新藤兼人監督百歳がその生涯を終えた。
反戦、反骨、反体制を貫いた稀有の映画人であった。
映画人としてはすでに何をか語らんである。
はじめて「裸の島」を観たのは確か東京都内を走る中央線荻窪駅近くにある“新東宝”であったと思う。
座席は石の長椅子であった。五人位が一緒に座れる。夏は通路に氷などが置かれた。真冬には練炭を七輪に入れたオジサンがいた。広いが暗く、寒く、臭い。
十五歳の頃だった。
当時新東宝はヒット作を連発していた。荻窪には大映、東映、日活、東宝、そして外国映画のスター座が勢揃いしていた。十四歳の時「第五福竜丸」を観て原爆の恐さを知った。小学生の頃だったか「綴り方教室」を学校教育の一つとして観た。
これ程涙があるのかという位泣いた。同じ位泣いたのは松本清張原作「砂の器」だ。野村芳太郎監督の名作だ。新宿ミラノ座の通路で泣いて、泣いて、泣きじゃくった。
また同じ位泣いたのは愛犬が目の前で車にはねられた時だ。
あまりに泣く私を見て愚妻は、「あなたも泣くのね」なんていいやがった。
男は人前で泣くんじゃネエなんていっていたのだが。
片親で育ち父親を知らない私は、母と子、父と子の映画は涙の泉となってしまう。
だから泣きそうな映画は必ず一人で行く。三益愛子主演の「日本の母」これも泣けた。
長男やその嫁、長女やその夫などに冷たくされた母親はとある施設の前でバッタリと倒れる、大雪の日に。やがて思想犯(だったと思う)で入獄していた末っ子が帰ってきて、兄姉をなじる。
「バカ、バカ、バカヤロー、お母さんは僕がちゃんと見る、お前たちとはもう縁切りだ。」と、ソウダ、ソウダ(末っ子は確か宇津井健だった?)ともう涙、涙だ。
あれも、これも新東宝は涙の歴史。新宿ミラノ座は涙の大洪水の場であった。
さて「裸の島」である。全編セリフなし。
友達と観に行っていて、おい、映写機が壊れてんじゃないの、声が聞こえないよ。それでも殿山泰司と乙羽信子はただひたすら働く。オイ、オイ、声が聞こえないよ、という。お前ちょっと映写室行ってこいよ。手に持った酢昆布とあんずを食べてもいつもの味がしない。酢昆布の白い粉が学生服のズボンに白い点と線を作る。
私がいつか自分の手で映画を作りたい、そう決意したのがこの「裸の島」であった。館内が明るくなった。
側にいたオジサンにこの映画壊れていなかった、声が出なかったけどと聞けば、オジサン、これはセリフのない映画なんだよと教えてくれた。なんでだかよく分からないがいい映画なんだという事は分かった。
今でもよくこの「裸の島」を観る。きっと生ある限り見続けるだろう。百歳の宝物に合掌。
ここ数年で観た映画で泣いたのは、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」だ。これも母と子の物語だ。それ以来一本もない。