青木ご夫妻 |
俺さ、トーチャン(こういう人も多い)と初めて会った時、なんだいこの生意気で嫌な奴は、絶対仕事なんか出すものかと思った、といわれた。
その人は青木勤氏(67)
武蔵野美大を出た後大手広告代理店に入り、小さな体に闘志をみなぎらせ、ファイトを全面に出しグイグイ頭角を表し、やがてクリエイティブ制作部門の頂点を極めた。
広告業界は士農工商代理店そのまた下のプロダクションという。
私はそのプロダクションの経営を始めていた。泣く子とスポンサーには勝てない。
大手広告代理店は何から何までスポンサー、クライアント、お得意のために対応する。
その代わり競合プレゼンテーションに勝利すれば何億、何十億、何百億のアカウント(仕事)が任される。
小さなプロダクションにとって代理店との取引窓口が出来る事は何よりの力こぶとなる。
それ故代理店のクリエイティブ制作局長にはプロダクションが日参する。
今から37,8年前、業界の大先輩望田市郎さんから、私が制作局長をやっていた処を紹介するから行ってみなよと言われた。
その大先輩はCM界で大ヒットを飛ばしていた業界の大物。
真野響子さんを起用した「カティサーク」というスコッチの仕事をご一緒させてもらっていた。
で、その代理店のロビーで初対面、私はジーンズにアロハ、それに手ぶら(44歳まで鞄とか手帳とかは一切持たなかった)一日何個も打合せやオリエンテーションがあってもメモを取らずやって来た。
記憶力だけは自信があった。電話帳も勿論持たなかった。
青木勤氏と仕事をする様になった時、「メモはしないの」とか「ちゃんと分かった」とか「ホントに大丈夫なの」とかよくいわれた。初対面は悪印象であったが、ある大きな仕事を一緒にする事となり、その仕事が決まった。
私は人に好かれる為の手段は一切しない(挨拶はちゃんとするが)。
ただプロとして全身全霊をかけ、えっ、ここまでやってくれたのという仕事をする。
その結果がいい付き合いになると思っていたから。
六月六日午後三時過ぎ、東京銀座並木通りにある名門画廊「並木画廊」に青木勤氏を訪ねた。
代理店引退後引っ張られて入っていた日本の最大手の通信会社系代理店の取締役制作局長の任を無事終えて四年目を迎えていた。青木勤氏は水彩画の名手、定年後二年目に初めての個展を大成功させ、今度が二度目であった。
いつも可愛い奥さんと二人で迎えてくれた。一週間開催の最終日であった。
32点の素晴らしい絵は既に27点赤い印がついていた。
男と男、共に戦ってきた仲はガッチリ握手すれば全て通じる。
私の会社の30周年パーティーを今は時事通信社本社となった銀座東急ホテルで行った。
その時わたしはこう挨拶した。この会場に私と初めて会った時、なんて嫌な奴、生意気な奴、仕事なんかするもんかといった人が来てくれています。今その人とは最も仲良く、ご家族共にお付き合いしている。
又、あらゆる仕事を共に戦い、共に勝利をモノにしてきたと。又、悔しい思い、死ぬ程辛い思いもしてきたと。
人間と人間の良好な関係は全てをさらけ出さなければならない。
お上手、お世辞、ヨイショ!八方美人、日和見からは生まれない。
大量の血が流れる事は一緒に血を流さなければ信頼関係は生まれない。
青木勤氏は今回イギリスを描いた。次はベルギーに行くといった。
ちなみに青木勤氏は戦いがゴチャゴチャ、グチャグチャになればなる程その力を異常に発揮する。
私はこう呼んだ、ベトナム戦争の将軍“グエンカオキ”にちなんで“グエンアオキ”と。
あの頃は365日、毎日がベトナム戦争の様であった。4
5歳の時大先輩との打合せに遅刻してしまった。これからスケジュール手帳を持ちなさいと叱られた。
今はすっかり手帳を頼りにしている。oh!脳!脳は使わないと、夢を追わないとその力がどんどんトンズラしていく。去る者は追わず主義だが、今や去った後の脳内は砂漠の如きものとなっていく。