大借金王は果たして大経営者か(?) ソフトバンクグループは金融機関から有利子負債約13兆円以上もの借金をしている。利子だけで年間1兆円近く支払っていることになる。通信事業だけではとても株価の維持ができず、時価総額が下がってヤバイ。そこでアッチコッチを買収したり、M&Aを繰り返している。地球という大きな車輪を持った、大自転車操業グループで、今ではファンド会社になっている。借金は小さくするな、でっかくしろの格言通りを実行している。大きければ大きいほど銀行は返せ返せと言えない。万が一のことが起きたら、金融機関がブッ飛んでしまうからだ。30年ほど前、日本に携帯電話社会の推進をさせた。博士&経営者の方と親しくさせてもらい始めた。そのとき、「オレは天才だが、このオレがかなわない大天才がいるんだ。そいつは何百年先の文明社会が見えているんだ」と言った。誰ですか(?) と聞けば、それは「孫 正義」と言う。これからの日本をリードするはずだ。ZOZOTOWN(ゾゾタウン)の創業者・前澤友作が、突然会社のトップを退社した。目に涙をため、ハンカチでそれはぬぐっているとき、ステージに孫 正義が現われた。ニッカニカ笑いながら、「前澤坊やキミのつくった、2000〜3000億円の借金なんて、私から見れば端数みたいなものだ。キミが生んだ若者たちルートの部分が欲しいので、イタダクよ。後はかわいい彼女と、仲良く宇宙へでも行くトレーニングとやらに精を出しな、ワッハハハハ」。前澤氏は株の売却益2400億を手にするとマスコミが書いていたが、実はバスキアの絵など集めた現代絵画など、他の財産はすべて金融機関の担保、また、借入金の保証人。新居の工事もストップとなる。孫 正義から見ると、前澤友作は赤子同然であった。だからもっと大借金をしとけばよかったのだが、担保力がなかった。また、孫 正義のような悪運がなかったのだ。ただし、天はジッと指をくわえて悪運の人間を見ている訳ではない。きっと、あっとオドロクような結末を用意しているのだろう。身の毛のよだつ、ゾゾッとするシナリオを。私が「短編映画のいいシナリオがあるんだ。ちょっと300
〜500万円融資しろよ」と言えば、「ヘヘヘ、スミマセン担保を出してください」と信金の人間が言った。そんなモンある訳はないのだ。絶対、カンヌの賞をとれる自信があるのだが。孫 正義は映画に出資したりは、ほとんどしない。なぜなら、必ず「損」をするからだ。嫌な金もうけ好きのオッサンだ。アメリカの大投資家の死亡記事があった。いかなる財産を持っていても「命」は買えない。孫 正義にもいずれその日が来る。映画にバンバン出資すれば、寿命は伸びるだろう。千葉では電気を失った文明がいかに無力化するかを証明している。孫さん、太陽光パネルへの熱意失わないでくださいよ。(文中敬称略)
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英南部オックスフォード近郊のブレナム官殿で、美術品として特別展示していた「黄金の便器」が盗まれた。66歳の男が事件に関与したとして逮捕された。が、イタリアの現代アーチストが制作した18金製、作品名「アメリカ」、約5億4000万円以上の価値があるというが見つかっていない。貧富格差をテーマとして、用を足すのに財力は関係ない、とのメッセージが込められていた。9月12日から10月27日の期間中、来場者が使用できるようになっていたという(9月16日 読売新聞より抜粋)。私は以前、茅ヶ崎の知人ご夫婦が経営していた不動産屋さんのポスターを制作してあげたときのキャッチフレーズを思い出した。それはどんな大金持ちの“ウンコの色”と、どんなビンボー学生の“ウンコの色”も変わりはない。背伸びせず、身の丈にあった物件選びをと。短くキャッチフレーズ化した。「金持ちのウンコは金色ではない」。ご夫婦はポスターを見て、キャッとオドロキ、2、3日貼って、やめた。皇帝ナポレオンの色と、ロスチャイルド家やロックフェラー家の人々の色と、金髪のドナルド・トランプの色と、我らと違いはない(濃い薄いとか、固いやわらかいの差はある)。先日、イングランド女王と、スコットランド女王の確執をめぐる映画を見ていたとき、王妃がトイレに行きたくなる。しかしやたらに服の下に服、その服の下にガッチリ固められたコルセットやガードル。玉ねぎの皮をはぐみたいに従女たちが急いで脱がすというより、はがしていく。早くせよ! 早くして、おねがい早く! となった。やがて女王二人の内一人は断頭台で首を切り落とされる。別にトイレのせいではない。権力闘争のせいである。大金持ちも、我らビンボー人も、腹の調子で「軟便は何便も出る」。私は思う。「ウンコ」は平等だとの精神を、全世界の人々が持てば、世界は平和になる。日本の戦国時代、“早メシ、早グソ、武士のたしなみ”と言われた。戦場でゆっくりと用を足したりしていれば、首を切り取られてしまうからだ。サラリーマン社会では、トイレの長い人間は出世をしないと言われる。ケツの軽い人間はダメだが、マンガの本かなんか持って、ずっと出て来ないケツの重いのはダメ。ヤルべきことはさっさとヤル人間が求められる。トイレ内でスマホでゲームをやったり、メールのやり取りをしたりしているに間に、人事異動で飛ばされてしまうだろう。そのとき、クソッ! と怒っても自業自得となる。連休の間、秋葉原からつくばまで行ったり来たりした。イベントの取材と撮影であった。つくばエクスプレスでつくば駅に着き、小用のためトイレに行くと、壁に貼り紙がしてあった。そこには“禁煙” “禁スマホ” “禁食事”と大きく書いてあった。聞けば、学生たちがトイレ内で、この三つをするからとのことであった。トイレ内で食事をする奴はどんな学生だろうか。そうそう、もう一つ小さく書いてあった。“変な落書きをしないでください”。この文字はどうも学生が書いたような文字だった。休み中によく働いたので、きっと「運」が回ってくるだろう。ちなみに盗まれた「黄金の便器」は、米ニューヨークのグッデンハイム美術館の所蔵である。もう溶かされて、金の延べ棒や、金の首輪になっているかも知れない。少し金の臭いがついているので(?)、すぐ足がつくはずだ。運のつきと言う。
だだっ広く青い空、下のほうに真夏の入道雲がニョキニョキ、モクモクと白く立ち上がり、そのずっとずっと上のほうには形を成さない雲がキレギレとある。行合い雲と言う。夏と秋が不倫の男女のように別れては会う。入道雲はまるで若者のいきりたつシンボルのようであり、ちぎれた雲はもう少しで女性でなくなる年頃のこころの動きのようである。会ってはならない、してはならない雲の道である。私は今の季節から初冬にかけての海岸が好きで、時々海岸を歩く。引いても、引いても大したものが入らない、地引網の船が陸揚げされている。風に向かってトンボがたくさん空中に止まっている。台風一過の海岸には汚れた物や、流木やいろんな貝殻が流れついている。ペットボトル、空き缶、ビニール袋、プラスチックの品々、だらしなく伸び切ったコンドーム。死んで乾いた魚、カラスの群れ。釣り人が二人いてその遠くに烏帽子岩。その遠くに大山連峰が黒々とあり、血の色をした夕陽がそこに沈んでいく。右に目を向けると、血色の中に黒富士が美しい。圧倒的に美しいのはこの黒富士だ。いかなる絵描きも真似は描けても、自然の色にはまったく及ばない。私は自然をそのまま描いて、大家と言われている人を認めない。それは芸術ではなく技術だからだ。愛と憎悪、生と破がない。ただ自然を描いて、自然を犯している方は認める。例えば片岡球子さんだ。この人は50代になるまで画壇で認められなかった。あまりにというか、途方もない才能に、保守的ボスたちが逃げて回ったのだ。上野の森は美術展の季節だ。有能な若い才能が、ボスたちによって名作をただのゴミにされてしまう。ヒマを持て余した老人たちが上野の森に集まるが、絵とは何たるものかを分かっている人はほぼいない。マア富士山がキレイとか、ナンテ富士山にソックリなのとか。アライヤダこの富士山はなんでゴツゴツしているのとか言って混雑する。大自然の色をもっとしっかり見ようと思うのが、私にはこの季節だ。貝殻にへばりついた伸び切ったコンドームに、短編映画への創作意欲がフツフツと沸く。これを使った男女は、行合い雲のような関係だったのではないかと。夕焼けに勝る赤は誰も描けない。
「今は黙して行かん 何を又語るべき」。昨日深夜の新大臣たちの記者会見、今朝のテレビの各局のMCたちの低レベル。小林旭のヒット曲「北帰行」の心境である。遠くから軍歌が聞こえてくる。みなさん、この国の未来を考える週末にしてください。右もよし、左もよし、まん中もよし、ノンポリもよし、いっそ何も考えざるもよし。思想は“今は”自由だから。「寒いこころ寒い 哀しみ本線 日本海」という。森昌子の名曲を朝日を浴びながら口ずさんでいる。
私は原始生活に憧れて来た。文明の進化に対して心よく思って来なかった。何故か(?)人間が人間でなくなってしまうからだ。誰かが何のために創ったか分からない人間という生き物は、果てしなき無尽蔵の才能を生む。現代社会においては、誰もが迎える「死」をまぬがれる以外のほぼすべてを、コンピューターや人工知能AIや遺伝子学がやってくれる。いずれは「死」を迎えたくても、薬一錠、注射一本、放射線のようなものを一瞬浴びせただけで、「死」ぬことはなくなる時代になる。人間社会は四苦八苦の世界だが、いつかは極楽へ行けるという、唯一の「楽」がなくなってしまう。もちろん、私のような人間には地獄が待っている。もうこれ以上、進化しなくてもいいよというくらいになった文明社会も、大自然の猛烈なパワーの前では、まったく無力化する。停電となれば、何もかもが機能しない。大洪水、そして大地震となれば、一本のマッチ、一本のローソク、一本の懐中電灯、一個のパン、一個のおにぎりのありがたさが分かる。私がこの歳になって今、考えている人生のコンセプトは、若かれし頃に一度提案し、拒否された言葉、「人間は、人間に帰ろう」である。もっと原始に戻って行こう。24時間明るい電気がついている街をやめよう。オール電化の家など停電したら、死ぬほど不便な状態になる。飛行機は飛ばず、列車は動かず、テレビもラジオも使えず、パソコンやSNSも使えなくなる。ピースジャパン、ピースワールド、ピースコスモスには、文明進化はいらない。太陽の光りと、日の明かり、星空の輝さえあればいいのだ。私の故里岡山、倉敷に行って来た。台風15号の影響でダイヤは乱れて、とんでもなく時間がかかった。でも久々に倉敷美観区入り口近くの、瀬戸内魚料理の店「浜吉」は、旨かった。同行のカメラマンの友人に、はじめて名物の「ママカリ」をすすめた。酢漬けと照り焼き、コハダほどの大きさだが、私は何より好きだ。シャコ、エビ、イカ、平貝、穴子、タコ、サワラ、それにホタルイカ、みんな旨かった。それに安い。店内は当然のごとく満員であった。ぶっかけうどんの名店を次の日探したが、まだオープン前だった。倉敷美観区を代表する林源十郎商店の熱血社長、辻信行さんが車で、アチコチ案内してくれた。真庭市でコンサートを終えて来てくれた。歌手の女性をマネージメントをしている人も一緒だった。以前、私の所にいた女性アートディレクターが無事第二子出産、その御祝いもかねていた。まだ2ヵ月弱。今は岡山で仕事をしている。名前がなんと「虎和」君、正しくは「トワ」ちゃんというらしい。岡山生まれのご主人が熱狂的虎キチ(タイガースファン)であった。辻社長は幸い私が持っていた、新作のジャムのポスターをみなさんと大感激してくれた。パリシャンゼリーゼ通りでも通用する斬新なデザインをした。ADの青木美穂さんが期待に応えてくれた。次は甘酒のポスターに挑戦する。久々の晴れの国、岡山は正に大快晴であった。帰路、小泉進次郎の入閣を知った。石破茂支持者だった。今回、石破派は完全に干されて、アジの開きにされた。小泉進次郎を取り込んで、これからの2年では、難しいという憲法改正のために、4選の手を打った。小泉進次郎は口舌の徒。いかようにも行動を変えるだろう。衆議院選挙がぐっと近づいた。必ずやるはずだ。そして、その後最大派閥のボスとなる安倍晋三は、総理大臣を辞めた後もずっとずっとキングメーカーとなる。さて、ユダは誰か(?) ブルータスは誰か(?) 裏切り者はすぐ側にいる。屈折した野心と共に。金と権力は一度手にしたら離せない。まったく非原始的社会にうんざりとする。が、これが人間社会なのだろう。小泉進次郎の次は橋下徹vs山本太郎がニュースを騒がすだろう。
(文中敬称略)
昨日午後2時〜5時、あっという間の楽しい時間を楽しんだ。私が国宝といっている、天才葛西薫さん。名門サン・アドに長く勤める、もと私のところにいた美女二人。ところは中野駅北口大アーケードの主流からちょいと外れた路地裏。店の名は「第二力酒蔵」、なぜ2時からと思ったら、店は2時オープンだった。世界的グラフィックデザイナー葛西薫さんは、北海道出身で魚の善し悪しに目が効く。この店がまるで札幌の市場がそのまま移動してきて、広々とした店を構えているが如く、メニューは超のつく新鮮魚類図鑑であった。イカ、平貝、カワハギ、サバ、白身魚たちの盛り合わせ、絶品のキンキの煮つけ。ずっとむかし話、ちょっとむかし話。最近の話、直近の話、内緒の話は、アノネノネなど、あっという間に3時間、ソロソロ次のお客さんがと、店の人に言われなければ終わりなき、おいしい、たのしい、うれしい時間であった。当然、お金にまつわる下世話な話は一切なし。私は葛西薫さんを国宝と言っている。人格、見識、明朗、才能の宝庫だ。私の敬愛する神の申し子「仲畑貴志」氏との、サン・アド時代のサントリー、ソニーの名作の数々、その後も日本の広告史を二人で創った。二人は今も光り輝く作品を世に出している。サントリーが生んだ、サン・アドという会社の功績の大きさは計り知れない。私たちの業界もSNS社会の台頭により、すっかりしょげかえっている。だが、生活の糧、今日のパン、明日のパンのために、働かねばならない。広告主の担当はゲーム世代なので、エモーショナルな広告を好まない。つまり感情の広告を必要としない。でも私はあきらめない。きっと言葉の時代、メッセージの時代、叙情的世界の広告の時代が来ると信じている。若い人材たちの感性で。そして、香港の若者たちのような、怒りが噴出する時代が来る。そのとき、必要なのがメッセージ広告である。広告は社会の鏡と言う。久々4人でたっぷり「北の味」を食した。「キンキ」はやっぱり北海道がいちばんだ。数日前、天才中野裕之監督と昼食をともにした。天才は東京の離島を撮影しに行くとか、まずは青ヶ島、ライフスタイルデザイナー山藤陽子さんと三人であった。山藤さんは全身黒のファッション、すき透るような美しい女性。才能あふれる人たちと会うと、私の闘志に火がつくのだ。水曜日まで400字のリングは休筆となる。みなさん、いい週末を。私はいろんな天才に会いに行く。
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9月5日早朝、ニュースを見ると、イギリスの国会で、ガンガン議論をしていました。我が国の国会議員がコソコソと野党から、自民党に移って行くのと違って、議場で議員がEU離脱反対の意志として、その場で相手陣営に移動するという分かりやすい行動をした。かつての海賊国家、植民地政策国家も、国家の損得となると談論風発、熱烈議論となる。イギリスは我が国の議会制民主主義の先生である。生徒の我が国は相手の傷を見つけると、ひたすらそれのみの追求に終始する。その間に国民にとって最重要政策は官僚たちによって楽々と進み、強行採決となる。マイクを握る委員長、そこにオレ・ワタシは、テレビに写っているとばかりに絶叫し委員長席に殺到する。が、顔はしっかりテレビに向かっている。つまりは茶番である。世界史上、イギリス、フランスほど戦争ビジネスを支配して来た国はない。マッチポンプである。9月4日の日経新聞に、「クジャク繁殖に困惑」「宮古島、台風で逃げ出す」「絶滅危惧種・農業に被害」と大きな見出しがあった。小さな頃はじめてクジャクを見たとき、その美しさに立ちつくした。まさかその美しいクジャクが猟友会の人たちの散弾銃でバンバン殺されているとは。宮古島には天敵のトラやヒョウがいないので、異常繁殖して今では2000羽ぐらいがいて、農業被害が酷いことになっているのだとか。奄美大島ではハブ被害を防ぐために、マングースを持ち込んだら、あらよ、あらよという間に1万匹近くなり、生態系を壊してしまい、あわてて殺しまくって現状は50匹以下になったとか。話を国会に戻すと、近日中に内閣改造がある。官房長官留任、幹事長留任、財務大臣留任、政調会長留任という報道が流れている。内閣の外に出すとタメにならないので、閣内にとじ込んでおいて改憲を目指すのだろう。つまるところ長期政権において若い政治家が一人も育っていないことになり、リベラル派の台頭は許さないということなのだ。そのむかしこの国の国会も、マムシとマングースみたいな議論は行なわれていた。今の荒探し国会ではなかった。今は罪深きであり、情なきなかである。韓国の玉ネギ教授は、11時間インタビューに応じて恥の上塗りをしていた。この玉ネギを料理できないかと、韓国内は香港のようにデモの嵐となるだろう。我が国に不正を正すための国民のエネルギーはない。日々の生活とバラエティーな情報社会の中で、SNSだけが自己表現手段という陰湿社会なのだ。いい人材は登用しなければ国が滅びる。歴史がそれを証明している。出て来い、マムシとマングース。セクト主義でキレイごとぶった、野党クジャクは猛省せよ。逃げるように野党から与党に移った政治家は、消え去るべきだ。
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対面(トイメン)同士の店。私の主な仕事場は銀座2丁目。この近辺で何度か引っ越したが、ほぼ50年銀座で芸を売っている。仕事場から京橋方面に歩いて3分ぐらいのところに名もなき小さな公園がある。その斜め前地下1Fに「銀つね」というかなりレトロな飲み屋がある。初老の夫婦、主人は社交ダンスをしているようだ。写真がべたべた貼ってある。店内にはいつも小林旭の名曲が流れている。古いスピーカー がある。常連たちが来る。私の仕事仲間はここが大好きだ。ご夫婦はとてもかんじがいい。主人は私の人相が悪いのでお酒を注いでくれるとき、ブルブルと手先が震える。冷奴、赤いウインナー炒め、厚揚げ豆腐、ヤキソバ、肉ヤサイ炒めなのが定番である。むかしながらの店好みにはたまらない。マイナーな店である。その店の対面(トイメン)にある年、ポツンと一軒のイタリアンレストランができた。昭和通りの一本裏で人通りは少ない。路地裏の角っこであった。こんなところにイタリアンなんかつくって、大丈夫かなと思った。オープン当時はガランガランで人が並ぶことなど見たことがなかった。ある年になると、朝8時、9時から人が集まり出した。店の前の木の椅子に女性たちが腰掛け、予約名を書いていた。オッ、オッ、オッ、何があったか。ある情報でとにかく旨い、安い、新しい。サイコーだと広がり「予約のとれない店No.1」となった。LA BETTOLA da Ochiai(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ)、「LA BETTOLA」はイタリア語で食堂というらしい。オーナーシェフが落合務さんであった。落合さんはママチャリによく乗って、店の近辺を走っていた。ステキなオジサンである。その落合さんの連載コラムがある新聞で始まった。昨日はその第2回。なんと落合さんの父親は6度結婚して、6度離婚していた。親に反発して、名門一貫校の高校を中退して料理人の道に進んだ。今は月の半分を後進の指導のために全国を回っているとか。一度コーヒーメーカーの仕事に出演を依頼に行ったが、そのときは「一社だけは、ダメナンダヨネ〜、ワカッテ、ゴメン」と言われた。落合さんは魚海岸や野菜市場に行き、半端ものや、形崩れしたものを安く仕入れて来て、絶品の料理にする。だから値段を高く設定しないのだ。だからお客さんが集まるのだ。「食堂だからネ、安くて旨くないと」がモットーなのだ。落合務さんが銀つねに行っているか分からない。対照的な二つの店の前を歩いて通ると、何だかうれしくなるのだ。「銀つねよ、がんばれ」と声をかける。「社交ダンスで優勝しろよ」と言う。以前行ったとき、私の好きな小林旭の曲がなかった。「ダメじゃないの」と言ったらブルブルッとした。銀座の一等地にたくさんの名のある店があるが、これはと思うお店は、高くて気どっていて、たいした味はしない。能書きの多いイタリアンが増えて、ワゴンにのせた料理をイチイチ詳しく説明する。一度「ウルセイ、食べれば分かるよ」と言ったら、シュンとした。今流行らしい。「銀つね」なんか、何も説明しない。メニューが豊富だから、一度ぜひ行ってやってほしい。一人1000円〜2000円で十分気持ちよくなる。小林旭の「さすらい」「北帰行」「純子」「昔の名前で出ています」、これを聞くとたまらない。年に二度ぐらい行くのだ。ラ・ベットラ・ダ・オチアイは、現在夏休み中。
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コインに表と裏があるように、この世は表と裏でできている。人間という生き物を創ったのが誰かは分からない。ある学者は創造主と言う。ある学者はある奇跡の掛け算の結果と言う。ある学者はただの偶然の進化だという。この世に真実はあるかと言えば、間違いなくNOである。嘘のない人間もいなければ、嘘のない人生もない。この世は嘘という粘土でできている。雲に常形なく、水に常形がないように、ヒトの人生に常形はない。昨夜、相変わらず眠れぬ夜に映画を見た。原題は「THE WIFE」。日本語題は「天才作家の妻 40年目の真実」。時代設定はクリントン大統領時代、空には超高速ジェットコンコルドが飛んでいる。老夫婦(70〜75歳)がベッドの中にいる。妻は眠っているが、スケベジジイの夫は眠れない。腹が減ったと言い何か食べる。妻が起きて「糖分のとりすぎは体によくないわよ」と言う。夫はなんと妻に「SEXをしよう」と言う。老妻は「何言ってるの」と言う。そして老妻の体をいじる。「若い男に抱かれているのをイメージしろよ」と。そこに一本の電話が入る。なんとノーベル賞の選考委員の事務局からだ。「オメデトウございます。ノーベル文学賞に選ばれました」と。この映画はノーベル賞授賞式を見事に再現する。相当の予算がかかったはずだ(否パーティ会場のシーン以外は工夫して予算をかけていないかも)。映画はノーベル文学賞がいかにバカバカしく、イカサマに満ちているかを風刺的に描く。そもそも文学賞なんてものは最初はなかった。ストーリーは単純だ。作家夫婦はもとは大学の文学部教授とその教え子だった。教授は女性大好き人間だった。当然のように美しく才能ある教え子に手を出す。結婚をするが若い女性には目がなく、浮気ばかりする(そのシーンはない)。妻はジッと耐え忍ぶ。小説家としての才能は自分のほうがある。夫は自分の書いた小説を世に出す道具でしかない。ラストにあらん限りの言葉を使って夫をなじり倒す。一日8時間小説を書いた自分こそが受賞者だと言う。ノーベル文学賞を受賞すると、一人の伝記作家が現われ妻がゴーストライターであったことを暴いていく。結婚して40年ずっと秘密にしていた過去を探し出す。伝記作家は言う。「あなたは何であったのか」と。妻は言う。「私はキングメーカーよ」と言う。確か松本清張の本だったと思う。ある画壇のボスの絵はほとんどが弟子が描く。ボスは絵の最後の仕上げにチョンチョンと筆を入れるだけだ。そしてそれが日展の最高賞になる。すべてはボスたちの間で談合され、取り決められている。表彰式かなんかの会場で、「次はソロソロ入選させるか、キミの弟子を」と言って配分が決まる。今の世の中、日展に入選しても最高賞になってもニュースにもならない。読書はあまりしないが、夏休みの間に「文士と編集者」という本を読んだ。講談社の純文学専門雑誌「群像」の名物編集長であった「大久保房男」の著作である。創刊以来20年もの間、編集長をやっていたので日本の純文学史みたいな人物だ。この本は実に面白く、読み応えがあった。文士なんて言える小説家は現在いないが、明治、大正、昭和中期頃まではいたと言う。その表と裏の表情が読むと分かる。純文学とは徹底的に私小説でなければならない。ちなみに大久保房男氏が最後の文士と言ったのは、「高見順」であった。9月3日午前1時46分38秒、外では鈴虫が鳴いている。遠くで潮騒の音が立っている。台風がまた生まれたようだ。残暑がキツイ日がつづく。季節に表と裏はない。誤差だけはある。植物たちは着実に秋冬に向かっている。(文中敬称略)
マッテオ・ガローネ監督。世界中の若手監督でこの人の影響を受けていない人はいないだろう。今をときめく監督たちの目標だ。カンヌ国際映画祭の常連である。大評判を読んだ「ゴモラ」の監督である。そのマッテオ・ガローネの新作「DOGMAN・ドッグマン」が上映開始となり、何をさておいてもヒューマントラスト渋谷に行った。金曜日の夜である。この監督の映画の舞台は、イタリアのナポリだ。映画の手法は徹底的にリアリティを追う(作品にナポリ市民を主人公にした“リアリティ”というのがある)。ナポリはイタリアの街。30年間に4000人が抗争によって殺された街である。3日に一人が殺されている。マフィアの名は“コッモラ”。ゴモラとは聖書の中に出てくる街の名。神の怒りを受け滅亡された街の名だ。このゴモラの主人公役を演じた役者は2018年カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞した。特別にパルム・ドッグ賞、さらにダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で最多9部門受賞。作品賞、監督賞、脚本賞、助演男優賞、撮影賞、美術賞、メイクアップ賞、編集賞、録音賞である。つまり映画として完璧であるということだ。薄暗いナポリの街の一角。二人の友人同士。一人はDOGMANという犬のトリマーショップを一人でやっている。世間に隠している仕事としてコカインの密売をしている。一人の友人がいる。この男はナポリの中で嫌われている悪業非道の暴れ者だ。ナヨナヨとした男とマッチョな男。コカイン欲しさにここまでやるかとトリマーの男を痛めつける。自分の身代わりとして1年の刑に服してくれたら大金をやると約束する。トリマーは1年服役して出所して来るが、待っていたのは以前に増した暴力であった。人間の感情の限度をこの映画は計る。人間の非暴力と暴力との境界を探す。弱いはずの人間が強い人間を退治すると決めたとき、その人間性を破壊させる。そこには地獄絵図のような世界が当然のように現れる。現代社会では極度の格差社会である。一部の富める者たちを相手に弱者が怒りを爆発させたらどうなるか。それを暗示させる。狂おしく、牙をむく犬、犬、犬。彼等はトリマーの言うことしか聞く耳はない。最後にトリマーが選んだ復讐とは。愛犬家の方々はぜひ観て欲しい。久々にものすごい映画であった。