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2022年2月26日土曜日

つれづれ雑草「情念の女性」

前回書いた、アンドレイ・タルコフスキーの作品「ノスタルジア」の中で訂正すべきことと、より詳しくすることがありそれを記す。ノスタルジアとはNOSTALGHIAが原題である。又この作品がタルコフスキーの遺作と書いたが、正しくは「サクリファイス」が遺作であった。「ノスタルジア」は本来病名であった。(私は病んだ国と解釈した)遠征軍の兵士が懐郷の思いに駆られて戦闘業務に支障をきたすような事態。自らの源泉から遥かに離れてしまい、そこに帰れなくなってしまった者――その人間が苦しまなければ死に至る病気、これこそがこの映画で描いた「ノスタルジア NOSTALGHIA」であると言う。(解説・池澤夏樹)戦争と平和はコインの表と裏と書いたが、独裁者と化したプーチン大統領は戦争を選んだ。戦争が長期化すると兵士はノスタルジアという病になる。プーチンはロシアそのものが病んでいることを戦争によって証明した。国民に向って戦争開始を宣言したプーチン、その顔は自信に満ちたものでなく、不安に満ちていた。私はその目が誰かに似ていると思った。それは世に伝わる織田信長の目だ。狂気は不安と背中合わせであって、行動を狂わせる。いつの世の独裁者も誰も信じることができなくなり、何もかも焼き尽くすことによって、心の安定を得る。疑い深い怪物となり滅びる。それは必ず側近、身内などの反乱、裏切りに会う。秦の治皇帝、ローマの帝国のシーザー、織田信長、ナポレオン、毛沢東、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニなどなどみんな極度の不安神経症であったはずだ。毛沢東は周恩来あっての自分だという事が分かっていたから、末期の癌に冒されていた周恩来を治療に専念させることなく、死ぬまで側から離さなかった。不安神経症の独裁者は、当然不安神経症の部下ばかりに囲まれる。殺られる前に殺るとなり、多くの明智光秀やブルータスを生む。これは今の世の中も同じだ。人類の歴史、人間の歴史とは、群れを生みはじめた時から、食べ物の奪い合い、土地の奪い合い、権力の奪い合いの歴史だ。紀元前数千年前から今の世まで続いている、戰、侵略、混交、新たな人種の誕生、そして又、戰、侵略、混交を繰り返す。人類そして人間の歴史は混血の歴史でもある。世界各国民族はそうして誕生した。ロシア人の人には申し訳ないが、そのむかし日本人はロシア兵のことをロスケと言って嫌った。それはズル賢くて、汚い手を使う侵略者だった。中国人は日本兵のことをと言ったのと同じだ。「戦争と平和」をトルストイが書き、「罪と罰」をドストエフスキーが書いたのは、それを生む国だったからだ。最後のロシア皇帝は、一族もろとも殺されて亡んだ。プーチンは何を恐れているのか、それは自分自身だろう。我が日本国は戦争と平和なんて関係ないとばかり、相変わらずバラエティやバスの路線旅や、クイズ番組、食べ物番組のたれ流しだ。予算委員会で野党の蓮舫氏から、岸田総理、こんなことよりロシア侵攻、国家安全保障会議の方がと言われて、えっ、あっそうとなり、それじゃこれにて流会となった。まるでマンガの世界だった。久々に篠田正浩監督の映画「鑓(やり)の権三」を見た。近松門左衛門作であるから、心中とか情念の果ての悲しい結末となる。戦のない太平の世、武士たちは自慢の武芸も発揮できない。鑓の権三とは、の使い手であり美丈夫で、若侍の間でもひと際目立っていた。格式ある武家の一族がいた。美しい女性と娘二人息子が一人いた。主人は江戸に勤めに行っていた。親戚筋から年頃の長女への嫁入り話があった。その相手は鑓の権三であった。美しい母親は茶道や催事における諸事作法を教える一門であった。鑓の権三は催事の取り仕切りを命じられ、古来から伝わる作法を、美しい母親へ習いに来た。夜のことである。一門に伝わる巻き物を読み聞かしながら、美しい母親は、娘と等しきほどの若侍に、日頃からの熱い想いを語り、鑓の権三にせめて一度だけと迫る。情の深い女性は一度火がついたらもう後には戻らない。鑓の権三は拒みつづける。二人は組んずほぐれずとなる。障子に映る二人の影を見てしまう男がいる。かねてより娘に想いを持っていて、その夜忍び込んでいたのだ。そこで見た影の動き、庭に投げ捨てられた帯を取ると、不義密通ありと申し出る。一家一門は閉門となる。何もなかった二人だが、逃げて、逃げて、いよいよ金も無くなり刀まで売る。江戸から帰った一家の主人は、不義密通の二人を討つべく、義兄と共に二人を探す。殺さねば一家一門の恥が晴らせない。逃げ疲れた二人はある日一度抱き合う。そして遂に京の橋の上で……。鑓の権三を若き郷ひろみ、情念の女性を岩下志麻が演じる。男と女も、行きつく先は、戦争と平和である。但し近松物に平和はない。(文中敬称略)




2022年2月19日土曜日

つれづれ雑草「わかるかなあ~」

先年亡くなったロシアの大巨匠に「アンドレイ・タルコフスキー」という人がいる。大作家トルストイやドストエフスキーに並び称される人だ。その監督の遺作に「ノスタルジア」という作品がある。タルコフスキーは難解を極める監督で有名であり、水の表現をする。カンヌ国際映画祭の受賞常連者で、「ノスタルジア」もこの作品の創造における審査員特別大賞を受賞している。ノスタルジアとは帰りたくても帰れない故郷(タルコフスキーは亡命していた)であり、病んでいる国と同意義でもある。つまりタルコフスキーの帰りたい故郷ロシアは、病んでいて帰れないのだ。この長編の映画のラストは息をするのも忘れるほど、圧倒的なメッセージ性に満ちている。現在ロシア vs NATO=アメリカの一触即発の戦争状態、又、その先が見えない人類に対して、一人の敬けんなクリスチャンは、民衆に向って大演説をする。そして全身にガソリンをかけて焼身する。つれづれなるままにその演説を、映画を見ながら、止めては書き、止めては書いたのでそれを書く。「語りかけるのは誰か、私の頭脳と肉体は、同時に生きられない。だから一個の人格にはなりえない。私は同時に無限のものを感じることができる。我々の時代の不幸は、偉大な人間になれないことだ。我々の心は影に覆われている。無意味と思えることにも耳を傾けよう。例えば排水溝のことや、学校の壁や、アスファルト、奉仕活動に忙しい人や、虫の声にも耳を貸そう。我々の視覚と聴覚、そのすべてで感じることが、我々の大いなる夢の始まりなのだ。だれかが叫ぶべきだ。ピラミッドを作ろうではないか。重要なのは完成ではない。願いを持続することなのだ。我々はあらゆる意味で、魂を広げるべきだ。まるで無限に広がるシーツのように。もし君たちが進歩を望むなら、一つに混じり合うことだ。健全な人も、病む人も、手を取り合うのだ。健全な人よ、あなたの健全が何になる。人類はすべてが崖っぷちに立っている。転落する運命にある。それを直視し、ともに食べ、眠る勇気がないなら、我々にとって、自由は何の役にも立てない。いわゆる健全な人が世界を動かし、破滅に直面する。人間よ! 従うのだ! 君の中の火に、そして灰に、灰の中の骨に、骨と灰に。私はどこに存在するのだろう。現実にも空想にも存在しない。太陽が夜中に昇り、夏に雪が降れば、強者が滅びて、弱者が生き延びるだろう。混とんとした世界を統一するのだ。自然を観察すれば、人生は単純だとわかる。母よ、母よ、風は軽いものだ。私がほほえめば、風はそっと動く。原点に戻ろうではないか、単純な原点に。道を間違えた場所まで戻るのだ。愚かな人間よ、君たちがさげすむ、愚か者から、恥を知れとののしられる。さあ、ここで音楽を、巨大な像の横に組み立てられた演説台の上で、男は頭からガソリンをかけ、ライターで火をつけ、火だるまとなる」難解なタルコフスキーの、黙示録だ。わかるかな~、わかんねえだろうなあ。私は何度か見る内に少しわかって来た気がする。現在のウクライナ情勢、世界的なコロナウイルス禍、健全な人をプーチンなどの権力者に置きかえてみる。世界を動かしている、資本家に置きかえてみるのだ。「わかるかなあ~、わかんねえだろうなあ」で大人気を得た松鶴家千とせ師匠が亡くなった。八十四歳であった。CMに出演してもらったり、私の主催のパーティに、南州太郎師匠とともに出演してもらった。出演を依頼しにとある団地の公園に行った。アフロヘアーの中にちっちゃな目をパチクリして、何んで俺なの、わかんねえなと言った。俺が英語だった頃、弟は単語だった。妹は英文法で、母親はグラマーだった。わかるかなあ、わかんねぇだろうなあ……(?)。マアこんなかんじでと頼んだ。南州太郎さんは、私にとって神に近く、ただひとこと、おじゃましますでいいですと頼んだ。大巨匠タルコフスキーも、大師匠松鶴家千とせさんも、その存在は地球の財産だった。心より合掌する。死は分かりやすい。もう起きることはないのだ。となるだけだ。但し国の死は、そう簡単ではない。思考せよ、徹底的に思考せよ。オリンピックの裏で進んでいる世界情勢を。カーリングで床掃除をするのを見ながらでもいい。戦争と平和は、コインの裏表なのだ。




2022年2月12日土曜日

つれづれ雑草「道、物語り」

そうして、こうして、こうなったと、雨音を聞きながら思った。家の前を通る子どもたち、幼稚園児、小・中・高校生(すぐ隣りにアレセイアという学校がある)みんな、みんな、みんなマスクをしている。自分がガキだった頃を思い出した。朝になると、と~ふ、と~ふ、納豆、納豆の声と共に、ラッパの音がした。末っ子の私はお鍋を持って、おとうふ三つと納豆を六つ買う役であった。新聞配達のおじさんが、新聞をいっぱいたすきがけにして持って、一軒一軒新聞を配達する。その足音は強かった。同時刻には牛乳配達のお兄さんが、自転車に白い牛乳瓶をたくさん積んで、一軒一軒牛乳箱に入れていく。その音はガラスとガラスがぶつかり合うので、ガチャン、ガチャンと騒がしかった。家の前の一本の道。そして朝が始まった。一本の道は運動する場であり、遊び場であった。缶けり、面子、ベーゴマ、キャッチボール、馬とび、コマ回し、女の子はゴム飛びや、石けりをしていた。みんなでダルマさんが転んだをした。夏には金魚売りの人が荷車を引いて、金魚え~金魚と、大きな声を出して歩いた。風鈴売りのおじさんは、色鮮やかな風鈴を鳴らしながら、荷車を引いていた。冬にはたき火をして、イモやクリ、ドングリを焼いて食べた。ご近所の家で畳替えがあると、一本の道に畳屋さんが来て、太い針を太い腕で畳に刺していた。ヒジでギューギュー太い糸をしぼり上げた。布団の打ち直しの季節になると、布団屋さんが、うすい茶色い紙で打ち直した布団の綿を、いくつも包んで運んでいた。新築や改築をする家があると、大工さんたちが来て、長い木材をカンナで削っていた。木の香りはいい香りだ。カンナくずをもらって、たき火に使った。電線工事があると、赤線が切り落とされる。ずっと、ずっと工事について行って、道路に落ちた赤線を集めて、くず屋さんに売りに行った。10円は大金でコロッケが三つ買えた。魚を売る人がいろんな魚を持って売り歩き、包丁を使って、刺し身や切り身にしていた。一本の道は、ご近所同士が顔を合わせ、声をかけ合う場所であった。今、一本の道にはマスクの人間が通るだけだ。文明が発達しすぎて、大きなものを失って来た。便利すぎて逆に不自由になった。監視カメラがそこら中にあって見張っている。竹馬の友という言葉があったが、それは一本の道で友だちと、竹馬の高さを競い合った仲だ。現代社会ではスマホの友であろうか。私は現代文明を好まない。徹底的に嫌悪している。当然多くの人に多大な迷惑をかけまくっている。私はいくつになっても、少年の風を愛す。一本の道が生む物語りの方を愛すのだ。文明を拒否している種族がうらやましいと思ったりしている。私は縄文時代がいちばん、この国が幸せだったのではないかと思っている。故岡本太郎画伯は一度お会いした時、縄文時代のままでよかったんだよと言った。有名な太陽の塔は、縄文そのものだ。こんな思いを強くしているのは、きっとコロナ禍の中で、多くの人を失ったからだろうか。人間がどんどん言葉を失っている。仕事柄一日中テレビをつけていて、多くのCMを見る。心に響く言葉、心に刺さる言葉、言い得て妙な言葉、心を揺らす言葉がない。たった一行、たったひと言で、大作家たちから、ワシらには絶対書けないと言わせた言葉がない。いい言葉のない広告は、いい商品ではない。10年前ある広告団体の50周年記念イベントで、選ばれたプロフェッショナルと一般の人々が、この50年でいちばんいい、と思った広告の言葉として選んだのは、ダントツで、仲畑貴志氏が書いたチョコラBBのものだった。それは、桃井かおりさんが河辺にしゃがんでつぶやいた。「世の中バカが多くてつかれません?」であった。このエーザイのCMはすぐにクレームがついて流せなくなった。と、バカをおりこうさんに変えて流した。「世の中おりこうが多くてつかれません?」書き手にとってどっちにしても、疲れる世の中を書いた。変更して流すことを許した。スポンサーは偉いと思った。あれから10年今どんな言葉が選ばれているのだろうか。一本のCMで世の中を斬ってほしい。もうすぐバレンタインデーだ。昨年ゴディバというチョコレートの名門ブランドが、新聞全ページ広告で、日本は、義理チョコをやめよう。こんなキャッチフレーズの広告を出した。その通り、愛のない変てこな義理チョコはやめよう。マスクなしの子どもたちが、家の前の道を歩ける日はいつ来るのだろうか。アメリカのワクチンメーカーの売り上げが超、超倍増して5兆円近い。これからも期待できるだと、つい本音を言って喜んでいる。アメリカの薬品マフィアは何んでも有りだ。おそらくウイルスの犯人はこの国だろう。国会では、おバカと、おりこうさんぶっている人間が、二年以上同じ問答をして、三年目に入っている。臭い匂いは元からたたないとダメという格言がある。それにしてもガキの頃の一本の道の物語りがなつかしい。その頃は東京都杉並区天沼三丁目六〇〇番地である。そうして、こうして、今日も朝が来た。昨日金曜日は、「嫌国記念日」であった。梅の花がポッ、ポッと咲きはじめた。私たちはワクチンの治験者になっている。数年後きっと驚くような副反応の結果が出てくるだろう。「無」はありえない。そしてこれから、アフリカの最貧国からコロナは広がり始めるのだ。ウイルスに国境はない。一本の道にチンドン屋さんが来て、チラシを配りながら、お店の開店を告げて回った。その後をずっとついて行った。広告屋人生の始まりだった。私はチンドン屋でありたい。




2022年2月5日土曜日

つれづれ雑草「たこ焼きの惨劇」

桜折るバカ、梅切らぬバカという。バカにとっても耳の痛い言葉がある。小庭に二本の梅の木があるのだが、いつも来てくれていた植木屋さんが、何があったのか来なくなった。私は庭仕事などまったくできない。梅は伸び放題に伸び、せっかく実った梅の実は、ポトン、ポトンと落ちた。昨年の年末いい植木屋さんを紹介された。二人で来て梅の枝をバチンバチンと切って、スッカスカにした。ヘエ~こんなに切っちゃうのと言えば、こうしないと木がもたないと言った。ビートルズヘアーから、GIカットみたいになった。今朝その梅の木に、白い花が米粒ぐらいの大きさで咲いていた。亡き母と今住んでいる小さな家の小さな庭に、梅の木を植えようと言い、母と植木屋さんで一本1500円で買った。それはゴボウほどの太さだったが、今では大人の太モモほどになっている。40年近い月日が経っている。その頃来ていた植木屋さんご夫婦に、小さな桜の木を植えてよと言ったら、少々吃音のおじさんは、ダ、ダ、ダンナ、桜の木は学校や公園に植えるもので、家に植えてはダ、ダ、ダメだよ、桜は散ってしまうからエ、エ、エンギがワ、ワ、ワルイと叱られた。私は花が好きである。愚妻と一緒になった時、家の中に一輪でもいいから花をと言った。貧しき中にも花一輪は、亡き母が行なっていた。私は雑草の花、名もなき花が好きだ。木下恵介監督の名作に「野菊の如き君なりき」というのがある。少年と少女の儚き恋の花は野菊あった。札拝のときには百合の花を、瞑想には蓮を、戦いに行く時には菊をと言われる。(菊と薔薇のケースもある)菊根性と言われる女性がいる。菊はとても辛抱強くて長く生きる。嫁に行った時、その家にいる姑や小姑にイビられイジめられても、あの娘は、菊根性があるから心配ないと言われた。堅気の男は菊根性を持っていない。飲み屋に行って、会社や、上司や、部下や、取引き先の悪口を肴にして、グダグダ飲むだけだ。金筋のヤクザ者には、菊根性を持った筋者がいる。親分、兄弟分、舎弟のために命を張って、長い刑期に耐えている。近頃では死刑や無期となる。東京藝術大学を生んだとされる、岡倉天心の名著「茶の本」の中に、私が短編の映画の主題にした言葉がある。人は獣悲しいかな、私たちは、こんなにも花を友としながら、その実、獣であることから抜け出していないことも隠せない事実だ。かぶっている羊の皮を剥いでみれば、たちまち、その下に隠れていた狼が牙をむくだろう。人は十歳で獣、二十歳で狂人、三十歳で落伍者、四十歳で詐欺師、五十歳で犯罪者といわれてきたが、それは獣でありつづけたということだろう。(原文ママ)花にとっていちばんの花器は、いかなる人間国宝の陶芸品や、アーティストの作品ではなく、大地なのだ。私はその日ある有名なホテルのロビーにいた。丁度フロアに大きな生花、というよりモニュメントを創っていた。どこぞの山の中でブッタ切ったか、チェンソーで斬り落としてきた、太い木、曲がった木、奇怪にからみ合った木、掘り出された大きな根。それらはすでに自然の色はなく、金粉、銀粉を吹きつけられている。塗のようなもので、厚化粧をほどこしている。それらの木に、さまざまな花が散りばめられている。あるいは接着されて行く。数人でそれをやっていたのを見て、私は言った。誰れの作品か知らないけど、バカバカしいねおつかれさんと。こんなものを華道とか称している。ハナバナしく総理大臣になった男は、したり顔で言ったもんだ。コロナ対策は最悪の事態を想定して、早日早日に手を打たねばならない。私は前総理みたいな下手は打たないと。だが現実はメッタメタ、後手後手のオロオロ状態である。何度も書くが、なんで医学者でもない尾身茂の意見を聞くのか。野球でも先発ピッチャーが打たれたら、ピッチャーは交代だ。バカアホが三年目を迎えているのに、ツルミあっている。何故なら、彼らにとってコロナほどオイシイ利権はないのだ。一本の木を長生きさせるために、植木屋さんは迷うことなく、枝を切り落とす。政府の分科会メンバーは、全員切る! 私は思った。故田中角栄ならそうしただろうし、もっと大胆な発想をして、決断と行動をしたであろう。(それが何かは分からない)今日の昼、テラスモールのカメラのキタムラに行った。階段下に、たこ焼きの銀だこがある。数人並んでいた。小さな椅子があり、そこで焼きたてのたこ焼きを二人の高校生が食べていた。何を焦ったか一人の男子学生がたこ焼きをスポッと飲み込んでしまった。ギャ~アヂ~とノド、胸、背中が熱いとのたうち回った。みんな何事かとビックリ、人の輪が大きくできた。水だ、水だ水だと言って、友達がペットボトルを渡した。私はそれを見ながら、そうだ久々にたこ焼きを買って帰ろうと思った。学生はまだ倒れており、警備員と、どこかのオジサンに救助されていた。コロナ禍はいよいよ身近になって来た。この政権もこのままだと、一年で終りになるかもと思う。戦さの最中に、人の話を、聞くだけ聞いていたら、手おくれで全滅だ。(文中敬称略)