昨夜十時半ちょい三秒前、銀座の仕事場に戻った。
男私ひとり、女子三人との焼肉を食べる会が終わった後であった。
酔い覚ましをかねて歩いて戻った。
ビール小生とハイボールわずか二杯で少しばかり酔った。
仕事場には15分位で着いた。冷蔵庫を開けてミネラルウォーターでもと思った。
卵入れの穴に何やら先が尖ったものが入った小さな白い紙袋があった。
何だろうと思いそれを見ると「金平糖」であった。
そうか、ずい分前に頂いたのが残っていたのだ。
創業弘化4(1847)年京都でただ一軒、伝統を守り続けた本当の味。
ポルトガルから来た金平糖。
日本でただ一軒、金平糖の専門店「緑寿庵清水」のものであった。
1546年ポルトガル人宣教師が持ってきた。
時は織田信長絶頂時代、新しいもの好きの信長は“コンフェイト”と言ったとか。
同じものをつくれと命じたがいかなる菓子職人たちもつくれなかった。
日本で金平糖がちゃんとつくれるようになったのは信長死後三百年近く経ってからなのだ。
金平糖にはレシピがなく、砂糖の金平糖がつくれる様になるには二十年はかかるという。皇室の引出物は金平糖であるとか。金平糖の物語はなんとも色鮮やかである。
だがなんでトゲトゲしているのかは分からない。
半円形の熱を持った大きな鉄釜の上でイラ粉を核にしグラニュー糖を溶かした蜜を少しずつ振りかけては転がし乾燥させる。熟練の職人が何度もこの工程を繰り返す。
約三日目になるとトゲトゲのイガが出始める。
約八日目にほぼ均一のイガが出揃い、約十四日目に完成すると小さくたたんだ紙に書いてある。
緑寿庵清水は砂糖は結晶しないという常識をくつがえして多種多彩な金平糖をつくるのに成功した。梅、苺、桃、桜、さくらんぼ、トマト、ブルーベリー、涼竹糖、ルビーにマンゴー、すいかにココナッツ、焼栗、丹波黒などなど50種近くの金平糖がある。
和菓子職人は芸術家以上だとつくづく思う。
焼肉を食した後の金平糖はスッキリ爽やか、口の中でイガイガを転がして楽しむ、少しずつ溶けて小さくなった金平糖を舌の先にのっけてさらば金平糖よと飲み込む。
信長は金平糖づくりを命じてつくれなかった家来や菓子職人たちを、ボッコボコにしたらしい。
仕事場の小さなテレビをつけると、復興大臣が新聞記者の質問にアタマに来て、出て行け二度と来るなと怒っていた。
昨年ある式典で名刺を交換したが、すこぶる穏やかな佐賀県出身の人であった。
スポーツコーナーとなるとヤクルトと阪神の選手がグランド上で大乱闘をしていた。