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2016年9月23日金曜日

「自宅にて」




九月二十二日(秋分の日)朝からずっと雨、予定していた行動が出来なかった。
九月に入って雨が降らなかった日は二日だけ、つまり二十日間が雨模様である。
こんな日の夜は秋刀魚だなと思った。
茅ヶ崎の駅ビルに行く用があり、それを済ますと地下の食品売場に行った。
午後六時四十分頃であった。今年は去年より更にサンマ漁が不漁と知っていた。

一度目黒のサンマ祭りというのに行った事がある。当時サンマは大衆魚であり、一匹100円以下であった。サンマ祭りで焼いたのを食べたが、なんだか配給の食べ物を食べさせてもらったようで味気なかった。何十人も並んでいて、何百人が食べていた。
ハイヨ、ハイヨ、ハイヨと焼き上がったサンマを紙の皿の上に置いてもらう。
アリガトウゴゼイマスと一人一匹頂く。

お醤油がなかったのも味気ない要因であった(あったが無くなっていた)。
立って食べたのもイケなかった。サンマをのせた紙の皿を持つ姿はかなり侘しい。
安物でもいいから陶器皿の上にのせ、三角形の大根おろしがあって、やはり三角形に切ったカボスなんかがサンマさんの側にそっとある、サンマと三角形の方式が緊張感を持ってあることに味がある。

東京タワーの下で大船渡から運ばれた、三千三百三十三匹焼かれて食べられたとニュースで報じていたのを見て目黒のサンマ祭りを思い出した。
茅ヶ崎駅ビル地下にあったサンマは一匹三百円前後であった。
旨いサンマを見分けるには口先が黄色く、腹がたっぷり太っていて鱗が銀色にというのがいいと物知りの友人から教わっていた。
昨日そんなサンマは無かったので買うのをやめた。
二十日(水)に特上のサンマとハタハタを、太っ腹の人にごちそうになっていたからかもしれない。一週間まい日サンマを食べても大丈夫なほど大好物の魚なのだ。
上手く食べるにはサンマをのせるお皿を一日ずつ変える事なのだが、ウチは料理屋さんじゃないわと言われるに決まっている。
相手はいちばん美味しい腹ワタを全部残すのだから言っても始まらない。

雨で予定していた墓参りができず、リンゴ三個、大きな梨一個、佐賀産のミカン六個入を買って仏前のところに新しく供えた。先夜おみやげにと頂いたスモモも一緒に。
大福餅や羊羹などお菓子もたくさん供えた。父と母が、亡き友たちが写真の中にいる
白と黄色の菊の花とお線香の白い煙は、しばし心を落ち着かせてくれた。
花瓶は石原裕次郎さんの名が書いてある白い瓶、もともとは松竹梅のお酒が入っていた。百合の花は未だ開いていない。自宅にてのお墓参りであった。

2016年9月21日水曜日

「おでんの季節」




♪〜およばぬことと あきらめました だけど恋しい あの人よ…。
井上ひろしの大ヒット曲「雨に咲く花」だ。

台風の影響で雨また雨、そしてまた雨。世界経済の予報もまた雨。
日本経済といえばずっと長雨。その尻拭いをする人はたまったもんじゃない。
狼少年というか狼老年の日銀総裁黒田東彦はウソの上にウソを重ねてこれからまたウソをつく。御用学者の面々は無責任の極みでシラーっとしてまたシラー。
経済アナリストなどという論外のバカ共は、講演料を高くしたいとテレビに出てはだんだん良くなりますとホッケの太鼓持ち。

こんな世の中に夢も希望もないと1834才までの男の70%近くに恋人がいない。
女性の60%近くに恋人がいないなんていうではないか。
20代の40%近くが童貞なんてどうなってんだと友人に言ったら、その分同性愛が増えているんだとか。

私がこの国のリーダーにと願っている人は今は「忍」の一字、その時までじっと「耐」える。これを「忍耐」という。但し忍耐には戦略的忍耐と戦術的忍耐がある。自民党総裁の任期を延長しようと、ヨイショ、ヨイショの大合唱だ。
見苦しいというか気恥ずかしい事この上なしだ。

来年の事をいうと鬼が笑うというが、四年後の事をいったら鬼は笑い死にするだろう。
一寸先は闇の世界だから歴史に学んだ者が最後に勝つ。
運を手にするには日々是勉強と古来より決まっている。一日の無駄も許されない。
したたかな老人たちはすでに戦略的物言いをしている。
どっちに転んでもいいように戦術を練り上げているのだ。

去年の今頃、誰が小池百合子が東京都知事になるなんて考えていたか。
来年の都議選は衆議院議員選挙と同日になるかもしれない。
否野党共闘ができない内に解散するかもしれない。その時橋下徹は必ず動くだろう。
小池新党も生まれているはずだ。

総理大臣経験者が支持率9%の野党の幹事長になる時代だ。
これ以上プライドを失うものはないのだから、いっそガタ食ってみろといいたい(ガタガタにする)、またはササラモサラにする(竹の棒でバンバン叩いたら竹はバラバラになる)という事だ。

“はじめは処女の如く、あとは脱兎の如く”と言う。さあ、戦略と戦術だ。
軍師対軍師の時代となった。♪〜枯れ葉散る夕暮れは 来る日の寒さのものがたり…。
五輪真弓の名曲「恋人よ」の季節は近い。おでんの旨い季節となった。(文中敬称略)

2016年9月20日火曜日

「怒り?」

「怒り」という話題作を観た。
が、何に怒っているのかが分からずであった。
出るぞ出るぞと思わせながら、何も出なかったお化け屋敷のようであった。

後味はすこぶるよくない。
何かが足りない、超満員の観客は終わった後にみんなそんな思いであったようだ。

市橋達也が起こした、リンゼイさん殺人事件がやはりモチーフだった。
市橋達也は整形を繰り返し、女装をしたりして逃亡した。
肉体労働の現場などで働きながら男に体を売ったりして逃亡資金を稼いだ。
バイセクシャルであった。
一年以上無人島に潜んでいた。

監督・音楽・撮影が素晴らしい、編集はズバ抜けていい。全ての構図がいい。
ゲイ同士のパーティー、そしてゲイ同士のSEX、男の喘ぎ声が耳にへばりつく。
物語は淡々と進む、それは監督の狙いなのだろう。

住宅街を真俯瞰に撮影したシーンから入るのだが、きっと一軒一軒どの家庭中にも何かしらの問題が起きている、そして大なり小なり怒りが渦巻いているのだろう。


ある殺人事件の動機がよく分からず、それぞれの「怒り」の矛先が曖昧なのはやはり監督の狙いだと思うが、観客の側から見るとフラストレーションがたまる。
私に映画を観る目がないのかもしれない。

この映画と同じような群衆劇、何組かのドラマを同時進行させていく映画に「バベル」があった。
それにしても妻夫木聡という役者は凄い。
その妻夫木聡と綾野剛の全裸のベットシーンは、ゲイに映画の名作「ブエノスアイレス」を超えている。
すぐれたゲイ術であった。

作品全体が暗く重く分からない、きっとそれを狙っていたのだ。
やはり李相日監督は天才なのだ。

2016年9月16日金曜日

「置き薬」




近江商人といえば「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三方よしで有名である。
特長は店に居てお客さんを待つのではなく、いわゆる行商のように日本中に足を運ぶ。

近江商人は手ぶらでは帰って来なかった。
上方の商品を地方へ持ち下り、地方の物産を仕入れて上方へ販売しながら持ち帰る、ノコギリ商いといわれた。この効率の高い商法を“持ち下り商い”ともいわれた。
さらに近江商人は日本中の情報を収集していた。

ユダヤ商法も同じだ。
祖国なきユダヤ人たちは世界中に拡散しながら各国のあらゆる情報を収集、交換し互いに協力し合い財というカタチなき祖国を築いていった。
世界の主要なものはユダヤ人が握っている。
政治、経済、科学、娯楽、報道、スポーツ、何から何まで。
情報戦に勝ち抜いて現在がある。

かつて代々の将軍や権力者たちが近江商人を大事にしたのはいうまでもない。
あそこの殿様は浅学、短気だとか、あの殿様は好色放漫だとか、あの藩のある人物はやがて世に出るとか、あの地方の人間は勤勉にして教育熱心であるとか。
海、山、川、森林、田畑のすみずみまで知り尽くしていたのでその情報を聞いた。
いつの世も生きた情報が何よりの武器となる。IT社会もその延長上にある。
一つでも多く他の地に行き、一人でも多く他の人に会ってこそ成功の果実を味わえる。

商人の世界、ビジネス社会において“果報は寝て待て”は絶対に存在しない。
国を治めるということは、人を治めるということであり、日本は特殊な地形の島国であり、国土のほとんどが山脈という、世界一の山林国家であることを知り尽くさねばならない。空から見れば山が連なり、海に囲まれ、山からは血管のように川が流れる。
その隙間に村や町や街があり都市がある。
日本列島の下には地震帯がビッシリとあり、活火山は生き続ける。

戦国期の大名たちは“悪党”とも呼ばれたが決して乱暴者たちばかりでなかった。
血で血を洗い、領土を奪い合い手にした領土を守るには、治山、治水が何より大事なことを知っていて、ありったけの知恵を絞っていった。

さて、現在はどうであろうか、治山、治水、災害対策に与野党はない。
超党派で行動してほしいと願う。大地震、大火災、大津波、大洪水、大噴火、山崩れ、土砂崩れの連続から国や国民を守る知恵を出し合ってほしい。
むかし富山の薬売りの人が定期的に家に来た。置き薬というもので、薬売りの人が来ると薬箱を出す、そうすると“熊の胆”が減ってますねとか、虫下し◯×丸とか△□頭痛薬も減ってますと言って減った分を加えて帰る。加えた分だけお金を払うというシステムだった。

富山の薬売りの人は一軒一軒の家族構成、経済状況、健康情報を持って帰る事ができた。富山の薬売りの人が来てアメ玉なんかくれた。縁側に座りいろんな話をしてくれたのを思い出した。何故か“熊の胆”という小さくて黒く四角い胃薬を憶えている。

イケナイことをしなくなる薬はないだろうか、富山の市議会議員の面々はあったら飲んで治せ。

2016年9月15日木曜日

「怒りとは」

※映画.comより



人間は神が造った悪魔でもある。
その仕業が世田谷一家殺害事件。
外国人英語教師リンゼイさんを殺して逃亡した市橋達也の事件。
残酷な未解決事件と、顔を整形し続け無人島に隠れていた事件。
やはり殺人を犯したあと整形をしながら逃亡し、時効寸前で逮捕された福田和子の事件。
市橋達也は現在刑務所であり、福田和子は数年前獄死(病死)した。

作家吉田修一はこれらの事件をモチーフにして(と思う)「怒り」という小説を書いた。それを映画化した作品が十七日土曜日に封切りされる。
大ヒットした「悪人」のスタッフが李相日監督のもとに集結した。

父と娘の愛、男と男の愛、女と男の愛。
運命的出会い、行きずりの出会い、禁断の出会い。
人間の殺意は何時どこで生まれるのか、絶望的な愛に潜む心とは、怒りとは何か。

吉田修一原作を李相日監督はどんな感性の刃で切り取り、突き刺し、血を流すのか。
渡辺謙、妻夫木聡、綾野剛、宮崎あおい、松山ケンイチ、森山未來、池脇千鶴たちがその役に挑む。音楽は坂本龍一、世界的チェリストが主題曲を流す。
私はこういうダークな文学的映画が好みである。

ある年、江戸の儒学者佐藤一斎の「言志四録」からの言葉を大先輩から送られたことがある。突然襲われた極度の不眠、鬱々とした日々、体に鉛がどん詰まっているようなダル重さ。頭の中には暗雲たちこめている。
一センチ動くのも辛いのだが、プロとして受けた仕事はやらねばならない。

そんな日々を送っていた時、我が家のポストに一枚の葉書があった。
特大の太い緑色の文字で「暗夜を憂うことなかれ、ただ一灯を頼め」(言志四録)と葉書いっぱいに書いてあった。その言葉は今も私の宝であり続けている。
「ただ一灯」が何かは奥深く、未だ分からない。

「怒り」という映画にただ一灯はあるのだろうか。
人間の心という暗闇に一条の光は差し込むのであろうか。

姉が弟をバラバラに、アパートで一家三人が惨殺、事実は小説より奇なりの事件が連日起きている。テレビのニュースを見ながら身内同士のすごい事件が起きているなと言ったら「積もり積もったことがあったのよ」とポツンと目の前の人間が言った。
ドキッとした。

十七日(日)午後一時から築地本願寺の劇場で友人が新作を上演する。
それを見終わったら「怒り」を観たいと思っている。(文中敬称略)