旅の男には過去を聞いてはいけない。人間は一人ひとり背負うもの、思い出したくないもの、話したら命をかけなければならないものがある。ある旅を経た人を紹介してくれたのは、私の親愛なる男である。この男はあらゆる筋の人間と縁を結んでいる。その人脈は底知れない。いままで万金に値する人を紹介してもらった。その中の一人が銀座を捨てて密教の修行に入った。“想像を絶する厳しい修行”というありきたりの表現しかできない我が身がつらい。今では高名なお寺の住職となり、毎月一回タブロイド判の“◯△だより”が送られて来る。ご自身で書いて印刷されている。そこには毎号勉強させてもらう、仏教の教えといい話が書かれている。真白いアート紙に黒い活字の一文字一文字が、汚れた私の心を洗ってくれる。現在住職をするかたわら、高野山大学大学院に入り勉学にも励んでいる。過去に何があったかは聞いていない。第52号にこんないい話が書いてあった。「盲亀流木(もうきふぼく)〈有ること難し〉」大海に住む盲目の亀が百年に一度海中から頭を出し、そこへ木が流れてきて、亀がちょうど偶然にもその浮木の孔(穴)に出逢うという極めて低い確率の偶然性を表わす比喩譚。人間として生をうけることと、また仏法に遇うことの難しさをたとえる話とあった。人間として“有ることが難しい”「ありがとう」の語源なのですと書いてあった。私たち人間は偶然の中に生きている。生まれてすぐに命をなくす悲しい命があれば、99.9%命は危ないという中で生を得た神の子の命もある。117歳まで生きた命もある。それがよかったか否かは本人に会っていないので分からない。スポーツで鍛えた強烈な体を持つ金メダリストがあっけなく死ぬこともある。年に二回も入院して健康チェックをしていた健康オタクが、四十代でポックリ死んでしまう。なんでこんな話を書くかというと、私の恩人、知人、友人、親類縁者が、肝臓癌、子宮癌、胆管癌、乳癌、すい臓癌と闘っている。二十代から七十代まで。私には何もしてあげることができない。私は「盲亀流木」大海で流木の孔(穴)に出会った亀のように。どうか名医に出会ってと願うしかない。必ずセカンドオピニオンをと願うしかない。高名な大学の教授が名医とは限らない。現在の上皇の心臓を手術した教授は無名に近い人であった。私の友人の奥さんは、過食と拒食をくり返した。太っている時は80k以上、やせている時は30k台、その差50k、お金持ちだったので、有名大学病院を何院も訪ねて入院治療したが、原因はどこも分からずであった。どこで聞いたか山陰地方の大学病院の助教授を訪ねて入院治療をした。結果ウソのように治った。原因は教えてもらえなかった。患者は医師を選ぶ権利がある。米倉涼子主演の「ドクターX」ではないが、有名大学だから、お金持ちがいく病院だからで選んではいけない。私にはとても信頼している先生が二人いるので、その先生の命令に従う。これを書いている午前四時三十三分十三秒現在、眠ることはできない。原因が私自身の問題だからだ。外はかなり明るくなってきた。「ライトハウス」という映画を見た。モノクロフィルムで撮った最高傑作といっていい。ランボーの詩を映像化したみたいであり、ギリシャ神話の如くでもある。「ニューイングランド」の孤島にある灯台に、カナダで木こりをやっていた青年が、金を稼ぐために四週間働きに来る。そこには老人の灯台守一人しかいない荒れ狂う海、乱れ飛ぶカモメ、燃料に石炭を使う重労働、老人と青年とのうす暗い生活が始まる。食料を運ぶ船は四週間来ない。1881年頃に書かれた灯台守のマニュアルに従う。いままで見たことがない白黒の世界は宗教画のようでもある。二日続けてこの映画を見た。主演の一人が私の好きなウィレム・デフォーである。老人は言うカモメを殺すなと、海鳥は海の男の魂だからと。だがしかし青年は狂っていく。そしてカモメを殺す。そこに待っていたものとは。○╳一錠、○╳一錠、○╳一錠を服用した。朝刊がポストに入った音がした。読んでいるうちに少しは眠れるだろう。残念ながら酒はない。あの映画を見ていて思い出した。「盲亀流木」の話を。荒れ狂う波の中に亀はいたのだろうか。流木の孔(穴)に運良く入れただろうか。老人は言った。帆を操る海の男にとって、いちばん不運なのは、無風なんだと。人の命はすべて偶然に支配されている。神はいるのだろうか、信じる者は救われるのだろうか。灯台の光は海の男にとって神に近い。(文中敬称略)
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