♪ 遠き別れに 耐えかねて この高殿に のぼるかな 悲しむなかれ 我が友よ 旅の衣を ととのえよ ♪(惜別の唄) 人間は出会ったときから別れに向かって生きて行く。共に飲み、笑い、怒り、食し、愛し合い月日という目盛りを重ねる。人間の生涯で親友というべき人間が、一人でもつくられたなら、それはいい人生だと言う。それほど心を許し、信じ合い、助け合う。“親友”を得るのは難しい。先輩も同じである。生涯命をかけて付き合う先輩に出会うことも、親友と同じで難しい。幼年から少年になり、青年を経て大人になり、長じて年配者から老人になるまでに、一人、二人、三人と失望し、絶望して「サヨナラだけが人生だ」ということになる。これは人間に生まれた宿命である。私は親友を失い、そして先輩を失った。友は62歳、先輩は79歳であった。9月25日幼年時代から、可愛がってくれた中学時代の先輩を見送った。初代東急文化村社長「田中珍彦(ウズヒコ)」さんだ。野球部の先輩だったので、会えば直立してごあいさつをした。父はかの右翼玄洋社の「頭山満」の流れを持つ思想家であった。兄上は「武蔵野美術大学」を苦労して創設した人である。武蔵美の校史として、田中珍彦さんがインタビューに応えている別冊がある。長いもみあげと大きな声、誰よりオシャレなファッションセンス。ステキな生き方。音楽を愛し、オペラを愛した。生涯お金には無頓着であった。東急グループの総帥だった故五島昇さんから、“もみあげ”と呼ばれていた。石井好子事務所から、東急エージェンシーに途中入社、そして、東急文化村創設の役をまかされた。ある日電話があり、「オイ、赤坂のふぐ屋に来てくれ、頼みがある」「ハイ!」とばかりに夜、会った。そこで文化村のプランを聞き、ポスターやらカタログや蜷川幸雄さんを起用した全面広告などをまかせてくれた。柿落に門外不出と言われたワーグナーのバイロイト祝祭楽団、総勢約240名を飛行機数便に分けて、日本に呼んでしまった。世界的奇跡の事だった。詳しくは、伝説の編集長「小黒一三」さんが経営する「木楽舎」発行の「珍しい日記」をぜひ読んでいただきたい。快男児の躍動と男のロマンが見えるはずだ。この場を借りて小黒一三さんと編集者の方に心より御礼申し上げる。告別式の出棺のとき、小さなオルゴールを回しながら、一人の女性が美しい歌声で先輩を送ってくれた。生涯の大親友だと言っていた歌手の「森山良子」さんだった。私の心の中に底なしの井戸のような穴が空いている。
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