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2015年8月28日金曜日

「林源十郎商店の価値」



林源十郎商店ホームページより
林源十郎商店の屋上から



絵に描いたような幸せはきっといかなる画家も描けることはできないだろう。

岡山↔京都を二日間かけて行って来た。いい人たちと何人も会えた。
皆夢を語り、明日への希望を語った。
目は澄み切った青空の様であり、全身から爽やかな風を感じた。

猛烈な速さで走る帰りの新幹線からずっと外を見た。
新聞と雑誌を読んでいたら、すっかりいい感じだった気分が悪くなった。
殆ど不快な記事ばかりだった。

窓の外は街から町へ、家、家、家、会社、会社、会社、商店、商店、商店、ビルまたビル。その中に、その下に、不平、不満、不安、不況、不義、不倫、不道徳、不足、不機嫌などが人の数だけある。「不の充満、不のマグマ」が満ち溢れている。
その中で「不法」と「無法」が大手を振っている。

この国はどこへ向かって走っているのだろうか。
毎度うんざりの維新の党が分裂、日本最大の暴力団山口組も分裂するとか、また血で血を流す抗争となるだろう。
自民党は今抗争する熱力もなくやがて来るであろう破裂に向かって進む。
徳川幕府の末期に近い風景画といえるだろう。

「不」のすべての要因は“人事”にあるという。
人事とは人の事、人の心が起こす事、人の欲が起こす事、人の習性が起こす事。
すべての出来事は性格の中にあると哲人はいった。

新幹線はそんなに急がなくてもいいよという速さで走り続けていた。
ずい分と日が短くなっているのを知った。それでも世の中にはいい人はいっぱいいる。
絵に描くことは出来ないが、字では書ける。

幸せを目指して行こう。やるべきこと、できることはやって行こう。
人生は一度しかないのだから。若者は希望に満ちていなければならない。


岡山県倉敷市に「林源十郎商店」というのがある。人間とはかくあるべしということが分かる。それは「薬屋」から始まり、地域の健康と福祉に奉仕した歴史であった。つまりCSR(企業の社会貢献)の原点である。

「山陽新聞」


松本清張の短編に「地方紙を買う女」というのがあった。
さしずめ昨日の私は「地方紙を買った男」であった。岡山県倉敷は私の母が生まれ育った地である。地方での楽しみといえば地方紙を隈なく読むことだ。中央紙にはない丹念な手づくり感というか、その地ならではのいろんな記事がある。

倉敷のビジネスホテル(と思う)の部屋に入りまずはテレビをつけると、いきなり若々しい舟木一夫が刀を振っている、と水戸黄門役の佐野浅夫があおい輝彦を従え“これが目に入らぬか”と登場した。

山陽新聞(夕刊)8月26日(水)を読み始める。一面はやはり株価大暴落。
6面文化エンタメ欄がよかった。「また逢う日まで」という映画タイトル。あのころ、映画があったというコラムだ(共同通信編集委員・立花珠樹さんの担当のようだ)。

この映画には有名なシーンがある。
“切ないガラス越しのキス”だ。クラシック好きで文学を愛する青年と母と二人暮らしの雑誌の挿絵画家。父は裁判官で兄は陸軍将校の帝大生のエリート青年、ほそぼそと生きる女性が空襲で退避する人混みの中で、偶然手が触れ合う。

二人は戦争を嫌う気持ちで共通している。当時はキスは神聖な行為であった。
召集令状を受け取った田島三郎(岡山英次)は、螢子(久我美子)とガラス越しに語り、ガラス越しにキスをする。

「僕たち今度会うとき、結婚しよう」
「今度って?」
「無事に帰ったとき」
「それまで、それまで私も生きていなくちゃね」


1937年日中戦争以降の戦死者は厚生労働省によると310万人。
本当はもっともっと多いはずだ。
原作は、ロマン・ロランが反戦を訴えた「ピエールとリュース」、監督は今井正、1950年の作であった。


ヤクザな人間はキスをすることを“ベラを噛む”などと極めてお下品な言葉でいう。
純愛などというものはあるのだろうか、現代社会ではSNSなどでベラを噛んでいる。
清純とか純愛は死語の世界に入っている。今日は京都へ向かう。京都新聞が楽しみだ。

2015年8月25日火曜日

「砲丸」



女子と男子の外見的区別はどこでするか、女子は男子よりか細く、腰がくびれ、お尻はかわいいヒップである。
最もの違いといえば乳房(オッパイとかボインという)がある。
だがこれらの違いを全く無視というか、破壊というか、基本的概念を根本的に変える女子たちを見た。

世界陸上女子砲丸投げ、凄いですね〜、怖いですね〜、ぶっ太いですね〜、まるで一体の巨本(100kg以上)が何キロあるか分からない、でっかい鉄の球をアゴの下に入れてザザザと半回転させ、ガァー、グァー、ゴリャー、ドリャー、オリャーと突き投げる。
鉄の玉は20メートル超えにドスンと落ちる。

むかし一度やったことがあるが思い切っても3メートル位であった。
どっちが前かは顔が前に向いている方が前だと思うが、それ以外はもう分かんない。
三段腹、五段腹なんてもんじゃない。
十五段腹がバッチリ固まったような腰、丸太のような腕、オッパイの形なんかは肉体と一体となっていて行方不明、首の太さなんかといえば、首と顔がくっついていて分かんない。

私の仕事仲間にお尻フェチが居て、でっかいのが大好きであるから砲丸投げが大好きである。たまんないすねぇ〜、なんていう。
ウオオオオーリャー、ダァーと叫ぶ声を聞くとお尻にかじりつきたくなるらしい。

日本の短距離選手を見たら、胴長、短足、お尻ペッタンコ、前面に見える体は洗濯板。
ダメダコリャーと思ったらやはりダメだった。
それでも年間1000万円の強化費を貰っているとか。

なぜかこの頃は腹を出して走るから、井戸べそ、出べそ、シジミベソがハッキリ分かる。私は基本的に日本女性の走る姿は好きでない(特に服を着ている時)見てガッカリするケースが多い。まして砲丸投げなんてオドロシイだけだ。

全身筋肉100120kgの肉体が好きな男とSEXするとどうなんのかなぁ〜と思いつつ見ていた。カメラがUPになり、よく見るとキレイなアイライン、ダイヤのピアス、ゴールドのネックレス、10色のネイル、ピンクとオレンジの小さなヘアリボン、グロウするルージュの口紅の女の子であった。
グギャー、ヤッタァーと一目散にスタンド前列にいた彼氏とストロングハグ。
バリバリボキボキと彼氏の骨が折れた音が聞こえた気がした。
城卓矢の名曲「骨まで愛して」を思い出した。

ある哲人の言葉をノートから探しだした。
現代人より未開人の方がはるかに精神的に豊かだった。文明は罪の上に築かれた。
私は思うオリンピックは、砲丸投げ、槍投げ、円盤投げ、走り高跳び、走り幅跳び、1500メートル走、110メートルハードル走、100メートル走、400メートル走、棒高跳び、それとレスリング、マラソン、これ位でいいんじゃないのと。
会場はギリシャでやる。その他は各世界大会でいい。
より速く、より強く、より遠くへだ。



「日本人は分かんない」



筋肉がねえ、下を向いてつくようなDNAなんですよ、農耕民族だから田植えをする、畑を耕す。クワやシャベルを使って土を掘る。種をまく、野菜を取ったり、稲や麦を刈り取る。しゃがむ、座る。

縄文弥生時代からずっと日本人の筋肉は下向き作業に向いているように発達した。
だから狩猟民族のように空や木の上を見る、遠くにいる獲物を見つけて走る、飛ぶ、投げる。その筋肉とはまったく違う。
と一人のスポーツインストラクターがいった。

胴長で足が短いのもそのせいらしい。ようするに陸上に向いていないらしい。
マラソンは強いでないかといったら、あれは飛脚のDNAが生きているんですといった(?)



世界陸上を見ていると世界がどんどん遠くなる。予選突破位で大喜びだから。
下ばかり向いて来たから、坂本九ちゃんの「上を向いて歩こう」なんて歌が出来た訳だ。無理やり上を向かせていた株価がどっかーんと下がった。私の予想通りだ。

そのかわり(報道ステーションでは)内閣支持率が6ポイント上がった。
な、なんと不支持率は9ポイントも下がった。日本国民とは本当によく分からない。
チーフエコノミストといういかがわしい予想屋が多い。

中でも××総研チーフエコノミストの「××××」なる男はいい加減の極みでまったく当たらない予想屋だ。外れたってシラーとしていて、下がったらちゃんと上がる時が来るんですね、なんてバカヤローだ。
みなさんエコノミストなんていう無責任男にソソノカされて絶対株なんか買わないで下さい。
ハマグリみたいなツルッとした顔、その上に髪の毛をつけて七三に分けて、したり顔で外れ話をするのが東大出の××××です。

そうだ思い出した、日本人の筋肉は畳やマットの上では強い働きをする。
柔道やレスリングみたいな下を向いてやるスポーツにはいいらしい。
特に寝業は得意、何故かは説明しなくても分かるはずです。

どうやら自民党では安倍晋三総理に何もかもやらせてしまって(在案一掃セール)、来年の参議院戦では負ける、それからだと決めたようだ。
あっちこっちの畳の上の寝業でそう決めたのだろう。

オリンピックの競技場やエンブレム問題、大阪寝屋川のむごたらしい事件。
中国での相次ぐ爆発、猛烈な台風、タイの爆弾テロ、日本にある米国基地での爆発。
北朝鮮と韓国の揉め事問題、世界同時株安などが次々に起きた。

“戦争法案”の話題は下火になった。
自民党の高官たちはこれを大いによろこんでいるという。
あわよくばもっと上を狙う寝業が得意らしい。だが世の中は思い通りには行かない。
キリストの七つの大罪の一つに「強欲」というのがあった。

むかしはアメリカがくしゃみをしたら日本が風邪を引くといわれたが、今は中国が風邪を引いたら世界が寝たきりになってしまう。

2015年8月24日月曜日

「許されざる者」

許されざる者


私は現在無宗教である。
信教は自由だから、誰が何を信じていても全てOKで付き合える。
但し“金”を信じている人は苦手だ。

BS日テレに金曜日午後八時から九時まで「ぶらぶら美術・博物館」という番組がある。
二十一日は元サントリーの名物宣伝部長だった若林覚さんが館長をしている練馬区立美術館の「舟越保武彫刻展・まなざしの向こうに」であった。

久々その夜は間に合った。若林覚さんはサントリー美術館の館長もされていた。
博覧強記の人である。実はこの展覧会のご案内をいただき招待券も同封してもらっていた。舟越保武さんのご子息が舟越桂さんというやはり高名な彫刻家である。
岩手県出身であるが練馬に在住していたことがある。
数ある作品が紹介されたがやはり心打たれたのは、かつて長崎で見た〈長崎二十六聖人殉職者記念碑〉である。
確か長崎で見た時にも聞いた話だが改めて聞いた。

解説者が二十六人のキリシタンの中に(11才だか12才だと思う)一人の少年がいた。
改宗するなら命は助けてやるといわれると、少年はこう応えたという。
「つかの間の命より、永遠の命を」と。豊臣秀吉は極めて残虐である。
キリシタンを殺してしまった。二十六人は耳などを切り取られ処刑された。

キリスト教信者とは何をどこまで信じているのだろうかと思う。
信心とはを考えさせられる。少年の言葉がグサリと胸に刺さる。
私たちはあまりに「つかの間」に生きていないだろうか。刹那的でないだろうか。
今さえよければ、明日のことなんかと。自分たちさえよければ人のことなんかと。
天災や人災に遭った人はついてないんだよと。

二十二日(土)TBS夜、世界陸上の続きで十時三十分〜情報7daysブロードキャスターを見た。ビートたけし、齋藤孝(どっかの出たがり大学教授)、毎日新聞の××委員(バカ女)この三人の言葉に耳を疑った。

サディスティックに殺された中学生男女の事件についてこういった。
ビートたけし→むかしいたうるさいオジサンみたいなのがいなくなった。
夜遅くまで遊んでいたらいけないと注意する人がいないから。
齋藤孝→中学一年生が家に帰らずテントで暮らすなんて。もっと監視の仕方を考えねばとか。
解説だか論説委員→この間まで小学生だったんですよね、夜遅くに遊ばすなんて、とかすっかり他人事であった。

つまり三人共殺人を犯した(まだ容疑者だが)であろう人間に対してひと言もコメントしなかった。現代社会における少年少女の行き場のなさを生んでいる社会を語らず、ただ中学生が夜遊びしているから悪いんだよという強い印象を受けた。

実に不快であった。
局側からまだ容疑者だから余計なコメントは避けてといわれていたのだろうがあまりに一方的であった。「つかの間」にばかり生きている社会を考えなおさねばならない。
毒を失ったビートたけしは、すっかり体制的になってしまった。

あなたがもし大事な息子や娘、大切な孫を無残に殺されたらどうしますか。
私なら必ず復讐をします。徹底的にやります。映画「許されざる者」の主人公のように。目には目を、歯には歯を。
キリスト教はイエスではないのでしょうか(?)

舟越保武展は九月六日(日)までです。永遠の命とはを見に行って下さい。
現代社会の許されざる者の第一は私たち大人だ。その犠牲者が幼子や迷える少年少女だ。つかの間でいいからそのことを考えよう。