ページ

2015年4月3日金曜日

「黒い画集・あるサラリーマンの証言」




原作/松本清張、製作配給/東宝、監督/堀川弘通、助監督/恩地日出夫、脚本/橋本忍、撮影/中井朝一、美術/村木忍。主演/小林桂樹、原知佐子。

主人公は中堅会社のサラリーマン。
42歳課長、給料手取り五万七千円、賞与年二回四十万円。
定年まで十三年というから当時は五十五歳で定年であった。

テレビからペギー葉山の「南国土佐を後にして」とか、水原弘の「黒い花びら」が流れている。第一回レコード大賞になった曲だ。

サラリーマンは家に帰ると風呂、ビール、新聞、テレビ、煙草、寝床でも煙草が普通であった。サラリーマンはある事件のアリバイを証明できる唯一の男、でもそのアリバイを証明する事は身の破滅となる。

検事/平田昭彦、刑事/西村晃、弁護士/三津田健、チンピラ/小池朝雄、裁判長/佐々木孝丸、上司/中村伸郎、殺人犯にされている容疑者/織田政雄、与太学生/江原達怡、サラリーマンの妻/中北千枝子、容疑者の妻/菅井きん、殺された若妻の夫/中丸忠雄。

ただ一つの秘密以外はビールと煙草とパチンコを愛するごく普通のサラリーマン。娘と息子がいる管財課長。業者からの賄賂は全て断って来た。
電気釜が市場に出始めている。国鉄中央線は省線といった。
純喫茶、路面バス、都電が走る人口900万人の東京。

サラリーマンが容疑者(近所の人)と出会ったと言えば容疑者は無実となる。
平凡と退屈、分相応の生活がいかに大事かを知る。裁判で検事の求刑は死刑。
七・三に頭を分けたサラリーマンはさてどうする、破滅の結果はTSUTAYA100円出せば借りられます。

昨日深夜懐かしい映画を観た。いい役者ばかりでよく出来た映画であった(白黒97分)。この映画を作った人も、出演した人も今はこの世にいない。
私は中学生の頃「荻窪東宝」で観た記憶がある。
杉並公会堂が出来てその記念コンサートで水原弘が「黒い花びら」を唄い、都はるみが「アンコ椿は恋の花」を唄った。
当時人気絶頂の小坂一也とワゴンマスターズも唄った。
ラーメン一杯が35円か40円だった。

2015年4月2日木曜日

「除幕と植樹」





四月一日石巻観音寺は糸をひくような寒雨、前日とはうってかわっての空模様であった。前泊した仙台のホテルから倍賞千恵子さんたちと共に大小のバス二台で観音寺に着いた。

雨の中沢山の方々が倍賞千恵子さんを待っていてくれていた。
テレビ局や新聞社もたくさん来てくれていた。

倍賞千恵子さんを歓迎する大きな横断幕を子どもたちが拡げて持っていてくれた。
日本の職人芸をテーマに創業九十余年、仙台の笹気出版の社長や私と後藤住職を結んでくれた編集者、井上英子さんたちも来てくれた。

「祈りの塔」には白いカバーがかけてあり、紅白の縄で結ばれていた。
後藤住職たちスタッフ(一般社団法人てあわせ)が実にステキに演出をしてくれていた。
正に誠心誠意であった。

除幕式は、私と私に四十年付いて来てくれている会社の人間とで行った。
紅白の縄を引くと「祈りの塔」が現れた。その時雨は止んでいた。
その時だけ止でくれたように。拍手、拍手、笑顔、笑顔を前に私はスピーカーでご挨拶をした。デザイン界で生きて来たのでデザインで何かを残したかった。
きっとこの大地を守り、人々を守ってくれるでしょうと。

次に植樹祭があり「倍賞千恵子さん植樹」と書かれた白い木札の横に桜の木が植えられた。倍賞千恵子さんが土を三度スコップでかけてくれた。そしてまた、拍手と笑顔。

あ〜やっと「祈りの塔」が設置された。
会社を一人で立ち上げて四十五年、四月一日は新年度のスタートだ。
私も心を新たにスタートする。
桜の木が大きく育ち満開の花を咲き誇るのを見ることは出来ないだろうがずっと通い続ける。子どもたちが大人になった頃きっと息を飲むほどの絶景となっているだろう。

小さな印刷所の二階四畳半二間の時から四十五年、苦楽を共にして来た男二人と小谷中清さんと紅白の縄を引くのは万感胸に迫るものがあった。
ちなみにこの二人の男は長野県出身、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、美術学校そして現在までずっと一緒という奇跡的な二人だ。
ヤクザな私を支えて来てくれたのだ。

帰りの列車の中で何か一つ世の中のためになることをやったかなといった。
いいんじゃないですかといってくれた。

何からなにまでやってたデスクの女性が背中にリュック、両腕に重い荷物を持ってテキパキと動いていた。雨は強くなっていた、気が付くと寒いのに半袖だった。

その後みんなで大川小学校に行く、手を合わせた。
70数人の命が津波にさらわれた。
あの日はもっと寒かったはずだ、傷つき壊れた校舎が雨の中で泣いていた。

2015年3月30日月曜日

「土俵の周辺」





その名を「岩崎友太郎」という。土佐の出身である。
三菱財閥を生んだ「岩崎弥太郎」と名が似ていたのでずっと記憶の中にあった。

先日朝日新聞の書評を読んでいたらその名が目に入った。
「土俵の周辺」岩崎友太郎著・白水社刊・2400円+税とあった。
世の中には同じ名前の人間がいる。

“とうもとせんせいのまないかんぜよ”その声を思い出した。
当時私は二十二、三歳だった。
百貨店の宣伝部を辞めて十カ月ほどあるプロダクションに入っていた。
徹夜用の二段ベッドが二つあるプロダクションだった。
100人以上のデザイナーやコピーライターやイラストレーターがいた。

私が座った場所の隣に土佐弁の岩崎友太郎はいた。
童顔で色白、二重まぶたがクッキリとし目がクリクリとしていた。
私より一歳下であったが会社では先輩だった。
新しく出来た千葉そごうを一緒に担当し、ほとんど家に帰れなかった。
朝はいつも酒の香りがした。色白のほっぺは宿酔でほんのり赤かった。

土佐人は酒に「酔鯨」と名をつけるほど酒好きが多い。
彼も正真正銘の土佐っぽで大酒豪だった。
お互いに酒好き同士、よく明け方に飲みに行った。
当時読売新聞本社裏に「加賀屋」という24時間営業の飲み屋があった。
その時決まっていうのが、“とうもとせんせいのまないかんぜよ”であった。
実に少年のようであり純粋でありみんなから「岩(がん)ちゃん」と呼ばれ、社長以下スタッフのアイドルのようであった。

小学館の人気漫画雑誌、ビッグコミックオリジナル(猫の絵で有名)の表紙を描いているイラストレーターの村松誠氏も同じ職場にいた。
村松誠氏に拙書を送ったらご丁寧な返事が届いた。
そこに、岩崎友太郎さんも本を出しますよ、と書いてあった。
オ~、な、なんとあの書評にあった岩崎友太郎とは岩ちゃんだったのだ。
一気に酒の香りがした。そしてあの少年のような笑顔とクリクリした目を思い出した。

早速本を取り寄せてもらって昨日一気に読んだ。
いや~岩ちゃんが大変な大相撲好きで、多くの力士たちと交遊を重ねて来た事を知った。実に詳しい、実に楽しい、実にホロリとさせられる。

土俵の周辺にある人間ドラマを読んでいかに無名、有名を問わず大相撲を愛して来たかが分かる。どうやら今も酒を飲み続けている様子が分かる。親方や力士たちや行司さん、相撲甚句の唄い手まで幅広く付き合い慕われているのが分かる。

本の腰巻にはこう書いてある。
「相撲は物語の宝庫だ!タニマチが見続けてきた、人生の悲喜こもごも。」
幀・装画は「唐仁原教久」さん、いい表紙だ。ぜひおススメしたい一冊なのです。

銀座の「くに」という店でよく飲んでいる様です。
岩崎友太郎よ、いい男の人生を歩いて来たな、いい本にいつものグラスで乾杯をした。
♪~アーアーアー エー ドスコイ ドスコイ 土佐に生まれた岩崎が友太郎の名のように あまたの力士を友に毎夜酒飲み交わすぜよ アー ドスコイ ドスコイ
こんな相撲甚句を勝手につくって口ずさんだ。

2015年3月27日金曜日

「桜咲くだが」




「演歌チャンチャカチャン」という歌が流行った時がある。

今や「国家チャンチャカチャン」になって来た。自衛隊を「我が軍」といいい、AKB48の女の子を合計15時間近くスタッフ(元役員)が盗撮しまくったり、NHKの会長はハイヤー代をバックレていたり、老女が幼い孫を殺したり、老女が放火をしたり、木嶋佳苗と獄中結婚する60代の男が出たり、沖縄では民意なんか知ったこっちゃないとやりたい放題を始めていたり、14000人もの憲法改正反対の運動(デモ)をマスコミは全く報道しなかったり、大阪桐蔭という学校では5億円もの裏金を使い全校長は雲隠れ、原発は再稼働に向かい、STAP細胞の件は結局小保方さんの責任に、よく分からないが60万円だけ返金せよとか、NHKの大越キャスターは反原発的ブログを書いたからと外され、報道ステーションの恵村順一郎コメンテーターは気に入らない発言が多いからと外された。

反権力の古賀茂明氏も同じ、宇宙人鳩山由紀夫氏はクリミアに行って意味不明。
大塚家具は父と娘が出来の悪いテレビの2時間ドラマのようだ。
老女が老人にカラオケ行こうよと逆ナンパして、缶ビールに睡眠導入剤を入れてコックリグッスリしている間にお金と携帯を盗んでパクられた。

文部科学大臣は刑事告発され、中川郁子政務官は発情しまくっていた。
群馬大学はまるで殺人病院みたいで腹腔鏡手術で何人もあの世に送った。
腹腔鏡は得点が高く儲かるとのこと。
椿鬼奴が年下のお笑い芸人と結婚なんて話はまあ、どーでもいいか。

私の隣の三十代の男がスルメの唐揚げのようなものを食べながらハイボールを飲んでいた。スルメの唐揚げが強烈な臭いを発していた。何もかもがチャンチャカチャンだ。

子は育てたように育つという。国家も育てたように育つ。
ローマ法王が異例の発言をした。福島の原発事故はバベルの塔だと。
またこんな発言をした。平和の国が再び戦争に向かっているのは困ったものだと。

オウムに入信している人が増えているとか、楽しい一日が少なくなった気がする。
いよいよ桜が満開となる、みなさん楽しい一日を何日もつくって下さい。
演歌チャンチャカチャンを唄って下さい。

2015年3月26日木曜日

「超人、菅昌也さん」





私の知る限り日本の広告写真家でこの人の上を行く者はいない。
その名を「菅昌也」さんという。

ウォークマンをうっとりと聴きながら立つ猿を知っているでしょうか。
触ってごらんウールだよのセーターを知っているでしょうか。
パルコの着物シリーズを知っているでしょうか。
サントリーのアイラブユーの帽子を知っているでしょうか。

知っていない人の方が多いかもしれません。
何故なら菅昌也さんは余りに凄すぎて起用されないのです。
仕事が余りないのです。ヒマなのです。
一年間に二、三本とか仕事をしていないのです。

菅昌也さんは自然光で撮影する超完璧主義者、一つの仕事を頼むとそれは凄いことになるのです。露出計を持って一ヶ月近くロケハンをするのです。
その一瞬を求めて歩き探し続けるのです。妥協は一切しません。
お金は求めません。名誉も求めません。ただ一枚自分の写真を求めるのです。

菅昌也さんと組んだアートディレクターやフィルムディレクターやプロデューサーはヘトヘトになるのです。打ち合わせが始まると話が止まりません。
夕方から始まって次の日の朝までも話し続けます。
そしてカシャと菅昌也さんがシャッターを切った時、信じられない写真が生まれるのです。

世界一かも知れません。助手もいません、一人でやるんです。
菅昌也さんを満足させるアートディレクター&デザイナーは日本に数人しかいません。
太陽の光こそが菅昌也さんが唯一信じられる相手なのです。

この地球にたった一つしかない太陽が何時、何処で、どう光るか朝から晩まで露出計を見るのです。今はデジタルカメラでだれでもプロ並みの写真が撮れる時代です、がプロの中のプロが数人いるのです。

その中にしこたまお金を残した者もいます。名声を得た人もいます。
だがヒマを持て余している文字通り第一人者は菅昌也さんだけです。

昨日二時四十五分から四時近くまで菅昌也さんが私の仕事場を訪ねて来てくれました。久々の菅昌也さんの熱弁に多弁の私はじっと聞き役に徹しました。

若いクリエイターの方々、ぜひ菅昌也さんという超人に挑んでいって下さい。
超一流の上を行く写真家がどんなものかを知って下さい。
菅昌也さんともう一度何かやろう、私はそう思ってエレベーターまで送りました。
ヒマだからといっていたので仕事を頼んで断られることはないはずだから。
但し命がけになるでしょう。

私の出した本を三冊も買ってくれたのです。
その恩返しをしなければなりません。

2015年3月25日水曜日

「歌舞伎揚げに、お手上げ」




私の大好きな東海道線内のドラマが複雑になって来た。
上野東京ラインというのが生まれて、宇都宮とか前橋まで乗り換えなしで行くことが出来るのだ。ということは向こうから来ることも出来るのだ。

今までは、伊東行、熱海行、沼津行の乗客が旅行気分だったのでそれを警戒していればよかったが、これからは全てを警戒しないとならない。
湘南新宿ライン(高崎行)が大幅に拡大されたのだ。


通勤客と旅行気分客がごちゃ混ぜになった。
柿ピー、さきいか、塩豆、グリーンピース、笹かま、カラムーチョ、マヨあたりめ、魚肉ソーセージ、ベビーチーズ、サラミなどなどの臭いが充満する。
ワンカップ、氷結、のどごし生、クリアアサヒ、淡麗、スーパードライ、モルツ、一番搾り、ハイボールとなんでもあり。

お前ホントによくそんなにガリガリ、ボリボリ食べれるな、油っこい歌舞伎揚せんべいを食べながら缶ビールのロング缶をゴクッ、ゴクッ飲む隣の四十代男にいってやりたくなった。バタピーを袋ごと口の中に投入した。
私は夕刊を読んでいたのだが臭いと音が気になって活字が読み取れない。

前橋から伊東に向かっているようだった。
出張だろうか、何の仕事をしてるんだろうか、結婚して子どもがいるのだろうか、持ち家かマンション住まいか、クルマは何に乗っているのか、犬か猫を飼っているか、趣味は、血液型は、とどうでもいいことを考えてしまう。
いっそ話しかけてみようかと思うが意味がないから止めた。

これから先いろんな人物に会える楽しみが増えたと思えばいいんだと思った。
だが私は列車内の柿ピー系、歌舞伎揚系、カールおじさん系は苦手なのだ。

誰かに似ているなと思った。そうだソックリだ、大橋巨泉だ。
これから新入社員が研修などでどっと乗り込んで来る列車内はコンパみたいになる。
私はどこまで耐え忍ぶことが出来るだろうか。

コラッ、歌舞伎揚げがボロボロ落ちてるじゃねえか、ベタベタした指をナメてんじゃないよ、大橋巨泉。 

2015年3月24日火曜日

「倍賞千恵子さんに感謝」







千葉県柏市の鉄のアーティスト、小谷中清さんのアトリエを出発した「祈りの塔」がトラックで運ばれ遂に石巻に設置された。

三年間設置場所を求めていた。
観音寺二十六世・後藤三彦様、観音寺護特会長・高橋和義様、協力団体・一般社団法人てあわせ理事長・後藤泰彦様、施工株式会社角張工務店・角張守さんのご尽力によるものであった。

また仙台で編集人として活躍する井上英子さん、NPO学校再生プロジェクトの代表・立花貴さんのご協力によって設置の運びとなった。

三月三十一日〜四月一日、大女優倍賞千恵子さんが植樹祭に来てくれることになった。
桜の木や、種々の樹々を千数百本植える計画の事始めの儀式には映画「男はつらいよ」で寅さんの妹役(さくら)を演じる“日本のさくら”倍賞千恵子さんになんとしても来て欲しいと思った。私たちの願いを聞き入れてくれたことに心より感謝、感激をしている。

三月三十一日〜四月一日行動を共にする。仙台で一泊して現地に向かう。
何か一つ位は世の中のためになることを残したいと思っていたのが叶うのは感無量だ。

人々が3.11東日本大震災を風化させないことを祈り、再び大災害が起きないことを祈る。
樹木葬を希望する方々や、不幸にして災害に遭い故郷を離れた方々、魂の行き場を失った方々の安らかな地となることを願っている。
人の魂は山に還り、そして再び生き返る。10年後、20年後、30年後植樹された樹々たちは立派に育ち、四季を彩り、壮大な風景となって人々を守り続けてくれるだろう。
東京→仙台→石巻と遠路だが一人でも多くの人に来てほしい。
天災は忘れた頃にやって来るという、そうならないために。

2015年3月23日月曜日

「ひたすら平身低頭」




昨日午後一時四十五分、私の脇の下にはどっと冷汗が出た。
シマッタ!大ミステイクをしてしまった。

午後二時に銀座の仕事場で知人を待つ約束をしていた。
土佐の四万十から映画人の人を紹介してくれることになっていたのだ。
ちゃんと手帳に書いてあった。

朝一本の電話が入った。
長年付き合いのある保険の老女が二時頃に辻堂駅に来る、どうしても昨日中に書類と印鑑が必要なんだと。成績に影響するのでぜひにというから、ついいいですよといってしまった。私の頭の中はすっかり保険の老女のことで二時という時間が取られてしまった。
わざわざ東京から来てくれるのも大変だなとなった。

わざわざ休日に来てくれる知人をすっかり忘れてしまった。
が、何か虫が知らせたのか一時四十五分に手帳を見たのだ。
明日はどんな予定だったかと、その瞬間手帳に知人の名と二時の数字が目に入った。シマッタ、大失敗だった。日曜日ですっかり気がゆるんでしまっていた。
直ぐにデスクの女性に連絡すると、あ〜良かったモシモシと出てくれた。
知人の携帯の番号を聞いたら直ぐに調べて電話して来てくれうた。
あ〜良かったアリガトウ。

二時少し前に知人と連絡がついた。
申し訳ない、すでに仕事場に着く寸前だった。

ピンポーンとチャイムが鳴った。
保険の老女が私の指定したタクシー会社のクルマに乗って着いたのだ。

子機で知人にお詫びしながらドアを開けた。
すいませんおやすみのところといった。やっぱり携帯やメールやスマホを持たない私はイケナイ人間なのだと思い知った。
今日なんとか知人と土佐の映画人と会えることになった。
どうお詫びをするか考えに考えている。
ただただ平身低頭をしながらこのブログを書いている。福助のシンボルのように。

2015年3月20日金曜日

「卒業式」




茅ヶ崎市立汐見台小学校の卒業生は五十三人であった。
二十七人と二十六人の二組だけ。

私は息子夫婦と愚妻と共に行った。
三月二十日くもり、体育館の中には六年生を送る五年生、左、右に保護者や来賓の方々が座っていた。実に整然としていた。

君が代を斉唱した後壇上で一人ひとりが将来の夢を大きな声でいった。
人を助ける人になります。人にやさしくなります。人を笑顔にします。保育士さん、バレエダンサー、看護師さん、ウエディングドレスをつくる人、ケーキ屋さん、音楽家、お医者さん、サッカーの選手、様々であった。
私の孫はプロ野球選手になってボクを支えてくれた人に恩返しをしたいです。と丸坊主の頭でいった。
愚妻はウルウルしてしまった。
子どもたちは夢いっぱいであった。よく練習をしたのかキビキビとしていた。
「仰げば尊し」とか、「蛍の光」とか、「贈る言葉」などは唄わなかった。校歌と学校のオリジナル曲を唄った。
九時三十分から始まり十一時に終った。
六年生が退場していく時に五年生がはじめて聞く送る歌を唄った。
ピアノ伴奏を五年生の私の孫娘が弾いた。緊張しておなかが痛くなったと帰って来ていった。
五十三人の子どもたちの将来に幸多からんことを願った。

こんな私にだって小学校六年生のときはあった。
どこでどう間違ってこんな男になったのかは分からないのだ。

いい日旅立ちを口ずさみながら、小学校時代を思い出していた。
杉並区立沓掛小学校が私の母校である。

2015年3月19日木曜日

「武士の情」




先日友人との会話の中でホッとしたというか、さすがというか、うれしい話を聞いた。

ホテルオークラの本館が解体され新装される話を聞いていた。
オークラの本館ロビーは私が大好きな空間である。
壊されたら嫌だなと思っていた。

大事な人と待ち合わせしたり、一人で静かにしたい時はずっとむかしからオークラのロビーを利用していた。そのロビーが高名な建築家の設計によって残されるというのだ。
そうか、あーよかった。

この頃のホテルロビーはまるで駅舎の待合所みたいでウルサイ、オチツカナイ、ダラシナイ。オークラのロビーは「和」があり「調」があり「光」がある。
好んで使ったオーキッドバーのカウンターの木が外国人によって持っていかれるのを聞いて少しガッカリした。

東京はビルの解体ラッシュだ。人間の体でいえばボロボロになった体の作り直しだ。
再生してくれる建築家の人間的センスが強く求められる。
医が仁術なら建築も仁術だと思っている。残す勇気は武士の情のようであり、一木一草を残す「雅の心」でもある。いい話を聞いた日の酒は格別であった。

オークラのロビーに入場料はいらない。無料である。
京都の世界遺産、下鴨神社の敷地内(駐車場)になんとマンションを建てるという話には耳をふさぎたくなった。その理由は下鴨神社は式年遷宮のために莫大なお金がかかる、その費用を生むためにマンションから収入を得るというのだ。
世界遺産とはを考えさせられた。日本は文化後進国なのだ。