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2020年7月14日火曜日

第81話「私は淡淡」

私は「淡淡」である。アワアワではない。タンタンメンとも違う。「たんたん」である。辞書にあっさりとした様子、こだわらない様子とある。私淡淡には現在こんな日はない。世の中は、もうどうしようもないほど、混乱と騒乱を極めている。明日という字はあかるいひと書くのね、そんな歌があったが、今では次の日はあかるいと、胸ときめかすヒトビトは少ない。北の果てから南の先端まで、明日は重苦しくて、息苦しい。東京がもう一度ロックダウンしたら、我々芸を売る身はノックダウンとなる。私が欝の時、尊敬する大先輩(画家・作家・チーズ研究家)が、一枚の葉書をくれた。そこには、佐藤一斎の「言志四録」の中の一文があった。達筆である。「暗夜を憂うること勿れ、只一燈を頼め」とあった。只一燈が何かはいまだに分からない。お世話になっていた広告代理店の役員さんたちが、私の家まで押し寿司を持って来てくれた。トロイメライ(放果後に流れた曲)みたいになっていた私を見て、大丈夫、大丈夫と言って大声で笑った。その時の押し寿司は只一燈だった。又、同じ代理店の人で近所に住む二組のご夫婦が、江の島にある行きつけのお寿し屋さんの、美しい握り寿しをたくさん持って来てくれた。色彩やかな握り寿司一貫、一貫が只一燈に見えた。狭い所にもう一組お世話になっているご夫婦も来てくれた。トロイメライのような私は、スプーンが曲げられる念力がまだある、などと言って、いよいよトロイメライであった。(かつてみんなの前で二度曲げたことがある)ヨットマンのご夫婦と陶芸家のご夫婦。今は亡き佐賀出身の偉い人。その日、その時私には只一燈の方々であった。今もおつき合いをしていただいている。その恩は忘れない。私淡淡が何故このようなことを書いているかと言うと、淡淡があった日々を思い出したくて、一昨日の深夜、昨日の深夜、すでに何度か見ている世界的巨匠「小津安二郎」監督の作品を見た。「秋刀魚の味」が特によかった。小津作品はその日の気持ちで味が違う。父親がいて、(妻に先立たれた)年頃で嫁入り前の娘がいる。長男と嫁はアパート住まい(団地みたい)次男は学生で家にいる。娘が家事をしているのだが、父の友人たちは、酒を飲みながら、そろそろ嫁に出してやれよと言う。小津安二郎独特のローアングルの映像、一点透視画法の徹底的構図。その中でみなさん淡淡としている。大きな声もない。あくせくすることもない。ざわつく空気もない。淡淡を極める。人への愛情、友との友情、恩師への慕情が、淡淡、淡淡と描かれる。あ~こんな生活が、この国にはあったんだとため息をついた。だらしなくジメジメとした雨が降っていたが、私淡淡は、小津安二郎監督の作品に只一燈を見た。私淡淡はまだ、恩人たちに恩返しができていない。この国に淡淡とした日は、もう来ないのだろうか。 



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