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2019年9月24日火曜日

「内臓のような雲」

秋分の日。晴天午後5時頃、強風の中、近所の海岸に出る。暗雲、黒雲とあかね雲が混在する。砂が目に入るので、海辺までは出なかった。荒々しい波の中、サーファーが何人かいた。自転車か50ccのバイクで来ているサーファーは地元の人間だ。男はともかく女性サーファーは体の灼け方が美しくない。特に細身の女性は“ゴボウ”のようだ。近所のセブンイレブンの駐車場の片隅にある、水道を使って体を洗っていた。男二人、女性一人。男は60歳前後、上半身は裸である。美しくない。女性はウェットスーツの肩の部分を外していた。側に3軒サーフショップがある。潮と塩で焼いた肌は、小麦色でなく、お味噌色だ。朝、久々に少年野球を応援に行った。試合時間は70分で、3回で終わり、7対6で応援するチームが勝った。ギョーザがおいしいので有名な店、ジャンボのご主人が息子さんの応援に来ていた。ご主人は甲子園球児であった。コンニチワ、イヤー、コンニチワと言葉を交わす。無気力で目に輝きがなく、努力せず、ヤル気を出さず、なんとか楽して人生をと思っている。ヒマを持て余している、定年後の人々。定番のように図書館通いの人が多い。海岸でバンカーショットの練習をしている人々を見ると、ゴルフをする資格なしと思うほど、ビンボーたらしい。一個50円ぐらいで買ったロストボールで練習している。私は傷心であった。少年の頃よりもっとも敬愛する、カッコイイ大先輩が19日亡くなった。ご家族の意志で名は伏す。強風の中、妙に美術的でグロテスクな雲は、人間の体を切り刻んだときの内臓のようであった。グニョグニョとしていて、何種類かの血の色であった。夕陽がそれと共に沈んでいく。先輩の内臓もきっとこんなかんじになっていたのだろうと思った。いかなる美男美女も、“九相図”のように、目玉はなくなりやがて皮も肉も、鼻も内臓もなくなり、骨だけになる。顔はドクロとなる。人生とはそのドクロになるための月日のことである。無常と言うのだが「死は一睡の夢」である。私は無常観が好きである。どんな偉い人や、凄い人や、良い人や悪い人も、ドクロになった顔を想像する。海から生まれて、土になる。骸骨になる。先輩、いつか私も行くから、あの世とやらでまた先輩の大好きな“うなぎ”を食べましょうと、海に向かって行った。ずっと思っている二人を道連れにしてやりたい、裏切り者と恩知らずのヤローがいる。黒くて、赤い雲の中その顔が目に浮かんだ。チンケなヤローだが、私は許せない。二人とも金に汚い奴だ。荒々しい海は人間の心も荒々しくする。山に登ると人を赦したくなる。なぜだろうか。大きな黒いカラスが何羽もいて、海岸に打ち上げられた乾いた魚を突っついている。少年たちが必死に転がるボールを追っている姿に、先輩と野球をやった日がたくさん思い出された。この人ほどかっこいい人生を送った人はいない。私はこれから鬼になり、仏となって人生の落とし前をつけて行かねばならない。人間は一人で生まれて、一人で終わる。誰もが逃れられない、掟である。いつものグラスにスコッチを入れ、ドライフルーツを食べながら別れに涙した。外はすっかり明るくなっていた。
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