ページ

2015年10月13日火曜日

「体育のヒーヒー」




病院の待合室はかつて老人たちのサークルみたいであり、そこに集っては(?)お互いの病気自慢や食欲自慢、嫁の悪口を発散するのであった。
が、老人医療費の負担増で待合室のサークル化は消えた。

昨日は体育の日、金持ちの老人たちはスポーツジムに集まりサークル化しているらしい。若いスポーツトレーナーのところに人気が集まる。
キン肉マンに老女性は胸をトキメカせ、ピチピチの肉体に老男性は胸をザワザワさせる。話題といえば、株自慢、貯金自慢とか体力自慢、そして血圧、血糖値、尿酸値の比較となり、最後は嫁の悪口に行き着く。
スポーツジムに行くというのは決して死にたくない、どんなことしたって長生きするぞの意志表示なのだ。

私が好きだった落語家に古今亭今輔さんという名人がいた。
老女を語らせたら随一であった。「おばあちゃん長生きのコツはなんですか?」なんて聞かれると、「アタシャ人を食って生きてんですよ、嫌なことはみんな嫁にやらせてアタシャ好き勝手して好きなもの食べて、何も考えずよく寝ることを心がけていますよ、みんなに迷惑かけた分長生きできんですよ、ワハハハ」
…例えばこんな調子であった。
この頃長男に結婚相手が見つからないとか、その理由は将来の老人介護なんてまっぴらごめんということらしい。

作家五木寛之氏は本の内容はともかく、本の題名をつけるのが実に上手い。
悩める人に売るコツを知り尽くしている。この頃は「嫌老社会」なんていう言葉を生んだ。昨日あるスポーツジムに打合せをすることがあり立ち寄ると、若い女性トレーナーがインカム(マイク)をつけてエアロビを教えている。
6080代の老若男女10数人が、ハイ!足上げて、ハイ!広げて、ハイハイ!回転して、ハイ!床に手をついて、起きて、ハイ!ジャンプジャンプ、少年ジャンプみたいなことを激しい音楽に合わせてやっていた。透明なガラスの向こうでやっていた。
好きな人は何回もやるらしい。

若い女性トレーナーが若い男性トレーナーになると、待っていたとばかりにマット体操をしていた老女たちが我先にと参加していった。
体にピチピチに密着したスポーツウェアがその体型を現していた。
恥じらいを捨てた人たちほど、世に恐ろしいものはない。

ゴクッゴクッと水を飲む老男性に楽しそうだねと声をかけると、楽しいね、これからサウナ入って、冷たい風呂に入って、ジャグジーに入って、それからビール飲んでカラオケだ、ギャハハハと笑った。
こういう人たちと違って、青空の下で全力で走るステキな老人アスリートもいる。
この人たちは自己記録を伸ばすことに日々鍛錬をしている。
とてもストイックなのだ。

7579歳の体力が過去最高になったとか。
ヨーイドン、老人たちの徒競走は“10メートル”だった。「嫌老社会」は私のためにある言葉に思える。夕方海岸のサイクリングロードには老マラソンマンが列を成していた。
骨と皮になった老男性がヒーヒーノドを鳴らしながら私の前を過ぎ去って行った。

新聞に400キロもある熊が一発の銃弾で殺され、クレーンで引き上げられていた。
冬眠前の熊はエサを求めて腹を空かせていたのだろう。人間の仕業だ。

2015年10月9日金曜日

「鹿とシカト」



佐賀県でのイノシシの暴走を書いたら、今度は静岡で鹿が民家の中に現れた。
鹿は立派な角を持ち、その表情は気品あるものであった。

「シカト」するという言葉がある。
主に無視するとかバックレル(しらばっくれる)時に使われる。
例えばアノヤロー俺が目線を送っているのにシカトしやがってとか。
あの娘生意気よね何様のつもりよ、この間なんか学食(学校の食堂)で隣同士になったらシカトされたわ。

語源はいろいろある、かつて“鹿十団”という不良グループがあったからとか(?)
鹿の角が左右ソッポを向いているとか(?)
鹿は気位が高く人間の視線を無視する、シカト(しっかり)見つめているのに反応しないからとか(?)
静岡の鹿はこの説に近かった。
取り押さえようと近づく人間たちをジーっと見つめ続ける、人間たちの愚かさを馬“鹿”にしているように無視し続ける。

映画「ディアハンター」でロバート・デ・ニーロが山の頂きで一頭の鹿を見つけ銃を構えるが、その気高さに圧倒され息を飲み引き金を引けない、鹿はハンターであるロバート・デ・ニーロを見てシカトする。
この名作映画の心象風景として素晴らしいシーンとなっていた。
そして映画は想像を絶するベトナム戦争へ、狂気のロシアンルーレットへと向かう。

静岡の鹿は麻酔薬を含ませた吹き矢によって眠らされ、4本の足を縄で縛られそして殺された。人間の仕業だ、イノシシの様に大暴れしていないのに。
ネット社会では“既読”という表示に対して返信して来ないと“シカトされた”→無視されたと思いトラブルのもとになるらしい。つまり日常的に使われている言葉なのだ。

日本全国で保護していた鹿が増え食物を求めて農作物を食べてしまう。
それじゃ鹿狩りをせよとなり鹿は殺され続ける。
イノシシも鹿も住む場所を人間に荒らされたのだ。
農作物の守り神、山の神といわれた狼も狂犬扱いされて絶滅した。

現代文明は「民俗学」を破壊してしまった。
私が大尊敬する宮本常一という民俗学者がこの世をみたら何と怒り悲しむだろうか
。“一億総活躍社会”とは民俗学的にどう解釈しただろうか。
寝たきり老人たち、生まれながらに不自由な体の人々、活躍したくとも病魔に襲われ動けない人々。働きづくめの人生の最後をゆっくりと過ごしたいと思っている人々—。
戦争中に“一億総動員、欲しがりません勝つまでは”というスローガンがあったがそれと同じ発想なのだろう。

私は民俗学の復活を教育の現場に求めたい。
人間の暴走を制止させられるのは人間でしかない。
歩く巨人といわれた第二の宮本常一が出るように。シカトお願いしたい。
私は何度か鹿肉を食したことを申告する。(文中敬称略)

2015年10月8日木曜日

「イノシシと江頭2:50先輩」



佐賀県唐津市でイノシシが暴れまわった。
取り押さえようとする何人もの男たち、網をかけようとするもイノシシはものともせず猪突猛進する、ヤバイ、ヤバイ、アブネェ〜ゾと逃げ腰になる男たち、イノシシは30分近く逃げ続けた。

と、捕まえた、捕まえたぞーの喚声が沸く。
ヤッター、今夜はシシ鍋だなんていった人はいない。
見事取り押さえたのは、元ラガーマンであった。
猛進には猛タックルでイノシシを1人でギャフンとさせたのだ。

そういえば日本代表の五郎丸歩選手は確か佐賀の高校で頭角を現し、現在世界を代表する名フルバックとなった。
御用になってバタバタする足を縛り付けられる姿を見て佐賀のスーパースター江頭250さんを連想した。江頭先生も大暴走をする。
上半身裸の姿はイノシシの腹部のようであり、イノシシの4本の足は江頭先生の黒いタイツの様であった。元ラガーマンがその場に来なければ銃殺されていたかもしれない。昨日の事であった。

朝晩ぐっと寒くなった。
シシ鍋の旨い季節だ。取り押さえられたイノシシはどうなったのであろうか。
数人に怪我を与えたので傷害罪で訴えられ裁判員裁判にかけられて有罪になるかもしれない。シシ鍋の刑という極刑になるかもしれない。それを食べるのは人間だ。
この地球上で動く物はすべて人間の胃袋に入ってしまう。
但し暴走しまくる江頭250先生は煮ても焼いても食えない。じっと見物するしかない。

今度イノシシが出たら江頭250先生のその捕まり物をまかせてみて映像化すれば相当な作品になることは間違いない。ラグビーワールドカップ次はアメリカ戦、五郎丸歩選手が大活躍すれば佐賀の人々は大拍手だろう。勿論日本国民も。

それにしてもイノシシというのは俊敏で強烈な動きをする。水泳も得意なのだ。
ジビエ料理の名店が西麻布にある、その名は「またぎ」女性にも人気の店だ。
食べても太らない、美容と健康にいいらしい。江頭250先生は出没しないと聞いている。

2015年10月7日水曜日

「ノーベル賞のニュースを見て」




小学生の頃、一番勉強の出来る男子生徒と一番勉強の出来る女子生徒がいた。
男子生徒は四角い顔をしていつも目をしばたいていたが、勉強は満点ばかりであった。
おかっぱ頭で(今ならボブヘア)小さくてかわいい女子生徒も満点ばかりであった。
みんながそういっていた。女子生徒は男子生徒の憧れであった。

私といえば一番不出来であった
男子生徒はやがて東大から東大大学院まで行き、どういう訳か外資系の広告マンになった。女子生徒は有名私大で英米文学の教授として現在も活躍中だ(現役なのでどのコースを歩んだのかは秘す)。

勉強の出来る人間と私のような出来ない人間はどこがどう違うのだろうか。
それは授業に集中し、ノオトをしっかりとり、予習復讐をしっかりするんだとなるのだが私はそればかりでないと思う。

中学三年生の時、私の隣に女子生徒がいた。
美人ではないが字がペン習字の見本より美しかった。
この女子生徒は、中学二年、三年の時、東大学力増進会の九科目のテストで900満点をとり続けた。国語、英語、社会、保健体育、音楽、理科、数学、美術、家庭科であったと思う。確か新聞に載って校長を喜ばせた。

オイ見せろよ、とテストの時よく突いた。カンニングさせろということだ。
オイ見せろってばといって困らせた。ある日職員室に呼び出されこっぴどく叱られた。
中学を卒業して二年ほど経った時、美しい字の手紙が来た。
詳しくは忘れたが、すみませんでした、みたいな手紙だった。
名前はちゃんと憶えている、近藤素子さん。
それから何年か経った時、御茶ノ水女子大にいると聞いた。
やはり中学の同級生でいつも一緒に遊んでいた男子生徒はいつ勉強しているか分かんなかったが、東大に入った。

「神」だ学問の神が彼等、彼女に学ぶ役目を与えたのだ。
私には遊ぶ役目を与えたのだ。突然なんでこんなことを書くかといえば、ノーベル賞を受賞した人の話を呼んだり、聞いたり、顔を見たりしていると「神」が見えるのだ。
神がかりという言葉に行きつくのだ。

「神」は天上から学問に向いている人間を見分けてこの人間にと目をつけて選び抜くのだ。私はそう思うことにしている。私はバカな役を与えられたのでバカを通して行く。
ひょっとすると人間は死なないことになるかもしれない。
選ばれた人間が努力を重ね、劇的な、あるいわ奇跡的大発見をして。

オイお前いくつになった、オレか来年で二〇八歳だよ、キミは幾つになるの、えっ、アタシは来年で一八九歳よ、イヤダ女性に歳なんて聞くもんじゃないわよ、オホホ…。
こんな会話の世界になるかもしれない。この時「神」はどんな決断をするだろうか。
死が無くなると「神」の存在理由が無くなってしまうから。