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2015年3月23日月曜日

「ひたすら平身低頭」




昨日午後一時四十五分、私の脇の下にはどっと冷汗が出た。
シマッタ!大ミステイクをしてしまった。

午後二時に銀座の仕事場で知人を待つ約束をしていた。
土佐の四万十から映画人の人を紹介してくれることになっていたのだ。
ちゃんと手帳に書いてあった。

朝一本の電話が入った。
長年付き合いのある保険の老女が二時頃に辻堂駅に来る、どうしても昨日中に書類と印鑑が必要なんだと。成績に影響するのでぜひにというから、ついいいですよといってしまった。私の頭の中はすっかり保険の老女のことで二時という時間が取られてしまった。
わざわざ東京から来てくれるのも大変だなとなった。

わざわざ休日に来てくれる知人をすっかり忘れてしまった。
が、何か虫が知らせたのか一時四十五分に手帳を見たのだ。
明日はどんな予定だったかと、その瞬間手帳に知人の名と二時の数字が目に入った。シマッタ、大失敗だった。日曜日ですっかり気がゆるんでしまっていた。
直ぐにデスクの女性に連絡すると、あ〜良かったモシモシと出てくれた。
知人の携帯の番号を聞いたら直ぐに調べて電話して来てくれうた。
あ〜良かったアリガトウ。

二時少し前に知人と連絡がついた。
申し訳ない、すでに仕事場に着く寸前だった。

ピンポーンとチャイムが鳴った。
保険の老女が私の指定したタクシー会社のクルマに乗って着いたのだ。

子機で知人にお詫びしながらドアを開けた。
すいませんおやすみのところといった。やっぱり携帯やメールやスマホを持たない私はイケナイ人間なのだと思い知った。
今日なんとか知人と土佐の映画人と会えることになった。
どうお詫びをするか考えに考えている。
ただただ平身低頭をしながらこのブログを書いている。福助のシンボルのように。

2015年3月20日金曜日

「卒業式」




茅ヶ崎市立汐見台小学校の卒業生は五十三人であった。
二十七人と二十六人の二組だけ。

私は息子夫婦と愚妻と共に行った。
三月二十日くもり、体育館の中には六年生を送る五年生、左、右に保護者や来賓の方々が座っていた。実に整然としていた。

君が代を斉唱した後壇上で一人ひとりが将来の夢を大きな声でいった。
人を助ける人になります。人にやさしくなります。人を笑顔にします。保育士さん、バレエダンサー、看護師さん、ウエディングドレスをつくる人、ケーキ屋さん、音楽家、お医者さん、サッカーの選手、様々であった。
私の孫はプロ野球選手になってボクを支えてくれた人に恩返しをしたいです。と丸坊主の頭でいった。
愚妻はウルウルしてしまった。
子どもたちは夢いっぱいであった。よく練習をしたのかキビキビとしていた。
「仰げば尊し」とか、「蛍の光」とか、「贈る言葉」などは唄わなかった。校歌と学校のオリジナル曲を唄った。
九時三十分から始まり十一時に終った。
六年生が退場していく時に五年生がはじめて聞く送る歌を唄った。
ピアノ伴奏を五年生の私の孫娘が弾いた。緊張しておなかが痛くなったと帰って来ていった。
五十三人の子どもたちの将来に幸多からんことを願った。

こんな私にだって小学校六年生のときはあった。
どこでどう間違ってこんな男になったのかは分からないのだ。

いい日旅立ちを口ずさみながら、小学校時代を思い出していた。
杉並区立沓掛小学校が私の母校である。

2015年3月19日木曜日

「武士の情」




先日友人との会話の中でホッとしたというか、さすがというか、うれしい話を聞いた。

ホテルオークラの本館が解体され新装される話を聞いていた。
オークラの本館ロビーは私が大好きな空間である。
壊されたら嫌だなと思っていた。

大事な人と待ち合わせしたり、一人で静かにしたい時はずっとむかしからオークラのロビーを利用していた。そのロビーが高名な建築家の設計によって残されるというのだ。
そうか、あーよかった。

この頃のホテルロビーはまるで駅舎の待合所みたいでウルサイ、オチツカナイ、ダラシナイ。オークラのロビーは「和」があり「調」があり「光」がある。
好んで使ったオーキッドバーのカウンターの木が外国人によって持っていかれるのを聞いて少しガッカリした。

東京はビルの解体ラッシュだ。人間の体でいえばボロボロになった体の作り直しだ。
再生してくれる建築家の人間的センスが強く求められる。
医が仁術なら建築も仁術だと思っている。残す勇気は武士の情のようであり、一木一草を残す「雅の心」でもある。いい話を聞いた日の酒は格別であった。

オークラのロビーに入場料はいらない。無料である。
京都の世界遺産、下鴨神社の敷地内(駐車場)になんとマンションを建てるという話には耳をふさぎたくなった。その理由は下鴨神社は式年遷宮のために莫大なお金がかかる、その費用を生むためにマンションから収入を得るというのだ。
世界遺産とはを考えさせられた。日本は文化後進国なのだ。

2015年3月18日水曜日

「山口の友」




NHKの大河ドラマ「花燃る」が低視聴率にあえいでいる。
少しずつ良くなっていくだろうと思っていたのだが、どんどんよくないことになって来た。吉田松陰の松下村塾が学園青春ものみたいになって来た。

友だちが山口出身で私が萩を訪ねた時、松下村塾に連れて行ってくれた。
野山獄などはテレビドラマと違い人間一人がやっと入れる位の狭さであった。
犬小屋に近い。松下村塾もただの一軒家であった。

小さくて狭い、日本人の平均身長は155157センチ位だったのではないだろうか。
日本女性は150センチ前後だと思う。
だがあの頃の日本人にはギッシリと志というものが詰まっていた。

長州人は議論好きである。友人と酒を飲んでは朝までいろんなことを話した。
高杉晋作と木戸孝允の家は近い。空地にはなっているが広くはない。
吉田松陰は第一級の教育者であり、王陽明の影響を受けた行動主義者であった。
学問は行動をしなければ意味がない。

陽明学は三島由紀夫にも大きな影響を与えた。
伊藤利助はやがて日本国第一代総理大臣となる。
女性に対する行動力は並外れていたという。

松下村塾の歴史はわずかな月日だが吉田松陰の教えは濃密であったのだろう。
人物の個性を見抜く力が抜群であったという。また、ホメ上手でもあったと伝えられる。 

NHKのドラマの主人公役たちは皆180センチ近くある。
それがどうしても気になってしまう。
手の付けられないスケベの伊藤利助役の「劇団ひとり」が秀逸である。
「そうせい公」といわれた毛利敬親役の北大路欣也の声がソフトバンクの白い犬の声と重なってしまう。

松下村塾に行った時こんな思い出がある。
友人の車はポンコツのフォルクスワーゲン、ひっぱたいてもラジオが聞けない、丁度プロ野球の日本シリーズ第七戦をやっていた。
長嶋監督の巨人が勝てば43敗の大逆転優勝だった。
オイ、ラジオ、ラジオと私は叫んだ。鳴らねえんだよと友人はいった。
どこかラジオはと見回すと松下村塾の側に売店があり小さなテレビがプロ野球を流していた。二人して急いで入った。

一打逆転満塁の大チャンスに淡口憲治が左のバッターボックスに入っていた。
ピッチャー投げました、淡口打った、あっ、ピッチャーゴロで併殺です。
ということで長嶋巨人軍は日本一になれなかったのです。
入ってはいけない柵をもぐって松下村塾の畳の上に大の字になったのです。
すすけた畳の臭いが今でも残っています。
NHKのドラマを見るたびそのことを思い出すのです。

友人は元気にリハビリ中、庭いじりをしていて倒れたのです。
中央大学出身の男です。三白眼で少し出っ歯です。
見かけたら無理をするなと声をかけてやって下さい。
身長は178センチ位です。

恵比寿で映画の上映会をやった時、山口県からバイクに乗って見に来てくれました。
確か京都に一泊して。長州人はそんなウレシイ行動力があるのです。友遠方より来たる。
その恩返しに今年は山口に行きたいと思っている。秋の萩はいい。萩焼は大好きだ。

2015年3月17日火曜日

「地球の水」






ある映画を見た。
功成り名を遂げた医師はウィスキーと睡眠薬を一緒に飲まないと眠れない。
メイドが一日の終りにその二つを飲むように渡して終わる。

老医師は悪夢にうなされる。日々うなされる。
夢はシューリアリズムの世界だから定められたものは一つもない。
一匹の蟻を殺したことが増大し怪獣となって襲われる。
一匹の蛙を捨てたことで、ブラックホールに吸い込まれて行く。
一羽の蝶の羽根を取ってしまったことで、砂漠に投げ捨てられる。

悪夢にうなされた人間がいちばん何を欲するか、Water(水)である。
アメリカで何人も人を殺した人間が死刑になる前に、何か欲しいものはないかといわれる。その答えは、死んだら生き返る、その時は一杯の水が欲しいと。
30人もの若い女性を殺した人間に最後に何がほしいかとの言葉に、31人目の若い女性が欲しいと答えたとか。そして水が一杯飲みたいと。

さてこの一杯の水は、極めて欲望的であり文学的であり哲学的である。
水とは、快楽の水であり、権力であり、凶器であり、性的欲望であり、殺人的行為である。 

315日(日)友人の写真家がある撮影を依頼された。
会費一人6000円、約4時間、男が女体を縛りに縛り、女は苦痛と共に絶頂に達すという。お客は息を殺し最大級の快楽を得る。
大会社の社長、医師、判事、検事、弁護士、一級建築士、公認会計士、一等航海士、高級官僚、代議士など社会的には名士が参加するという(いつも超満員とか)。
金も名誉も手にいれた人々にとって秘密の自分を人に見せることはできない。
それがまた快感なのだ。

汗びっしょりになって水を飲む姿は快感に満ちているという。
友人の写真家はその一部始終を撮る。
但し世の中に出ることはない。実は悪夢ほど正確なものはない。

この頃よく二つの夢を見る。一つは私と仲間を裏切った男と、私に礼節を失っている男。その二人が炎熱地獄で叫んでいる。水を一杯下さいと。
今、私はその水を二人に運んでいる。重い水はとても重い、早く持っていってあげたいのだが地獄の道は針の山で痛く、血の海はドロドロとして泳ぎ切れない。
熱い水がどんどん蒸発してしまう。早く持っていってあげねばならない。
可愛がっていた二匹の犬が来て私を必死に持ち上げようとしてくれている。

「純愛とは」



人生とはコインの裏表であることを日々知る。
北陸新幹線に沸いた先日、石川県は二つのニュースで盛り上がった。

一つは勿論東京から金沢まで一気に一時間半近く短縮されたこと。
いかに速く走るかの結果であった。

一つは石川県能美市出身の鈴木雄介(27)選手が競歩で1時間1636秒の世界記録を樹立した。陸上の五輪種目で日本選手が世界記録を出したのは2001年に高橋尚子選手が女子マラソンで世界記録を出して以来。
男子では1965年の重松森雄選手のマラソン世界以来50年ぶりとか。
いかに速く歩くかの結果であった。いかに速く走るかと、いかに速く歩くか。
それが同じ日、同じ県で記録となった。

♪〜夕焼けこやけの赤とんぼ 追われて来たのはいつの日しか…赤とんぼを愛し、自然を愛し続けていた東大卒の先生が教え子ともいえる女性を殺害してしまったとか。
会わずにいればよかった者同士が会ってしまうのが世の中だ。
赤とんぼはもう仲良く飛ぶことは出来ない。

一人は土に還り一人は刑務所の中に入ってしまう。
真実がいずれ分かってくるのだろうが、先生と教え子とは、宿命的に恋愛感情を交わす、そして終着駅が見えない運命線に向かって走りだす。
それは純愛であることが多いのだが、純愛には死の臭いが付いて離れない。
赤い血が似合うのだ。赤とんぼの研究者であったのも実に象徴的で。
塩からとんぼやオニヤンマではドラマは成立しない。
人間から発生する「愛」ほど血に飢えたものはない。

オーストラリアの原住民、アボリジニーは16歳になると荒野に一人放り出される。
そしていかに生き残るかを自ら学んで行く。照りつける太陽の下で水を求め、食料を求めて行く。そして本能を鍛えて行く。
そんなアボリジニーの少年の前に一人の美しいイギリス少女が現れる。
生まれながらの野性と、生まれながらの品性が、運命線の上を歩き出す。
生き物は何でも殺して食う若者と、虫も殺せぬ処女は黄土色の大地を歩く。
勿論新幹線は走っていない。そんな映画を見たのを思い出した。
題名が思い出せない。
カンガルーが挽き肉にされて出てくるのが最初のシーンであった気がする。
進化する文明と、原始にこだわる人間を対比させたかなり哲学的映画だったと思う。

2015年3月13日金曜日

「ドローン」




「冗談じゃない」と「冗談がない」。
「が」が入ると大違いだ。

先日友人たちとこの頃はいい冗談がないネという会話に花が咲いた。
日本人からいい笑顔が消えてしまったな、やっぱり3.11以後笑ってはいけないという気持ちが大きくなったのが大きな要因かもしれない。
だがそんな時こそひとの心をくすぐる上質のジョークは生まれるはずだ。

デザインや広告やCMなど私に近い業績も洒落たユーモアやジョークに富んだものが少なくなった。テレビのお笑いも無理矢理笑いをとるものや、命がけでやることに対する笑いが多い。言葉→コトバ→ことばのジョークがなくなっている気がしてならない。

雑誌アエラのダジャレも初代のコピーライターが亡くなってからすっかり質が落ちてしまった。表紙の撮影も坂田栄一郎さん以外の人だとガクンと質が落ちる、やっぱり違うんだよなぁ〜という話にもなった。
ビートたけしの毒も弱くなった。明石家さんまは騒音化している。
もともと日本人はジョークが苦手な国民だ。

国会のやりとりを見ていた。
野党が痛々しいほど必死で政府を攻めているようだが、軽くいなされていた。
役者が違うところがあった。
そんな中で委員長の大島理森さんの声が実に味わいがあった。
時に間延びし、時に叱り、時にいい加減的、投げやり的であり、そしてビシッとシメていた。これに上質なジョークが加わったら名委員長になると思う。
野党に一人位ジョークがいえるのがいないものだろうか。

朝からずっと呼び出されたのに、ほとんどへの字の口を開かなかった、麻生太郎財務大臣なんかは座っているだけでジョークぽかった。役者が何枚も上だった。
「ジョーダンがある」日常を目指したいものだ。

そんな中で「線虫」でガンを見つけるその精度も高いとかの話を聞くと医学者や科学者の発想力がジョーダンじゃないことを知る。
人のウンコで腸の難病を治す治療が外国では本格化しているとか。
人間の命に“運”が向いて来ているのかもしれない。

土星に生命体があるなんてことを一日中研究している人にはきっとモノ凄い冗談力があるのだろう。先日床屋さんでナショナルジオグラフィック(確か二月号)という世界的雑誌を見ていたら、月面上陸したのはアメリカの大ウソだと特集していた。
映画みたいにセットを組んで行った大芝居だと。
ジョーダンもこれ位になるとスケールが大きい。

三月十五日(日)に世界の面白CM集という番組があるらしい。
これは楽しみだ。ジョークを学んで見ようと思っている。

無人航空機のネーミングが「ドローン」というのもジョーダンが効いている。
お金を貸した相手は必ず“ドローン”すると決まっている。
ズラカルとかフケルとかバックレルとかと同意語がドローンなのだ。

さあ、ジョーダンを本気でやろう。
かつて政党CMが大流行であった。その中で超秀作のジョーダンがあった。
公明党のCMで時代劇の設定だった。代表の名が「神崎武法」さん、座敷の中で密談をしているのを、ふすまを開けてひと言いった。「そうは、いかんざき!」
このCMを超えているのは未だにない。

あと一ヶ月で地方選挙が始まる。ウソっぽい公約やマニフェストより、歴史に残るひと言を期待している。思い切りバックレたものを。

2015年3月12日木曜日

「最高のデザイン」




昨日三月十一日、魔の日本列島の映像や、今後の原子力発電問題や核燃料などの最終処理問題について、各界各層の専門家が日本列島の地図の形を指しながら語った。

私は常々思っていたことがある。
地球上で最も絶妙なデザインは「日本列島の配置」である。
手を大きく開いた堂々たる形の北海道、そこから鳥が飛んで行っている様な、歯舞、積丹、国後などの北方領土、本州の頭は陸奥湾を斧で守るような下北半島、本州全体は龍が如くの形となっている。

間延びしそうな位置に緊張感を出す能登半島、その先には佐渡ヶ島がある。
千葉や伊豆半島は全体を美しく保つ、琵琶湖に一服させ下に広がる紀州の形、中国地方の横長を絞まらせる、離島の島後、島前。くびれて割れた下腹を支える四国四県。
中国地方との間を取り持つ淡路島、本州の尻尾はなだらかに細る山口県、そことつながる九州はまるで拳を強く固めたようである。

入り組んだ有明を抱きかかえる島々、五島、対馬列島は大陸への句読点のようである。
九州の先端には、鹿児島湾、明日への希望を放つような種子島や屋久島。
そして美しい南西諸島があり、沖縄が他国文化への入り口のように配置されている。

これ程の絶妙なデザインは地球上の如何なるデザイナーやクリエイターでも不可能だ。
四方八方海の中にあるこの国を今は原子力発電所が囲んでいる。
大自然が与えてくれたこの国を、大自然を滅ぼす原子エネルギーが抱え込んでいる。

私はこの皮肉をずっと考えていた。地球儀を見てほしい。
日本国以上に美しい絶妙の国はない。3.11を風化させてはならない。
それはこの国自体を風化させて行くことになる。
思想信条は別にしてみんなで守っていかなければならない。
しばし日本地図を見つめてほしい。

2015年3月11日水曜日

「豆の入っていない枝豆」




昨日、日本のグラフィックデザイン界の巨匠二人と、パルコの伝説の広告の全てをプロデュースしていた友人と会った。

浅葉克己さんとは午後一時半から二時四十分まで。
相変わらず圧倒的な仕事を大好きな卓球と共に続々と制作していた。
若い頃からボクは二兎を追うものは一兎をも得ずといわれていたが、十兎を追うものは三兎ぐらいは得られると思っていた。という文章を読ませてもらって大いに共感した。
まるで千手観音のような多彩な仕事もその考えから生まれているのだ。
青山の浅葉克己デザイン事務所はデザインの博物館となっている。

午後五時から六時三十分まで神宮前の増田屋というおそば屋さんにいた。
巨匠井上嗣也さんは友人のお墓をデザインしたことを話し出した。
相変わらずポケットの中に文庫本を二冊入れていたようだ。他には何もなし、才能だけはあふれるほど持って座っていた。

もう一人は對馬寿雄(ツシマヒサオ)さんだ。
パルコ誕生時代から定年まで日本の超一流クリエイターをプロデュースした人だ。
青森県出身、武蔵野美術大学卒、何より「ねぷた祭」を愛する。
万事控え目でありながら大胆で細心、斬新な発想の人だ。
この人に仕事を頼まれて断った人はまずいないだろう。

井上さんはビール一杯、焼酎一杯、板わさ+カツオのタタキ、シメに「たぬきそば」を食した。對馬さんはビール一杯とカツオのタタキ、シメに「ざるそば」を食した。
私はウーロン茶だけで応対した。話は濃密に弾んだ。デザインや映画や本の話は楽しい。

体重30kg位、バストなし、ヒップなし、全身板みたいなメガネをかけた女店員さんがいいキャラクターだった。
まるで豆の入っていない枝豆がメガネをかけているみたいだった。
むかしを語り、今を語り、夢を語った。

今日は嵐になるかもしれないから早く帰ろうとなり、六時四十分頃に別れた。
お金を払う時、枝豆みたいな女店員がシャーペンを使って何か書こうとした。
芯が出てるか確認する時、指に鋭く触れた。
姿カタチには全く似合わない声で。痛え、痛え、やっちまったといった。
やっぱりいいキャラクターだった。
ふとこの枝豆女性を起用した短編映画が頭に浮かんだ。

2015年3月10日火曜日

「ドドンパな雨、ビビンバな夜」




LGBT6兆円市場!なんてニュースを見た時、LED以上の新しい電球が出来たか(?)と思ったLPG以上の新しいエネルギーが生まれたか(?)と思った。

実は全然の大違いで正直ビックリした。
L→レズビアン、G→ゲイ、B→バイセクシュアル、T→なんだったかな〜、確か何とかいっていた性同一性障害だったかと思う。その頭文字がTであった。

調査によると日本人の20人に1人がこの「LGBT」なんだと。
欧米ではもう当たり前の産業なんだと。東京渋谷区で近々パートナー証明が認められるとかでその道の人たちは大注目している。
女性同士(同志かも(?))の結婚とか、男性同士の結婚とかが認められると全ての産業は活性化する。
その市場規模が6兆円近いと見てすでに信じられない様々ビジネスが働き始めている。
信じられないセミナーが満杯、乾杯、性一杯となっている。

何だかよく分かんない。 
20人に1人とは人口の5%の人々、この人たちは高収入、高学歴、共働きなんだという。
先進8カ国(G8)の中で「LGBT」を認めない国は、日本だけ。

次のニュースには笑ってしまった。
韓国で今大流行の事、「甲の横暴」「乙の逆襲」。
「甲」とは大企業とか、社長とか、上司とか、地位の高い人たち。
この「甲」の横暴を、そうでない人たち「乙」が逆襲する。

「乙」が「甲」を徹底的にバカにし、コケにした歌詞をカラオケ教室で唄いまくる。
教室内はまるで万華鏡の中のように極彩色の衣装の老若男女たちだ。
手品師のような服を着たカラオケの先生の指導で唄いまくるのだ。
♪〜あのバカ、あのアホ、あのマヌケ、まるで私の事を唄っているのだ。

これはきっと日本にも上陸して来るかもしれない。心から楽しそうだ。
韓国料理のビビンバとは「かき混ぜる」のことだ。
かつてドドンパとか、ルンバとかが大流行した。
“甲ヒールンバ”とか、久々に大ヒットしそうではないか。

昨夜はアタマの上をドドンパのような雨が降っていた。
アタマの中はビビンバクッパ状態になってしまった。
白い梅の花が雨、風と共に去って行く夜は、マツコ・デラックスが一層巨大増大であり「LBTG」の時代の象徴に見えた。余りに存在感があり過ぎたので恐くなってテレビを切った。