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平成二十五年五月二十七日(月)、神奈川県にある茅ケ崎一中で、ある野球の試合があった。対戦は一中野球部OBと後輩の一中野球部員であった。
OBたちは中学時代のレプリカのユニホームで挑んだ。
このOB の中に私が日頃お世話になっている大野俊幸(大野クリニック)先生がいた。
先生はセンター、ライトが宮治淳一さん、ファーストが大久保義雄さん、キャッチャーが小林茶舗(茶山)、ショートが帝国ホテルの倉本さん、サードが山口無線、レフトが本田材木、セカンドが荻園ふとん屋の鳥居さん、そして背番号1をつけたピッチャーは桑田佳祐であった。
その日私は大野クリニックに薬を処方してもらいに行った。十月十八日の朝である。
私は六番目だったので待合室で新聞を読んでいた。
市の老人検診中なのかお年寄りが多く来ていた。
私が年寄りである事を忘れるほどの人生の先輩たちばかりであった。
これ先生からです読んでいて下さいといって看護師さんが二枚の紙を渡してくれた。
そこには「ロックンロール・スーパーマン〜桑田佳祐の思い出〜」とタイトルがあった。
書き手は大野俊幸先生だ。
茅ケ崎医師協会報第九十六号に掲載された原稿用紙六—七枚分はあるエッセイだった。
五月二十七日、後輩たちには桑田佳祐が来るとは伝えなかったと聞いた。
もしそれを伝えていたらその話題が続々と伝わり茅ケ崎一中に一万人、いや二万人近く観客が押し寄せただろうと先生は言った。
桑田佳祐は中学時代からエースであり、かなり凄い球を放っていて相手はなかなか打ち込めなかったそうだ。先述した名前の表記は先生が書いてあった通りで、きっと先生は親しみを込めて苗字や名前のすべてを書かなかったのだろう。
エッセイが実に同級生への想いを込めたものに仕上がっているのはその名の紹介の仕方にあふれていた。
宮治淳一さんは「サザンオールスターズ」の名付け親とか、市民栄誉賞を贈る尽力をしたのが大久保義雄さんであったと書かれていた。
帝国ホテルの倉本さんはパテシェとして有名な人だ。
診察室に入った私に先生は記念写真を見せてくれた。
奥様が水中カメラで撮った写真は見事であった。先生の趣味が水中写真と初めて知った。桑田佳祐を前列中央にOBたち、その後ろに後輩たちが五十人程、それと野球部関係者たちが楽しそうに写っていた。ちなみに試合は5対7で後輩の勝ちであった。
五回で終わりと決めた試合、桑田佳祐は完投をした。
先生と私の会話は検診に来ているお年寄りを待たせてしまう程弾んだ。
また来年やろうと言って別れたと聞いた。
この数カ月後桑田佳祐は茅ケ崎市営球場で帰ってきましたコンサートを五年ぶりに行った。茅ケ崎はサザン一色になり、絶叫と興奮は深夜にまで及んだ。
桑田佳祐は人に愛されるために生まれた稀な人間といえるだろう。
他には長嶋茂雄と石原裕次郎しか私は知らない。
マネージャーだけのガードで試合が行われたのは奇跡といえるだろう。
後輩たちはユニホームで来た桑田佳祐がサザンオールスターズの桑田佳祐だとずっと気が付かなかったという。冗談は本気でやると面白過ぎる事となる。
ハーイ◯◯さんと看護師さんの声、オバアサン身長を測りますよと試合ならぬ診察は始まり、先生はハイ息を大きく吸って、吐いてといつものやさしさでお年寄りの健康を守るのであった。先生は野球と同じ様にきっと守りが好きなのだろう、センターは守備力が一番の選手が守るポジションだから。
気持ち良いエッセイを読んでいたら刺し込む腹痛が治まった様だ。