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2011年9月28日水曜日

「熱いから赤いへ思い出話を少し」



武田鉄矢さんを見るたびに思い出す人がいる。

その人の名は種田誠二さん。


かつて東急グループ系の広告代理店東急エージェンシーの制作チームのチーム長のクリエイティブディレクターであった。

今から三十数年前であった。アメリカで広告の制作づくりを学んで来た種田誠二さんは太い葉巻をくゆらせながらブルーの眼鏡で現れ初めてであった。私より二歳上であった。


独特と言う人は多い業界だが中でも独特であった。

弁が立ちプレゼンテーションが抜群にうまかったそうだ。


私は私がプレゼンする場合は勿論行くが、人がプレゼンをするのなら私はまず行かない。

私の義兄が一昨年まで監査役をしていた会社に「東洋水産」がある。その創業者であった、森和夫さんが亡くなった。

79歳であった。静岡県の田子村(現・西伊豆町)で生まれた。


森和夫さんは軍隊に入り終戦間近にノモニハンでロシアの戦車隊(通称赤いきつねといった)と戦った。

ある日、種田誠二さんからあるプレゼンを一緒にしようと頼まれた。それは当時電通でやっていた「マルちゃんのキツネそば」であった。渥美清さんをキャラクターに起用していた。渥美清さんは業界では担当殺しと言われていた。


商品を持たない、食べない、商品名を言わないからだ。

スポンサーは担当に高いギャラを払っているのに何だ、どうしたしっかりしろ、駄目なら変えるぞとなり、コダックやハナマルキ味噌を担当した友人は渥美さんの躁鬱と付き合い、躁の時は時間をかまわず延々と何時間も電話、さらにいつもの指定のフランス料理店で延々と打合せとなる。鬱の時は当然何事もない無言状態となる。


で、話を戻すとその頃「どん兵衛」が山城新伍さんと川谷拓三さんを使い落語の世界の様な縁台コントで大人気となっていた。で、東洋水産は数社の代理店にコンペを発注した。種田誠二さんは当時絶好調であった。



二人で受付嬢が一服する地下の部屋でヒソヒソと打合せを続けた。

で、腹を決めパッケージは「真っ赤」にだけ、熱湯5分というので「熱いきつね」というネーミングにして文字を入れた筆文字はサントリーの仕事をしていた(今でもサントリー烏龍茶を書いている)木之内厚司さんに頼んだ。そして当時売り出し始めた武田鉄矢さんとおていさんこと沢村貞子さんのコンビを考えた。しかし沢村貞子さんは出演NG,武田鉄矢さん一人で勝負となった。種田誠二さんの頭は冴えに冴えていった。私も又、若く熱湯のようになっていた。


プレゼンは種田誠二さんが一気に取ってきてしまった。

ゼッコーチョーであった。その後種田誠二さんはどんどん大きなプレゼンを取りまくる。


赤坂スタジオでドラム缶半分位撮影用に色づけしたまずい(本物はうまい)のを食べてもらった。

その時は「赤いきつね」であった。なんでネガティブなロシアの戦車隊の名、「赤いきつね」になったか、それは森和夫社長がノモンハンで赤いきつねと戦ったからなのだ。「戦車が恐くて赤いきつねが食えるか」という言葉はそこから生まれ実際に戦車を使って撮影をした。種田誠二さんまさにゼッコーチョー。私はいろいろ勉強をさせてもらった。


その後三橋美智也を使った「ワンタンメン激メン」とか、焼きそば「バコーン」へと進んで行った。

種田誠二さんゼッコーチョーであった。今は退社されご自分で会社を経営している様だ。

先日私が行ったイベントにも来てくれた様だった。会いたかった。

このままだと東洋水産は武田鉄矢さんを死ぬまで使って行くだろう。そういうマナーの会社だから。

すると種田誠二さんも私もあの世で「赤いきつね」を食べている時下界で未だ武田鉄矢さんが出ているはずだ。



ある週刊誌の「墓碑銘」というコラムで森和夫社長(死亡時は相談役)の記事を読んで妙に若かりし頃が懐かしくなった。

月日が流れていた。魚肉ソーセージづくりから一代で現在の大会社に育てた人生は熱湯の様であり「人生劇場」や「人間の条件」の様でもある。主人公梶の様にヒューマニストであり意志の強い人であったのであろう。

今日の昼は「赤いきつね」ライス&魚肉ソーセージだな。決定!

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