その女性は一〇三歳になっても若返っていく。
墨の芸術家「篠田桃江」さんだ。
書道からはじまり書道を否定した。
書であって書にあらず、大きな硯が生み出す黒色、血管が浮き出た細くしなやかな腕と指がゆっくりゆっくり動くと、千色、万色の黒のグラデーションが生み出される。
硯の上に滴る水の量、硯の持つ個性、墨を持つ力の加減がそれを生み出す。
自分の腕と一体になるように特別に作った筆はとても長い、筆先もだらりと長い。
このだらりが墨を吸い込み書き手と意志を通じ合い金箔、銀箔、和紙の上をまるで蛇がうねるように動き、時に図太く、時に荒々しく、時に細々とそしてさらに極細の線、を生む。また自在の面形を生む。
篠田桃江の世界は妖しい黒から白への無数の階調の世界だ。
「生きている限り、前とは別のものができる」という、昨日と今日は違う。
篠田桃江の人生は「わがまま」を貫き通すことであった。
篠田桃江の人生は「わがまま」を貫き通すことであった。
「お手本通りにすることくらい朝飯前ですが、それではつまらない。お手本をまねするのは複製を作ること、アートはまねしたものは偽物です」朝日新聞、著者に会いたいのインタビューに応えていた。
私はNHK ETVのドキュメンタリー番組で見た。
映画監督篠田正浩は従兄弟である。この女性は強烈だ、自分を確信しながらも日々自己を徹底的に研磨する。妖気ただよう美しさがある。近寄りがたいリリシズムがある。
能楽の小面(こおもて)のように、表情があって表情がない、妥協を許さないでくるときっとこうなるという表情だ。究極の抽象画家といえるだろう。
黒い闇の中でバッサリ人に斬られた時、飛び出す赤い血のように時として赤色が黒色を灰色を刺すのだ。芸術とは人のやらないことをやる、それを貫いている篠田桃江はその鏡だろう。何しろ歳を重ねるごとに若々しくなるのだから。
どんなに上手く描いてもそれは技術に過ぎない。これは全ての芸術にいえるだろう。
(文中敬称略)