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2015年6月8日月曜日

「日曜日に観た、ある日曜日」


※イメージです


六月七日、日曜日。
早朝地引き網を見る、深夜TSUTAYAから借りたDVDを観る、渥美清主演「泣いてたまるか」全20巻に挑戦して遂にあと4巻となった。全部観ると1800分近くだ。

いい人ばかりが出るドラマだったのだが第15巻「ある日曜日」にはじめて嫌な人間が出て来た。脚本は大巨匠となった「木下恵介」だった。

主人公は渥美清、市原悦子が演じる夫婦(一人の男の子、一人の女の子)。
結婚して十年になる家族であった。嫌な奴とは隣に住む夫婦の妻と、その居候の弟、妻の母親だ。50年ほど前の社宅、壁一枚で話は筒抜け、野心家の居候の弟は小説家志望で、渥美清家を二階からいつも見ている。

“ある日曜日”渥美清家はデパートに行くこととなり子どもたちは大喜び、妻もこの日はと一張羅の着物を来てお出かけとなった。
お隣の家に「すみませんちょっと横浜まで出かけますので留守をします、何ぶんよろしく」とご挨拶をします。
隣の妻と母(主人は養子で無言)は、なんだね横浜行くのがそんなに嬉しいのかねと嫌味をたっぷりという(当時は留守にする時お隣さんにひと言いっていた)。

事件はデパートで起きた。
買い物をしていた時、下の女の子(四歳位)がハンドバックを持って動きだしてしまった。母親はダメよ返してらっしゃいといって叱りバッグを持っていたら万引きと間違えられてしまったのです。その姿をお隣の居候に見られてしまいました。
居候はそれを姉や母にしゃべり、それを聞いていた子どもたちがご近所にふれて回ります。社宅みたいなところはそんな話はあっという間に広がってしまいます。

意気消沈した奥さんはダンナに私が無実だったことを説明して回ってと強くいいます。
人のよいダンナさんはそんなことをする必要はないよ、ちゃんと無実が証明されたのだから。母は四歳位の娘にきつく当たります。
あんたがバッグを持って動いてしまったからよと、娘は泣きじゃくります。

そんなシーンを隣の居候は「日曜日の悲劇」という題名の小説にして懸賞小説に応募して入選します。出版社がカメラを持って取材に来ます。
姉と母は魚屋から鯛を出前させて御祝いをします。
居候の彼女は人の不幸を本に書く男に嫌悪感を持ち別れの手紙をよこします。
渥美清の妻は悶々とします。

そして、その日ふとんに横になり下の娘とガス自殺を図ります。
上の男の子が学校から帰り、ぐったりしている母と妹を見て、大変だ、大変だとご近所に助けを求めて事なきをえたのです。

渥美清と市原悦子夫婦は故郷に引越をします。
渥美清は仕事があるので単身となり、アパートの一人住まいへと引越します。
お隣のご主人が申し訳ありませんでしたとお詫びに来ます。
柱時計を外し風呂敷に包んで渥美清は道をトボトボと歩いて行きます。
後姿に無念が浮かんでいます。

たった1つの誤解、子どもの無邪気な行為が大不幸を生んだのです。
そして噂の拡散。

現代社会はメールとかツイッターとか、ラインなどというものが人の大不幸を生んでいる。ちなみに居候役は「新克利」だった。
♪〜上を向いたらきりがない 下を向いたらあとがない 匙をなげるはまだまだはやい 五分の魂 泣いてたまるか・・・が渥美清の後姿にかぶり、遠くに横須賀線が走っていた。

かつてこの国には隣人同士“おすそ分け”などというあったかい習慣があった、私の家もお隣さんから時々おすそ分けをいただく、私はそんな時子どもの頃を思い出す。
隣のおばさんからもらった水戸納豆の味を思い出す。

2015年6月5日金曜日

「ああ、沼津行」




だから沼津行は嫌いなのです。
東京発2102分、ベルは鳴る鳴る、階段をオリャーコリャーと気合を入れて登りグリーン車に滑り込む。

車内はすでに満員状態であった。
チキショウめと思って探したら四席空いていた。
一席は女性らしくない女性なので辞め、一席はパソコンを叩いているのでやめ、一席はすでにビールのロング缶を二缶と、宝缶酎ハイを飲んでおり、お決まりのつま味を食べているのでやめ、で、残りの一席しかない。

後から三番目通路側、窓側のメガネをかけたおじさんはじっと目を閉じている。
とりあえず息を整える、新橋を過ぎた時、取り寄せてもらっていた松本清張の「山中鹿之介」を読むべしと思いバッグから出して読み始めた。
隣は沈思黙考、ぜひこのままでいて下さいと思っていた。 

56頁「泥子を討って、隆元の弔いをせよ」のところにいった時、おじさんの目がバチッとおっぴろがった。列車は田町辺りを過ぎていた。
足元にあったバッグを膝の上にのせてチャックを引いた、中にはワンカップ白鶴が、ウィスキー(サントリー角)のポケット瓶が二つ、駅弁(牛肉ど真ん中)、焼売、焼鳥、貝柱くん製、それと柿の種などが続々と出て来た。

出しては入れ、入れては出し、まずウィスキーをラッパ飲み、プーンとウィスキーの臭いが来た。続いて焼売の臭いが、続いて貝柱、もう山中鹿之介どころではない。
品川から川崎を過ぎたあたりでウィスキーは終り、次はプーンと日本酒の臭い。
いつの間にか靴を脱いでいた。ヤローいい加減にしろと思いつつ列車は走る。

おじさんは六十五・六だろうか、否七十二・三歳かもしれない。
おやっと思うと手にはスマホを持っている。
私はすでに活字を追う気力は臭いで失っている。目はおじさんのスマホ画面に、お、なんだ、指を広げたりつぼめたり、上にしたり、下にしたりしている画面には、若い女性の姿が何分割かにされていて夥しい数である。おじさんは時々その中の気に入ったもの(?)を拡大する。

日本酒を飲む、貝柱を口に入れる。次にいよいよ柿の種の袋をくわえて破った。
目、口、左手、右手を総動員、足はズルズルとした靴下、かゆいのか足で足をかく。
慣れない読書なんかするのがいけなかった。

山中鹿之介は58頁でやめて私はじっと目を閉じた。
忍の一字だ、怒っちゃダメだと言い聞かせる(果たして怒る権利は有るや無しや)。
二分前の湘南ライナー(21時丁度発)に乗っていたらこんな事にならなかったと思った。

列車はやっと横浜を過ぎたのであった。オッと空席が出ている、私はおじさんの隣の席を立ちいそいそと移動した。目の前の網の中に缶ビールの空缶と、夕刊フジと、いかくん製とチーかまの食べ残りの袋が入っていた。
確か女性らしからぬ女性が座っていたはずだと思った。

2015年6月4日木曜日

「役柄」



六月朝の雨は泪のように光っていた。
花弁をいっぱいにした薄青い紫陽花はまるでくすだまの様であった。
公園の片隅に咲いているくすだまたちを見ていて緑の葉っぱたちの方が美しいなと思った。不規則な木の部分が逞しいなと思った。
背の低い紫陽花の根の部分を見るとふてぶてしいように力強く見えた。
紫陽花は絵を描く人たちのよき題材であった。

その日久々に絵を描こうと思った。ノオトにスケッチを描いた。
私が紫陽花を描こうと思っているのは根の部分だけだった。
花弁は画一的でつまらないと思った。

根の部分には生きていくための必死が見えた。
根の下を掘って見てみたいと思った。
小さな子どもたちが遊ぶ公園の下には生き残っていくための根と根が無数に絡み合っているのだろう。

人間も同じだなと思った。
人にはそれぞれ役柄がある。土の下の根の役、土から出た木の役、そして咲く花の役だ。私が土の下にて乱れに乱れる根の脈になりたいと思うのはいうまでもない。
美は乱調にあるという。

2015年6月3日水曜日

「夢のポスター」




六月一日(土)ある用があってタクシーに乗り茅ヶ崎の産業道路を走っていた。
午後一時半頃だった。

腹がへったなメシでも食べるかと顔なじみの運転手さんにいった。
ハイ!食べますといった。産業道路にはこれといった店はない。

一軒の和定食屋さんがあった。中に入るとかなり広い、メニューはやたらに多い。
きっと私が憧れるガテン系の人たちが来るのだろう。
私と運転手さんはいろり形になったテーブルの角と角に座った。

私はつけとろそばを、運転手さんは体が大きいのでもりそばとヒレカツ刺身定食を頼んだ。店内にはむかしのビールのポスターや映画のポスターが貼られていた。
店の女性になんでと聞いたら、先代が好きで貼ったようですよといった。

あっ、私は二枚のポスターに目をやった。
3判を立て2分の1にした日活のポスターだった。いずれも主役は石原裕次郎さんだ。一枚はな、なんと「天下を取る」一枚は石原裕次郎原作「あじさいの歌」だった。
共演は芦川いずみであった。

店の女性に知ってる、今大ブレーク中の藤竜也の奥さんだよといったら、そうですか知らなかったといった。タクシーの運転手さんが「天下を取る」なんて本当にあった映画なんですねといった。

それにしてもまるで夢を見ているようだった。
ほしいなあ、あのポスターがと思った。時間をつくってまた行こうと思っている。
なんとかして手に入れたいものだ。車の中でふとこんなことを思い出した。

あるテレビ番組の人気コーナー“食わず嫌い”で石原裕次郎さんの後継者、渡哲也さんが食う奴の気が知れない、大嫌いですといっていたのが「とろろ」だった。
マズかったなツキが落ちる、他のを食べればよかったと思ったが、時すでに遅しだった。とろろそばは決してまずくなく期待以上に旨かった。

2015年6月2日火曜日

「芸術と技術」






その女性は一〇三歳になっても若返っていく。
墨の芸術家「篠田桃江」さんだ。

書道からはじまり書道を否定した。
書であって書にあらず、大きな硯が生み出す黒色、血管が浮き出た細くしなやかな腕と指がゆっくりゆっくり動くと、千色、万色の黒のグラデーションが生み出される。
硯の上に滴る水の量、硯の持つ個性、墨を持つ力の加減がそれを生み出す。

自分の腕と一体になるように特別に作った筆はとても長い、筆先もだらりと長い。
このだらりが墨を吸い込み書き手と意志を通じ合い金箔、銀箔、和紙の上をまるで蛇がうねるように動き、時に図太く、時に荒々しく、時に細々とそしてさらに極細の線、を生む。また自在の面形を生む。

篠田桃江の世界は妖しい黒から白への無数の階調の世界だ。
「生きている限り、前とは別のものができる」という、昨日と今日は違う。
篠田桃江の人生は「わがまま」を貫き通すことであった。

「お手本通りにすることくらい朝飯前ですが、それではつまらない。お手本をまねするのは複製を作ること、アートはまねしたものは偽物です」朝日新聞、著者に会いたいのインタビューに応えていた。

私はNHK ETVのドキュメンタリー番組で見た。
映画監督篠田正浩は従兄弟である。この女性は強烈だ、自分を確信しながらも日々自己を徹底的に研磨する。妖気ただよう美しさがある。近寄りがたいリリシズムがある。
能楽の小面(こおもて)のように、表情があって表情がない、妥協を許さないでくるときっとこうなるという表情だ。究極の抽象画家といえるだろう。

黒い闇の中でバッサリ人に斬られた時、飛び出す赤い血のように時として赤色が黒色を灰色を刺すのだ。芸術とは人のやらないことをやる、それを貫いている篠田桃江はその鏡だろう。何しろ歳を重ねるごとに若々しくなるのだから。
どんなに上手く描いてもそれは技術に過ぎない。これは全ての芸術にいえるだろう。
(文中敬称略)








2015年6月1日月曜日

「親分の女になってくれた女性」




「山が私を変えたよ」といった。

五月三十一日で一人の女性がクラブのチーママから“上がった”上がったとは夜の仕事を離れ昼の仕事についたということ。
私がかれこれ三十五年の付き合いをしている店にいた女性だ。赤坂を上がって、うどん割烹の修行をして祖国で開業したいという。
 
彼女は韓国の女性であった。七年近くいたクラブの看板であった。
私はこの女性に借りがあった。
最新作の短編映画(27分)に“親分の女”として出演してもらったのだ。
ノーギャラに近かった千葉県君津の廃墟で早朝から夜までとんでもない姿になりながら、寒い中がんばってくれた。次の日杉並の公園のシーンでとてもいい芝居をしてくれた。

彼女は私の知る限りいちばん歌が上手い。
ホイットニー・ヒューストンの歌をホイットニーより上手く熱唱する。
勿論英語で。スタイル抜群で、美しくとても可愛い、それにビューティフルバストだ(全部を見たことも触ったこともないけど)それ故多くのお客さんに愛され続けた。

そんな中で彼女は山登りを知った。
ふとした友人からの誘いで初級の山に登ったら息ができないほどヘトヘトになった、そんな自分が情けなくなったという。それから歩くことを始めた。 
1km2km,そして毎日10kmと足を鍛えていった。
土日は山に行くのが何より楽しみとなった。スキーも覚え上達していった。
大自然の澄んだ空気を思い切り吸うことを知った体は夜の仕事を拒否し始めていた。

もういっぱいいっぱいだといった。
その一方で山を知った体はすっかり堅気に変わっていった。
ママさんと私と彼女の三人で送別の食事をした。
長い髪はバッサリ切ってボブヘアになっていた。小顔が余計に小さく見えた。
薄化粧のメイクであった。すっかり夜の顔は消えていた。

上がった以上は絶対に成功をしてほしいと思った。
誰かいい女性いたらよろしくとママさんにいわれた。
私はすっかり夜の世界から足が遠のいているから、私の親愛なる兄弟分に(この人は全然遠のいていないから)相談するよといってサヨナラをした。

実は私もよく登山をした。特に中央アルプスの入笠山によく登った。
今の季節頂上付近には鈴蘭の花が一面に咲く、白樺の林と絶妙なデュエットとなる。
天気がいい日は北アルプス連峰などがパノラマのように見える。

悪ガキだった私を登山部出身の姉が連れていってくれたのが始まりだった。
一人の山友だちが山登りを教えてくれた。山に登っている時だけは私は純粋な山男だった。丹沢、昇仙峡、甲斐駒ケ岳、三つ峠、奥秩父縦走など春山、夏山、秋の山に登った。山は人間をキレイに洗ってくれる空気がある。

赤坂の彼女はこれから昼の空気に慣れなければならない。
これが実に難しいのだがきっと我慢強い彼女なら頂上まで登ってくれるだろう。
もう一度ホイットニー・ヒューストンの歌を聞きたいがその機会がないことを願っている。彼女の名は「美美」さん。私たちが作った映画を見る人は会うことができる。
映画史上初めての姿に。七月か八月に第二回の上映会をする(第一回は前橋)。
ご期待あれ!

2015年5月29日金曜日

「ある判決文」




「インド人もビックリ!」なんていうカレーのCMがあった。
検事もビックリ!弁護士もビックリ!原告側もビックリ!被告側もビックリ!の言葉が裁判官の口から出た。私もすっかり口にするのを忘れていた言葉だ。

昨年四月の法廷で判決が出たものが、何故か昨日の朝日新聞で報じられた。
突然出た言葉とは「枕営業」。

体を張って営業活動することを意味する。一人の妻が自分の夫が7年間クラブのママと関係を持っていた。そのことにより精神的苦痛を味わったと慰謝料400万円をママに求める訴訟を起こした。その判決が東京地裁であったのだ。
「枕営業は結婚生活を害さない」との画期的(?)判決であった。
妻はクラブのママと二人の関係は不倫だと訴えたが、あえなく敗訴した。

判決文は「売春婦が対価を得て妻のある客と関係しても、商売をしたにすぎない。結婚生活も害さないし、妻への不法行為にならない。枕営業と売春の違いは対価の支払いが、直接か間接かの違いにすぎない」この判決文では妻の夫は売春婦と関係を持っただけだから諦めなさいであった。

さて、どーだろうか、クラブのママさんを売春婦呼ばわりしていいのだろうか(?)
また、売春婦を差別しすぎて無いだろうか(?)
職業に貴賎はないはずではないか、人はみな生きて行くために体を張っているのだからそれぞれの“持ち味”を活かさねばならないこともある。

つまるところ何故夫は妻よりクラブのママさんに心を寄せたかだ。
裁判官はそういいたかったのだと思う(?)奥さんあんたが嫌だからだったんだよ、この際自分に落ち度はなかったか考えてみなさいと(違うかな〜)。
この逆のケースもあるだろう。男女同権だからね。

なんだかよく分からなくなっちゃったがやけに「枕営業」という言葉が新鮮だった。
日々営業して仕事を得るということは八百屋さんが野菜を、肉屋さんが肉を、私がアイデアを売るのに等しいともいえる。

私はよくこの歌を口ずさんで来た。
仕事上で嫌な相手にお上手を言ったり、過度のサービスをしている自分を見て、こころが切れ切れするほど嫌な気分になった時、♪〜ボロは着てても心は錦・・・と。

この世で生きて行くにはやむにやまれぬ事がある。
男と女の間にはエンヤコラ漕いでも渡れない河がある。
「妻は夫を慕いつつ、夫は妻をいたわりつつ・・・」確かこんな浪曲があったのを思い出す。

2015年5月28日木曜日

「村中(ムラジュウ)」




男が日傘をさすという話は聞いていたが、昨日銀座四丁目でそれを見た。
グレーのスラックスにストライプのYシャツ、左手に茶色のトートバッグ、靴は傘ばかり見ていたので足元は忘れた。

天才画家山下清を小林桂樹とか芦屋雁之助が演じたが、暑い日は確か傘をさしていた。
日傘は帽子の23度減に比べて810度も体感温度が下がるという。
35度の時日傘をさせば、頭の部分は2527度になるわけだ。
こりゃ涼しいではないかい。頭以外は熊谷とか館林で、頭の上は軽井沢高原なんだから。

頭のど真ん中を鍼灸のツボでは百会(ひゃくえ)という。
この百会を猛暑、灼熱から保護することはきっといいはずだ。
更に頭髪が薄くなっているのが気になる人には、その大敵である強い紫外線から守ることができるからベリーグッドだ。

遮光率が99%以上の生地を使用した商品を「遮光日傘」、99.99%以上は「遮光一級日傘」と呼ぶらしい。UVカットで皮膚ガン予防も期待できる。
さぁ〜どうだ、これでも日傘を買ってささねえかとテキ屋の啖呵売(たんかばい)みたいにすすめたくなるではないか。

銀座四丁目の日傘男を誰も注目することはなかった。
ジッと見ていたのは私だけだった。

ある会社に「村中(ムラジュウ)」という秀逸のアダ名を持つ背の高い男がいた。
一年中腕に傘を掛けている。そしてゆっくり胸をはって歩くその姿に榎本健一(エノケン)が唄った歌がピッタリだった。だれかがアダ名を付けたのだ。
♪〜オレは村中で一番 モボだと言われた男…曲の題名は確か「洒落男」だったと思うが定かではない。私が知る限りこのあだ名ほどピッタリ合う人はいない。
銀座、赤坂、六本木をユックリと胸をはって歩いていた。

もし、私が日傘をさして銀座四丁目辺りを歩いていたら、どんなアダ名を付けてくれるだろうか。一度やってみようかと思ってはいない。

2015年5月27日水曜日

「火」




新米の社会部記者は先輩にこう教えられるという。
「殺し三年、火事八年」だぞと。

思うに殺人事件の記事でスクープをとるより、火事の中に隠れた大きな真実をスクープする方がむずかしいということだろうか。

とっても明るくていい人でしたよ、会えばきちんとあいさつをしてくれる気さくな人でしたよ。ご夫婦はとても仲良くてご家族で遊んでましたよ。
ご近所の人というのは見てないようで他人の家をしっかり観察している。
いい人だった人が放火殺人の容疑者だとなると、かなり派手な人でしたねえとか、よくお寿司とか釜めしなんか出前してもらってましたよとなり、いつか何かあると思ってましたよ、しょっちゅう夫婦喧嘩をしてましたからねと変わっていく。

更には、そういえば河原なんかでよく焚き火をしてましたよ、なんて話を作り出す人も多い。バーベキューが好きだといっていたからやっぱ火に感心があったんじゃないすかとなっていく。

ヤクザ者のオドシのセリフの定番が、オリャー山に埋めるぞとか、海に沈めるぞとか、燃やして灰にするぞとかである。だが今こんなことをやっているのはいわゆる一般人といわれる人たちだ。
ヤクザ者にいわせれば、今日び堅気さんの方がワシらより何ぼもオドロシーでっせなのだ。

ネットで知り合った者同士の凶悪事件が多く起きている。
この事件の流れはとめどなく拡大していくだろう。

社会部の記者をずっとやっていて今は定年時代を送っている友人がこういっていたのを思い出す。
初めて火事の現場に行って炭化した人間を見た時、未だメチャ熱い現場で気を失ってぶっ倒れてしまったと。人間という生き物は金のためなら人間性を捨ててしまうともいった。

人類がはじめて「火」を手にした時から事件の歴史は始まったのだ。
それにしてもご近所の人はよく他人の家を見ているものだと思う。
おはようございます、あ、“今日は”おでかけですか行ってらっしゃい。
朝の何気ない挨拶に、ドキッとする日がある。


2015年5月26日火曜日

「小学校の運動会」



このことが勇気あることか、かわいそうなことか、感動的なことか、私は論じ合わない。
ただその10分ほどのシーンに生徒(800人位)とその家族やご近所の人たち3000人近くが心を打たれた。

五月二十三日(土)私は孫の運動会の応援に船橋まで泊まりがけで行っていた。
三年生80メートル徒競走が乾いたピストルの音ではじまった。
5人1組で走る。速い子、遅い子、ゴールを目指して懸命に走る。

何組かが走ったとき運動場は静かになった。4人はすでに60メートル位を走っている。
一人の男の子はとても細い、両腕はだらりとし、両足には力が入っていない。
例えていうなら人形が人に手によって走っているようであった。

20メートルを過ぎたとき生徒たちはもちろん運動場のみんなが、ガンバレ、ガンバレと声援を送りはじめた。
男の子は女性の先生によって両脇をかかえられている。
ガンバレ、ガンバレの声を受けて男の子はゴールを目指す。次の組はスタートせずに待っている。
そして大声援の中、男の子はゴールテープを過ぎた。
拍手の渦となった。私は胸が熱くなった。
男の子を出場させた親に拍手を送った。

医学が進歩してきっと男の子の機能は劇的に進化するだろう。
その時、彼は何を目指して走り出すだろうか。
私は、船橋駅から横浜アリーナでのロックの公演を見るために移動する列車の中でそんなことを考えていた。
私の結論は短距離走のランナーだ。
きっとそうなる、あと10年もすればきっとそうなる。
あの大声援が一つひとつの筋肉を、細胞を、一本一本の血管を再生し活性化するだろう。

小学校の運動会は毎年私に多くのことを教えてくれる。