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2016年7月4日月曜日

「煮干し」

左々舎HPより



「美の壺」という大好きな番組がある。
NHK Eテレ日曜日午後十一時〜十一時三十分。以前は違う時間帯でやっていた。
ずーっと昔から見ている、これはと思うのは資料としてモニター会社に頼んでダビングをしてもらっていた。

昨夜は「鱧」ハモであった。魚は見た目が悪いほど、恐いほど繊細である。
オコゼ、カマス、ナマズ、マゴチ、トラフグ等など。ハモは鋭い歯を持っている。
魚の暴力団みたいなのだが、これほど芸術的な食材はない。
何しろ捨てるところがない。
ハモシャブ、ハモ寿司、ハモの柳川、ハモ鍋、ハモの薄造り、ハモの皮、ハモの浮袋、ハモの顔面、ハモの肝の甘露煮、ハモのハラワタ、ハモの骨、ハモの肉体には無数の小骨がある。

気合不足の鱧料理店のハモにはやたらと小骨がある。
抜いていないからだ。ひとくち食べればすぐに分かる。
この小骨をパーフェクトに抜くには鱧一本で五、六時間はかかるという。

神田明神下に「左々舎(ささや)」というこじんまりした店がある。
路地裏であるから通い慣れた人でないと分からない。
といって京都のようにお客を選んだりしない。誰でも入れてお値段もそれほど高くない(それほど安くもない、コース(A)で七千円)。

ひと夏に一度か二度位鱧料理のフルコースを楽しんでもよいのではと思っている。
+豊と書く位だから実に気持ちが豊かになる。
一本一本小骨を抜くのを知っているからやはり予約を入れる。

料理人の店主は朝早くから予約の分だけひたすらトゲ抜きのようなもので小骨を抜くのだ。気の遠くなるような作業を料理人という職人はやりぬく。
“一本も入ってなかったでしょ”と言うのに、一本も入ってないと答えるとニコッと笑う。

今年は若い者を二人連れて一度行って来た。
初めての鱧料理なのでその豊かさが分かったかどうか不明であるが社会勉強のために経験してもらった。何を食べているかでその人間が分かるんだよと言ったのは、“北大路魯山人”だったと思う。池波正太郎さんも同様なことを言っていた。
高価なものを食べるのではなく、その季節に合わせ、何をどんな風に食べてるかだ。

で、煮干しを三匹ほど焼いてちょいと海岸で拾って来た貝殻なんかに置いて、庭にある小さな葉っぱなんかを添えると、もう一丁前の料理になる。
おしょうゆをポツンとたらせばもうお酒の肴にこの上なしとなる。

旅館の料理に出てくる七輪の小さいやつ(一輪?)に小さな金網を乗せて固形燃料で焼くと申し分ない。一度愚妻に買って来るようにといったら家は旅館じゃないわ、なんて言われた。仕方ないからオーブントースターで焼く。
雑魚の小さい、小さいのが旨い!5cm位がいい型だ。あーハモが食べたい。
頑張って働くしかない。それにしても暑い、ガリガリ君を三本もかじってしまった。

2016年7月1日金曜日

「性格の不一致」




人生長くやっていると何人かの生理的に合わない人と出会う。
その声、その姿、その空気を感じただけで、すこぶるイヤーな気分となる。
何が嫌いかというものではなく、ただ生理的に合わないのだ。
多分何人もの人が私と生理的に合わずイヤーな気分になったことだろう。
説明のつかない嫌悪感を生理的に合わないという。

例えばお見合い結婚などをして、交際中一度もSEXをしないで結婚式を挙げていざ新婚旅行へ。海外でいざ初夜で。イヤだ足が臭い、ここで性の不一致(性格の不一致とも言う)を感じ、初めて見る互いの全身に生理的嫌悪を感じる。
ウソォーとか、ウァーギモジワルイとか、えー信じられないとかとなる。
何すんのヤメテ変態とか、何すんだよかなり経験してんなとなったりする。

人間一つがどーしても嫌になると余程包容力がないと何もかもが嫌いになる。
箸の上げ下げから始まってトイレの流し方まで。
ナイフとフォークの使い方、スープの飲み方まで嫌いになる。

初夜の床の上での出来事でお互いに嫌になって成田離婚をした者の相談を受けたこともある。
部屋の中でオナラしたとか、食事した後コップの水で口の中をグシャグシャ掃除したとか。朝起きたらウィッグが外れてたとか、逆にカツラが外れてたとか、食事の最中にズルズル鼻をかんだとか、爪が伸びていたとか、水虫だったとか、美しい足と思っていたのにカカトがささぐれていたとか。

昨夜の私は我慢の夜であった。
紹介者の顔を潰しては恩義に外れると、芸者を演じた。チマチマグダグダ言ってんじゃないよと言いたかったが、私はじっとこらえた。
ずい分と私は成長した(この年になって)。みんな世のため人のためになるなら。
が生理的に全く合わないのには芸は売れない。

2016年6月30日木曜日

「串カツ」




長い間お世話になりました。
これにて店を閉めますので、とまるでどこぞのクラブのママさんがテレビであいさつをしていると思ったら、自民党小池百合子議員の東京都知事選への立候補声明だった。

クラブに行くとママさんやチーママは太い客(上客)のところへ行っては、いらっしゃ〜い、まい日待ってたんですよ、来てくれないとお店やっていけないんだからもォ〜と、アッチコッチのテーブルを回る。小池先生もアッチコッチ政党を渡り歩いた。

♪〜赤い夕陽よ燃え落ちて…。小林旭の大ヒット映画「ギターを持った渡り鳥」の主題歌だが、小池先生も赤い夕陽のごとく燃え落ちるのだろうか。
ハタマタなかなか食えない先生なので、ここ一番私は健在よ、忘れないでねの行動かもしれない。

女性にとって愛されなくなることより、忘れ去られることが最大の苦痛という(何かで読んだのです)。
キミのことはもう愛せないきっぱり忘れたいんだ、なんて言われたら出刃包丁の出番とか、味噌汁に大量の睡眠薬とか、崖の上で背中を押される。
小池先生も崖から落ちる覚悟だとか言っていた。

人気グループ嵐の櫻井翔君のパパが家族に迷惑をかけているのでと固辞しているらしいが、私の推測だとジャニーズ事務所が嵐をオリンピックに使いたいのでパパ出馬に大反対なのだろう。

黒澤明の名作「悪い奴ほどよく眠る」の中で下っ端役人がこんなセリフを言った。
役人というのは上の人の命令が絶対で、上の人を守るためなら死んでもしゃべらないと。確かこんな言葉だった。役者は名優藤原釜足さんであったと記憶している。
土地開発公団の汚職事件をモチーフにしていた。官庁とは軍隊と同じ鉄の組織なのだ。
学歴、家柄、閨閥、政治家のおぼえめでたいが全てとなる。

役人の頂上である次官になった櫻井パパがその上司である人間に私は固辞しますと言うのは基本的にありえない。ジャニーズ恐るべし(?)。
だがやっぱり最後は役人の掟に従うかもしれない。
機先を制す、小池百合子先生はここが売り時と手を挙げた。

さていかほどの値段が付くだろうか。
黒澤明の映画では、地下に閉じ込められた上司が空腹に耐えられずにしゃべってしまう。だが正義感ある主役の三船敏郎は闇の力によって殺される。
かくして悪い奴はよく眠る。
私は不眠症だからひょっとして良い奴なのかもしれない(?)。

昨夜銀座のおでん屋「かめ幸」(お多幸の兄弟分)で私の連れ二人が串カツを食べていた。ソースジュージュー。
昼に肉を食べていたので私は頼まなかったが、やけにウマソーだった。
今夜おでん屋にて人に会うことをコロッと忘れていた。
串カツあるかな。
(文中敬称略)

2016年6月29日水曜日

「東京乾電池」






世の中には聖地なる処がある。
オリンピックならギリシャ、野球ならヤンキーススタジアム、テニスならウィンブルドン、ゴルフならオーガスタ、JAZZならブルーノート、同性愛ならサンフランシスコ、春を買うなら吉原、歌舞伎、新派、落語、能などあらゆる分野の数だけ聖地がある。

さて小演劇の聖地といえば下北沢、中でも本多劇場だと言いたい。
文学座や俳優座がこむずかしいエリートだとしたら、下北沢は“這い上がる”“のし上がる”何より演劇が好きなんだ、メシなんか食えなくたっていい、ヒモともいわれようと、親に勘当されようとどうってことはない、好きな仲間と好きな劇が出来れば何もいらない、下北沢には大小20位の芝居小屋があるという。

一度演劇に染まったら麻薬中毒よりも中毒性があってやめられない。
目の前にお客さんがいて芝居の反応が目で分かる。大劇場と違うから隅々まで見える。
お笑いの聖地浅草フランス座からスーパースターの芸人が出たように、下北沢からは、主役のようで主役でなく、脇役のようで主役である、そんな個性的役者が生まれ育ち、這い上がり、のし上がって来た。
下北沢全体が役者を育てているような気がする不思議な処なのだ。

昨夜午前七時〇五分開演午後八時四十分終りの劇を見た。
東京乾電池創立40周年記念本公演」だ。
六月二十二日(水)〜二十九日(水)迄。
柄本明、ベンガル、綾田俊樹+山地健仁、40年前ベンガルさんがバイトをしていたビアガーデンのステージが空いているから何かやらないか、その時便宜上つけた名前が東京乾電池だと知った。

ベンガルさんには拙作の短編映画に出演していただいていたので何はさておき本多劇場に行った。劇の内容や出来不出来はここでは記さない。
時間をつくって是非行ってほしい、といってもチケットは完売状態、昨夜もギッシリ満員だった。

好きな仲間と好きな芝居、うらやましいではないか、人生何より好きなことをやりなされだ。劇を見る前に好きでない人同士のややこしい話をたっぷり聞いていたので、余計にいいな、いいなと思った。
やだな、やだなの中からは、人のためになるものは決して生まれない。

ベンガルさんよかったですよ、東京乾電池さんおもしろかったですよと大拍手を送って本多劇場を出た。
一緒に行った下北沢通の二人が「魚真」という魚料理の店に連れて行ってくれた。
ここがまた美味いのなんの、毛ガニと岩ガキ、お刺し身などをごちそうになってしまった。銀座四丁目にもあるとは知らなかった。鮮度抜群であった。
底辺から這い上がる役者人生に乾杯だ!(文中敬称略)

2016年6月28日火曜日

「命日」




中国では酒を飲むことを「忘憂」という。
忘憂とは嫌なことをしばし忘れ、楽しく酒を飲むべしなのだ。

酒にはいい酒とそうでない酒がある。いい酒はお金の話を一切しない酒だ。
歴史や魚釣り、映画に登山、ジャズに演歌、小説に絵画、野球にゴルフなど人それぞれの趣味を肴に飲む。

一方、株や金、大豆に生糸、FXに追証などの金儲け、追い込みにかけられた身を肴に飲む。前者は和やかな酒席だが、後者はそうはいかない。
アノヤローちゃんと詰める(返す)と言ったのに金を持って来ない。
アノヤロー必ず上がると言ったのにウソつきやがって見つけたらただじゃおかねえ、というような話に展開していく。

一方趣味の話の方は、あの映画のアノシーンが良かったな、あのセリフしびれたなとか、あの絵はよかったなとか、あの落語はやっぱり十八番だけのことはあるとか、やっぱりあの仕掛けがよかった、だから天然イワナが釣れたとか、あそこの波はやっぱりサイコーのサーフポイントだとか、ライブ良かったな、フュージョンもよかった。
アドリブは最高だったなとか、オレだったらあそこはエンドランだとか、あのラフだったら9番アイアンだぜ、で盛り上がる。

六月二十六日大磯の大親友の命日だった。
この人を失ったのは私の飲む時間の楽しさを失ったに等しい。
四年の月日はあっという間だ。
毎朝毎晩生きていてくれたら一緒にいい酒が飲めたのにと思う。
金に関する話は絶対にしない男だった。一緒にいるだけで勉強になった。
何でも教えてくれた。友をみんな「神様」みたいと言った。
朝起きたら先ず前の日知らなかったことや、不可解なことを聞くために電話をすると、それはですねと言って何から何まで教えてくれた。
この友の墓を参ることは未だに許されない、福島のホットスポットにお寺があるからだ。

先日古い仲間と三人で献杯をした。
友の持ち歌だった♪〜哭(な)いているような長崎の街…、で始まる“思案橋ブルース”はサイコーだった。友の死以来私はずっと思案をしている。
私に答えを教えてくれる先生だった。♪〜あなたのために 守り通した女の操…。
この歌もまた得意だった。私に心底尽くしてくれた友であった。

愚妻が毎朝電話している最中に、あなた変じゃないの(?)と言った。
ウルサイバカモノと言った。私は死は全く恐くない、不眠症が治るから。