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2015年10月15日木曜日

「少年の言葉」



高知県南国市に「後免町」というのがあるのを昨日、東京新聞の夕刊で知った。
この町名をひらがなで書くと「ごめん」である。

その町の住民たちが、第十二回「ハガキでごめんなさい」全国コンクールを開催し、いいそびれた謝罪の気持ちをしたためた心温まる作品を募集している。
市販のはがきを使用し、字数は二百字以内、イラストなどを自由に加えて良い(記事抜粋)。

このコンクールは、後免町で幼少期を過ごし、201310月に九十四歳で死去した同県出身の漫画家やなせたかしさんが提案して始まったと記事にあった。
主催は「ハガキでごめんなさい実行委員会」小さな記事であったが昨日いちばんのいい記事だった。

私が会社を一人で始めて四十五年、最初の社員になってくれた男が今も私を支えてくれている、勤続四十二年目となる。その男がいなければ今日の私の命はない。
その男の長男が小学生の時、こんな言葉を書いていたのを思い出した。
正確でないかもしれない。

「ごめんなさいは、ひととひとをつなぐ魔法のことば」

あえて確認をせず記憶を頼りに書く。
いい言葉のイメージを大切にしたい。違っていたら後日訂正をする。

「ごめんなさい」この言葉がすっかり日本人から消えてしまっている。
振り返れば私の人生は「ごめんなさい」を何千、何万回もいわなければならない。
暴言、放言、失言、目まぐるしく変わる思考と指示、言動と行動、あー思い出す、あの時「ごめんなさい」をいっておけば、あーあの人に「ごめんなさい」をいっておけば、あーあいつに「ごめんなさい」をいっておけばなのである。
今度時間をつくり一日中原稿用紙に「ごめんなさい」を書こうかと思っている。

いい言葉を小学生の時に書いてくれた子の名は、清水光太朗君、長野県佐久平にいる、来年は大学受験だ。目指す信州大学に入ってくれる事を願う。
その父親は毎日長野新幹線で出社してくれている。
定刻にキチンと出社して会社を守ってくれている。

私は会社というのを作ってから帳簿というのを一度も見たこともない。
コピーというのを一度もとったことがない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい×何千、何万」なのです

会社人失格なのです。

同意語に“すみません”とか“すんません”というのがあるが、「ごめんなさい」がいちばん人と人をつないでくれる日本語でいちばんいい言葉だと思う。

2015年10月14日水曜日

「君の名は」




昨夜帰宅してアレコレゴソゴソした後、テレビのスポーツニュースを見た(フジTVすぽると!)。午前一時であった。

サッカーの日本代表監督がイランと引き分けに終わった後インタビューに応えてこういった。「このチームはもっとトレーニングしたらもっと強くなる」それを学んだと。
ハリルホジッチの姿は疲れ切っていた。

言い換えればこのチームはハードな練習をしていない、だからいつまでも進歩がない。
メンバーの名はいつも通り、何しろ戦火の中にあるシリア相手に30で勝って劇的勝利などとスポーツ紙にヨイショ、またはコケにされていた。
相手は世界ランク最下位に近い130位ほどの相手なのだ。
ガラガラのスタンド、ヘトヘトになっている姿を見てやっぱり日本は世界ランク60位の近辺なのだ。そのくせチヤホヤされて勘違いをしている。

ACミランの監督批判を延々とした本田圭佑はイタリア人から大ブーイング、出て行け、出て行けと罵声を浴びている。
こういう男がチームの柱ではサッカー界の凋落は目に見えている。
事実J1J2のチームで黒字経営になっているチームは少ない。
年々観客は減り続けている。チームを維持するために血の出るような努力をしている経営陣に対し、バカヤローフザケンナ、なのだ。
ハリル監督は乱れた髪を整える余裕もなく、ヤッテランネェーと顔に描いてあった。

その一方サッカー人気に押されっ放しだった日本ラグビー界は、エディ・ジョーンズ監督(ヘッドコーチ)の地獄のトレーニングを積んでW杯で31敗、サッカー発祥の国イングランドを抜いて世界ランク上位となった。

羽田飛行場にはファンが集まり、スポーツニュースには活躍した選手が引っ張りだこになっていた。が、ラガーマンは本当に死ぬかと思ったというほど徹底的にシゴかれた監督に対し批判などはしない。勘違いもしない。未だ未だ上に行くには物足りないといった。
が、今は誇らしいとエディ・ジョーンズは満面の笑みを浮かべた。
そして彼は日本を去って行く。
科学的に練習をすればする程強くなるという基本中の基本を教えて。

ファッションモデルになったと勘違いしているサッカー界と、ゴッツイ体に似合わないスーツ、そしてレジメンタルのネクタイという定番スタイル。
草食系代表がサッカーだとしたら、肉食系代表がラグビーだ。
私はどちらも好きだが両方共に日本人の指導者が出て来ないのが気に入らない。

熱血的科学的動物的冷静沈着的愛情十分的な人を求む。
但し間違っても日本サッカーを今日的に発展させた功労者、三浦知良選手を私情的復讐心でWカップに出場させなかった岡田武史氏みたいなのはゴメンだ。
ラグビー人気が続くことを願う。

日本人は一時的熱狂力は凄いが、忘却力はそれの何倍も凄い。
かつて「君の名は」という大ヒット映画があった。佐田啓二と岸恵子が主演だった。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」
こんな言葉を思い出す。

ハードな練習をしないで能書きばかりいっている選手は、どの世界でも忘れ去られるだろう。ある日、道で会った時「君の名は」と。

2015年10月13日火曜日

「体育のヒーヒー」




病院の待合室はかつて老人たちのサークルみたいであり、そこに集っては(?)お互いの病気自慢や食欲自慢、嫁の悪口を発散するのであった。
が、老人医療費の負担増で待合室のサークル化は消えた。

昨日は体育の日、金持ちの老人たちはスポーツジムに集まりサークル化しているらしい。若いスポーツトレーナーのところに人気が集まる。
キン肉マンに老女性は胸をトキメカせ、ピチピチの肉体に老男性は胸をザワザワさせる。話題といえば、株自慢、貯金自慢とか体力自慢、そして血圧、血糖値、尿酸値の比較となり、最後は嫁の悪口に行き着く。
スポーツジムに行くというのは決して死にたくない、どんなことしたって長生きするぞの意志表示なのだ。

私が好きだった落語家に古今亭今輔さんという名人がいた。
老女を語らせたら随一であった。「おばあちゃん長生きのコツはなんですか?」なんて聞かれると、「アタシャ人を食って生きてんですよ、嫌なことはみんな嫁にやらせてアタシャ好き勝手して好きなもの食べて、何も考えずよく寝ることを心がけていますよ、みんなに迷惑かけた分長生きできんですよ、ワハハハ」
…例えばこんな調子であった。
この頃長男に結婚相手が見つからないとか、その理由は将来の老人介護なんてまっぴらごめんということらしい。

作家五木寛之氏は本の内容はともかく、本の題名をつけるのが実に上手い。
悩める人に売るコツを知り尽くしている。この頃は「嫌老社会」なんていう言葉を生んだ。昨日あるスポーツジムに打合せをすることがあり立ち寄ると、若い女性トレーナーがインカム(マイク)をつけてエアロビを教えている。
6080代の老若男女10数人が、ハイ!足上げて、ハイ!広げて、ハイハイ!回転して、ハイ!床に手をついて、起きて、ハイ!ジャンプジャンプ、少年ジャンプみたいなことを激しい音楽に合わせてやっていた。透明なガラスの向こうでやっていた。
好きな人は何回もやるらしい。

若い女性トレーナーが若い男性トレーナーになると、待っていたとばかりにマット体操をしていた老女たちが我先にと参加していった。
体にピチピチに密着したスポーツウェアがその体型を現していた。
恥じらいを捨てた人たちほど、世に恐ろしいものはない。

ゴクッゴクッと水を飲む老男性に楽しそうだねと声をかけると、楽しいね、これからサウナ入って、冷たい風呂に入って、ジャグジーに入って、それからビール飲んでカラオケだ、ギャハハハと笑った。
こういう人たちと違って、青空の下で全力で走るステキな老人アスリートもいる。
この人たちは自己記録を伸ばすことに日々鍛錬をしている。
とてもストイックなのだ。

7579歳の体力が過去最高になったとか。
ヨーイドン、老人たちの徒競走は“10メートル”だった。「嫌老社会」は私のためにある言葉に思える。夕方海岸のサイクリングロードには老マラソンマンが列を成していた。
骨と皮になった老男性がヒーヒーノドを鳴らしながら私の前を過ぎ去って行った。

新聞に400キロもある熊が一発の銃弾で殺され、クレーンで引き上げられていた。
冬眠前の熊はエサを求めて腹を空かせていたのだろう。人間の仕業だ。

2015年10月9日金曜日

「鹿とシカト」



佐賀県でのイノシシの暴走を書いたら、今度は静岡で鹿が民家の中に現れた。
鹿は立派な角を持ち、その表情は気品あるものであった。

「シカト」するという言葉がある。
主に無視するとかバックレル(しらばっくれる)時に使われる。
例えばアノヤロー俺が目線を送っているのにシカトしやがってとか。
あの娘生意気よね何様のつもりよ、この間なんか学食(学校の食堂)で隣同士になったらシカトされたわ。

語源はいろいろある、かつて“鹿十団”という不良グループがあったからとか(?)
鹿の角が左右ソッポを向いているとか(?)
鹿は気位が高く人間の視線を無視する、シカト(しっかり)見つめているのに反応しないからとか(?)
静岡の鹿はこの説に近かった。
取り押さえようと近づく人間たちをジーっと見つめ続ける、人間たちの愚かさを馬“鹿”にしているように無視し続ける。

映画「ディアハンター」でロバート・デ・ニーロが山の頂きで一頭の鹿を見つけ銃を構えるが、その気高さに圧倒され息を飲み引き金を引けない、鹿はハンターであるロバート・デ・ニーロを見てシカトする。
この名作映画の心象風景として素晴らしいシーンとなっていた。
そして映画は想像を絶するベトナム戦争へ、狂気のロシアンルーレットへと向かう。

静岡の鹿は麻酔薬を含ませた吹き矢によって眠らされ、4本の足を縄で縛られそして殺された。人間の仕業だ、イノシシの様に大暴れしていないのに。
ネット社会では“既読”という表示に対して返信して来ないと“シカトされた”→無視されたと思いトラブルのもとになるらしい。つまり日常的に使われている言葉なのだ。

日本全国で保護していた鹿が増え食物を求めて農作物を食べてしまう。
それじゃ鹿狩りをせよとなり鹿は殺され続ける。
イノシシも鹿も住む場所を人間に荒らされたのだ。
農作物の守り神、山の神といわれた狼も狂犬扱いされて絶滅した。

現代文明は「民俗学」を破壊してしまった。
私が大尊敬する宮本常一という民俗学者がこの世をみたら何と怒り悲しむだろうか
。“一億総活躍社会”とは民俗学的にどう解釈しただろうか。
寝たきり老人たち、生まれながらに不自由な体の人々、活躍したくとも病魔に襲われ動けない人々。働きづくめの人生の最後をゆっくりと過ごしたいと思っている人々—。
戦争中に“一億総動員、欲しがりません勝つまでは”というスローガンがあったがそれと同じ発想なのだろう。

私は民俗学の復活を教育の現場に求めたい。
人間の暴走を制止させられるのは人間でしかない。
歩く巨人といわれた第二の宮本常一が出るように。シカトお願いしたい。
私は何度か鹿肉を食したことを申告する。(文中敬称略)