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2021年4月18日日曜日

つれづれ雑草「ノマド」

 「無能無芸の私にできる事は二つ、二つしかない。」自分の足で歩くこと、自分の句を作ること。私は流浪する外ない。私は今、過去のすべてを清算しなければならないのである。昭和5年頃一人の男が、行乞(おもらい)の旅に出た。「分け入っても分け入っても青い山」など1200余りの句を作り、昭和151011日酒に酔ったまま愛媛県松山の小さな草庵でぽっくり往生した。(享年43歳)男の名は「種田山頭火」山口県西佐波令村(現在の防府市)に生まれる。生家は大地主であった。しかし父親があちこちに女性を囲っていた。本名は種田正一、9歳の時に母親が井戸に身投げする。正一はその姿を見る。やがて上京して東京専門学校高等予科(現在の早稲田大学の文学部)に入学するも、退学して帰京する。生家は酒造会社を経営するが、正一33歳の時に破産する。大学を退学した原因は、うつ病であった。母の死を目の前にしたのが大きなトラウマとなっていたのだろう。又、弟も自死した。再び上京して図書館などに勤務するも、うつ病で退職する。ある年泥酔して路面電車の前に立ち、急停車させる事件を起こす。その電車の乗客の中に一人の人物がいて、正一をある寺に預ける。出家得度し座禅修行をする。「燃えあがる火山」という意味の俳号「山頭火」は、関東大震災にも遭遇し命の無常さを知る。種田山頭火の句は、五・七・五の決まりのない、自由な句であった。行乞の旅の目的は松尾芭蕉のように日本中を歩くことであり、理想的終りは旅先でぽっくり死ぬことであった、と思われる。それは清算したくて出来ない過去を、背負ってのものだったのだろう。「行乞の旅」とは働かずに人から食べ物や、いくばくかの金銭を恵んでもらいながら放浪する旅である。時代が行き詰まり、人間の心が行き場を失った時、山頭火が静かなブームとなり、書店でその句集が売れ始めると言う。今、私たち人類は長引くコロナ禍、終りの見えないコロナ禍の中で、人類とは何か、人間とは何か、会社とは、街とは、市とは、村とは、家族とは、親子とは、夫婦とは……。など答えのない方程式の中にいる。あるノーベル賞受賞者は、人類の究極の敵は、ウイルスであると言う。コロナウイルスがインフルエンザ化しない限り、コロナ戦争に終りはないのだろう。故小松左京さんが書いた「日本沈没」を基にした映画のラストシーンは、日本列島を失い生き残った日本国民が、ある国の大地の中を走る貨物列車の中にいた。それはかつて戦争で敗れた故国日本に、引き揚げて帰って来て、故郷に帰る日本兵を乗せた、ギューギューの列車に似ていた。私たちの国、日本は過去からの清算が出来ない国なのだ。過日、本年度アカデミー賞の有力候補作「ノマドランド」を観た。コロナ禍の中でも、日比谷シャンテの大きな映画館に8割位の観客がいた。ノマドとは、放浪の民という意味だ。喫茶店や公園や、どこかの空き場所などで、パソコンを使いながら仕事をしている人々をノマドと言う。アメリカ映画のノマドの主人公は、会社をリストラされても呈しく生きて行く中年女性だ。監督は中国出身の女性、クロエ・ジャオ。古ぼけたキャンピングカーに暮らしながら放浪する人々には皆、清算できない過去があり、過酷な現実がある。(中にはあえてノマドを選ぶ人々もいる。)深い悲しみや喪失感、孤独との戦い、世の不条理や理不尽が、広大な荒野の中にある。本来は青い空、白い雲、爽やかな空気が流れているはずの、アメリカ西部にそれらは全くない。灰色の空、重そうな雲、どんよりした空気。徹底的に青色と緑色を表現しない映画は、世界中の現代人(金持ち以外)の心の風景だ。バケツで用を足す女性は、そんなものには決して負けないぞと、日銭を稼ぐための仕事を探して旅をする。時々ありついたインターネットのamazonの倉庫の中で黙々と荷物を処理する女性の姿に、資本主義社会のその先を見る。そこには、青い空はなく、緑の樹木はなく、美しい花々もない。石川啄木が「雲は天才だ」と言った。白い雲もない。あるのは、ただ荒廃だ。日本の総理大臣が、アメリカのバイデン大統領に、初めて会ってもらった、国のリーダーだとして、大喜びだったが、ランチミーティングに出ていた食事メニューは、好物のパンケーキではなく、ハンバーガーのみだった。これはアメリカにとって、君は好きな人物ではないよの意思表示だった。アメリカ人は食事と使う食器で、メッセージをする。ハンバーガーのお返しは、きっと高額なメニューだ。私は、仕事という生きる糧を求めてノマドを続けるのだ。但し山頭火のような句才はない。             (文中敬称略)3/28 日経新聞別刷りより一部引用有り





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