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2023年9月16日土曜日

休筆のお知らせ

 本日、出張のため休筆致します。

残暑が本当に厳しいので、皆様、ご自愛ください。



2023年9月9日土曜日

つれづれ雑草「今日も私キレイ(?)」

「夢精映画」ではなく、「無声映画」を見た。役者は演じながらセリフを言っているが、声は出ないという、ずっと昔の映画だ。現在時九月九日午前三時二十七分〇九秒、テレビの画面ではフランスの大統領マクロンが、ラグビーのワールドカップの開会宣言をしている。4年に一度のワールドカップだ。サッカーのワールドカップ、オリンピックも4年に一回だ。午後十時頃帰宅をしていた。溜池にあるレストランで、お世話になっている代理店の方と、その代理店がお世話になっている会社の役員の方の誕生会をした。台風の影響かやけにジメジメしている。雨は思っていたよりずっと小降りだった。ニュースでは千葉の茂原が観測史上初の雨で氾濫する川が予想されていた。毎年史上初が生まれている。天の悪意か毎年大被害になる地が違う。Why何故(?)と思う。ラグビーの第一戦はいきなり優勝候補同士、フランス対ニュージーランドだ。画面にテロップが流れる。震度4の地震が南の国の島、鹿児島県“悪石島”近くが震源地だと伝える。悪石島とはいい名ではないかと不謹慎に思う。過日、小松左京の“復活の日”“日本沈没”を生んだ、アナザーストーリーのドキュメンタリー番組を見て日本列島という特殊な列島の、運命と宿命と寿命を知った。小松左京は阪神淡路大震災の現場を見て、自らが書いた恐怖の光景が、事実の光景であるのを確認して、“鬱”病になってしまった。このSF小説家は、純文学の小説家たちと違って、実に真っ当かつ正直であり、自分の書いた小説に責任をかんじたのだ。嘘ばかりついているある政治家に、ある人間がこう言った。なんであなたはそう嘘ばかりつくのか(?)、その答えは、それは“私が政治家だから”だと。つまり、政治と小説は嘘(作り話)で進行する。小説とは男と女を書くものなのだと、批評の神様「小林秀雄」が言ったとか、ある本で読んだ。男と女の血みどろの小説には、殆んど実際に起きた事件がネタになっている。小説家にとって新聞の三面記事と、裁判所でさまざまな事件について傍聴するのは、ネタの山なのだ。私小説は自分自身がネタであるから、原稿用紙と鉛筆一本あれば書ける。ヒトは誰でも一本の小説は書けるといわれる。いよいよネタが尽きるとなると、ジエンド終りとなる。男よりいかに女性が恐ろしい生き物であるかを知る。圧倒的に男の方が自殺する。心中を支配するのも女性が多い(殆んど)。見方によっては人殺しである。九月一日新宿の映画館で、中国映画の「兎たちの暴走」という映画を観た。200人近く入る映画館に観客は私と4人だけであった。毎週上映する映画をチェックしている。批評を読むと私好みなので足を運んだ。現在の中国が抱えている若い世代の問題は、現在の日本と同じであった。映像がとてもいい、中国語のロックの主題歌がいい。一歳の時に女の子をすてて出て行ってしまった母親が、16年振りに帰って来る。多額の借金を背負って。17歳の少女にとって母親は憧れの人であった。二人は借金地獄か逃れるために、少女の学校にいる、金持ちの子の誘拐を実行する。貧しい少女にとって、ずっと気に入らない目障りな子だったのだ。そして……。少女は母親に言う。あなたのためならなんでもやると。二人は歌う。♪~ 夢の中に上下左右はないと。5人だけで観るには勿体ない映画だった。さて、無声映画だが、内田吐夢監督の「人生劇場」だ。作者である「尾崎士郎」の自伝といわれている大長篇だ。映画は60分ほど、セリフは画面の文字で読む。古い書体がいい味を出している。愛知県吉良町に尾崎士郎は生まれた。私は中学生の頃から今日までずっと人生劇場の歌を口ずさんでいる。尾崎士郎は宇野千代との関係で苦悶する。宇野千代は恋多き女性で、東郷青児や北原武夫、梶井基次郎などの文壇や画壇の男共を悩ませつづけた。九十歳を過ぎた時、インタビュアーに、“今日も私キレイ”などと言ったのは有名である。現在午前四時四十五分八秒。フランスが9対8でニュージーランドに勝っている。画面にはテロップで千葉県の土砂崩れとか、JRの計画運休とか、竜巻、雷、地震情報が流れつづけている。神も仏もラグビーに夢中なのだろう。戦前の映画はフィルムが劣化していて、ザーザー降りの雨が画面に降ってよく見えない。でも尾崎士郎の気迫が伝わってくる。男心は男じゃないと分からないと。私の人生の見本は人生劇場の中に出てくる“吉良の常吉”だ。ヤッパ(短刀)や、ピストルより恐いのは、女心だな。そしてこの列島は災害に勝てない。※日本人の個人名は全て故人。(文中敬称略)








2023年9月2日土曜日

つれづれ雑草「灯りを消して」

九月一日午前一時二十五分十八秒になった時、そうだ月を見ようと思い外に出た。月がいちばん大きいという記事を思い出したのだ。日をまたいだが確かに月が大きく輝いていた。いつもは電池が切れた懐中電灯みたいのが、新しい電池を入れたばかりのように煌々としていた。星たちはいつもよりはるかに多くその月に従っていた。あるいはその夜空を演出していた。ふと「ツキノワグマ」という言葉を思い出した。先日牛60数頭を襲ったという、体重330kg凶暴な巨大熊を猟師が射止めた。その数日後のニュースを見ていると、五十歳位の見栄えの悪いオッサンが、これはやわらでウマイ! ウマイ! と巨大熊を食べていた。人間はやっぱり地球上でいちばん凶暴なのだ。一日の朝辻堂駅西口にあるコンビニで新聞を買ってレジに向うと、一人のご婦人が私の前に並んでいた。アップルジュースの紙パック(小さいの)とコロッケ二個、から揚げ棒を一本買っていた。前の晩ご主人と夏の夜の営みをしたのだろうか、マッタリとして全身から気が抜けている。女性は後姿に物語が出る。髪は乱れサンダルを履いた足は広いガニ股だった。真夏の甲子園大会の決勝戦は、九州に出張している最中で見れなかった。佐賀空港に着くと、慶應高校が8対2で仙台育英高校に勝っていた。私は慶應の応援団のウルセーのが嫌いなので、友人の写真家やお世話になった出版社の編集長がいる、仙台育英を応援していた。勿論“おかやま山陽高校”も。ケイオー、ケイオー、陸の王者ケイオーを大集団で連呼され続けると、ウルセーとなるのだ。後日慶應の監督が、その応援の激しさを大学生の応援のようですまなかったと、スポーツマンらしい記事を読んで、素直にオメデトウと思った。自宅に帰り試合のダイジェストを見ると、実にいいチームであった。巨大熊の話に戻ると、西麻布の「またぎ」の店主が亡くなったことを教えてもらった。身長180センチ以上、体重90kg位、マタギ界の王、狙撃の王者があの世に旅立っていたのだ。キジ、シカ、イノシシ、ラストに熊鍋、味噌味の中に入った“すいとん”が絶品だった。私の親愛なる友とは射撃仲間であった。広島出身岸田文雄がアメリカの足の先までなめている。軍産国家アメリカのポンコツを、命じられるママに買わされている。世界中に第三次世界大戦への火種が生まれている。私は三島のファンではないが、三島由紀夫が生前書き残した通りになっている。この国は極東の片隅で衰え滅びていくだろうと。セントラルパークの中にトランプタワーは建てないだろうと、新進気鋭の経営思想家「斎藤幸平」がインタビューに応えていた。つまり神宮外苑の樹々をブッタ切って、高層ビルを建設する。名目上は神宮球場や秩父宮ラグビー場の建て替えが主目的だというが、やっているのは13年間かけてSDGsの時代の真逆の事業だ。世界では街路樹を増やす時代なのだ。銀杏の樹は水分を多く含み、防災に役立つのだ。日本人は怒りを忘れ、すっかり羊たちの群れになってしまった。私が20歳となり堅気の仕事を始めた「西武」と「そごう」が大安売りセールで売り出されて、外国資本に買われてしまった。久々にストライキという言葉が躍動している。ガンバレ労働組合よ。1970年代はサブカルチャーが花開いた。寺山修司、唐十郎、土方巽、全共闘、六本木族、みゆき族、野獣会、ヴァンジャケット、サイケデリックアート、旧体制打破とばかりに、前衛芸術がメッセージを世に送り出した。雑誌アンアンやノンノンが出版された。平凡パンチ、ポパイ、ブルータス、マガジンハウス全盛となった。銀座のマガジンハウス本社の側に、編集者たちが深夜作業を終えて、あるいは仕事の途中で、一杯飲み、いっぱいおでんを食べた。地下一階の「舟よし」のおやじも先年この世を去った。飲み仲間の女性エステシャン(インディバ式)と虎の門病院に見舞いにいったら、気がついたらこんなに高い病院に担ぎ込まれていたよと笑った。店の中で倒れていたのだ。実に魅力ある人であった。店のカウンターに私の書いた下手な本や、映画のフライヤー(チラシ)を置いてお客さんに、コノヒトのだよと宣伝してくれた。得意だったのはなんといっても、ボラの卵でつくる“カラスミ”だった。黄金色の大きなチンポコみたいのが、店内にズラリ、ズラリとぶら下がっていた。一ヶ月以上かけて作る、その味絶品、一ケ五千円~一万円であった。先日、新富町のおすし屋に仕事仲間といたら、ワァ~ビックリと、一緒に見舞いに行った、エステシャンの女性が声をかけてきた。男性と一緒だった。オ~、久しぶり、以前よりもっと美人になっていた。舟よしでは深夜、とりの唐揚げをいくつも食べていた。ストレス食いなの、太ったっていいのよと言っていた。今、私は脈絡のないことを書いている。九州で活躍している友人や後輩と、アッとオドロク仕事をしている。否、またやったんですか、イケナイジョーダンを真面目にやっている。スバラシイ経営者の方と出会った。深夜の風は、その昔女と別れ話をしていた時と同じように、ぎこちない初秋の肌触りであった。十九の終わりに私は夜の世界を卒業し、昼の世界に入学した。有線放送から西田佐知子の歌う“灯りを消して”が流れていた。(文中敬称略)






2023年8月11日金曜日

つれづれ雑草「そんなの関係ネェ~」

だから言っただろバカ者たち。甲子園を屋根付きにすべしで書いたが、初日の試合ですでにその必要性を強く感じた。レフトを守っていた選手は足がつり激痛でボールが追えない。ヒット性のボールを打った選手が、一塁まで走っていく途中で足がつりベースにたどり着けない。そんなケースがいくつもあった。正確に計測すると、グラウンド上にいる選手の体感は40度を超えていたとか、頭の中はやかんでお湯をわかしているようなもの、こんな状態がつづくと、重大な支障をきたして、後遺症が残ると医学者は言う。私は声を大にして言いたい。もっと科学的にせよと、私が朝日新聞の購読をやめたのは、堕落しきった経営者と、ヤル気のない記者のヘタクソな記事、ワンパターンの天声人語や、宿酔いで書いているようなコラム素粒子腰が引けた社説。がある。記者たちは昼頃出社し、大型の社用車やハイヤーを使い、高級レストランやホテルでランチをし、わずか数百字の記事やコラムを書いて、年収2000万以上、夕方にはどこぞへしけこみとなる。「女ざかり」という本の主人公は、朝日新聞とおぼしき新聞社の記者である。映画化され吉永小百合が演じた。ずっと昔すでにジャーナリズムとか、ジャーナリストは消失していたのだ。今、日本のメディアは、物言えば唇寒しの状態である。有能な記者の記事は、どれもこれもボツとなってしまう。司法の朝日、社会部の読売、外信の毎日と称された頃は、権力と闘っていた。時の総理大臣佐藤栄作が、政権最後の記者会見で、私は新聞社は大嫌いだと言った。その時、新聞記者たちは、そうですか、それじゃ退場します、みんな出ましょう、出ようとなり、広い記者会見場に佐藤栄作はポツンと一人だけとなった。後世に残る有名なシーンだ。今ではこんな根性のある記者たちはいない。話を真夏の甲子園に戻す。私は少年野球を数多く見るが、審判の特権意識の大きさに、頭に血が登る。警察官と同じで、自分たちのミスや誤審を認めない。酷い誤審やルールを知らない判定も数多い。大リーグを真似して、プロ野球でビデオ判定を導入したら、約4割は誤審である。審判には文句を言ってはいけないという、古い慣習がこびりついている。そもそも朝日新聞の社旗は、旧日本軍と同じような旭日旗である。日本に来た元大リーガーが帰国後、地球の裏側にベースボールに似た野球というのがあった。そんな本を出版した。松坂大輔は一人で250球も投げた試合がある。本場の人間はクレイジーだと伝える。大リーガーたちの契約は球数が決められている。余分に投げればギャラが発生する。名監督とはいかに選手寿命を長くしてあげられるかである。日本は勝利至上主義だから、監督は投手を酷使してきた。この頃やっと本場のように、先発は100球位までが基準となった。私は高校野球の判定は人工知能でやるべしと言いたい。100%誤審はないからだ。野球と同じことが、政治、経済、教育などの世界にへばりついている。議員特権で罪を犯しても殆どパクられない。ビックモーターのような、ノルマ、ノルマ、未達成なら降格、左遷、あるいは会社内座敷牢入り。(仕事を与えず机と椅子のみ、一日中座っているだけ)本人から辞表を出すのを待つ。ソニーとかパナソニックなどは有名であった。何十人、何百人が牢人とされたのだ。その結果有能な人材や技術者たちは辞めて、中国、韓国、台湾へ職を求めた。それ故日本は先進七ヵ国の中で人材の活躍度最下位である。アメリカのシリコンバレーでは科学技術者の約半分は、中国人とインド人だという。三洋、ビクター、東芝は倒れ、シャープは台湾に、ソニーはゲームと損保メーカーになってしまった。日本を再生するには、教育の現場から正さねばならない。おそらく100年かかるだろうが、やらねばならない。小・中学校の先生の30%近くが「鬱」状態で休職したり、退職している。先生になる人か年々減っている。いい先生がいなければ、いい生徒は生まれない。点数や内申書中心主義では、個性的な生徒は生まれない。政界は世襲を禁止するか英国のように、親の地盤でないところからにする。経済界はもっと意地とプライドを持って政界と対決しなければならない。人材を発掘、投資して世界に通用する人材に育てなければならない。スティーブ・ジョブズが演説したように、愚か者が時代をつくるのだ。敗戦記念日の前に一つの言葉を書く。キューバ革命を成功させた、チェ・ゲバラが64年前の7月2531歳の時に広島に来て、原爆資料館を訪れた。その時こう言ったと伝えられている。「アメリカにこんなひどい目に遭っても何故怒らないのか」。一昨日の昼新橋駅品川寄り、改札口となりの相談窓口コーナーで、白いマスク、花柄のワンピースを着た高齢の女性が、大きな旅行用キャリーバックの横で、バッタリ倒れていた。二人のJR駅員はカウンター越しに呆然と見ているだけ、誰一人も声をかけず通り過ぎる。私はガラス越しにそれを見ていて怒り心頭となった。改札口を出てしまっていたが、窓口へと引き返したら、年配の駅員がキヨスク斜め前の所から一人二人と出て来た。倒れた高齢の女性の横を窓口に来た人たちは、通り過ぎて行く。この国は完全な「無関心国家」となっている。スマホで写真を撮っているバカムスメが二人いた。二人共に小さなTシャツでおへそを丸出していた。本日より休筆する。まずはお墓参りだ。永眠はいいな、ずっと眠っていられるから、不眠の私は、不謹慎にも永眠に憧れている。その前にやらねばならないことをやり遂げる。そんなの関係ネェ~、そんなの関係ネェ~とパンツ一枚だった芸人は誰れであったか。(文中敬称略)



2023年8月5日土曜日

つれづれ雑草「落語のはなし」

八月二日夜、ある会社の美人社長と、正義と直情の衆議院議員のヒトと、夜食事をした。恵比寿のとある店であった。家族で営んでいるその店には初めて行った。居酒屋さんのようであった。若い人たちが多く来ていたところをみると、適正価格なのだろう。丸い顔をして笑顔がとてもいいご主人、がっしりとした体でテキパキしている女性、長身でメガネをかけてよく働く若い娘さん。いい店は入った瞬間で分かる、というか感じるのだ。何故会ったかというさしたる理由はない。社長さんから◯◯先生と久々に会いませんかという連絡があったので、暑気払いにいいですねとなった。カウンターには数人座れるがすでにいっぱい。小上りの座敷には四人が座れる席が四席ほどあったがすでに若い人たちがいた。奥の席を予約してくれてたのでそこに座った。とめどない話を、とめどなく話をするのは楽しい。お金儲けの話とか、仕事の話とか、政治や経済の話もしない。とめどなく話をしては笑い、そして話は線香花火のように、飛び散る。社長も先生も決して“エラブッタ”ところはない。お刺身とか牛肉のタタキとかおいしい品が出て、三人でそれを食す。この店のメインはうなぎのようだ。汗びっしょりの丸い顔のご主人が焼いている。とにかくこの店の人の笑顔がいい。社長は何度が来ているようだった。いわゆる“ナジミ”の客だ。雑談の会みたいな時間はいいものだ。最後にうなぎを半分ずつに分けて食べて終った。いい店、いい笑顔、いいかんじ、いい時間、ヘバヘバにへバっていた体が陽気になった。連日38度、39度があたり前だのクラッカー状態である。今日八月五日はどこぞで40度を超えたとか。地球が狂って、大自然が狂って、生態系が狂って、人間も狂いに狂っている。かつて“明石家さんま”が、「生きているだけで丸儲け」と言ったが、今は生きてる内にサンマの丸焼きとなっている。こんな狂った暑さの中で、明日夏の甲子園大会が始まる。国連ではジャニーズ事務所の創業者による性加害が数百人になると大問題化している。児童虐待や青少年の虐待は、国際的問題となっている。真夏の甲子園大会も青少年への虐待だと問題化している。朝日新聞とNHKが主催している一大イベントだが、このイベントのために全国でどれほどの野球少年の肩やヒジや腰が、足やヒザが壊れているか数知れない。そして精神まで壊れているのも数知れない。入場式は学徒出陣のようであり、宣誓式は特攻隊のようである。私は大の野球ファンであるから、夏の甲子園大会は予選から見ている。私は提案する、夏にやるのであれば、甲子園球場を屋根付球場にせよと、朝日、NHKは勿論、日本中の大企業が、しこたま儲けた金の中から寄付をせよと。第一回夏の甲子園の頃は30度を超す日などなかった。この国の駄目なところは、寄付文化がないところだ。弱者や体に障害を持っている人々、生まれつきハンディを背負っている人々に対して、大企業は寄付をしない。バカヤローな国なのだ。大谷選手が劇画を超える活動をしているが、私はそれほど興味はない。すばらしい才能を持った者が、人一倍努力してすばらしい記録を生んでいる。そりゃそうだよなスゴイなと思うだけだ。それよりもこの打席で一本のヒットを打たなければプロとして残れない。トライアウトの試合でヒットを打った選手、三振を奪った選手に拍手を送る。スカスカのスタンドで、一本のヒットに、赤子を抱える妻は涙する。運命論者の私には、大谷選手がきっと数奇な運命を遂げるのが見える。“過ぎたるは猶及ばざるが如し”だ。老子曰く“努力より脱力せよ”と。超、超大天才の将棋の藤井聡太七冠、もうすぐ八冠は、恋をせよ、愛に砕けよと言いたい。大谷選手もしかりだ。大リーグの名選手だったジョー・ディマジオは、マリリン・モンローと恋に落ちた。人間サイボーグでなく、人間であるためには、今のままではつまらない。大ファンだったゴルフ界のスーパースター、タイガー・ウッズは、セックス依存症と戦って再起し、奇跡的にマスターズで勝った。私は狂喜乱舞した。今は勝つことはできないが、私は今のほうが以前より好きである。腰痛と闘いながら、女体の叫びと闘いながら、フェアウェイをトボトボと歩く姿に感動する。さあ、高校野球好きのみなさん、甲子園球場に屋根を付ける運動へ声を上げよう。経済四団体のオッサンたち、若者たちの肉体と精神を守るために尽くせ。落語の中にこんな噺がある。「酒もやらず、女もやらず、百まで生きたバカがいる」超天才たちにこの落語の言葉を送る。凡才の私は超天才を超えて来たなと自負をする。(文中敬称略)








2023年7月29日土曜日

つれづれ雑草「一休さん」

人間はつくづく危険な動物である。そんなことは分かり切っているが、まい日起きている事件を知ると、改めてその危険度を知る。「異邦人」という小説の中の主人公は、ただ太陽が眩しかったからという動機で人を殺した。だとすると、この猛烈な狂暑の中にいたら、目に入る人間を皆殺しにするだろう。そう思わずにはいられない。今日土曜日の昼頃所用があって、東京駅八重洲中央口にいた。そこには人が群れをなしていた。何か大事件でも起きたのかと思った。一時までには帰宅しなければならなかったので私はイライラしていた。外国人も多い、オマエどうしたらそんなにデブになるんだよと声をかけたくなる男、どうしたらそんなでっかいオケツになるんだよと思わず見入ってしまう巨大尻の黒々としたご婦人。なんでか東京駅構内で浮き輪を腰につけている若い女の子、人混みが大の苦手の私には、どいつもこいつもイライラの対象となる。人一倍理性的でない私にとって、一歩間違うとワッパ(手錠)をかけられてしまいそうな人混みだ。理由が分かった4年振りで隅田川で花火大会があるからだ。そうか、そうだったのかとイライラをポケットに仕舞い込んだ。なんで浮き輪かは分からない。おへそを丸出しにしている若い娘の集団が改札口周辺に集まっている、きっと待合せをしているのだろう。おへそ丸出しを見ていると犯罪になるので、目をそらす。気がつくと目のやり場がないではないか。何がおかしいのか、すでに酔っている若者たちが奇声を発する。手には当然ビールとか、缶チューハイとかハイボールを持っている。改札口で体と体がぶつかった。バカヤロー気をつけろ、ブチ殺すぞ、なんてことは決していわない。私はずい分とやさしい年寄りとなっているのだ。打上げ花火は人間を解き放つ魔力がある。恋は遠い日の花火じゃないなんて書いた御仁は、すてきな感性の持ち主なのだ。私が少年の頃は、花火大会イコール喧嘩、イコール荻窪警察とか杉並警察であった。キツイ説教を受けてオシマイだが。長じて私は花火は遠くから見るようになった。少年じゃないから、キツイお説教では済まない。早くて二日、長いと十日間、留置所へとなる。十二時過ぎに辻堂駅に戻って来ると、ここがまた人、人、人、なんだかこりゃと思ったら、久々に海浜公園で、辻の盆なる祭りがあるからだとか。お祭りに行くというのは、私にとってタブーである。花火大会よりもお祭りの方が留置所に行く確率は高かった。何故だろうか、二十代になってからお祭りには行かなくなった。敵対するグループを見つけると、自分が自分でなくなることが分かっていた。(すっかり大人になったのだ)愚妻は私の性格がよく分かっているので、一緒に店に入って怪しい男たちがいると、私を引っ張って、他の店に行こうと言った。遠くからヤバイ男たちが歩いて来ると、私を引っ張って、他の道へと行った。そのおかげもあって現在がある。愚妻の目の前で、何回かボカスカやったことがあるからだ。君子は危うきに近づかずをずっと心がけている。腰が痛い、腰痛バンドをしている我が身が情けない。今、もし何かあったら守るべき人間が守れるだろうかと思い、毎夜一撃必殺の技を研いている。通用するか否かは試して見ないと分からない。男はどんな時でも、守るべき者のために訓練が必要だ。私が通っている床屋さんの二代目が、肩をモミモミしてくれる。その時、失礼ですがそのお歳ですごい筋肉ですねと言う。若い頃鍛えるだけ鍛えたからね、でも今はガッタガタなんだよと話す。人混みの話から、つまんない話となった。九州を回って、奥多摩の御岳山の中へ、坂道と階段がシンドイ、お医者さんから処方してもらっていた漢方薬を服用するのを忘れて明け方宿坊の部屋の中で、ギャー、イテェ~、イテェ~となった。こむら返りを起こして、右足のふくらはぎがカチン、カチンになっていた。部屋中をつま先を立てて歩き回った。水分の補給と芍薬甘草湯は決して忘れてはならない。御嶽神社の宮司の方々、観光協会の会長さん、青梅市のフィルムコミュションの方京王電鉄のケーブルの社長さんなどに撮影へのご協力をお願いした。入間の米軍基地の近くの駅前で、私の会社にいたかわいい後輩が、「食と酒 いち」という店を経営している。その店内でワンシーンを撮るので行った。CMプロデューサーから転じて25年、かわいい奥さんと経営している。フグの調理もできる。私が行くというので、休店にしてくれていた。ゴッツイカツオのタタキを出してくれた。そしておいしい特上寿司も、おマエはなんてかわいいんだ。コロナ禍の前は三つ店を出していた。入間から青梅駅まで私たちを運んでくれた。アリガトサンよと言って別れた。残念ながら四人の子どもたちとは会えなかった。いい奴はずっといい奴、いい嫁はずっといい嫁なのだ。入間の「食と酒 いち」をよろしく。魚が抜群においしいよ。で、七月も終る。近所の自衛隊基地内で、立食のパーティをする時、700人前をつくって運ぶと言っていた。一休さんみたいなツルツル坊主が目印。(文中敬称略)






2023年7月22日土曜日

つれづれ雑草「伝説の金子正次」

お流(おりゅう)にするという言葉が裏社会にある。モメゴメやモツタレ話、そのことを水に流すという時に使う。ゴチャゴチャしたけど、この話はお流にすると言うが、お流は中に入った人間の貫目で決まる。◯╳さんが中に入ったんじゃ仕方ない、顔を立ててお流にしようや、と話はひとまず終る。日本人は「恥」の文化という。面子を重んじる。武士社会の習性が残っていた。家門の恥とか言ってたが、それは今ではすっかりすたれている。あまた数ある駅弁の中で、食べ方がビミョーにむずかしい駅弁がある。それは「鳥そぼろ弁当だ」スクランブルされた玉子と、鳥そぼろが二分割されている。この駅弁を隣りで食べられると、すこぶる気になる。昨夜サザエさんのお父さん、波平さんのような会社員風のオッサンが私の隣りに座った。東海道本線2130分発小田原行の特急だ。おじさんは座るなり駅弁をゴソゴソ開けた。短かい割り箸で玉子と鳥肉のそぼろを、一粒もこぼさずに食べ切るのは不可能に近い、案の定オッサンはボロボロとこぼす。それが私の右足などにふりかかってくる。そうでなくても暑さでへんなりしている気分が、イライラに変わる。雑誌選択を読んでいたのだが、残りわずかとなった頭髪のオッサンは、玉子粒と鳥の粒をポロポロと私にふりかける。自分の体、足元にもいっぱいこぼれている。六十近いオッサンだが、スマホを見ながら食べている。これはとてもお流にできないので品川、川崎間でオイ、ボロボロこぼすなよと言った。きっと善人なのだろう、身をかがめてこぼしたものを一粒づつ割箸でつまんでいる。やめなよ、もういいからと言った。すいませんを何度も言った。鳥そぼろ弁当は実にやっかいなのだ。どこまで行くのと聞いたら、小田原ですと言った。まい日通っているのと聞くと勿論ですと言った。そしてお流にした。家に帰るとズボンに、玉子と鳥そぼろが、いくつもくっついていた。私は小田原のこゆるぎ弁当が大好きなのだが、この中に鳥そぼろがのっている。いままで気にしてなかったか、きっと隣りに座った人に迷惑をかけていたのだろう。男と女性の関係をお流にするのは大変にむずかしい。特にそぼろみたいな涙を、ポロポロ流されると、結局泥縄となる。女性の方から切り出されたら、スパッとしなければならない。ヒモになるような人生の達人は、金色夜叉の貫一とお宮の逆のように、金ヅルの女性にすがりつく。女性は男の涙に弱い。いいわよ、私がお金をつくればいいんでしょ、今夜は雨らしいから傘を持っていつもの所で待っていて、と言われそれに従う。売れないヤクザ者、売れない物書き、絵描き、音楽家などの男はヒモが多い。他に占い師とか手品師、パチンコの事師(ゴトシ)や舞台俳優、映画界の人間、などが多い。ヒモは一種の名人芸なのだ。日本人は「恥」の文化と評した「菊と刀」の女流作家(本業は大学教授)の表わした恥などは、今の日本人は何もかんじない。但し自分がヒモをしている女性が、酷い目にあっている時、ヒモは人が変わったように体を張る。ボコボコにされながらも女性を守る。血だらけになった相手の男を見て、女性はうれしいなどと口走って、いよいよ泥沼にはまっていく。日本国は今、アメリカという性悪のヒモの面倒を見ている。欧米社会は「罪」の文化という。どんな罪を犯しても、イエスキリストによって救われた気分となる。イエスは汝を赦すという、NOとはいわないずい分と調子のいい宗教である。原爆を投下しても、十字を切って赦される。世界一のヒモは、バチカン帝国なのだ。12時頃ふとんの上に横になっても、全然眠れない。「浜 圭介」の歌を明け方に聞いた。題名は「おんな道」 生まれた時から みなし子で 親の顔さえ わからずに 夜に生まれて 夜に育った……。ホステスさんたちはこの歌を聞くと、ウルウルする。 嫌なお客に せがまれて 男の枕に されながら つくる笑顔も 生きるため……。日本人は余りにも、悪政をお流にしすぎている。怒りを忘れた男は男でなく、怒りを忘れた国民は、国民でない。ホトトギスはいう。鳴かぬなら殺してしまえホトトギスという主人なら、きっと両目をつぶしてやるぞ、ホトトギスと逆襲する。但しメスの場合。「おんな道」を聞いていると、つくづく堅気の世界はつまんねえなと思う。赤い灯、青い灯ともる、ネオン街を久々に歩きたくなる。男から殺気と色気がなくなったらオシマイだから。明日早朝から奥多摩に行き超過密スケジュールで、自主映画の下ごしらえをする。宮司の偉い人たち、京王電鉄の人、観光協会の会長など一人ひとり、一つ一つ、ていねいにあいさつに回り、撮影への協力をお願いする。許可どりをする。昨年度準ミス日本の女性が出演してくれることになった。「映画」この二文字は私にとって命なのだ。それでエーガがなと言ってくれたヒトビトに心より感謝する。きっと世界を目指す、グランプリを目指す。この言葉はお流にしない。私の目標は、映画「竜二」をつくって、癌により33歳でこの世を去った、伝説の男「金子正次」なのだ。自主映画と同じで資金づくりに苦労した。男は生き様より、死に様なのだ。(文中敬称略)







2023年7月15日土曜日

つれづれ雑草「コインの裏と表」

空の上から地上を見る。海があり、山があり、森があり、川が流れている。都市の上空に行くと、開放されていたココロがザワザワとする。灰色のビル群は、墓場の墓石のように林立している。母親がよく言っていた言葉を思い出す。亡き父親が家の数だけ何かしらの問題を抱えているんだと。大きな家に住む家には、大きな問題がある。フツーに働いている者たちは大きな家に住むことはできない。言い方は悪いが、何かしら悪いことをしていなければ、大きな家に住むことはできない。それは、ヒトの生き血を吸うようなことであったり、恩人、知人、友人を裏切ることであったり、法の網目をすり抜けるようなことである。漁村にはボスがいて、農村には大地主がいる。山の中、森の中には山林王という王様がいる。大工場地帯には労働者を束ねる、組合の長や、それを操る大資本家がいる。私たち小さな会社は地ベタにはいつくばり、歯をくいしばって生きている。人間には二つの不幸があるという。一つは金があるという不幸。もう一つは金のない不幸だ。格言に“死して美田をのこすべからず”というのがある。なまじ多くの財産を持っていたために、一族一家が遺産をめぐって骨肉の争いをする。運よく遺産を手にした者は、自らが汗水たらして手にした金でないので、使い方を知らず、ある者は破滅するために使い、ある者はもっと増やそうとする。人間の生き方の基本は、“清く、貧しく、美しく”だという。コインとかお札には、なんで裏表があるのだろうか。空の上からふとそう思った。人間という動物は、ほぼ全員裏表がある。なければ化け物だ。男と女が奇跡的に出会い、結婚して夫婦となる。男も女もいくつかの秘められしものがある。美男子でスポーツマン、理想の人だと思っていた男は、イボ痔であり、イビキや歯ぎしりが酷く、枕はヨダレで臭い。そして幻滅の日々を送る。靴を脱ぐと足も臭いのだ。美女でみんなの羨望の的だったのが、洗濯は苦手で、料理ができない、やたらとネットでブランド物を買う。魚の食べ方を見ているとゾッとする。取り柄といえば、見た目が美人だけ。背中や腰にトクホンやサロンパスを貼って、衣服でごまかす。トイレ掃除なんて嫌だといって、トイレ救急隊を呼ぶ。空の上でそんな話を聞いたことを思い出す。コインになんで裏表があるのかが分からないのだ。暑さで脳内がイカレたのかもしれない。空の上から見ると、日本の住民の多くは、山のふもとに集落をつくって生活している。山と川と海と共に生きている。当然のように、雨、風、地震には弱い。この列島の宿命なのだ。毎年のように梅雨の終りに、集中豪雨が襲う。山は崩れ落ち、川は氾濫し家を流す。政治の基本とは「治山治水」である。それが現在では政治家とは裏金づくりの職業となっている。我が身最優先、選挙とは就職活動なりとなっている。木曜日の東海道線は人身事故の影響で、私は戸塚駅で停車する中にいた。この事故の場合は胸の中で手を合わせ、静かな気持ちで車内にいることができる。列車内のスピーカーがイカレていたので、車内放送がよく聞きとれない。そんな中でも平然とメークアップしている女性が、私の視界の中にいた。マツ毛を必死にアップさせていた。何やってんだよ、どうやってもブスはブスだよと思った。「歩いても 歩いても」という2008年の映画を見た。上映時以来二度目である。是枝裕和監督の映画だ。その中で嫁が姑に向って、明日は30度を超えるほど暑くなるようですよと言った。15年前はそんなかんじだったのだ。長兄が死んで15年目、墓参りに泊りがけで夫の実家に来ていた。わずか一泊だが嫁と姑の関係は、コインの裏表のようである。嫁の顔は笑っているが、心の中には刃が光っている。姑のひと言ひと言が、気に障るのだ。金曜日の六時頃、渋谷PARCOに行った。巨匠井上嗣也さんが、渋谷PARCO創立50周年記念のためのポスターやサイネージを制作した作品を見るためだ。去る日、PARCOの宣伝を仕切っていた後輩と、井上さんの三人で食事をした。青森県出身の後輩が新人で入社して来た時、私は会社員だったのだ。とにかく極めつけの善人であったので、日本を代表するトップクリエイターたちは、彼の頼みに応じていい作品を生み、やがてPARCO文化となった。大病を克服して生気ハツラツとしていた。抗癌剤治療や放射線治療をやり遂げて、新品の人間をになっていた。現在、私の周囲には大病と闘っている人が多いので、勇気をもらった。亡き大親友ならたちどころに何故コインに裏表があるのがを教えてくれるだろう。先月20日命日の26日の前に仕事仲間だった人間と献杯をした。スコットランドの蒸留所に行き、念願のスコッチウイスキーのシングルモルトをショットグラスに入れて、ニコッと笑っている写真を飾って。もう11年が経っている。私は無駄に歳を食い、世の中はユメもチボーもなくなっている。日曜日は愚妻と高校野球の試合を見に行くことにした。少年たちが、私に何よりの力を与えてくれるのだ。ずっと裏街道を歩いて来た我が身には、真夏の球場の“太陽がいっぱい”がうれしいのだ。それにしても「井上嗣也」さんと高弟「稲垣 純」さんのPARCOの作品は圧倒的であった。巨大な眼のアップのビジュアルは何を見ているのだろうか。人間社会の裏と表だろうか。それともやがて来る未来社会の表と裏だろうか巨眼の中には灰色の月がポツンと浮かんでいた。守屋 浩の“月のエレジー”を口ずさんだ。♪~ 月が僕を見てる そうだ月に頼もう 逃げた恋を呼んで来て……。よく見ると月はコインのようなのだ。
(文中敬称略)






2023年7月8日土曜日

つれづれ雑草「一人ひとりの才能」

窓の外では強弱の雨が降る銀座の珈琲店で、外国人の夫婦と会話を楽しんだ。二人は米国人である。ご主人はクルマのディーラーの支配人。奥方は雑誌の編集者である。共に四十代、日本に来てすでに十年近く経っている。子はいない、いわゆるディンクスである。初めて日本に来た時のことを聞いた。二人共に共通して言ったのは、(一)お酒を頼むと“お通し”が出る。(一)夏は冷たい、冬は温かい“オシボリ”が出る。(一)買い物をすると、すごくていねいに包装紙を使って、しっかり包んでくれる。その上紙袋に入れてくれて、リザーブの紙袋まで入れてくれる。(一)チップ制でないのにどの店も対応が親切。(一)電車の中ではほとんどみんなしゃべらない。(一)人種差別が全くない。(一)街が安心安全。(一)和菓子の製品が厳重に入っている。例えば、山梨の“信玄餅”は芸術だ。小さな入れものに、お菓子とキナコと、極小の入れ物に入った甘い味、それに楊枝もしっかりと入り、人の手によって一つ一つが風呂敷をたたむようにして結んである。他にも和菓子の世界は、信じられないほどていねいに作られている。(一)アメリカは土足文化だが、日本人はきちんと“靴を脱いで”家に入る。(一)“交番”というのがあるのには驚いた。それじゃこの国の将来はどう思うかと聞くと、ハッキリイッテ、ダメデショーと言った。why何故と言えば、アメリカは日本を食い尽くすだろうと言った。アメリカの政治家は日本の総理大臣を呼んで、アレ、コレ難題を押しつけ、少しでも“チューチョ”すると、ドーンとテーブルを叩き、怒りをあらわにすると、日本の政治家はクションとなって、全てOK、OK、OKとなる。小泉純一郎がブッシュのところに来て、エアーギターのスタイルでパフォーマンスした時から特にOK、OK、みんなOKとなった。と、ご婦人は言った。ジャーナリストだけに鋭い。日本が大好きなだけに、これからの日本の見通しはシビアだ。外国人投資家が円安を利用して日本株をジャンジャン買っている。彼等投資家はいつか売るために買っているのでいずれ売って、売って、売りまくる。株価は大暴落する。それじゃマズイと日銀は国債をバンバン刷って、日銀が買う。負のスパイラルが起きる。国防予算を倍増して数年で43兆円もの予算を使ってアメリカのポンコツを買って、買って、買いまくる。ジョー・バイデンはしたたかな老人で、この事を利用して選挙を有利にする。アメリカは軍産国家だから、バイデンOK、OKとなる。もう中国には勝てない。インドにも勝てない。いままではアッチ、コッチで内戦を起こして、荒稼ぎしたのだが、介入するパワーはもうない。外の雨が激しくなっていた。和菓子の包み方でなごんだのだが、この国の将来は地獄になる、と言っていた「浜矩子」経済学の大先生の言葉を思い出した。大先生の紫色のヘアースタイルは、佐賀鹿島の食道園のお母さん同じだ。話題は変ってコロナ第九波の話となった。カッパ頭の医学界の代表は第九波が始ったと言い、厚労大臣は始っていないと楽観視している。アメリカ人二人は、日本人は50%以上がこんなに暑いのにマスクをしていると言ってバックからマスクを出してニッコリ笑った。昨日代々木上原の住宅街の中にあるギャラリーに行った。もとヘアーメークアーチストだった友人の個展が開催されていた。残念ながら本人は10日間居たのだが、京都の丹後に帰っていた。紫色のヘアーより、もっともっとパンクなギャラリーの老夫婦オーナーが電話してくれた。とにかく多種多才で、時に円空のように流木を彫って仏像にしたり、利休のように味のある陶芸品を作る。今回は小さな骨を入れる壺を焼いていた。70個売れたみたいと言った。私は残りの八つの中から一つ選んで買った。価格はすべて12000円であった。韓国映画の「無垢なる証人」を見た。自閉症の女子高校生が、自分の家の前の家の2階で、その家の家政婦さんが、その家の主人の顔をビニールで包んで殺しているのを目撃する。実話をベースにしている事件だ。この女子高校生には特殊な才能を持っている。人の何倍も聴覚にすぐれている。家政婦はある人から金をもらって殺人をする。“コノヤローしぶとい奴だ”とか言いながら、女子高校生はその言葉をしっかり聞いている。自閉症の女子高生に証人としての能力ははたしてあるか。法廷で裁判官も検事も、弁護士、陪審員たちも、その驚異的な能力に言葉を失ってしまう。初めて飛行機の上から街の風景を見て、家に帰り航空写真と同じように、絵を描く特殊能力の若者の話もある。九十歳を過ぎた大天才の画家「草間彌生」さんは、半世紀以上も病院から通っている。小さな部屋、小さなベット、白いカーテンの中がいちばん心が安まると言う。先日までルイ・ヴィトンとコラボレーションしていたので、銀座松屋は草間ワールドだった。下書きなしでどでかい絵をスイスイ描く。私天才ね、私天才ねと言いながら。人間にはみんなその人、その人の才能がある。試験の点数とか、通信簿で判断してはいけない。五体満足のくせして何もしないで能書きばかりのアホは多い。このアホたちが少しでも心を入れかえて、体が不自由な人々や、介護する人々のために体を使えばいいのだが、会社の仕事はソコソコにしてアホたちはカラオケでは大盛り上がり、♪~ 私バカよね おバカさんよね うしろ指 うしろ指 さされても……。なんて歌っている。現在土曜日の朝六時四十七分十一秒。かなり眠いのだが横になると目が覚めるのだ。だがどうしようもない、気がつけば七夕は終っていた。
(文中敬称略)






2023年7月3日月曜日

つれづれ雑草「怪物」

「警視庁物語」全24作を8日間で見た。昭和三十五年頃東映の人気シリーズであった。当時は他の映画との二本立であった。一本長くても90分位であった。「警視庁物語」はほぼ60分である。刑事ものの映画やテレビ番組の原型はこの映画シリーズにあったといってもいい。当時はいまと違って肖像権などはほとんどないから、街の中だろうと、野球場、競艇、競馬場などでも、撮影は撮り放題であったようだ。つまり多くのエキストラを起用する必要がない。むしろ映ってしまった人が、オレ映画に映ってしまったよと、自慢していた。カメラアングルは制限がないのでリアリティが違う。東京の街に高いビルはまだ少ない。タクシーの初乗りが70円であった。ルノーの小型タクシーが数多くあった。昆虫みたいな形のルノーに乗って親友と高校に通っていた。それが見つかって母親が学校から呼び出されて、停学処分になったりしたが、アタマを使って、ルノーで通った。刑事たちは黒塗りトヨタの大型車であった。警視庁物語を見れば今も行なわれている捜査方法が分かる。いわば刑事ドラマのヴァイブル的作品であった。後に高名になる監督が何人も手掛けていて、東映全盛時代の礎となった。今の刑事ものがつまんないのはリアリティがないからだ。デカ(刑事)やブン屋(新聞記者)は、みんなバンバン煙草を喫う。黒いダイヤル電話が、何台もあってジャンジャン鳴る。店屋物を運ぶラーメン屋さんや、日本ソバ屋の店員さんが、ラーメンやもりそば、かつ丼などを何度も運んで来る。これが白黒の画面の中で実にウマソーなのだ。一軒一軒への地取り、聞き込みが基本だ。刑事は現場100回という。何事も解決への元は現場にある。捜査一課の物語だから起きる事件は、“殺人”である。事件の多くは現代社会とそう違いはない。金銭目当てが主であり、そこに愛人がからむ。“事件の影に女あり”と、いまでは差別用語となるが、そのからみが多い。犯人となった人間の原因は貧困、差別、両親の堕落、子どもの頃からの生活環境が生む。不良少年、不良少女。空腹で愛情に飢えた子たちは、悪さを重ね成長しながら立派な悪人になる。そして事件は起きるべくして起きる。格差社会はいつの世も変わらない。落ちるところまで落ちた男と女は、傷をなめ合い、事件を打つしか道がないようになる。警視庁物語の事件と現代の事件との違いがある。今の世は溜ったストレスを目の前の者に発散する。自分が生んだ赤ちゃんを、自分を生んでくれた母親を、老い先短かい老人たち。兄弟姉妹が骨肉の争いの末に殺し合う。しまいには誰れでもいいからとか、死刑になりたいからなどと言って弱い者に刃を向ける。警視庁物語の中には、こんな事件はなかった。貧しさの中でも、ギリギリ人間としてやってはいけない事が少しは分かっていたのだろう。SNS全盛時代の事件は、何が起きるか起きてみないと分からない。「怪物」という映画を観た。是枝裕和監督作品、坂元裕二脚本がカンヌで脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した。愚妻と共に観にいったのだが、私よりも愚妻の方がよく映画を理解していた。いつもなら、“マアネエ”とか“ツマンナイ”とか、“キライヨ”などのひと言で表わすのだが、いい映画よ“怪物は大人たち”“学校の先生たち”なのよ。子どもたちは、頼りにする大人がいなくて、などと語っていた。子どもがかわいそうだな、が共通見解だった。かつてはいつか見ていろよ、不良からヤクザになって、きっと立派な親分になるんだとアブナイ夢を語る時代もあった。今では反社会人とされて堅気になりたくてもなれない。ヤクザ者の子どもには何ら悪いところはない。夢も希望もあるはずだ。ある年、高校で一年間一緒だった男が、クラス会があるから一度来いよと言って来たことがある。やだよと言ったが、一度だけでもと言われた。16歳が45歳位になっていた。30人以上が新宿のタカノフルーツパーラーに集まっていた。私は一次会は九時までとあったが、八時半頃に行った。幹事は内緒にしていたようで一斉にオ、オ、オ~となった。私がどうなっていたか、みんなの意見を集約すると、(一)ヤクザになっている。(二)死んでいる。(三)刑務所の中にいるであった。私に退学処分を課した担任も来ていて、ひたすら私にあの時はすまなかった。僕にチカラがなかった。君がしてないことは分かっていたんだ。すまん、すまんと言った。グラスを持つ手がガタガタ震えていた。先生全然気にしなくていいよ、かえってよかったと思っているからと言った。校長とか教頭の立場重視、教師と教師の責任のなすりつけ合い。きっと今でも日本国中の学校で起きているだろう。その後、何度かクラス会の通知が来たが行ってない。ブルブルと震える文字で何度か手紙をくれた担任は亡くなったようだ。みんなと別れ二人きりになった、高校時代の恋人(?)は、医師の娘だったが、確か筋萎縮性側索硬化症(ALS)で亡くなった。家までクルマで送って行って、元気でな、と別れ際握手をした時、その手が氷のように冷たかった。問題児もいい大人たちと出会えば、何んとか生きていける。私は提案する。厚生労働省に「更生庁」をつくって、堅気になりたい人間とか、足を洗った人間やその家族が生きてゆけるようにすることを。(文中敬称略)