2011年10月24日月曜日
「白い数値」
2011年10月21日金曜日
「そんなバカラ」
2011年10月20日木曜日
「見えない相手」
※写真はイメージです。 |
ブログを更新します。
「話の鉄板焼き」を二週間ほどお休みしました。
今までは2000字から2500字を使いエッセイ風に書いていました。これから暫くは「400字のリング」とします。
一枚400字の原稿用紙は書き手にとって戦う言葉のリングです。
400字でジャブ、フック、アッパー、ストレートなどのパンチを打ち出します。
ブログを休業していた諸々の事情とは風邪をこじらせたのをいい機会にズル休みの事でした。
寒くなってきました、くれぐれも風邪に要注意を。時にはズル休みも肝腎ですから。
2011年10月18日火曜日
2011年10月5日水曜日
「血と筋」
血筋とは凄いものだと改めて知った。
連休中、溝口健二の映画を五本観た。どれも名作であったが、中でも「残菊物語」は良かった。
1939年の作品であるから終戦の6年前という事になる。日本映画は凄かったのだとつくづく思った。146分の長尺であった。
寺島しのぶさんのお母さんは寺島純子さんである。
なんとなく馴れ馴れしくいっていたがこの寺島家とは歌舞伎の名門尾上菊五郎の血筋である。
物語は菊五郎の子、菊之助がいい芸をしない。これではとても菊五郎を継げない、しかも女中のお徳という女性に惚れ込み名門同士の結婚に応じない。菊之助はお徳と一緒に江戸を離れドサ回りの地方へと出て行く。心からお徳を愛しているのだ。
流れ流れて月日は三年五年と経っていく。
二人は安宿の一銭五厘のむしろの上で生活をしている。
お徳はそんな旅芸人の中で菊之助が磨かれて行っているのをしっかり見抜いていた。
五年目、大阪で江戸での仲間、中村福助と親戚筋である中村芝翫と出会う。すっかり変わり果てた菊之助を見て何とか大阪の舞台に立たせたいと座頭に福助は頼む。悩んだ末、座頭は寺島家の血筋のためと大役をつける。
実はお徳が土下座してきっと立派にやり遂げますと頼んでもいた。そして自分は身を引き菊之助を寺島家にお返ししますと。そうとは知らずお徳のためと菊之助は名演技をする。それからはほろほろと悲愛の村松梢風原作の世界となっていく。
香川照之という東大出の凄い役者がいる。
実はスーパー歌舞伎を生んだ革命児市川猿之助と女優浜木錦子の間に出来た子であるが父と母は離婚、以来45年父子の関係を絶っていた。複雑な愛憎劇の中、父は脳梗塞で倒れ大きな後遺症を抱える身となる。
血は争えない。香川照之は45歳にして歌舞伎に挑戦する事となる。その名は市川中車である。
きっと父を超える革命的な舞台を生み出すであろう事は確かだ。現在の人間国宝、七代目尾上菊五郎も凄い。
娘寺島しのぶはフランス人の大男との結婚を許し、自らも緋牡丹お龍の藤純子と一緒になった。
そして新しい舞台ではなんとレディーガガをイメージしたコスチュームで空中に舞う。
いつまでも同じではいけないんだとインタビューに応えていた。
正に「序・破・急」の心だ。
型から入り破る、そして新しい型を生む。是非観に行く。我々にも血筋がある。名門もあれば無名もある。
どんな血筋も全てオリジナルな血統書付きな事は確かだ。自らの血筋に誇りを持ち日々精進を心掛けねばならない。
2011年10月4日火曜日
「一路君がんばれ」
朝っぱらから草鞋のようなモーニングステーキ、スクランブルエッグ、ベーコン焼、チーズハンバーガー、ホットドック、フライドポテト、ピザ、フライドチキン、アイスクリーム、パフェケーキ、コカコーラ、コカイン、LSD、スピード、アルコール、バイオレンス、フリーセックス。
破滅、壊滅、破綻、そして破産国家へ。
ご飯、味噌汁、海苔、納豆、干物、漬物、生玉子、おひたし、酢の物、ご飯、卵焼き、野菜の煮っころがし。
不安、不満、不信、そして破産国家へ。
前者はアメリカ合衆国。後者は勿論日本国だ。
何故か両国共に侵略戦争、介入戦争、次に開始したのは経済戦争だ。
全ての道はローマに通じるではないが両国共に全ての道は金儲けに通じる道をひたすら走り続けて来た。
その結果アメリカは格下げ、日本は更に更に格下げられてしまった。
思想なき国、哲学なき国、信じるものはただ金という精神不安定国家。
自殺、人殺し、親殺し、子殺し、妻殺し、夫殺し。地震、津波、洪水、山崩れ、放射能。
二十一世紀に疎開などという言葉に出会うとは誰が思っていただろうか。
アメリカ帝国は戦争と享楽と快楽主義の中で無惨な肥満体となり自壊した。
飲み過ぎ食べ過ぎ、夜になると元気を出し全てやりすぎ。
日本国は働いて、働きづくめで肉体を、心身を傷つけ、競争社会の中で自壊したのであった。
「働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」啄木。
通勤疲れ、仕事疲れ、リストラ疲れ、就活疲れ、介護疲れ、経営疲れ。もうどうしようもない疲れる話ばかり。
そんな中で私の会社に居た人間から一枚のFAXが入った。
第一子誕生、命名は真実一路から「一路」君としたとか。ただし8ヶ月の早産、体重は1200gであったと、母子共に元気だと。
何かすーっと体中から疲れが抜けた。五十歳になってからの子供だから喜びもひとしおだ。
私の兄も同じ8ヶ月で800gであった。人一倍丈夫に育ったから心配はいらない。
いい名前だ。「おめでとう」のFAXを送った。翌朝家に電話があった。
ありがとうございます、うれしいです。子供と妻の為に頑張りますと。
そうだ命掛けで頑張れ、辛いだ、しんどいだ、疲れたなんていってる場合でないのだ。
わずか1200gの赤ちゃんが一生懸命生きているんだ。
国滅びて山河ありといったが、国滅びても希望の命ありだ。たくましく育て、この国を救ってくれ「一路」君よ。
真実という言葉はもう死語の様な言葉になってしまったのか。
いい言葉を思い出させてくれた。
2011年10月3日月曜日
「運動会と老人ホーム」
十月一日(土)孫の運動会であった。
海辺の小学校であり、最近出来た立派な校舎である。
三日間風邪で夢遊病者の様であったがリレーの選手になったから来てねと言っていた。
愚妻は船橋の方の運動会に行っていた。交代制で観戦である。四日ぶりに外に出ると足許が定かでなかった。
その日、皮肉である人生の交代劇を見た。
初めて行った新校舎は正に海の隣である。そしてその隣が老人ホームである。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんと元気な運動着の子供達がお弁当や飲み物、果物、お菓子を両手一杯にバッグや袋に詰めて持って運動場に向かう。元気いっぱいだ。
青空の爽やかな空に万国旗が揺れていた。紅白の旗が何本も揺れていた。
私は八時四十五分頃ふらつく足で校舎の入口に着くと左側に丸い大きなテラスの部屋があり、そこに何人もお年寄りが朝食を終えて日向ぼっこをしていた。皆さんただ口を開けじーっと外を見ている。無表情、無感情である。
目の前を通る元気な子供達との対比がとてもつらいものであった。きっと自分たちも子供の頃、かけっこ、縄引き、玉入れ、ダンス等を楽しみ、紅勝て、白勝てと大声をあげ、昼にはみんなで一緒に美味しいお弁当を食べたであろう。長い人生のゴールに向かってただじーっと時が経つのを待っている。
十月二日(日)朝刊にある老作家の本の広告が載っていた。本の名は「死にたい老人」であった。老作家はもう自分はこれ以上生きていても仕方ないと「断食死」を選んでそれに挑んだ。その結果は・・・・・・・・・。
一日目 いよいよ実行開始。
六日目 空腹に慣れる。
十一日目 生と死の六合目を見た感じがする。
十三日目 テレビでドーナツやパンを見ると辛い。
十四日目 脳の機能が衰えたのか、継続的に読む事ができない。
十七日目 コンビニで誘惑に負けてホットケーキを買ってしまう。
二十日目 午後になりガクンと体力が落ちる。
二十三日目 胃痛に耐えられず掛かり付け医に行く。
二十五日目 東日本大震災発生。
二十九日目 口の中が異常に乾く。
三十日目 原発への興味が抑えられない。
三十二日目 胃の痛みさえなければ、恍惚状態。
三十三日目 尿意があるのに尿が出ない。
三十六日目 起きるのも辛いのに、地震への興味高まる。
三十八日目 一度目の断食挫折。
と続き、終いには強烈な死への恐怖が、そして決死の二度目の断食に挑戦。
その結果は私も買って読んでないので分からない。
この老作家は八十三歳現役であり、自分の意志があるだけいいのではないかと思った。
ガラス越しの老人達は多く、運動場で走り回る子供の数は驚くほど少ない。広いグランドにひと固まりの子供達、その子達が明るく強く逞しく、わんぱくにおてんばに育ってもらう事を願うしかない。
2011年9月29日木曜日
「愛は危険でもある」
あの二人は間違いなく出来ている。
そういわれるのは深夜に焼肉を一緒に食べるケースとか相手の食べ残しを自然に食べるケースといわれる。
お互い焼肉の煙の染み込みも、ニンニクの口臭も、人が一度箸をつけたのも許し合っているからとか。
あなたと朝一緒の歯ブラシで歯を磨く関係になりたいわ。なんていう古典的表現もある。
更にあなたが使ったカミソリで私の顔も少しあたったの。なんていうセリフがある。
さて、私の前に一人の肝臓癌の権威ある教授がいる。
教授いわくとんでもない、肝炎ウイルスは1に性交渉、2にファッションタトゥーやピアス、3に歯ブラシや血の付いたカミソリ。今欧米型の新しいC型肝炎やB型肝炎が日本で流行しはじめている。
ウイルスは体の外に出てしまうと死んでしまうがそうでないケースは深く静かに潜伏してやがて恐ろしい肝臓癌になってしまうケースがあるから気をつけて下さい。なんて駅の側のお寿司屋さんで日本酒を飲みながらポツポツ語る。
そうだ板前さんも包丁とか刃物を使用するから気をつけなよなんていう。
店の主人達の手がピタッと止まるのは必然的であった。
今頃は小学生の高学年からすでに性交渉をしている国家的問題なんだけどなぁーとお寿司をつまむ。
焼肉屋さんに行くと最近はお箸は厳禁、全てトングで掴んで焼く。
肝臓にいいんでないのとお客さんに支持されていたレバ刺しはメニューになしユッケなし。
藤沢の彫師もこの頃は随分とファッションタトゥーが減ってしまったと電動の針をブンブン回転させていた。
メモが貼られている。○○さん色入れ、○×さんスジ彫り、○△さんボカシ等。○○会、○○組、○○連合とあるが稼ぎが減ってしまったのか仕上げに来ないのだという。連絡しても生きてんだか分からないとか。
あの人は塀の中に入ってしまったとか。博打で負け追い込まれ逆に前払い金を返してくれなんていうケースもあるらしい。
何で私がそこに行ったか、実はある4文字を彫ろうと思って前金を払っていたのだが少々気が変わり相談に行ったのだ。
で、そんな話を教授と偶然お寿司屋さんで会い話をしたのであった。
私には佐賀出身のとても腕のいい、人のいい、性格のいい先生が一週間に一回見えてハリとお灸とマッサージに来てくれる。
誠にありがたい人なのだ。佐賀出身の「ハナワ」にソックリな三児のパパだ。今のハリは一回ずつ使い捨てなので100%安全。
食べて飲んでゴロゴロして肥えた女性がなんと30㎏と35㎏とか100㎏に太った体を細くする為に死ぬほどの努力、お前いつまでそんな体だったら一緒に歩かない、浮気もする、別れるからなと凄まれる。
目から涙がポトポト流れる。
付き合っていた頃の体重に戻したら又、朝一緒の歯ブラシで歯を磨いていいと巨大な体を屈してたのむ。
おから、コンニャク、もやし、キャベツ、ウォーキング、プールでスイミング。ひたすら頑張るのでした。
苦節を重ね見事101㎏の体重は56.5㎏になりました。
教授はそんな無理なダイエットは内臓がボロボロになります、素人の考えでやってはいけません。
ちゃんと肥満外来に行く事です。それにしても教授よく食べますね、いいんです私はもう恋も愛もないただの食欲の固まりだから。体重なんて四十歳過ぎた時から計ってないから分からないけど70〜80㎏あるんじゃないかな。
すいませんいつもの太巻き二本持って帰りたいのでお願いしますだって。
奥さんにですかと聞いたら、自分の夜食にだって。君ねえ、食欲も愛もデンジャラスだからいいんだよ。
2011年9月28日水曜日
「熱いから赤いへ思い出話を少し」
武田鉄矢さんを見るたびに思い出す人がいる。
その人の名は種田誠二さん。
かつて東急グループ系の広告代理店東急エージェンシーの制作チームのチーム長のクリエイティブディレクターであった。
今から三十数年前であった。アメリカで広告の制作づくりを学んで来た種田誠二さんは太い葉巻をくゆらせながらブルーの眼鏡で現れ初めてであった。私より二歳上であった。
独特と言う人は多い業界だが中でも独特であった。
弁が立ちプレゼンテーションが抜群にうまかったそうだ。
私は私がプレゼンする場合は勿論行くが、人がプレゼンをするのなら私はまず行かない。
私の義兄が一昨年まで監査役をしていた会社に「東洋水産」がある。その創業者であった、森和夫さんが亡くなった。
79歳であった。静岡県の田子村(現・西伊豆町)で生まれた。
森和夫さんは軍隊に入り終戦間近にノモニハンでロシアの戦車隊(通称赤いきつねといった)と戦った。
ある日、種田誠二さんからあるプレゼンを一緒にしようと頼まれた。それは当時電通でやっていた「マルちゃんのキツネそば」であった。渥美清さんをキャラクターに起用していた。渥美清さんは業界では担当殺しと言われていた。
商品を持たない、食べない、商品名を言わないからだ。
スポンサーは担当に高いギャラを払っているのに何だ、どうしたしっかりしろ、駄目なら変えるぞとなり、コダックやハナマルキ味噌を担当した友人は渥美さんの躁鬱と付き合い、躁の時は時間をかまわず延々と何時間も電話、さらにいつもの指定のフランス料理店で延々と打合せとなる。鬱の時は当然何事もない無言状態となる。
で、話を戻すとその頃「どん兵衛」が山城新伍さんと川谷拓三さんを使い落語の世界の様な縁台コントで大人気となっていた。で、東洋水産は数社の代理店にコンペを発注した。種田誠二さんは当時絶好調であった。
二人で受付嬢が一服する地下の部屋でヒソヒソと打合せを続けた。
で、腹を決めパッケージは「真っ赤」にだけ、熱湯5分というので「熱いきつね」というネーミングにして文字を入れた筆文字はサントリーの仕事をしていた(今でもサントリー烏龍茶を書いている)木之内厚司さんに頼んだ。そして当時売り出し始めた武田鉄矢さんとおていさんこと沢村貞子さんのコンビを考えた。しかし沢村貞子さんは出演NG,武田鉄矢さん一人で勝負となった。種田誠二さんの頭は冴えに冴えていった。私も又、若く熱湯のようになっていた。
プレゼンは種田誠二さんが一気に取ってきてしまった。
ゼッコーチョーであった。その後種田誠二さんはどんどん大きなプレゼンを取りまくる。
赤坂スタジオでドラム缶半分位撮影用に色づけしたまずい(本物はうまい)のを食べてもらった。
その時は「赤いきつね」であった。なんでネガティブなロシアの戦車隊の名、「赤いきつね」になったか、それは森和夫社長がノモンハンで赤いきつねと戦ったからなのだ。「戦車が恐くて赤いきつねが食えるか」という言葉はそこから生まれ実際に戦車を使って撮影をした。種田誠二さんまさにゼッコーチョー。私はいろいろ勉強をさせてもらった。
その後三橋美智也を使った「ワンタンメン激メン」とか、焼きそば「バコーン」へと進んで行った。
種田誠二さんゼッコーチョーであった。今は退社されご自分で会社を経営している様だ。
先日私が行ったイベントにも来てくれた様だった。会いたかった。
このままだと東洋水産は武田鉄矢さんを死ぬまで使って行くだろう。そういうマナーの会社だから。
すると種田誠二さんも私もあの世で「赤いきつね」を食べている時下界で未だ武田鉄矢さんが出ているはずだ。
ある週刊誌の「墓碑銘」というコラムで森和夫社長(死亡時は相談役)の記事を読んで妙に若かりし頃が懐かしくなった。
月日が流れていた。魚肉ソーセージづくりから一代で現在の大会社に育てた人生は熱湯の様であり「人生劇場」や「人間の条件」の様でもある。主人公梶の様にヒューマニストであり意志の強い人であったのであろう。
今日の昼は「赤いきつね」ライス&魚肉ソーセージだな。決定!