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2015年10月22日木曜日

「ヘラヘラとあんみつ」


お弁当を食べ終わりそれをビニール袋に入れた。
名古屋駅ホームでそれを「その他のゴミ」表示のゴミ箱中にポイッと入れた。
やけに人が並んでいる、何だこりゃとその列の先を見ると「きしめん」の立ち食いであった。腹はほぼ満腹であった。

発車まで約10分あった。
そのほぼ以外の部分がきしめんを求めた。
ウンターに次々と出されるきしめんを美味しそうにすすっている。
一歩二歩列車に乗るべしと近づいたが、ヨシッと決め振り返りきしめんの自動販売機に向かった。

鰹節のいい香りに誘われた。
券売機にはいろんな種類があった。
肉きしめん、カレーきしめん、オッ!味噌玉きしめんかうーむいいなやっぱり名古屋とくれば味噌だと思った。きしめんを食べているスピードは立ち食いそばよりやや遅い。
うどんよりもやや遅い。全員黙々としている。

カレーきしめんを頼んだ男にオバサンがエプロンいりますかといった。
オオ何と親切なことか、四十歳位の男は白いポロシャツを着ていた。
えっあっいいですといった後やっぱりくださいといった。
白い紙のエプロンが畳んであり、それを広げて首から掛けた。
大人のよだれ掛けのようであった。カレーうどんやそばを食べる時は要注意だ。
アヂ、アヂ、アヂーと口からうどんを落とし、カレーは跳ね上がり白いシャツを黄色にする失敗例を何度か目撃したことがある。若いOLは泣いたこともある。
私も何度か経験したがエプロンはつけたことはない。

さて「きしめん」だがこれはヘラヘラとしている。ナヨナヨとしている。
そばのような美意識はなく、うどんのような堂々感がない。
箸でつかむとヘロヘロと重い。味噌玉の“玉”とは卵が落としてあることであった

“名古屋名物山本屋”の味噌煮込みうどんの場合は煮玉子であるので生卵は期待はずれであった。丼ぶりの中で味噌スープと生卵が相対する。
黄身の部分を箸でブスッとやると黄身はヨヨと崩れて広がる。
気合不足のきしめんは、ヘラヘラとナヨナヨとヘロヘロとなじませながら口に運ぶ。そばの粋はなく、うどんの図太さがないので口の中がややこしい。

確か650円だったがそれなりに楽しめた。
味噌はいい味、カンナで削ったような鰹節が私の食べている所にヒラヒラ飛んで来た。
誰かのきしめんの上にあったが出入りする人の動きによる風で飛んだようだ。

私の隣ではカレーきしめんをエプロン掛けてすすっている。
その隣はどうやらイカ天きしめんで、その隣は鰹節をのせただけのきしめんであった。
その数15人程、外には10人程。女性は一人もいなかった。
ヘラヘラしているのが女性に受けないのかもしれない。

東京では甘味処「鹿乃子」にきしめんがある。私は銀座四丁目交差点側で一年に一度位若い女性やそうでない女性に囲まれて、一人できしめんを楽しむ。
椎茸、竹の子、紅白のカマボコ、そして鰹節、味はうすしょうゆ味。

かなり恥ずかしいがヘラヘラとすする、今年は未だ一度も行っていない。
その店の前は天ぷらの「小ハゲ天」だ。
おせんべいの名店銀座「あけぼの」の隣にワッフルを売る出店がある。
いい香りがするその隣に近い処できしめんが楽しめる。
誰かご一緒しませんか、“あんみつ”をデザートに。

「1点の差」




私は天邪鬼である。ラグビーがWカップで3勝したのは喜ばしい。
強豪南アフリカに勝ったのは素晴らしい。

だがしかし、優勝した訳でもないのに優勝したが如く大騒ぎするのはどうかと思う。選手たちはテレビに出まくり、親や妻や子も、学生時代の先生や監督もテレビカメラは追いまくる。サッカー人気に押されていたが、そのサッカーもすっかりニュース性がなくなった。マスコミにとってWカップ三勝は優勝に等しいネタであった。

サッカーはベスト16位で優勝騒ぎをした。ニッポンが駄目なところはここにある。
ちょっとしたことでスターを作り、ちょっとしたことでスターを抹殺する。
ニッポンがWカップで優勝するには、準々決勝、準決勝、決勝と勝ち進まねばならなかった。五

郎丸歩選手のキック成功率がスゴイと思ったら上には上が何人もいる。
90%以上の成功率なのだ。五郎丸選手は85%を目指したが世界のトップは100%を目指していた。
主将であるリーチマイケル選手はこのことを理解していたのだろうか、浮かれるより心配顔で実に冷静にニッポンチームの先を見ていた。五郎丸選手も同様であった。

エディ・ジョーンズ(ヘッドコーチ)はシビアであった。
今のままでは2019年は研究しつくされて厳しいだろうと。
また、保守的なニッポンのラグビー界はせっかくの進歩をまた後退させるだろうと。
ニッポンサッカー界はベスト16になってうかれに浮かれてしまった時から進歩を止めた。
スポーツは二位では駄目、一位にこそ栄光がある。優勝だけに栄光があるのだ。

中学生のとき担任の先生にこんなことをいった。
あいつは100点、あいつは99点二人共スゴイ、99点なんてオレは取ったことないけど本当にスゴイよな。オレ勉強大キライだから。先生はいった。
100点と99点は1点差だけど大きな差なのよ。
99点は99点で終わり、100点はその先に200点、300点になる可能性があるのだから。
理科と数学が不出来なオレには先ず50点そして70点を目指しなさいといった。
99点はエベレストの頂上だった。100点なんかはエベレストの上、雲の上であった。

定年後六十歳から七十歳になるまで司法試験に挑んだ人が1点差で涙を飲んだ、聞けばその1点のところにごっそりと天才、秀才がひしめいているとのことだった。
0.001秒で金と銀の差となるスピードを競う闘うスポーツ界、勝者は伝説となり二着の人間はそれだけで終わる。

シカゴで世界タイトルマッチを行い河野公平チャンピオンに敗れた亀田興毅選手は、敗者を迎えた記者のインタビューにこう応えた。ボクシング人生に悔いはない。
これからは“自由人”となり、あっちこっちに行きたい。
不出来な親を愛する、親孝行な三兄弟の長男であった。
人生の勝負はこれからだ。

優勝を逃した巨人軍の原辰徳監督は、監督を辞めると決めたら、こんなにもグッスリ眠れるのか、こんなにいい朝の目覚めが迎えられるのかといった。
頂点を極めるのは難しく、また維持するのはもっと難しい。勝者は勝たねばならない。
ラガーマンよ浮かれてる時間はもう終わった。
優勝を目指すチームは未だ死闘を続けている。

スコットランドは1点差のリードを残り30秒で逆転された。
3534、オーストラリアとの差は1点差であった。
勝者は栄光に向かい、敗者は帰国の途につく。悲しいことに主審の誤審があった。
3433でスコットランドが勝っていたかもしれない。いかなる人間も誤りをする。

2015年10月20日火曜日

「ゴトゴト、コトコト」




私は小田原駅から乗車した。オジサン二人はすでに乗っていた。
登山用のバックを足もとに置き、足は登山靴であった。
二人共かなり経験有りと思った。登山用バック、登山服、登山帽、登山用ベスト、登山用靴下、登山用の靴などがかなり使い込まれていたからだ。
大山連峰のどこかに行ったのかと思った。箱根登山かも知れない。噴火はその後どうなったか(?)とんとニュースを見ない。
正月の箱根駅伝は大丈夫だろうか。
倉敷のビジネスホテルにあったテレビは小さな、小さな正方形であった。そのテレビで箱根駅伝の予選会が終わったことを知った。
今年もわずか10秒、20秒、30秒程の差で涙、涙、涙の大学名が続いた。何しろ上位10校しか出場出来ない。

オジサンどこの山に登って来たのと聞こうかと思ったが二人ともぐっすり眠っている。
無事停年を向かえたと思うのは二人共実にいい顔をして眠っていたからだ。
うまい缶ビールを飲んだのだろう。空缶をバックのサイドにある網の中にキチンと入れている。マナーがいい。六十五・六・七・八歳位であった。
小田原から茅ヶ崎まで約30分、二人の寝息を聞きながら、大磯に停車した。

あ~私の先生であり宝物のようだった友は大磯に住んでいた。
生きていれば六十五歳を通過し六十六を向えていたはずであった。
ホーキンスの宇宙論を読みながら少年ジャンプを読み、性生活の知恵論を読みながら、英文の原書で推理小説を読む。絶えず数冊の本をバックに入れていた。

友はヤクザ物も大好きであった。
特に山口組分裂による抗争事件が毎日起きているときは、毎日内外タイムスと東京スポーツ、夕刊フジに日刊ゲンダイ。毎週アサヒ芸能とか週刊実話、週刊大衆などを読んではポイポイ捨てていた。
山口組が又分裂した今、友が生きていたら○△組と×□会はきっと殺りますねとか、○×連合と×△一家は参戦しきっと返し(復讐)をしますよねとか、大いに盛り上がるはずであった。
30秒程大磯に停まった列車の中で友と二人で飲んでいるシーンが浮かんだ。

時代は変わって今では暴対法によりドンパチは出来ない。
子分のハネッ返りで親分の体が刑務所に持って行かれてしまう、その上ゴッツイ金も支払うことになる。
暴力団から暴力を取ったら、「団」だけなのだから、一人でも多くの者が団から抜けて堅気になるのを支援してあげねばならない。
彼等も子の親であり一人の人間である。そして生きていかねばならない。
だた追い込むだけの法律では片手落ちだ。法務省に堅気転向支援庁みたいなのをつくってしっかり命を守ってあげねばならない。

列車は平塚の鉄橋を過ぎた、次は茅ヶ崎だ。
鉄橋渡る時の列車のゴトゴト音が好きだ。
湘南シーサイドゴルフ場のショートホールが見えた。木がよく育ちグリーンが見にくくなっていた。
この頃は堅気の方がヤクザ者より何倍も暴力的で凶悪だ。
私の親愛なる友人に滅法ヤクザ界に通じているのがいる。
その友人にヤクザ界を知り尽くしている、その道のジャーナリストがいる。
近々会費制でこれからどうなるのを知る会を仕切ってもらうつもりだ。
人間の表を知るには裏を知らねばならない。日々是勉強なのだ。
ヤクザ者はいよいよ動くときは、飛ぶぞとか踊るぞとかいう。

列車はゴトゴトからコトコトになり茅ヶ崎に着いた。二人は未だぐっすりだった。
♪~山男よく聞けよ 娘さんには惚れるなよ・・・ダークダックスの歌を思い出した。

2015年10月19日月曜日

「おさかな維新」




♪~別れる前に お金をちょうだい 
あなたの生活(くらし)にひびかない程度のお金でいいわ
そのお金で アパートを借りるのよ
あとはひとりで なんとかするわ
がまんさえすれば 生きてゆけるわ
別れる前に お金をちょうだい
その方が あなただって さっぱりするでしょう…。

作詞:星野哲郎 作曲:中川博之 題名「お金をちょうだい」
歌を唄ったのは「美川憲一」大ヒット曲である。

金の切れ目が縁の切れ目というが、人間と人間別れ際がその人間の値打ちとなる。

本日朝10時倉敷のビジネスホテルをチェックアウト、二日間の映画の上映会はとてもライブなかんじでよかった。少人数だが中味の濃いものであった。
倉敷→岡山→名古屋→小田原→茅ヶ崎と乗り継いで家に帰った。
その道中列車の中で別れ際の悪い、ブザマでミットモない記事を読んだ。
橋下徹率いる連中と、松野頼久率いる連中が政党助成金を寄こせだ、絶対渡さねえ、そんじゃ印鑑と通帳は渡さねえぞと、モメにモメている。
かつて金貸し業の顧問弁護士だった茶髪の橋下徹は借金の取り立ての顧問だった。
オリャー金返せや、オドレ金返せなかったら腎臓取るゾ、なんてスゴンでパクられた金貸し業だった。
一方ホストみたいな代議士が松野頼久、陽灼けサロンに通い、ワイシャツのボタンを二つ外す。
派手ハデのオッカチャンで有名。

新聞読んでいて、金を出せ、金は出さないと言い合っている始末の悪い政治屋に美川憲一の唄う「お金をちょうだい」を唄わせたくなった。
政党助成金は国民の税金ということを忘れるなだ。

おおさか維新の会という文字をジッと見ていたら、おさかな維新の会に見えて来た。
雑魚の群れだ。

♪~しあわせだった あのころのあの日
昔のあなたは貧乏で お金なんかなかったけれど…と続くのだが。

私は下津井弁当(すごく豪華)1080円を食べながら、すいませんお茶下さい、ハイ150円です。
売り子さんはお金をちょうだいなんて言いません。
スヤイ(安い)政治屋の値段はいくらでしょうか(?)。
えっ!ただでもいらないですか。

ちなみに、下津井は岡山県の有名な漁港の名です。雑魚は出荷されません。

(文中敬称略)

2015年10月16日金曜日

「ママカリとナマズ」




岡山県倉敷に行く。
倉敷は戦国大名宇喜多秀家の夢の跡である。
終わり近き豊臣秀吉の時代五大老がいた。
徳川、上杉、毛利、前田、そして宇喜多である。

関ヶ原で敗戦後、秀家は八丈島に流刑となる。
八十三歳まで生きたというからあの時代ではすこぶる長命といえる、秀家は死ぬまで貧窮に泣いたと伝えられる。

川幅10メートルほどの倉敷川一体は秀家の時代に干拓工事を完了させ、広大な新田が誕生した。秀家が整備した良港が、蔵米などの海上輸送の集積基地として活気を呼んだ。
現在倉敷川には観光用の渡し船が行き来する。
多くの蔵屋敷に囲まれるその地は美観地区と呼ばれ倉敷の人気の場所だ。

秀家追放後徳川一族は倉敷を天領とした。明治維新後新政府はこの地を接収した。
代官所の跡地に地元の大地主がお金を出して倉敷紡績(現クラボウ)を設立した。
二代目社長の大原孫三郎がポケットマネーで建てたのが「大原美術館」なのだ。
当時の資本家は桁違いに財力があったのだ。そしてその財力を文化事業につぎ込んだ。
倉敷がB29に空襲されなかったのは、大原美術館が所蔵していた世界的絵画を米軍は知っていて焼失させなかったという説もある。

宇喜多秀家は武略、知略に富んでいたので徳川家康は五大老の中でいちばん恐れていた。名門であったので殺すことが出来ず、八丈島で生き殺しとした。
八丈島で腹ペコペコの生涯を閉じさせたのだ。

倉敷に行ったらやはり「ママカリ」を食べたい。
コハダみたいな小さな青魚だ。
刺し身よし、照り焼きよし、酢漬けよし、あんまり美味いのでごはんがすすみ、足らなくなったのでお隣にママ(飯)を借りに行ったので「ママカリ」の名がついたというので定説の魚だ。
宇喜多秀家もきっと死ぬまでに一度だけでも、ママカリでたらふくご飯を食べたかったのだろうと思う。
小さな魚に戦国時代を見る。

戦国といえば米国とベトナムが第二のベトナム戦争を始めるという。
それは「ナマズ」の養殖戦争のこと。ナマズはウナギや白身魚の代役を期待されているのでベトナムで盛んなのだが、TPPで市場開放を迫る米国はナマズを狙っている。
TPPは米国のシナリオ通り、日本は実はずっと蚊帳の外であった。
アトランタのホテルのロビーをウロウロし、仕方なくコーヒーを飲み、ホテルの一室では農水族がひたすらヤキモキしている内に、えっ!何!そんなバカなという結果で終わり、甘利明大臣以下余りに重い宿題を与えられて帰国して来たのだ。
米国は本当にタチの悪い日本国のヒモなのだ。

倉敷の話からすっかり外れてしまった。
ナマズはキャットフィッシュ、始めてニューオーリンズでそのフライを食べた時、白身魚のフライと全く同じで旨かった。クアーズのビールにバッチリであった。

2015年10月15日木曜日

「少年の言葉」



高知県南国市に「後免町」というのがあるのを昨日、東京新聞の夕刊で知った。
この町名をひらがなで書くと「ごめん」である。

その町の住民たちが、第十二回「ハガキでごめんなさい」全国コンクールを開催し、いいそびれた謝罪の気持ちをしたためた心温まる作品を募集している。
市販のはがきを使用し、字数は二百字以内、イラストなどを自由に加えて良い(記事抜粋)。

このコンクールは、後免町で幼少期を過ごし、201310月に九十四歳で死去した同県出身の漫画家やなせたかしさんが提案して始まったと記事にあった。
主催は「ハガキでごめんなさい実行委員会」小さな記事であったが昨日いちばんのいい記事だった。

私が会社を一人で始めて四十五年、最初の社員になってくれた男が今も私を支えてくれている、勤続四十二年目となる。その男がいなければ今日の私の命はない。
その男の長男が小学生の時、こんな言葉を書いていたのを思い出した。
正確でないかもしれない。

「ごめんなさいは、ひととひとをつなぐ魔法のことば」

あえて確認をせず記憶を頼りに書く。
いい言葉のイメージを大切にしたい。違っていたら後日訂正をする。

「ごめんなさい」この言葉がすっかり日本人から消えてしまっている。
振り返れば私の人生は「ごめんなさい」を何千、何万回もいわなければならない。
暴言、放言、失言、目まぐるしく変わる思考と指示、言動と行動、あー思い出す、あの時「ごめんなさい」をいっておけば、あーあの人に「ごめんなさい」をいっておけば、あーあいつに「ごめんなさい」をいっておけばなのである。
今度時間をつくり一日中原稿用紙に「ごめんなさい」を書こうかと思っている。

いい言葉を小学生の時に書いてくれた子の名は、清水光太朗君、長野県佐久平にいる、来年は大学受験だ。目指す信州大学に入ってくれる事を願う。
その父親は毎日長野新幹線で出社してくれている。
定刻にキチンと出社して会社を守ってくれている。

私は会社というのを作ってから帳簿というのを一度も見たこともない。
コピーというのを一度もとったことがない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい×何千、何万」なのです

会社人失格なのです。

同意語に“すみません”とか“すんません”というのがあるが、「ごめんなさい」がいちばん人と人をつないでくれる日本語でいちばんいい言葉だと思う。