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2023年6月19日月曜日

つれづれ雑草「九州出張、その(一)」

九州大牟田に坂本龍馬のような熱い男、行動力の塊のような友人がいる。元大手広告代理店の敏腕営業マンであり、天皇ともいわれた会長の側近でもあった。静岡・山梨の「富士山」を世界遺産にすることに尽力した。鹿児島の「屋久島」青森・秋田の「白神山地」、北海道の「知床」などの世界遺産のこれからのために、全国を飛び回っている。熱弁が始まると圧倒される。全身を言語化して自説自論を熱く語る。そして今、坂本龍馬が“薩長同盟”に奔走したように、九州有明海を“日本の地中海”にしようと活動している。有明海は、長崎、福岡、佐賀、熊本の四県に面している。“環有明海観光連合”を立ち上げた。私はその仕事をお手伝いしている。有明海はいままで四県が一つになって、未来への行動を行なっていなかった。熱血漢とはもう三十余年の付き合いになる。初めは、英会話教室NOVAの仕事で、「駅前留学」という言葉を提案した時である。当時は新聞社系の代理店にいた。私はヤクザのようであるから初めて出会った人は、その顔にこのヒトに頼んで大丈夫かな(?)とハッキリあらわれる。が一度仕事をすると、長い長い不思議な運命共同体となり、家族付き合いまで発展して行く。ただ、私は売り上げ、扱いの数字や、金儲けばかりの話をする人とはどうしても相入れない。で、いい思い出が生きている間にその関係を終える。恩を仇で返すことになったりもするが、金より思い出重視なのだ。十四日午前五時起床、(といってもほぼ起きていた)熱いシャワーを浴び、朝刊に目を通していざ九州有明海へ出発だ。辻堂 ― 横浜 ― 京急で羽田へ。ここで私の頼りとする男プログラムエンジニア(人間コンピューター)と合流。この男のヒトが一緒であれば、いかなる難問にも応えてくれる。人工知能AIの未来、地球や人間の未来まで高説を論じてくれる。ガラケーも使えない私の強力な支えとなってくれる。そして羽田からANAで佐賀空港へ。そこにかつて私のところにいた(十年間)アートディレクターの男が福岡から来てくれていた。3.11の時に一歳ほどの子を育てていたが、奥さんが東京での地震や放射能汚染が、子育てに向いてないと、故郷の福岡に帰った。一年ほどで帰ってくると思っていたが、結局そのままとなり、現在に至っている。清々しい勉強家の男は、四十三歳になっていたが、前より清々しい男であった。私のテーマカラー、ライトブルーの小型車に乗って来ていた。小林大助という名は、九州デザイン界で有名になっている。数々の賞を受賞している。直近では、福岡で開催される世界水泳大会の金、銀、銅メダルのデザインコンペで金メダル(最優秀賞)を受賞して、新聞やテレビで大きく報じられている。私にとってこれほどうれしいことはない。オオ~大ちゃんとなった。その後、熱い男が大型のレクサスで来た。いつも通り、ドーモ、ドーモから始まった。三井化学大牟田工場に行き、頼まれていたデザインの打合せをする。超広大な工場を見学。“人の三井”というだけあって、三井の人々は実にやさしい。運命を感じたのは、私が独立した時、はじめて大きな仕事を霞ヶ関ビル内にあった代理店さんから頼まれた。それが現在の三井化学(当時は三井石油化学)であった。その会社の50ページ位の会社案内のデザインであった。チンマリ、コンマイ仕事ばかりやっていた。質屋通いもしていた。山口県大竹工場を撮影、約120メートルの中心部分、60メートルの所にある丸い踊り場からの大仕事だった。20~24歳会社勤めで、デパート関係やファッション系の仕事を4年間やっていたので、石油化学などの仕事は、正直自信がないし、何も分からないのであったが、結婚もしていたので、大きな仕事は断わる訳にはいかなかった。そんな思い出のある会社の仕事に、再び九州大牟田で出会うとは、(その代理店さんとは現在もお付き合いをしている)その後、大牟田で有名な事業家の会社へ行く。環有明海観光連合の会長さんである。◯△グループの総帥の会長さんは、数多くの事業をしながら、青年会議所で後進を育てている。東京の硬派の大学で少林寺拳法の術を極め、本場中国の総本山まで行っている。社内会議室に入ると気合十分の雰囲気であった。会長さんがグループの活動と自らの主義主張を、スクリーンに映る映像や文学群を見ながら、熱く、熱く、火傷するほど熱く語った。その後、会長さんが経営するところで、食事会となった。熱弁は更につづいた。久々に硬派の事業家と会い心地いい。しかし腰がパンパンで激痛がする。会長さんの将来の夢の場所へも行って見学もしていた。食事中まで私を看板のデザイナーだと思っていたようなのだが、熱血漢と人間コンピューターがパソコンを使って、私のいままでの仕事などを映し出し解説すると、実に驚かれて“先生”と言われるようになった。私は先生はやめてください。場末の芸者ですからと言った。会長さんは実に魅力的であった。ぜひアレも、ぜひアソコも、となり再びお会いすることを約束してお別れした。次の日は大牟田から柳川、そして佐賀鹿島へと移動して、観光協会代表理事の方と会った。佐賀は「葉隠」を生んだ武士道の地、その方は静かだが内に秘める魂は、武士の如くであった。夜七時からの会食打合せに私が選んだ店は、焼肉の名店“食道園”にしてもらった。店の女性主人の髪の毛は三十年前から“紫色”それがトレードマークである。肉は東京の叙々苑の最上級より全然安くて美味しい。この食道園については訳があり後日書く。女性主人は、私の姿が見えなくなるまで、手を振ってくれた。私は大きな声でまた来るからネエ~、元気でね~っと叫んだ。そしてすぐ近くのビジネスホテルへ。小さな部屋のベッドの上にぶっ倒れてひとまず大の字になった。
(文中敬称略)









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