だだっ広く青い空、下のほうに真夏の入道雲がニョキニョキ、モクモクと白く立ち上がり、そのずっとずっと上のほうには形を成さない雲がキレギレとある。行合い雲と言う。夏と秋が不倫の男女のように別れては会う。入道雲はまるで若者のいきりたつシンボルのようであり、ちぎれた雲はもう少しで女性でなくなる年頃のこころの動きのようである。会ってはならない、してはならない雲の道である。私は今の季節から初冬にかけての海岸が好きで、時々海岸を歩く。引いても、引いても大したものが入らない、地引網の船が陸揚げされている。風に向かってトンボがたくさん空中に止まっている。台風一過の海岸には汚れた物や、流木やいろんな貝殻が流れついている。ペットボトル、空き缶、ビニール袋、プラスチックの品々、だらしなく伸び切ったコンドーム。死んで乾いた魚、カラスの群れ。釣り人が二人いてその遠くに烏帽子岩。その遠くに大山連峰が黒々とあり、血の色をした夕陽がそこに沈んでいく。右に目を向けると、血色の中に黒富士が美しい。圧倒的に美しいのはこの黒富士だ。いかなる絵描きも真似は描けても、自然の色にはまったく及ばない。私は自然をそのまま描いて、大家と言われている人を認めない。それは芸術ではなく技術だからだ。愛と憎悪、生と破がない。ただ自然を描いて、自然を犯している方は認める。例えば片岡球子さんだ。この人は50代になるまで画壇で認められなかった。あまりにというか、途方もない才能に、保守的ボスたちが逃げて回ったのだ。上野の森は美術展の季節だ。有能な若い才能が、ボスたちによって名作をただのゴミにされてしまう。ヒマを持て余した老人たちが上野の森に集まるが、絵とは何たるものかを分かっている人はほぼいない。マア富士山がキレイとか、ナンテ富士山にソックリなのとか。アライヤダこの富士山はなんでゴツゴツしているのとか言って混雑する。大自然の色をもっとしっかり見ようと思うのが、私にはこの季節だ。貝殻にへばりついた伸び切ったコンドームに、短編映画への創作意欲がフツフツと沸く。これを使った男女は、行合い雲のような関係だったのではないかと。夕焼けに勝る赤は誰も描けない。
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