男と男、男と女、女と女、親と子、親族と親族、会社と社員、親兄弟。およそ人間社会における関係の中で、いちばん多いモメゴトが金と金の問題による対立と別れ話。
あなたを死ぬほど愛しているとか、君のために命をかける、なんて言っていたりしても、いざ金の問題がからむと、日本語の中にあるあらゆる罵詈雑言、悪口雑言を浴びせ合い、酷い時には殺人事件とか、一族一家全滅とかに発展する。「ビートたけし」の話題がワイドショーネタになっている。
ビートたけしが「オイラは金より、弟子より、会社より若いネエちゃんの方がいいの、オイラのつくった会社は、皆にあげっから、あとは仲良くな」ジャンジャン、と言ったらなかなかの男だったなと思ったはずだが、どこにでもある金の話になった。
金の切れ目は縁の切れ目、オイラが稼いだ、オイラがつくった、オイラが、オイラがを連発すると、がっかりであった。
私は毒のあるビートたけしを男として、芸人として、映画人として、画家として認めていただけに残念であった。ずっと昔だが、嵐寛寿郎(通称アラカン)という大スターがいた。”鞍馬天狗”と”明治天皇”を演じたら、天下一品。この役者の上を行くものはいない。
この大スターは次々と天狗を演じ、次々と豪邸を建て、次々と愛人をつくり、次々と別れた。その別れのときには、金財産を愛人に渡した。
見事というしかない。
アラカンの本の中に、マネージャーが「先生もう愛人に渡す財産、(家屋敷)はありません」と、言うと大スターはこう言った。
「ええがな、ええがな、また鞍馬天狗になれば」と。アラカンタンなのであった。
古人はお金のことを、”オアシ(お足)”と言った。惚れた相手と同じ、追えば逃げ足はやく去って行くのである。
ビートたけしは本屋さんに行って、アラカンの一代記を読むべしである。
オイラがオナラにならないように。