私が大尊敬する韓国映画界の巨匠、キム・ギドク。
その最新作を昨晩午後八時四十五分〜十時四十五分に観た。
この日、この時間しか私の予定上観れない。
ヒューマントラストシネマ有楽町での上映はもうすぐ終わる。
何しろこの監督の映画は凄すぎてお客さんはキム・ギドク崇拝者以外あまり入らない。
韓国の映画界でも同じだ。だが世界の映画界での評価はこれ以上なく高い。
ベルリン映画祭監督賞、ヴェネツィア映画祭金獅子賞・監督賞、カンヌ国際映画祭ある視点賞受賞等、海外に出品すれば世界の映画人から最大級の賞賛を受ける。
だが韓国では徹底的に嫌われる。ネット上でこれでもかと叩かれる。
お客さんを呼ぶために映画は作らない、自分の意思を絶対に変えないからだ。
ヒューマントラストシネマ有楽町の観客は20人程であった。
映画の題名は「殺されたミンジュ」韓国での題名は「イルテル(一対一)」であった。
ミンジュとは“民主”との意味。「殺された民主主義」という題名だ。
キム・ギドクは低予算でつくるため、この映画は撮影も自分でしている。
カメラマンとの打合せをする時間ももったいないという。
主役のキム・ヨンミンは何と一人8役だ。
何故一人8役か、それは一人の人間の中に何人もの人間が存在するからだ。
少女を殺したのは誰か?事件後一年経った時、少女殺しの実行犯は一人一人と拉致され、ある時は軍服で、ある時は秘密警察で、ある時は暴力団で、ある時は…と次々と変わる。キム・ヨンミンも被害者であったり、加害者となる。
拷問の方法も変わる。残忍を極める。
拷問にあった者は上の命令だから、その上の命令だから、そのまた上の命令だからと口を割る。つまり国家機密の命令はどこから出ているのか分からないのだ(上司の命令は絶対なのだ)。
海軍にいた男が自分の娘を殺される。
その復讐のためにネット上で集めた(と思わせるセリフがある)人間を使う。
映画の主題は“私は誰か?”なのだ。私たちには父と母がいた。
その父と母にも、父と母がいた。
その父と母にもと辿って行くと途方もない遺伝子の歴史がある。
私は誰か?とは、人間とは何か?であり、原題の一対一は国家と国民とは何か?に行き着くのだ。現代社会において人の不幸はその人のせいであり、その家のせいであり、自分の不幸は人のせい、他人のせい、世の中のせいなのである。
人は明日被害者になっているかもしれず、明日加害者かもしれない。
映画の中で権力の中枢にいる男が拷問を受けながらこう言う、「上からの命令だ、水槽の中にどじょうを一匹入れておとくと動かずに死んでしまう。だがそこにライギョを入れる、どじょうは食べられたくないと動きまわり長生きするんだ」と、つまり国家はライギョであり、国民はどじょうという事だ。
日本の最高権力者もアメリカの最高権力者も、英・仏・露・中どの大国の権力者の上にも命令を下す者がいる。
それが誰か?は権力者たちも分からない(それは神かもしれない)。
権力者も実はどじょうなのだ。こんなメッセージをキム・ギドクは低予算で作り上げた。
キム・ギドクはかつて軍人であった。やがて画家となり、独学で映画を学ぶ。
“私は誰か?”一度考えてみると何もかもが分からないはずだ。
何千年、何億年前の遺伝子を引き継いだ自分がそこにいるのだから。
鏡の中の自分を見ていたら、気持ちが悪くなってしまった。
キム・ギドク最高!