先週見たNHKのプロフェッショナルという番組中の宮崎駿監督は、落ち着かず苛立っていた。休日一人机に向かう、煙草を喫いつづけ、足は貧乏ゆすりを激しくしていた。
あーダメだ、これじゃダメだといっては消しゴムで下絵を消す。
3.11が起きた時会社は3日休んだ、その後スタッフに向かって怒鳴った。
「なんで休んだのだ、アニメの生産現場から離れるな」と。
その後スタッフにパンを配っていた。またある日は、スタッフが体調を崩して休んだのだろうか、それに対して体がぶっ壊れても自分の担当している絵は描きあげてもらわないと困ると。
わずか数秒弱の上映シーンに一年以上かける。
群衆が混乱する絵をアニメで作り上げそれを試写した。
仕上がりが満足であったのか、それを担当した一人のスタッフに上機嫌で上手く行った、上手く行ったといっては声をかけた。
アニメは気の遠くなる作業の積み重ねだ。
自分は人より少しばかり先を行っていたと思ったが時代のほうが先を行っている。
この言葉には日本という国からファンタジーやロマンや少年少女の淡い想いや、大人たちの包容力が無くなってしまった事への切ない気持ちが込められているのだろう。
宮崎作品には少女が主人公である事が多い。
きっとロマンチックな想い出があるからだろうか。
現在上映中の「風立ちぬ」の少女は(?)堀辰雄の「菜穂子」から名づけた名前だ。
文学少女などという言葉はすでに無きに等しい。
携帯を持ち、スマホやラインなどで交信しあう少女たちは最早宮崎駿監督のイメージする少女とはあまりに掛け離れてしまったのだ。
中原中也的に言えば、「汚れちまった悲しみに・・・」だろうか。
寺山修司風に言えば、「少女という絶対的純粋が黒い雲となって時代を嘲笑しているのだ・・・」と。
TVでは十五歳の少女が殺された事件をこれでもか、これでもかと、偽善的同情報道に作り上げ流出する。娘を殺された肉親に今の気持ちはなんてバカな質問をする。
宮崎駿監督の引退会見は六日に行うそうだ。
何年先か何十年先に日本という国が大人たちの愚策愚行で見るも無惨になった時、ああ、あの時、時代が私より先に行ってしまっている、と引退を決めた真意を知るだろう。
私といえば情けなくも正体がわからないほど「汚れちまった悲しみに、今日も・・・」なのである。「風立ちぬ」が出来上がった後のある日、宮崎駿監督は一人でカレーラーメンを作って食べていた。こうしているとやっと正常な心ある日常に戻って行く気がすると。