広告が社会的メッセージを発した作品があった。
当時電通にいた藤岡和賀夫さんが手がけた富士ゼロックスの広告だった。
一人の男が白い紙にメッセージを書いたものを持ち、銀座の街を歩く。そこには「ビューティフル」と書かれていた。Na(ナレーション)が入る。
「ビューティフル、開放、ビューティフル、尊厳、ビューティフル、健康、ビューティフル、希望、ビューティフル、人間」。
四十五年前モーレツに働く社会に「モーレツからビューティフル」にとメッセージを送った。富士ゼロックスの広告はアメリカ的であり、挑戦的であった。
私は大きな影響を受けた。いつか超えてやると思ったが名作の足元にも及ばなかった。
先日八十七歳で亡くなった、と記事で知った。
街の中を歩いていた男はフォーク・クルセダーズのメンバーだった天才、加藤和彦さんであった。加藤和彦さんは自ら命を断った。
天才であるが故に苦悩も凡人とは違ったものだったのであろう。
広告の本場アメリカとかイギリスにはメッセージアド(意見広告)とかチャレンジアド(挑戦的広告)、コンパリゾンアド(比較広告)とか、その広告の役目を明快にした作品が多い。今、藤岡和賀夫さんならどんなメッセージアドを発したであろうか。
中原中也が書き出しに使った言葉、「汚れちまった悲しみに 今日も……」
私たちは今日も「……」のことばかり考えている。
それはビューティフルではない。「……」の部分に何を書き入れるかは人それぞれだ。
わずか15秒、30秒、長くて60秒のCMの中で、いかなる文豪たちも到達できなかった作品があった。
天才仲畑貴志氏は、ソニーのビデオカセットテープのCMでこんな名コピーを書いた。
高校野球を応援するチアガールたち。そこにNaが入る。
「黄色い歓声の黄色ってどんな黄色だろう」「真っ赤な情熱の真っ赤って、どんな真っ赤だろう」わずか15秒の中で目に見えない色をあざやかに言葉で見せてくれた。
夏の高校野球の予選が最終戦になって来た。
決勝を勝ち抜いた高校が続々と名乗りを上げれば、あと一試合だという高校もある。
一球に笑い、一球に泣く。勝利の女神は何を基準に決めているのだろうか。
血と汗と涙の結晶である青春の青とはどんな青色なのだろうか。
俳句の巨人、金子兜太さんが書いた「アベ政治を許すな」のプラカードを持った人々の輪がモーレツに広がっている。それはまるで現代アートを見ているようであり、ビューティフルだ。「汚れちまった……」がジワジワと追い詰められて来た。
坂道を転げはじめた石が止まったことは歴史上ない。メッセージの時代が来たのだ。