物たちは着実に秋冬に向かっている。(文中敬称略)



2019年9月2日月曜日

「DOGMAN」

マッテオ・ガローネ監督。世界中の若手監督でこの人の影響を受けていない人はいないだろう。今をときめく監督たちの目標だ。カンヌ国際映画祭の常連である。大評判を読んだ「ゴモラ」の監督である。そのマッテオ・ガローネの新作「DOGMAN・ドッグマン」が上映開始となり、何をさておいてもヒューマントラスト渋谷に行った。金曜日の夜である。この監督の映画の舞台は、イタリアのナポリだ。映画の手法は徹底的にリアリティを追う(作品にナポリ市民を主人公にした“リアリティ”というのがある)。ナポリはイタリアの街。30年間に4000人が抗争によって殺された街である。3日に一人が殺されている。マフィアの名は“コッモラ”。ゴモラとは聖書の中に出てくる街の名。神の怒りを受け滅亡された街の名だ。このゴモラの主人公役を演じた役者は2018年カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞した。特別にパルム・ドッグ賞、さらにダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で最多9部門受賞。作品賞、監督賞、脚本賞、助演男優賞、撮影賞、美術賞、メイクアップ賞、編集賞、録音賞である。つまり映画として完璧であるということだ。薄暗いナポリの街の一角。二人の友人同士。一人はDOGMANという犬のトリマーショップを一人でやっている。世間に隠している仕事としてコカインの密売をしている。一人の友人がいる。この男はナポリの中で嫌われている悪業非道の暴れ者だ。ナヨナヨとした男とマッチョな男。コカイン欲しさにここまでやるかとトリマーの男を痛めつける。自分の身代わりとして1年の刑に服してくれたら大金をやると約束する。トリマーは1年服役して出所して来るが、待っていたのは以前に増した暴力であった。人間の感情の限度をこの映画は計る。人間の非暴力と暴力との境界を探す。弱いはずの人間が強い人間を退治すると決めたとき、その人間性を破壊させる。そこには地獄絵図のような世界が当然のように現れる。現代社会では極度の格差社会である。一部の富める者たちを相手に弱者が怒りを爆発させたらどうなるか。それを暗示させる。狂おしく、牙をむく犬、犬、犬。彼等はトリマーの言うことしか聞く耳はない。最後にトリマーが選んだ復讐とは。愛犬家の方々はぜひ観て欲しい。久々にものすごい映画であった。