2011年10月18日火曜日
2011年10月5日水曜日
「血と筋」
血筋とは凄いものだと改めて知った。
連休中、溝口健二の映画を五本観た。どれも名作であったが、中でも「残菊物語」は良かった。
1939年の作品であるから終戦の6年前という事になる。日本映画は凄かったのだとつくづく思った。146分の長尺であった。
寺島しのぶさんのお母さんは寺島純子さんである。
なんとなく馴れ馴れしくいっていたがこの寺島家とは歌舞伎の名門尾上菊五郎の血筋である。
物語は菊五郎の子、菊之助がいい芸をしない。これではとても菊五郎を継げない、しかも女中のお徳という女性に惚れ込み名門同士の結婚に応じない。菊之助はお徳と一緒に江戸を離れドサ回りの地方へと出て行く。心からお徳を愛しているのだ。
流れ流れて月日は三年五年と経っていく。
二人は安宿の一銭五厘のむしろの上で生活をしている。
お徳はそんな旅芸人の中で菊之助が磨かれて行っているのをしっかり見抜いていた。
五年目、大阪で江戸での仲間、中村福助と親戚筋である中村芝翫と出会う。すっかり変わり果てた菊之助を見て何とか大阪の舞台に立たせたいと座頭に福助は頼む。悩んだ末、座頭は寺島家の血筋のためと大役をつける。
実はお徳が土下座してきっと立派にやり遂げますと頼んでもいた。そして自分は身を引き菊之助を寺島家にお返ししますと。そうとは知らずお徳のためと菊之助は名演技をする。それからはほろほろと悲愛の村松梢風原作の世界となっていく。
香川照之という東大出の凄い役者がいる。
実はスーパー歌舞伎を生んだ革命児市川猿之助と女優浜木錦子の間に出来た子であるが父と母は離婚、以来45年父子の関係を絶っていた。複雑な愛憎劇の中、父は脳梗塞で倒れ大きな後遺症を抱える身となる。
血は争えない。香川照之は45歳にして歌舞伎に挑戦する事となる。その名は市川中車である。
きっと父を超える革命的な舞台を生み出すであろう事は確かだ。現在の人間国宝、七代目尾上菊五郎も凄い。
娘寺島しのぶはフランス人の大男との結婚を許し、自らも緋牡丹お龍の藤純子と一緒になった。
そして新しい舞台ではなんとレディーガガをイメージしたコスチュームで空中に舞う。
いつまでも同じではいけないんだとインタビューに応えていた。
正に「序・破・急」の心だ。
型から入り破る、そして新しい型を生む。是非観に行く。我々にも血筋がある。名門もあれば無名もある。
どんな血筋も全てオリジナルな血統書付きな事は確かだ。自らの血筋に誇りを持ち日々精進を心掛けねばならない。
2011年10月4日火曜日
「一路君がんばれ」
朝っぱらから草鞋のようなモーニングステーキ、スクランブルエッグ、ベーコン焼、チーズハンバーガー、ホットドック、フライドポテト、ピザ、フライドチキン、アイスクリーム、パフェケーキ、コカコーラ、コカイン、LSD、スピード、アルコール、バイオレンス、フリーセックス。
破滅、壊滅、破綻、そして破産国家へ。
ご飯、味噌汁、海苔、納豆、干物、漬物、生玉子、おひたし、酢の物、ご飯、卵焼き、野菜の煮っころがし。
不安、不満、不信、そして破産国家へ。
前者はアメリカ合衆国。後者は勿論日本国だ。
何故か両国共に侵略戦争、介入戦争、次に開始したのは経済戦争だ。
全ての道はローマに通じるではないが両国共に全ての道は金儲けに通じる道をひたすら走り続けて来た。
その結果アメリカは格下げ、日本は更に更に格下げられてしまった。
思想なき国、哲学なき国、信じるものはただ金という精神不安定国家。
自殺、人殺し、親殺し、子殺し、妻殺し、夫殺し。地震、津波、洪水、山崩れ、放射能。
二十一世紀に疎開などという言葉に出会うとは誰が思っていただろうか。
アメリカ帝国は戦争と享楽と快楽主義の中で無惨な肥満体となり自壊した。
飲み過ぎ食べ過ぎ、夜になると元気を出し全てやりすぎ。
日本国は働いて、働きづくめで肉体を、心身を傷つけ、競争社会の中で自壊したのであった。
「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」啄木。
通勤疲れ、仕事疲れ、リストラ疲れ、就活疲れ、介護疲れ、経営疲れ。もうどうしようもない疲れる話ばかり。
そんな中で私の会社に居た人間から一枚のFAXが入った。
第一子誕生、命名は真実一路から「一路」君としたとか。ただし8ヶ月の早産、体重は1200gであったと、母子共に元気だと。
何かすーっと体中から疲れが抜けた。五十歳になってからの子供だから喜びもひとしおだ。
私の兄も同じ8ヶ月で800gであった。人一倍丈夫に育ったから心配はいらない。
いい名前だ。「おめでとう」のFAXを送った。翌朝家に電話があった。
ありがとうございます、うれしいです。子供と妻の為に頑張りますと。
そうだ命掛けで頑張れ、辛いだ、しんどいだ、疲れたなんていってる場合でないのだ。
わずか1200gの赤ちゃんが一生懸命生きているんだ。
国滅びて山河ありといったが、国滅びても希望の命ありだ。たくましく育て、この国を救ってくれ「一路」君よ。
真実という言葉はもう死語の様な言葉になってしまったのか。
いい言葉を思い出させてくれた。
2011年10月3日月曜日
「運動会と老人ホーム」
十月一日(土)孫の運動会であった。
海辺の小学校であり、最近出来た立派な校舎である。
三日間風邪で夢遊病者の様であったがリレーの選手になったから来てねと言っていた。
愚妻は船橋の方の運動会に行っていた。交代制で観戦である。四日ぶりに外に出ると足許が定かでなかった。
その日、皮肉である人生の交代劇を見た。
初めて行った新校舎は正に海の隣である。そしてその隣が老人ホームである。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんと元気な運動着の子供達がお弁当や飲み物、果物、お菓子を両手一杯にバッグや袋に詰めて持って運動場に向かう。元気いっぱいだ。
青空の爽やかな空に万国旗が揺れていた。紅白の旗が何本も揺れていた。
私は八時四十五分頃ふらつく足で校舎の入口に着くと左側に丸い大きなテラスの部屋があり、そこに何人もお年寄りが朝食を終えて日向ぼっこをしていた。皆さんただ口を開けじーっと外を見ている。無表情、無感情である。
目の前を通る元気な子供達との対比がとてもつらいものであった。きっと自分たちも子供の頃、かけっこ、縄引き、玉入れ、ダンス等を楽しみ、紅勝て、白勝てと大声をあげ、昼にはみんなで一緒に美味しいお弁当を食べたであろう。長い人生のゴールに向かってただじーっと時が経つのを待っている。
十月二日(日)朝刊にある老作家の本の広告が載っていた。本の名は「死にたい老人」であった。老作家はもう自分はこれ以上生きていても仕方ないと「断食死」を選んでそれに挑んだ。その結果は・・・・・・・・・。
一日目 いよいよ実行開始。
六日目 空腹に慣れる。
十一日目 生と死の六合目を見た感じがする。
十三日目 テレビでドーナツやパンを見ると辛い。
十四日目 脳の機能が衰えたのか、継続的に読む事ができない。
十七日目 コンビニで誘惑に負けてホットケーキを買ってしまう。
二十日目 午後になりガクンと体力が落ちる。
二十三日目 胃痛に耐えられず掛かり付け医に行く。
二十五日目 東日本大震災発生。
二十九日目 口の中が異常に乾く。
三十日目 原発への興味が抑えられない。
三十二日目 胃の痛みさえなければ、恍惚状態。
三十三日目 尿意があるのに尿が出ない。
三十六日目 起きるのも辛いのに、地震への興味高まる。
三十八日目 一度目の断食挫折。
と続き、終いには強烈な死への恐怖が、そして決死の二度目の断食に挑戦。
その結果は私も買って読んでないので分からない。
この老作家は八十三歳現役であり、自分の意志があるだけいいのではないかと思った。
ガラス越しの老人達は多く、運動場で走り回る子供の数は驚くほど少ない。広いグランドにひと固まりの子供達、その子達が明るく強く逞しく、わんぱくにおてんばに育ってもらう事を願うしかない。
2011年9月29日木曜日
「愛は危険でもある」
あの二人は間違いなく出来ている。
そういわれるのは深夜に焼肉を一緒に食べるケースとか相手の食べ残しを自然に食べるケースといわれる。
お互い焼肉の煙の染み込みも、ニンニクの口臭も、人が一度箸をつけたのも許し合っているからとか。
あなたと朝一緒の歯ブラシで歯を磨く関係になりたいわ。なんていう古典的表現もある。
更にあなたが使ったカミソリで私の顔も少しあたったの。なんていうセリフがある。
さて、私の前に一人の肝臓癌の権威ある教授がいる。
教授いわくとんでもない、肝炎ウイルスは1に性交渉、2にファッションタトゥーやピアス、3に歯ブラシや血の付いたカミソリ。今欧米型の新しいC型肝炎やB型肝炎が日本で流行しはじめている。
ウイルスは体の外に出てしまうと死んでしまうがそうでないケースは深く静かに潜伏してやがて恐ろしい肝臓癌になってしまうケースがあるから気をつけて下さい。なんて駅の側のお寿司屋さんで日本酒を飲みながらポツポツ語る。
そうだ板前さんも包丁とか刃物を使用するから気をつけなよなんていう。
店の主人達の手がピタッと止まるのは必然的であった。
今頃は小学生の高学年からすでに性交渉をしている国家的問題なんだけどなぁーとお寿司をつまむ。
焼肉屋さんに行くと最近はお箸は厳禁、全てトングで掴んで焼く。
肝臓にいいんでないのとお客さんに支持されていたレバ刺しはメニューになしユッケなし。
藤沢の彫師もこの頃は随分とファッションタトゥーが減ってしまったと電動の針をブンブン回転させていた。
メモが貼られている。○○さん色入れ、○×さんスジ彫り、○△さんボカシ等。○○会、○○組、○○連合とあるが稼ぎが減ってしまったのか仕上げに来ないのだという。連絡しても生きてんだか分からないとか。
あの人は塀の中に入ってしまったとか。博打で負け追い込まれ逆に前払い金を返してくれなんていうケースもあるらしい。
何で私がそこに行ったか、実はある4文字を彫ろうと思って前金を払っていたのだが少々気が変わり相談に行ったのだ。
で、そんな話を教授と偶然お寿司屋さんで会い話をしたのであった。
私には佐賀出身のとても腕のいい、人のいい、性格のいい先生が一週間に一回見えてハリとお灸とマッサージに来てくれる。
誠にありがたい人なのだ。佐賀出身の「ハナワ」にソックリな三児のパパだ。今のハリは一回ずつ使い捨てなので100%安全。
食べて飲んでゴロゴロして肥えた女性がなんと30㎏と35㎏とか100㎏に太った体を細くする為に死ぬほどの努力、お前いつまでそんな体だったら一緒に歩かない、浮気もする、別れるからなと凄まれる。
目から涙がポトポト流れる。
付き合っていた頃の体重に戻したら又、朝一緒の歯ブラシで歯を磨いていいと巨大な体を屈してたのむ。
おから、コンニャク、もやし、キャベツ、ウォーキング、プールでスイミング。ひたすら頑張るのでした。
苦節を重ね見事101㎏の体重は56.5㎏になりました。
教授はそんな無理なダイエットは内臓がボロボロになります、素人の考えでやってはいけません。
ちゃんと肥満外来に行く事です。それにしても教授よく食べますね、いいんです私はもう恋も愛もないただの食欲の固まりだから。体重なんて四十歳過ぎた時から計ってないから分からないけど70〜80㎏あるんじゃないかな。
すいませんいつもの太巻き二本持って帰りたいのでお願いしますだって。
奥さんにですかと聞いたら、自分の夜食にだって。君ねえ、食欲も愛もデンジャラスだからいいんだよ。
2011年9月28日水曜日
「熱いから赤いへ思い出話を少し」
武田鉄矢さんを見るたびに思い出す人がいる。
その人の名は種田誠二さん。
かつて東急グループ系の広告代理店東急エージェンシーの制作チームのチーム長のクリエイティブディレクターであった。
今から三十数年前であった。アメリカで広告の制作づくりを学んで来た種田誠二さんは太い葉巻をくゆらせながらブルーの眼鏡で現れ初めてであった。私より二歳上であった。
独特と言う人は多い業界だが中でも独特であった。
弁が立ちプレゼンテーションが抜群にうまかったそうだ。
私は私がプレゼンする場合は勿論行くが、人がプレゼンをするのなら私はまず行かない。
私の義兄が一昨年まで監査役をしていた会社に「東洋水産」がある。その創業者であった、森和夫さんが亡くなった。
79歳であった。静岡県の田子村(現・西伊豆町)で生まれた。
森和夫さんは軍隊に入り終戦間近にノモニハンでロシアの戦車隊(通称赤いきつねといった)と戦った。
ある日、種田誠二さんからあるプレゼンを一緒にしようと頼まれた。それは当時電通でやっていた「マルちゃんのキツネそば」であった。渥美清さんをキャラクターに起用していた。渥美清さんは業界では担当殺しと言われていた。
商品を持たない、食べない、商品名を言わないからだ。
スポンサーは担当に高いギャラを払っているのに何だ、どうしたしっかりしろ、駄目なら変えるぞとなり、コダックやハナマルキ味噌を担当した友人は渥美さんの躁鬱と付き合い、躁の時は時間をかまわず延々と何時間も電話、さらにいつもの指定のフランス料理店で延々と打合せとなる。鬱の時は当然何事もない無言状態となる。
で、話を戻すとその頃「どん兵衛」が山城新伍さんと川谷拓三さんを使い落語の世界の様な縁台コントで大人気となっていた。で、東洋水産は数社の代理店にコンペを発注した。種田誠二さんは当時絶好調であった。
二人で受付嬢が一服する地下の部屋でヒソヒソと打合せを続けた。
で、腹を決めパッケージは「真っ赤」にだけ、熱湯5分というので「熱いきつね」というネーミングにして文字を入れた筆文字はサントリーの仕事をしていた(今でもサントリー烏龍茶を書いている)木之内厚司さんに頼んだ。そして当時売り出し始めた武田鉄矢さんとおていさんこと沢村貞子さんのコンビを考えた。しかし沢村貞子さんは出演NG,武田鉄矢さん一人で勝負となった。種田誠二さんの頭は冴えに冴えていった。私も又、若く熱湯のようになっていた。
プレゼンは種田誠二さんが一気に取ってきてしまった。
ゼッコーチョーであった。その後種田誠二さんはどんどん大きなプレゼンを取りまくる。
赤坂スタジオでドラム缶半分位撮影用に色づけしたまずい(本物はうまい)のを食べてもらった。
その時は「赤いきつね」であった。なんでネガティブなロシアの戦車隊の名、「赤いきつね」になったか、それは森和夫社長がノモンハンで赤いきつねと戦ったからなのだ。「戦車が恐くて赤いきつねが食えるか」という言葉はそこから生まれ実際に戦車を使って撮影をした。種田誠二さんまさにゼッコーチョー。私はいろいろ勉強をさせてもらった。
その後三橋美智也を使った「ワンタンメン激メン」とか、焼きそば「バコーン」へと進んで行った。
種田誠二さんゼッコーチョーであった。今は退社されご自分で会社を経営している様だ。
先日私が行ったイベントにも来てくれた様だった。会いたかった。
このままだと東洋水産は武田鉄矢さんを死ぬまで使って行くだろう。そういうマナーの会社だから。
すると種田誠二さんも私もあの世で「赤いきつね」を食べている時下界で未だ武田鉄矢さんが出ているはずだ。
ある週刊誌の「墓碑銘」というコラムで森和夫社長(死亡時は相談役)の記事を読んで妙に若かりし頃が懐かしくなった。
月日が流れていた。魚肉ソーセージづくりから一代で現在の大会社に育てた人生は熱湯の様であり「人生劇場」や「人間の条件」の様でもある。主人公梶の様にヒューマニストであり意志の強い人であったのであろう。
今日の昼は「赤いきつね」ライス&魚肉ソーセージだな。決定!
2011年9月27日火曜日
「無くせるならとっくに無くなっている」
私の好きな深夜番組にお願いランキングというのがある。
特に好きなのは「ちょい足し」という不気味な食べ物、よくぞまあこんなロクでもない事を本気でやっているのか。
何十品も食べさせられる中尾まなみADは出て来る度に太っている。
ズルズルとかパカッと大口を開けるとか、少々わいせつな食べ方をするのだ。
正直全くの不美人である。私的には全く興味のないタイプなのだが。
とんでもない「ちょい足し」を食べておいしーいというと、何だかよくやったみたいな気分になるのだ。
その「ちょい足し」にあのソムリエ田崎真也が更に「ちょい足し」をする。中尾まなみADおいしーいとなるのである。
私は絶対に食べれないが食はクリエイティブ活動であり、それを考え試食を重ねて来たスタッフに「あっぱれ」をあげたい。
この間中間発表かなんかのベストテンがあった。最後に一品を足したのは田崎真也ソムリエである。この人は楽しい人だ。前回の「なか卯」でファンになった。
さてあるコンビニの商品の中から選んだ味。
一位 担々麺+イタリアンドレッシング(+ニンニク)
二位 ギョーザ+イチゴジャム(+味噌)
三位 いなり寿司+とろけるチーズ(+タバスコ)
四位 ざる蕎麦+練乳(+明太子)
五位 いなり寿司+タルタルソース(+プリンのカスタード部分)
六位 ケンタッキーフライドチキン+ピーナツバター味噌
七位 ラーメンラ王+粒マスタード(+ポテトチップス)
八位 冷やし中華+白ワイン(+オリーブオイル)
九位 あんパン+キムチ(+リンゴジャム)
十位 ギョーザ+ヨーグルト(+マヨネーズ)
であった。
こうして字で書くと何だそんな事をと思うだろうが、一度お試しあれ。
人によってはギモジワリーとか、サイテーサイアクとか、変態のオカマとニューハーフの合体とか完全にニッポン終わるとかいう。しかしラーメンラ王の太く脂っこい中に更にポテトチップスがマスタードと一緒に入っているのを一度試したが、激しく辛く嫌々食べて思わずうまーいと言ってしまった。
その手の食べ物は話が家の中では厳禁であったから一人の時に食べた。
一族が帰って来て何か気持ち悪い臭いがする、何か食べたと聞くから「食べたよ、ラ王+粒マスタード+ポテトチップスを。文句あっかよ」ジャンクフードも又美味なりだよ。
ただし一ヶ月位はゲップをするとギモジワリイ。
最近カップヌードルが四角になった「カップヌードルごはん」というのがある。
かなりの人気であるらしい。
常識は外すためにあるのだ。一度食べてみるか、と決意をした。
2011年9月22日木曜日
「すみれちゃん」
人生60年余、平成枯れすすきとなっても決して恋と愛を忘れてはいけない。
そうでないと鼻毛が出ていても気にしない。耳毛が外から見えていても気にならない。
やっとデートした女性と食事した時、相手は未だ食べているのにサラ金なんかのティッシュで思いっきり鼻をかむ。
靴なんて雨に濡れて白いカビが生えても気にならない。ワイシャツの襟が黄色くなっていても気にならない。
フランスやイタリアに行きなさい。みんな年取る事に格好良くなる。
エレジーという大学教授と教え子の恋愛映画を見なさい。いいよ、60過ぎた教授と美しくもエロティックな教え子。
思い切り憧れる。三日位着ている半袖のワイシャツの中にはランニングシャツ、灰色のしわしわのズボン、クラリーノの靴、黄昏れた頭、使い古した鞄、長く伸びた爪。これではモテません、気をつけて下さい。
私の同級生の大手書店元課長、若い女性と株投資で破産。
で、その戦後処理、夜中2時頃、眠いのにその妻と娘にガンガンにグチを電話で取っ替え引っ替えやられて熱いシャワーを浴びた後の私の体はぐいぐい冷える。間違っていたんですあのええカッコしいのバカヤローとか。
私の部屋に酒の臭いさせて入って来て後から抱きしめたのだから、ナイフで思い切り腕を刺してやったんです。
あんな奴死ねばいいギャーーーーギャーーーワァーーとなり妻の方はあなた何やってんのナイフなんか畳に突きまくって、お願い来て下さーーい、来て下さーーいといったって相手は川崎だ。来てくれないなら警察に行きます。○○子ちゃん早く家を出なさい、なんて緊迫状態です。長い付き合いの友人なのでやはり行くしかない。深夜タクシーを呼び川崎へ行くのだ。
ホテルの一室、5時頃にかけて薄い壁の向こうから切ない泣き声がナレーションの様に聞こえる。
こちとらちょっとばかり気合いを入れて書き物をしてるんだ、よろしく頼むよ、猿ぐつわでもしてくれよといいたかった。
あああーーーーという絶叫だ。素足で靴履いてやっぱり塩ラーメンを食べに行くべえと思った。
ところで美人は幸福になれるか、いい結婚生活ができるかについてアバウトな調査があったが、ほぼ幸福感がないという。
ご主人の方はいつ何か起きるのでは、浮気するのではないかと不安で一杯らしい。贅沢な事にあんまり人並み外れた美人はずっといるといつも美人なので飽きちゃうともいう。
それより少々ブスでも風呂上がりがゾクっとする程色っぽかったり、何かにつけてタカビーな女性より本当に一緒になってありがとうと朝から晩までよく働いてくれるのだ。化粧時間もお風呂も早い、買い物は余分な物は買わない、粗食で我慢強い、きれい好きで食器磨きが大好き。これが、ムメとかタミとかトラとかヨネとかトメさんならいいんだけど28歳の妻に、おいトラ缶ビールなんて言うのは辛いし、ご飯を食べたい時ウメというのも言い難い。
ただ名は体を現すというのは嘘がほとんどな気がする。ややこしい名の女性ほど名前負けしている。
高級クラブなんて過去にいい名で出て売れっ子になった女の子の名が一覧表になっている。
未だかなり遅れていて相変わらずの名が多い。夢香と優香とか桜椿ちゃんとか、牡丹ちゃんとかとなると刺青の見本帳だ。やはり私はトメ、ウメ、ヨネ派だ。黒服がライターの灯をかざし、おーいこちらトメさんとかマグナムのシャンパン。おーいヨネさんここにシャンパンのピンクヨロシクとか、おトクさんマッカランの21年ものとかの方が楽しいではないか。
私がよく使うタクシー会社に年の頃は60代の「すみれ」ちゃんがいた。
香水が強い、お化粧がとにかく城壁のように厚い、振り返ると「どくだみ」になってしまう。
まったくお口が悪いんだから、でもこれだって若い頃は結構人気者だったのよ、とすみれちゃん、違う会社(神奈川中交通)を○▲と□×が悪いから乗車拒否なら入社拒否であったそうな。
娘が20代でとても美人、一緒に私の個展に来てくれた時などびっくりしてコーヒー&ケーキをご馳走した。
すみれちゃんとても嬉しそうだった。実は数年前乳ガンで片方を取ってしまった。
手の動きがままならずらしい。でも美しい娘を嫁に出したいと頑張っている。
この間平塚橋辺りを走っていたら車の中から手を振るすみれちゃん。
運ちゃん、あれすみれちゃんではというと正解であった。その2日後すみれちゃんは寒川の近くでドーンとおかまを堀ったらしい。ハンドルに高い鼻(あったっけか?)をしたたかぶつけて鼻血ブーブーだったらしい。
ご主人はいない。十月からすみれちゃんを見つけ出して私の担当にしてもらう予定だ。
香水と化粧品はいいのを送る。この際すみれちゃんスッピンになったらといったら、お客さんが死にますよだって。
そうかなと思った。意外な事もある女性は誰でもスッピンが美しい。
何しろ誰だから分からないのがいい。眉毛とまつ毛もない。働いた後はそれでいいんだよ、すみれちゃん。
東海道線で辻堂駅南口に降りてK&K小和田交通に乗り私の名を言えばVIP扱い。
そこでちょっと前にいたすみれちゃんの話を聞いて見て下さい。
「マガジンはマゴジンへ」
変われば変わるものだ。
甲子園でハンカチ王子なんていわれ、日本ハムに入団した斉藤佑樹、一方ライバル田中将大は楽天に入団。
今は二人の投手としての球の威力、体から出る闘志とオーラ、気合い、気迫、その全てが近寄る事のない大差となった。
まるで覇気が無く引退間近の投手でももうちょっといい球を投げるのではと思うハンカチ王子。
投げる球は殆ど変化球、直球はハエが止まりそうで球はすいませんとお辞儀してしまう(人はこれを魔球という)。
九回投げきる体力も、地肩もない。元々体はプロとしては小さいし桑田や松坂の様な地肩がない。
マウンドからトボトボとベンチに戻る姿にあれほど熱狂したファンの声援も半減した。又のりしろがもうない。
これ以上は伸びないと思う。
私は彼は政治家向きだと本当に思っている。汚れきった政治、国会議事堂を白いハンカチで掃除して欲しいと思う。
想像して下さい。彼があの薄暗い国会の中で白いハンカチ党党首として歩いている姿を。
演説もうまい、きっと救世主になってくれる筈だ。
一方田中将大は全く斉藤佑樹の逆、ダルビッシュと共に日本を代表する大エースとなった。
気合、気力、気迫、闘志の埋蔵量がまるで違う。そしてまだまだ伸びるのびしろを持っている。
こちらは政治家には全く向いていない。
単純にして明快である。
二人をカタカナで比べると「フンニャーとウリャー」の違い。
「へナーとバーン」の違い。「サイゴマデイクゾーとゴカイデオシマイ」の違いとなる。
持っている人間なんてすぐバレてしまう。ニーチェ曰く「どんな英雄もいつかは飽きられる」だ。
田中投手に送る言葉はやはり、ニーチェ曰く「どんな強者もいつかは疲れる」。星野仙一に潰されない事を願う。
一昔前24時間働けますか?なんてとんでもない事をいうリゲインという栄養ドリンクCMが流行った(今はあんまり売れていない)。そんじゃいつ休むのとなり、全く寝ないのという事となり、結局はビョーキになる。
そのツケがいま日本中をビョーキにしてしまった。今度のビョーキは従来の抗生物質もワクチンも効かない。
特効薬は休むしかない。
孫子の兵法に「休んだ人間(兵)、休んだ軍(会社)は強い」という。
海外にロケに行くとなんで日本人は昼ご飯も食べず働くんだ、何でそんなに急ぐんだと言われる。
根性だ、気合いだ、気合いだ、気合いダーなんてアニマル浜口的な父親は病院に入れられる。
8歳になる孫(男の子)がグランパ、算数34点だったよと言って来た。
凄いじゃん、グランパは中学三年の時14点だったよといったら勉強できないんだと喜んだ。
100点か0点でいきな。好きな科目だけ伸ばせばいいから。
で好きな科目はと聞くと道徳と体育だという。何で道徳と聞くとテレビ観ているだけだからなんだと。
幸い小さな体でスポーツ万能の様。私のDNAがタップリ入っている。
少年野球に入り遊撃手(ショート)で四番でキャプテンをやっている。
中学だけでればいいよと言ったら高校に行かないと甲子園に行けないよという(パパは孫が甲子園に言ってプロの選手になるのが夢なのです)。じゃあ34点じゃ入れないぞと言った。
東京ドームに野球を観に連れて行ってあげる。
わたしも遠足に行くように楽しみで殆ど寝れずずーっと原稿用紙に向かっている。
愚妻が朝早くからゴソゴソお弁当を作っている。田中将大みたいなガッツのある選手になりたいという。
私の知人が「孫の力」という年四回発行の雑誌を刊行した。休刊・廃刊続きなのに新刊とは凄い事だ。
第一回目は写真家立木義浩氏、菅原一剛氏が東北の被災地に行って孫達と生きる人々をいい写真にしていた。
流石プロと思ういいスナップショットだ。写真の基本はスナップだ。これからは「孫」の時代。「マガジン」も「マゴジン」だ。
是非書店でお求めを、1000円です。マゴマゴしたら連絡をして下さい(私に)。
「ジイジイ、バアバア+孫」この三点セットで日本人の人口の半分位という数字なのです。
帽子とタオル、ビニールバッグ、下敷き、ウエストバンド、キーホルダー、ジャビット人形を買ってあげました。
ついでに巨人軍も買ってやると言ったら孫は買って買ってと大はしゃぎ。
ポケットには28700円しかなかったのです。
2011年9月20日火曜日
「ブータンは97%が幸福」
ブータンの首都の名知っていましたか?「ティンプー」でした(ずっとプナカだと思っていました)。人口約68万人のこの国はナカナカ凄い数字を持っているのです。
ヒマラヤ山脈に囲まれた小国です。
この国の国民総幸福度(GNH)はなんと97%、お国民の殆どが幸福なんです。
1976年国王が「大切なのは経済成長を続け発展させる事でなく、国民一人一人が幸せを感じる事だ」と提唱し国民総生産(GDP)とオサラバしたのだ。
いまや先進国もプータンに学べとヒマラヤ山脈に向かっているらしい。
我々の国日本と比較すると何と羨ましい事だろう。
朝から晩まで働いても働いても幸福になれない。
体は疲労し、心は悲鳴を上げていても競争に勝ち抜け、売上を上げろ、シェアを奪え、コンビニは24時間営業し、マクドナルドも終日営業して終電に乗り遅れた人々が始発まで時間を潰す。私の家の近くにスーパーの西友がある。
広く、寒く、そしてお客さんは誰もいない。深夜2時過ぎ、東京から帰りながら買い物に寄ったのだ。胸には日本人ではない人の名が付いている。
少し先にローソン、その少し先にセブンイレブン、その少し先にファミリーマート、その少し先に私の家がある。どの店にもポツンポツンしかお客はいない。節電て何だいと思いながら本当にこの国はバカヤロー国家だと思った。
石川啄木は「働けど働けど我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る」と書いた。
ずっとずうっと昔からこの国は働きづめなのだ。ブータンの人が来たら何というんだろう。
この国の国民幸福度は97%不幸福だからだ。
テツ&トモなら「なんでだろう、なんでだろう」という。
牧伸二なら「あ〜あやんなっちゃった。あ〜あオドロイタ」となる。
又、亡き三波伸介なら「ビックリしたな〜もう」となり、亡き荒井注なら「バカヤロー文句あっか」となる。
敬愛する南州太郎師匠なら「おじゃましまっす」といいながらきっとブータンに行ってしまうでしょう。
この頃私もかなり師匠達と同じ心境になっている。
まともに挨拶もできない、葉書一枚も書けない若者達に出会うと暗然たる気持ちになる。
私の信条はまず「気持ちいいあいさつ」であり社是でもある。
考えない、行動しない、戦わない、怒らない。幸い私の会社の若者は極めてまともであってくれている。
全ての滅びは「オハヨォー、オツカレサン、オサキニ」を言わなくなって始まる。
家も同じ、地域も同じ、社会も国も同じである。
夢を追い寝食を忘れている若い人から一通の手紙を貰った。何より心が洗われる。心の中で頑張れ頑張れと叫ぶ。
一人の若者の夢の背後にとてつもなく大きな幸福度が含まれているのだ。会社のためになんて考えるな。会社の歯車になるな。会社を徹底的に利用せよと私は言い続ける。
いつでもどこでも生き抜く武器を身に付けよと。
毎日毎日おぞましい事件や、ハレンチな事件や、信じ難き事件が起きている。井上陽水がかつて「傘がない、行かなくちゃ君のために行かなくちゃ」と歌った。傘とは何であったか探さなかったツケが来ているのだ。
ある日人形町でゲリラ豪雨に出会った。傘がない人がずぶ濡れになっていた。幸い私は傘を借りていた。
若者よ夢を追え、一日おにぎり一個でも死にはしない。夢を抱いて寝よ、もっといい夢が見られるから。
雨よ降れ、不幸の洪水を泳ぎ切って見せろ、君たちがブータンの様な国をつくるのだ。
「百歳の富士山」を描いた百歳の奥村土牛は朝起きたらもっと絵が上手くなっているかもしれない、そう思っていたやもしれない、百歳の小倉遊亀も、百歳に近づいた片岡球子も同じであったはずだ。
徹底的に人のやった事をするな、命令されたら自分はコピー機でないといえ。若さとはオリジナリティなんだ。
江東区清澄の現代美術館で三十五歳の現代美術作家「名和晃平展」を観た。
素晴らしい、本当に凄い。年老いた自分が切なくなった。
そしてもっと切なくなったのが広く大きいその美術館の建築の酷さだ。
誰が設計したか分からないが「あーあやんなっちゃった、あーあオドロイタ」であった。
日本の現代美術家に天才、秀才、奇才が出始めている。
その日知人の娘婿である多摩美術大で油絵を学んだ三十二歳の若者がスーツにネクタイで私に会いに来た。
二歳の娘さんがいる。広告代理店に入れないだろうかという相談であった。駄目だ今やっている日雇いの仕事をしながらでも油絵を描き続けろ。絵の具を買う金が無かったらボールペンでも針金でも割り箸でもいい、とにかく死ぬ気で絵を描くんだとアドバイスした。若者はどんよりした目で来たがキラキラした目で帰って行った。
一つ宿題を出した。「ブータレるブタ」の絵を好きなように描いて出来上がったら又、ぜひ会おうと言った。
さてどんなブータレるブタが書き上がるか楽しみである。