新橋のポンヌフという立ち食いそば屋さんの前で、正座しているオジサンの前に、2万円も3万円もある日があると、聞いた話を書いたら、むかし的屋の泣き売をしていたオジサンから、あれは泣き売の一つだよとの話があった。 おじさんは読者の一人でもある。泣き売とは、会社が火災に遭って一文無しになった、焼け跡に残った時計や万年筆やボールペンなどを新聞紙の上に広げて、これが売れないと一家心中なんですと泣きを入れる。仲間(サクラ)がかわいそうにと、それを買ってやるよと言う。日本人は優しいので、それじゃ私もと買ってくれる。近頃すっかりいなくなったが、泣き売(ナキバイ) は生きていた。土下座したオジサンの前に置いてあった、500円玉、100円玉、10円玉などは実は見せ金であらかじめ少しばかり置いておく。人間の心理はまだ何も置いてないと、まず自分が先にとはならない。 仲間の(サクラ) 一人が500円玉を置き始めると、やさしい日本人は、 それじゃ100円、50円、500円とポツポツと置き始める。暴対法で的屋の世界も厳しい状況になっている。祭りや縁日への出店もイロイロとキビシイ。で、 むかし流行った泣き売が、イザリとなって、出始めているのだとか。へえ〜そうなの、でも正座しているだけで、随分と集まっていたよと言ったら、せいぜい4・5人がつるんで、一人一日1000円か2000円がいいとこじゃないのと言った。台風の中どうしているのだろうか。ポンヌフでイカ天そばくらいは食べているのだろうと思う。確か大盛りはサービスの張り紙があった気がする。待てよ、すぐそばに競輪の場外車券売り場があった。イカ天よりそっちに使ったに違いない。場所は転々と変えていく稼業だ。もと的屋のオジサンは毎日ファミレスに行って、ただの新聞をしっかり読んで、携帯でアレコレ指示を出している。私は変な人と話すのが大好きで、変なことを学ぶのだ。今オジサンは小説を書くんだと言っている。ふと、フーテンの寅さん思い出した。人間は実に逞しい。オジサンは日本のベストセラーの第1号とも言われる、田村泰次郎(故人)の「肉体の門」みたいな群像劇を書くんだと言って、何度目かのドリンクサービスに向かった。人間の肉体は骨まで溶けるような快楽を知ると、仲間に命じた鉄の掟を自ら破っていく。ファミレスほど多くのことを知る場所はない。時代の写し鏡だ。何より私の情報源である。
2018年9月5日水曜日
2018年9月4日火曜日
「あるレース予想」
「大名レース」というのがある。 (大名行列のように部下を従えている感じ)競輪用語である。強い先行選手の後にピッタリつけば2着か3着。ゴール寸前差し切って1着もある。こういうのをマーク屋という。このマーク屋の位置を取ろうと競りを仕掛ける。 競り合いは選手のスタミナを失う。こうして強い先行選手はオイデオイデと振り返り逃げ切る。これを大名レースという。中にはマクリ屋といって、後方から、 単独で大外からまくって1着となる。そのまくりに乗り換えるのも出る。ファンはこのマクリ屋が好きで一票を投じる。現在行われ始めた自民党総裁選挙は、この大名レースに近い。強い先行に、ヨイショ、ヨイショ、あんたが大将とマーク屋が競り合う。 内心はバカヤローと思っている。もうすぐ77歳になるアッソウ(麻生太郎)とか、何回もヨイショした78歳、もうすぐ79歳になる二階俊博大先生(この人は実はとてもいい人だった)、それに次はぜひお譲り下さいと岸田文雄(とても酒に強いらしいが、政治力は全く無い)、次のタマを小渕優子しか持たない、竹下一派はしたたかに両面作戦。麻生派にもタマはない。うす汚ない甘利明がワラジをを脱いでいる。この麻生与太郎は日本政治史上に残る、プライドを勘違いした最悪の政治家と言える。日本人の恥である。強い先行の安倍晋三には、あわよくばと狙う大実力者菅義偉がいて、人相は日々悪相となっている(さしずめ本多正信か )、茶坊主は、今井尚哉とかが柳沢吉保となっている。悪い野郎は都鳥みたいになってきた。ヤクザな亭主を持った野田聖子には明日はもう来ない。小泉進次郎には言はあっても動力がない。気がつけば体をかわしている。父親のようなマクリ屋でない。さあ、ここまでに名の出てない人が、後方からまくる気力があるかだ。私はそれを期待している。競輪には落車がある。(一寸先は闇だから)先行が落車すればマーク屋も、それにぶつかって落車する。嘘八百、重大な虚言症と難病、口からでまかせで大失敗のアベノミクス、世界から無視されている外交問題、みんな来年の参議院選挙で大敗することが分かっているので、じっとマークしている。(当然同時選挙となるはずだ)ある映画(ナチュラルウーマン)の中でこんな、歌のフレーズがあった。「あなたの愛は昨日の新聞記事と同じ、今日は誰も読まないわ」権力者がその地位を失った時、昨日の新聞のようになる。(文中敬称略)
2018年9月3日月曜日
「新橋にて」
新橋東京口出口には、ポンヌフという人気の立ち食いそば屋がある。そこは交差点である。一人の老人(と言っても私と大差はない)のビニールシート。とても几帳面に、1円玉5円玉、10円玉、そして 100円玉が列をつくって並んでいた。金輪際何も話さないと決めたように何も話さない。暇な私は真上から勘定をしてみた。その数、8872円。Oh!オジさん (白髪だがきっと私より若い)オレと変わってよと言ったら、ずっと下を向いていた顔をヒョコンとあげた。聞けば悪い奴がいるもんで、ショバ代とか、売上を差し出すらしい。そっと話をした。人に聞かれるとズィーマ(マズイ)ので。多い日は1日2・3万円になるらしい。 おじさんはかなりインテリと見た。で何をしていたのと聞いたら、元日商岩井であった。いつも接待ばかり受けていた。躄(イザリ)にとって、正座がキツイ、今ではかなり慣れたが何回か固まってしまったとか。
人間は足元を見ると分かるという。足下には死相も出るという。あ〜この人アブナイなと思った人は大概が死ぬ。男女限らず分かると言う。俺はと聞いたら、運動靴ではわかりませんと言った。今でもいます。新橋二丁目七番地、あ、あ、あの人も、や、や、やっぱり死んだ。そう下を向いて独り言を言った。
人間は足元を見ると分かるという。足下には死相も出るという。あ〜この人アブナイなと思った人は大概が死ぬ。男女限らず分かると言う。俺はと聞いたら、運動靴ではわかりませんと言った。今でもいます。新橋二丁目七番地、あ、あ、あの人も、や、や、やっぱり死んだ。そう下を向いて独り言を言った。
2018年8月29日水曜日
「掘り出し物」
掘り出し物の映画に出会った時はヒジョーにウレシイ、タノシイのだ。旧作中の旧作である「文学賞殺人事件」一本100円、原作筒井康隆、監督鈴木則文である。1980年製作、主演佐藤浩市(若々しい)主人公である。同人誌「焼畑文芸」に参加している。仲間には故蟹江敬三とか今も活躍している石橋蓮司等がいる。主人公は「直本四十五賞 」(直木三十五賞のパロディ)に応募していた。その作品が候補作となり大騒ぎとなる。七人の選考委員対策に、早速文学賞ブローカーが現れる。(故ポール牧)ブローカーは選考委員の特徴を言う。お金大好き(故小松方正)人妻大好き(故由利徹)、権威大好き(故南原宏治)、 オカマ掘り大好き(故梅津栄)、若い娘大好き(故天本英世(?))、 (その他老人性痴呆症気味のふたり、いずも故人) 文学海(文学界のパロディ)とか、文藝秋冬 (文藝春秋のパロディ)群盲(群像のパロディ)フール読物(オール読物のパロディ)などがオンパレード。ブローカーの指示に従い、500万円を用意してアチコチに払う。知り合いの人妻も差し出し、自分の恋人も差し出す。オカマも掘られ痛さで悶絶する。ところがすでに、主催者サイドの幹事である、雑誌社の担当は、受賞者を決めている。七人の選考委員に、候補作のあらすじをペーパーにしてあり、選評も用意してある。七人の選考委員たちは全く原作を読んでいない。原作者の筒井康隆がバーで飲んで文学賞の内幕を酔って大演説する。自身が SF が文学界において下に置かれているかを語る。(よほど直木賞にウラミがあったのだろう) 新喜楽をパロった料亭で七人の選考委員は、編集者のシナリオ通りに選びチョンチョンとなる。500万円を失い、オカマも掘られ、土下座までした主人公は、散弾銃を持って、選考委員一人一人を殺しに行く。故由利徹が殺される前に、子供の頃唄っていた歌を唄わせてと言う。♪〜夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が繋げるチョンチョン。そしてズドーンと殺される。40年近く経った今も直木賞の選考はきっとこんなものなのだろうか(?)受賞外となった報を聞いた、同人誌仲間はみんなでバンザイ、バンザイをしてよろこぶ。 仲間に先に受賞されたくないからだ。監督の鈴木則文が「トラック野郎」以外にこんな珍作を監督していたとは知らなかった。見直した。100円にしては掘り出し物であった。なぜか配給元がクレジットになかった。ひょっとして上映されなかったかもしれない。「シェイクスピア曰く、世の中で起きていることは、すべて序幕である」パロディのような、ジョーダンじゃないことばかりが起きている。♪〜雨、雨、降れ降れかカア〜サンが・・・。チョンチョンと。故由利徹が唄っていた。ピチピチシャプシャプ、ランランランと。(文中敬称略)
「狂熱の夏」と「オールドパー」
お盆休みのないお盆だったが、少しずつ合間があった。その間にこの国の前途の絶望と、馬鹿バカしいほどの現状と、確実に近づきつつあるあの世行きを感じた。すでに親友3人はあっちに行ってしまった。お盆にあの人に、この人に、私を置いて逝ってしまったあいつに、と仏花を送った。昨日青山通り、元ベルコモンズのところをタクシーに乗って停まった。運転手さん今外の温度は何度と聞いた。運転手さんはナビの中にある温度計を見て、ちょうど40度ですよと言った。朝家の前の小さな公園に、5月には見事に咲いていた、アジサイの花の無残な姿を見た。まるで焼夷弾でも浴びた後のように、焼けただれていた。お盆の合間にいくつか墓参りをして回った。どこも雑草が伸び放題に伸びていて、それをこのやろうとばかり引っこ抜いた。ヤブ蚊の攻撃を受けて、両腕は赤くふくらんだ。持ってきた新聞紙に火をつけてお線香に火をつけた。暑い。熱い。かゆい。 何軒かの墓石屋が店を閉店させていた。お墓まで連れてきてくれた運転手さんと、喫茶店に入り何かを食べようとなった。私はパンケーキを頼み、運転手さんはハヤシライスを頼んだ。小学生の頃、授業でパンケーキ(その頃はホットケーキ)の作り方を学んだことをふと思い出した。一年のうちに一度も食べたことがなかったが、その日なぜかメニューの写真に写ったパンケーキが食べたくなった。バターにハチミツをのせた。4段重ねのいちばん上にのったバターがとろり、とろりと溶けてパンケーキにしみ込んだ。親指ほどのガラスの入れ物にハチミツが入っていて、それをのせた。プーンといい香りがした。運転手さんはとてもいい人で、私の好きな音楽を編集してくれている。その日はボブマーリーと、キューバのヴエノビスタをかけてくれたのだが、 暑さで集中力を欠いていたのでイマイチ、ノレなかった。 三橋美智也か春日八郎の方がよかったかもしれない。名古屋に一泊して、飛騨高山の挾土秀平さんを訪ねた。お願いしていた作品のイメージができたというので、その作品を見ることと、挾土秀平さんの取材撮影をした。後輩のプロデューサーが大阪からレンタカーで来てくれた。カメラマン、ディレクター、クライアント、広告代理店の人たちも一緒だった。職人社秀平組にはアトリエがあり、天才挾土秀平さんの作品が勢揃いしている。実に超絶的で圧巻である。挾土秀平さんは、ピカソと棟方志功と、岡本太郎を足して「土と水」で割ったようである。モンドリアンやミロのようなところもある。写楽と北斎のようでもある。とにかく凄い人だ。眼光は鋭く、声が野太くて、体はでかい。高山に来る前日、ブックコーディネーターのカリスマ幅允孝(ハバヨシタカ)さんを取材撮影した。世界中の本がアタマの中に入っているような幅さんは、通常BACH幅(バッハハバ)さんと言う。音楽家のBACH(バッハ)が好きだとのことである。青山根津美術館の近くにあるアトリエには、英文字でBACHの文字のポスターがあった。いろんなところに独特のライブラリーをつくっている。幅さんはゆるやかで紙のようである 。ヒラヒラとして、ユラユラと語る。 若い仙人みたいである。世界的デザイナー、女子プロゴルファー夫妻、世界的生物学者、ライフスタイルコーディネーター、新進のアートディレクター、陽気なエディターの人を、次々と取材撮影した。人に会うのは大好きである。面白い人に会え、面白い世界を知る。変な人に会え、変な世界を知る。鳴かぬなら鳴き方を学ぼうホトトギスで生きて来た。人間は学校である。ややこしい人が、私は大好きである。ややこしいことを教えてくれるから。そして今、又、ややこしいことに取り組み始めた。誰も考えなかったことを形にしてみせる。お世話になった会社への恩返しもしなければならない。最優先のテーマだ。亡き友は我にチカラを。「狂熱の夏」むかしの日活映画、主演故川地民夫。ファンキーでモダンないい映画だった。それを探している。8月も終わり、いつものグラスに頂き物のオールドパーを注いだ。
2018年8月10日金曜日
「魔物のようなペヤング」
昨夜もう何度目かになる、ジョージ・ オーウェルの「1984」を見た。国全体がまるで新興宗教のように洗脳され、すべてが監視され、管理される。当然三権分立はない。法という法は支配される。電気、ガスは勿論SEXからチョコレートの配給まで管理される。日本国は現在このような国にひたひたと向かっている。これでいいのかと深夜ペヤングソース焼きそばを食べながら思う。今年2回目だが時として魔物のように旨いと思う。体全体が疲れたと表現する症状が出て来ているが、あとひと踏ん張りだ。時間ができたら北に旅したいと思っている。「1984」には、公開処刑のシーンが何度か出る。民衆は大声をあげ、拍手してそれを楽しむ。民衆はいつでも“観衆”である。「魯迅」はそう書いていた。
400字のリングは8月22日まで休筆します。アチコチ行って、いろんな人を撮影します。偉い人、才人、カリスマ、名人、各界のプロフェッショナルたち。10日から21日まで撮り続け、取材をする。猛暑が続きます。十分に水分を補給してください。お盆休みはしっかりとって、天才中野裕之監督の映画をぜひ親子で観てください。ニッポンは、本当に泣きたいほど美しい国なのです。秋になったらいよいよ来年のカンヌ国際映画祭グランプリを目指します。狙いは当然グランプリ。「夏の夜の夢」で終わるかも。では、又。
2018年8月9日木曜日
「ボスたちとオリオンビール」
だから言ったでしょ。日本ボクシング連盟を辞めると言った山根明、ガタガタ震えてメソメソ泣きを入れて、嫁が死ぬまで面倒を見てあげると言ってくれたとか、男が嫁の名を出したらオシマイ。男のケジメをつけると大見得を切ったから、腹を切るとか、せめて小指の一本か二本は詰めるだろうと思っていた。だって男の中の男だと言っていた。が、 小心翼々の男はそんな根性の欠片もなかった。ヤクザを語る人間は、本物のヤクザから見ると、単なるファンに過ぎない。この次は日大、その次は東京医大、女子学生への減点問題は、きっと全国に広がるだろう。小児科医が不足しているのに女医への道を閉じている。国が嘘八百、インペイ、ドーカツ、つまりヤクザまがいだ。日本国の大学は休むことなき権力闘争の歴史、ウソやゴマカシなどは呼吸をするのと同じ程度にしか思っていない。もちろん素晴らしい学究の人も多い。この人たちは愚かな権力闘争に興味がない。この人たちは山根明と同じで、いつも何かに怯えている。何故なら、人に知られたくない道をずっと歩いてきていて、いくらでも情報を持たれている。家族のこと、身内のこと、借金、裏金、愛人のこと、又、自分自身が変態趣味であること。“一将功成りて万骨枯る”と言うが、今や一将功もなにもなく万骨ボロボロとなった。今の権力者が三選された瞬間から、側近、茶坊主は次の主を探す。今までの反感反動を一身に浴びる。「無」を演じきった人間が次に出る。何も語らず、何も動かず、ただ大河の流れに身をまかす、サラサラと流れる木の葉のように。「無」こそ、「有」なりである。下腹に力を込めて、機会を待つべしだ。 京都学の総帥西田幾多郎は、晩年日々筆をとっては、◯ をずっと描いていたという。禅の世界では円相図と言うらしいが、同じ円は二度と書くことができず、気に入った◯をずっと描けなかったと言う。自らの思想が大したもんじゃなかった。その反省と敗北の◯であったのだろうか、有能な弟子たちは反戦を貫き獄死した。最高学府の信じがたき有り様は、 私が敬愛する、一人の天才的女性研究者を苦しませ、悩ませ、そして悲しませたのだろう。不思議なのは学生たちが全く行動しないことだ。つまり、国家のボスもヤクザなアマチュアのボスたちも、学問のボスたちも同じだということだ。沖縄の翁長知事が戦いの末ご逝去した。ご冥福を心から祈る。いろんなボスたちは手を叩いて喜んでいるだろう。乾杯はオリオンビールか。沖縄のナベチャン、がんばってよ。
2018年8月7日火曜日
「弱虫のオッサン二人」
すっかりヤクザに憧れた、老い先短い男が、ヤクザ風を演じている。山根明日本ボクシング連盟会長だ。あくまでも私の遠い遠い昔の経験から言うと、この手の男を「語り」と言う。恐くも何にもない。例えば「さらって」つまりどこか山の中とか、水の中とか、土の中に、埋めるか、沈めるか、と言うと100%泣きを入れて 、土下座して足の先でもなめる。カンベンして下さい。何でもやりますと。鉄条網なんかで裸にした体をしばる。そこに頑丈なフックのついた重い鉄の塊とかをつける。顔面はガムテープ。ビートたけしの映画みたいだが、そうすると体は震度8くらいにブルブルとなり、オシッコを垂れ流す。業界では 「ベシャリがマブイ」つまりハッタリが強く、シャベリ過ぎる。詐欺師に向いているが、親方には向かない。私はこんな男を主人公にした映画を企画していた。山根明このオッサンは、ケンカの一つもやっていない。サングラスの中の目がただのオッサンを現している。図体はでかいが小物の日大の田中英寿といい、東京医大といい(女子学生を減点していた)この国の大学は、最高学府の何たるかを見失っている。できることなら、日大の田中英寿とか、ボクシング連盟の山根明と会ってみたい。金筋のヤクザは決して多くを語らず、もの静かなジェントルマンです。
2018年8月6日月曜日
「残りの鮭とメザシ」
「何も足さない」「何も引かない」という。サントリーウイスキーの名作コピーがある。この12文字には、実に奥深く哲学性と文学性、そして禅の教えも徹底的に問答させる。水のような、風のような、石川啄木が天才だと言った雲のごとくである。常形なきものの時間が定着する。即ちいいウイスキーであると。昨日私は「何もしない」「何もしたくない」「何も食べたくない」ただゴロゴロとしていた。したことと言えばウイスキーを飲んではゴロゴロであった。小型の人間一人くらいを解体したのでは、と思うほどの肉の塊を後輩が送ってくれていたので、何か食べねば腹の中はウイスキーだけになるので、“豚しゃぶ”を作ってくれと言った。冷房を効かせた真夏の“水たき”とか、“キムチ鍋”気合を入れて“ちゃんこ鍋”などは相当に旨い。豚肉を5切れと、青い葉っぱを入れて、ポン酢で食べたら、極上の味であった。前の晩の残り物。鮭の半身に海苔でアツアツのご飯茶碗半分を食べた。鮭のハラス部分は何よりであり、たとえ数センチでも残すことになっている。とても立派なフランス料理のフルコースの結婚式から帰った後、ゴハンに永谷園のお茶漬けふりかけを、2袋かけて(フンパツする) 渋茶を注ぐと、フランス料理の残り味と、シンプルなお茶漬けは、山の手の贅沢と私たち下々の清貧が混じわり絶妙となる。そしてあ〜いい1日だったとなる。現在は冷やメシに冷水を入れお茶漬け海苔と一緒に冷やし茶漬けにしている。お茶碗は浅目、深目、 フツーと使い分ける。(1ヶ200円位のもの)これに黄色いたくあんがちょっとあればもう言うことはない。できるなら気取った急須より、安い茶色の安い急須がベストだ。冷や飯に目玉をワラの紐でつながれたメザシ(目刺し)で一飯も旨い。木枯し紋次郎の一宿一飯気分となる。この場合は、塩分強目の野沢菜が小皿に数切れあれば、十分である。
「何かしたい」「何か食べたい」やっと体が要求をはじめた。焼きタラコが2本あった。よしこれだと思った。
2018年8月3日金曜日
「刃鋼と癒しがたき」
英語で言うなら、パハップス(多分)40度を超えているだろう銀座の街を歩いていると、何を感じるか、不能感、無気力感、ボー然感、 脱力感、グワァ〜とする反射熱、道路から、ビルから、そして感じるのが、殺意である。アホみたいにリュックサックを赤ちゃんみたいに抱いた男が目の前にいる。まるで猫の集団のようなミャーミャーうるさい中国人が集団でいる。 暑熱の銀座の街を歩いていると、思わず自分の中にしっかりと(?)隠しておいた暴力性がグア〜ンと現れる。ウルセイ、ウザッタイ、アツクルシイ、ダラシネエ、石原慎太郎さんの原作「乾いた花」という映画のファーストシーンの言葉を思い出す。組のために人を殺して出所してきた中年のヤクザ(池部良)が、人混みを見て、こんなの中の一人ぐらい殺したってどうってことはネエだろう(こんなかんじ)。中年のヤクザはすでに無目的になっている。 アナキズム的になっている。秩序などは必要ないと、その中年ヤクザを支えているのは、バクチだけである。何のために生きているのか、40度を超える街は、その中年ヤクザの言葉を思い出す。「刃鋼」もそうだが、石原慎太郎さんのこのような人物を書いた作品は、絶品である。人間の中に潜む虚無感と暴力性、最終的に暴力的解決に至る、哲学性と文学性は、秀れている(他にはいない)。最終目的が、落とし前とケジメ、そして父親への愛情とその父親を殺した相手への復讐。昨日熱暑の銀座をトロントロン、ヨロンヨロ、フランフラと歩いていた時「乾いた花」と「刃鋼」を思い出した。今ならきっと異常を正常化するだろう。そして、それはきっと殺意だろうと。小説「刃鋼」の中で、主人公である横浜のヤクザ“角田良” が言う、俺は俺という人間に惚れるんだと。そして父の仇をいつか仕止めると言う。若きヤクザの三代目に対し、角田良は言う。あの若い三代目はきっと相手を殺るために九州に帰るだろうと。ケジメのない世の中、私の最も大切にしている“仁義”なき世の中、 銭なんてものはヨォ、その日自分の器量のためにありゃいいんだ、それ以上追うと恥をかいて、下手を打って、終わりだからな。ヤクザ者に明日はないと思え、銭で恥をかいたら男は終わりだと言った。ずーっと昔の先輩を思い出した。背中から太ももにかけて、「男一代」という文字を彩やかに刺青していた。男がすっかりいなくなってしまった。少しでも休みが取れたら、「刃鋼」を読もうと思った。そして、生涯読んだ中でいちばんと思った。小嵐九八郎氏の「癒しがたき」を読む。人はこうして死ぬという言葉通り、四国の鈍川四兄弟の話がある。これ以上面白い本には、いまだに出会っていない。人間は日々殺意の中で生きていることを忘れてはならない。パハップス(多分)ね。それにしても暑い。人間はドライフラワー「乾いた花」になって行く。その花に注ぐ水は何か。それも又、殺意だ。人を殺すのは簡単だよ、ヤッパ(刃物)で刺せば、プスーとヤッパが入る。それだけさ。その時自分が自分と繋がっている感じがするんだ。あなたの自分は今元気ですか(?)。侠(男)の世界では、金儲けばかりの話をする男が、一番下の扱いを受けるのです。人のために死ねるかどうかが、男の値打ちなのです。私は「乾いた花」になりたい。私たち兄弟会では、13時間30分近く話しをしている中で、金の話は一分一秒もない。サイコーです。私にはアノヤローズタズタにしてやる、そんなのが二人いる。冥土のみやげに、突然行くから待っていな。
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