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2022年4月24日日曜日

つれづれ雑草「眼を閉じる魚類とは」

どんづまり、どんづまり、売るべき物はなにもない。難民の男の恋人は国境を離れて他国へ行ってしまった。金もないしビザもない。シリア人の恋人に会いたいが、殺戮が繰り返されている中東シリアである。そんな男に目をつけたのが一人の現代アーティストだった。その芸術家は男にじぶんの作品をつくらせてくれと言う。そのために体を提供してほしいと言う。芸術家が男に求めたのは男の背中であった。背中にタトゥーを入れそれを作品にしたいということであった。どんづまりの男はじぶんの皮膚を売ることで大金と自由を求めることに同意する。芸術家が男の背中に入れたタトゥーは、パスポートである。“VISAビザ”のデザインであった。何日もかけて芸術家は男の背中一面にパスポートを入れた。そして男はロダンの“考える人”のようなポーズをして美術展に展示される。生きている芸術作品は話題を呼びやがてオークションにかけられる。会場はどよめき価格がどんどん高くなりついには500万ユーロとなる。生きている人間は果して芸術か、それとも見世物か。美術館の真ん中に展示され、スポットライトをあびる男は、やがて精神に異常をきたし始める。難民という既知の事実の上に成り立つ稀有な芸術作品としての人工的価値に関心を寄せる人々の、人間と世界に対する無関心と冷淡な本質を浮かび上がらせる。チュニジアの映画(合作)「皮膚を売った男」は現在ロシアがウクライナに侵攻している中、逃げるに逃げられないウクライナの人々の現状と重ね合わせると、背中が痛む。この作品を生んだ監督は、ベルギーの現代アーティスト、ヴィム・デルボアのアート作品にインスパイアされたとラストに文字が出る。きっとこれに近いような芸術作品があるのだ。愛は国境を越えるというが、さてどうなったかはご想像にまかせることとする。どんづまりになっても人間には売れるものがあることを知った。タトゥーとは刺青のこと、ヤクザ者は“モンモン”とか“ガマン”という。激痛をじっとガマンすることからそういう。映画をつくるためなら体のどこを売ってもいいが、傷だらけの人生、私の体では売る個所はない。全身刺青を入れた男が言った。どこがいちばん痛いかというと、おしりの穴のところだとか。油汗でぐっしょりとなると言った。この頃ではファッションタトゥーが流行っていて、若い男女が好き好きに入れるがあとになって消したいと思ってもかんたんではない。火傷のように残るから気をつけてほしいと思っている。思春期の子を持つ親の方は特に気をつけてほしいものだ。「ジョー・ベル 心の旅」という映画がよかった。そして悲しかった。実話である。高校生の男の子を持つ親子がアメリカのオレゴン州にいた。弟が一人いる。二人とも美男子であった。ある日、兄が父と母に僕はゲイなんだと告白する。父と母は言葉を失う。さらに学校で酷いいじめにあっていると告げる。学校の対応は日本も米国も同じで教師たちは責任逃がれをする。そして愛する息子は自殺してしまう。父と母と弟は悲しみに沈む。やがて父ジョー・ベルは徒歩でニューヨークを目指す。町を訪ねながらゲイへの差別とイジメをみんなでなくそうと訴えて歩きつづける。その行為はネット上で評判となり行く先々でジョー・ベルは人を集める。小さな荷物を引きずりながら歩く。寄付してくれる人も多くなりジョー・ベルの話に多くの人々が聞きいる。人間はストレートばかりじゃないんだと。だがジョー・ベルに待っていたのは悲惨な最後だった。広大な荒野の中、長い一本道を歩いている時、トラックにはねられて死んでしまう。映画のラストに実際のジョー・ベルの写真が出る。親子四人幸せそうな写真に胸を打たれた。思春期の子を持つ親の人々にぜひ見てほしい。ゲイで悩む高校生はどんづまりだったのだ。人口1500人、インドネシア・ラマレラ村、インフラもなく作物も育たない。ここに住む人々の命の支えは鯨漁だ。年間10頭のマッコウクジラを獲れば、村人全員が生きていけるのだ。石川梵監督は2017~2019年の3年間かけてこの村を撮り、鯨漁を追った。漁法は原始的である。銛(もり)を持った男がマッコウクジラめがけて飛び込み体当たりで銛を刺す。村民にとって鯨は神さまであるが、生きる源でもある。村民総出で引き上げられた鯨をそれぞれに分配する。石川梵さんは30年かけて村人たちと信頼関係を生んだ。分配する部位は400年の歴史を守って行なわれる。すばらしい映画の題名は「くじらびと」。魚類の中で死んでゆくとき眼を閉じるのは鯨だけだと教えられた。ガキの頃給食で小さな鯨の立田揚げが出ると大よろこびだった。今でも好きだがこの映画を見てしばらくは鯨のベーコン、立田揚げ、缶詰は控えようと思っている。文明は進化しているが、人間は退化しているのだ。戦争で大儲けする不純な金持ちという鯨に、銛を持って体当たりして仕止め、解体しなければならない。ロシアという名のクジラも同じだ。ウクライナの製鉄所の地下で、どんづまり状態にある人々を救うことはできないのだろうか。3本の映画を見終わって朝となった。(文中敬称略)



2022年4月16日土曜日

つれづれ雑草「不覚にも」

 ホーホケキョ、ホーケキョと大きな鳴き声がした。だがやけに大きく、やけに数多い。外に出ると公園で、近所の子どもがおもちゃの笛を吹いていた。それでもなんだか良い気分になった。奥多摩の山の中を歩いてパンパンになっていた足腰だが、スポーツの感動でそれを忘れた。交通事故で片足切断か、あるいは再起不能かと言われていた、アメリカのプロゴルフのスーパースター、タイガー・ウッズがオーガスタのティーグランドに立った。少し足を引きずりながら現われると、大喚声が空をも割らんばかりに突き上がった。ヒーローを待っていたのだ。私は不覚にも涙を流した。で、4日間深夜から朝まで見つづけた。タイガー・ウッズは見事予選を通過して4日間プレイをした。ボクシングはやっぱりキング・オブ・スポーツだ。私が最も尊敬する世界ミドル級チャンピオン(元WBC世界ミドル級王者、現IBF・IBO世界ミドル級王者)カザフスタンのGGGことゲンナジー・ゴロフキンとWBA世界ミドル級チャンピオン、日本の村田諒太選手がさいたまスーパーアリーナで、統一世界チャンピオンの座をかけて激突した。前日計量で両選手リミットピッタリの72.5kでパスした。ボクサーは体重との闘いでもある。きっと両選手とも80k位から72.5kに落とすために、想像を絶する練習をこなし、水分を摂らずひたすら、減量したはずだ。最後には一グラムも落ちなくなる。40歳になったゴロフキンだがやはり強かった。日本中のスポーツファンがこのビックマッチに熱狂した。村田諒太選手も強かった。他の選手なら殺されていたかも知れない。9R強烈なパンチを受けた村田諒太選手がリングにガクッとひざをついた。ここが限界と見たセコンドが、白いタオルを持ってリングに上った。TKO負けだ。ゴロフキン選手の大ファンであったが、村田選手のファンでもあった。リングに上がる時、そして敗者となった時、村田諒太選手がグローブで十字をきった。クリスチャンになったのだろうかと思った。変形した顔だが長いインタビューにしっかりと応え、無事リングを下りれることを神様に感謝したいと言った時、不覚にも涙を流した。ボクシングの世界では左は世界を制すという格言がある。右利きのボクサーの場合の左ジャブ、左ストレートの大事さをいう。ゴロフキンはその左がすばらしかった。昨日夜九時過ぎ甲子園球場は、阪神タイガースが日本一になったような大興奮の渦となった。応援歌六甲おろしが高らかに響いた。マスクをした大観衆は泣きながら相手をした拍手をした。やっと阪神が2勝目を巨人を破って勝ち取ったのだ。4対1であった。私はBSで途中から見ていたのだが、逆転ホームランを打った佐藤輝明選手が、試合後のヒーローインタビューで、最高です! と言った時、不覚にも涙を流してしまった。阪神タイガース2勝15敗1分。あきらめるなこれからだ。20歳の若者が劇画のようなことをした。完全試合達成だ。な、なんと27人の打者から19奪三振。13人連続三振、プロ初完封が完全試合であった。最速164kの直球と150kに近いフォークボールが落ちる。その豪球を一球も落球することなくナイスキャッチングしたのが、高卒のプロ一年目18歳の捕手だった。これは実にすごいことであった投手の名は佐々木朗希選手、3・11の津波で親や叔父さんを失った。108球目がミットに入った時、不覚にも涙を流してしまった。捕手の名は松川虎生選手。神様なんかいるはずはないと思っていたが、スポーツの神様はいるのではと思った。金曜日ひっそりとした仕事場で、敬愛する某大学の教授から送っていただいた、青い表紙の聖書を読んだ。これをすべて読むためには数年はかかるなと思った。死刑囚の多くは聖書を読み終えるという。永山則夫という十代の死刑囚は、貧困で学校に行けず文字の読み書きもできなかったが、長い刑期の中で読書を重ね、ベストセラーになった本を書いた。無知の涙だったと思う。刑は執行されたが著作は生きつづけている。聖書を読んだかどうかは分からない。愚妻がホッケがあったから買ってきたわと言った。いいねホッケと食べたのだが、北海道で食べるホッケとは味が違った。札幌に佐藤水産という有名な海産問屋さんがあるが、ロシア産のものが最高に旨い。きっと輸入ができず難儀しているはずだ。一人殺せば殺人者、100万人殺せば英雄だというが、ロシアの独裁者はどんな末路となるのだろうか。神様はどんなシナリオを用意しているのだろうか。教師や警察官の破廉恥な所業が続出する。盗撮やロリコン、下着ドロボーに性行為。さらに覚醒剤などおぞましい。交番の中で警察官の男女がSEXをしまくっていたなんて、お巡りさんにいいつけるぞだ。園子温という映画監督が女優さんにやってはイケナイことをやっていた。シオンという名は聖書の中にあった気がする。洗礼を受けているのかも知れない。デビュー時は天才的なものを感じたが、映画を愛する者としては許されざる者だ。スポーツに感動した一週間であったが、全体的にはスカッとしない。本物のホーホケキョが待ち遠しい。(文中敬称略)




2022年4月10日日曜日

つれづれ雑草「乾いた街」

ちょっと気を抜くと机の上の植物は、へなへなとうなだれる。ごめん、ごめんと水をあげると、へなっていた植物の葉はむくむくと生きかえり、老年が青年になったようになる。長引くコロナ禍の中で私たちの生活はへなへなになってしまった。その上、水がない。水をくれる国のシステムがない。給付金というなみだ金があるが、これらはいままでしこたま税金を払っているので貰ってあたりまえである。過日市役所の納税係の女性から電話があった。固定資産税46800円が納められてませんから納めてください、書類を送ってあるはずですが、うん届いていたよ、支払わないと差し押さえするというのも届いたよ、だからぜひ差し押えに来てよ、何を差し押さえると46800円になるのか見てみたいからと言ったよ、でも来なかった。ぜひ来てちょうだい待ってますからと言った。それになんで午後8時なんて時間に電話するのと言った。その時間が納税者の方がいちばんいらっしゃるのでと言った。とにかく来てよ待ってますからと言って電話を切った。数日後封書が届きそこにでっかい文字で差し押え通知書と書いてあるものが届いた。嫌な茶色の封筒だった。私はああ又かと封を開けずに置いておいた。一度ぜひ差し押えを見てみたかった。きっとテーブル50円とか、椅子10円とか値をつけ赤紙を貼るだろうと期待した。が役所は来なかった。2週間後位に又嫌な茶色の封筒が届いた。そこには、ぶっとい文字で、差し押え済通知とか書いてあった。封を切ってみると私の少ない銀行預金を差し押えたと書いてあった。通知先に電話をすると、私に関する預金関係を全部調べて実行しましたと言った。差し押えにぜひ来てくださいと言ったじゃないのと言った。人のものを全部調べるなんて許されるの、もっとも財産なんて何にもないからいいけどねと言った。すると中年の男に電話が変わって、あ~もしもしこの度は〇╳〇╳〇╳〇╳という法律により、預金を差し押えました。だったら最初からそう言いなよ、差し押えに来るというから、ぜひ来てとお願いしたのに、封書の無駄づかいだよ。で、愚妻に後日銀行に行ってとたのんで通帳を見たら、差押と残り少ない数字のところに印字されていた。バカヤローと思った。差し押えに来たらお茶菓子でも出そうと思っていたのに。銀座の街を歩くと、水を失った花のように生気がない。銀座百店という有名なタウン誌があるが、そこに載っているはずの店が、コロナの影響でいくつか閉めていた。水を失った植物でも、植物の生命力はしたたかに強い。地球が滅びても植物は生き残るといわれている。銀座の水は何んであったかと考えると、中国人客であった。コロナ前銀座は中国人客で洪水のようであった。その水のおかげで異常繁殖した植物群のように、銀座の街は満開の花となり、こんな狭い所にホテルかよと思う小さなホテルも建てられていた。がそれらのホテルもなくなっている。銀座は乾いた街になってしまった。へなへなにへたっている大好きな銀座の姿と、そのウインドウに映っている自分の姿がやけにダブって見えた。長生きしすぎたのは予定外であった。水をくれ、水をくれとジャングルの中で声をしぼり出す、旧日本兵の姿が見えた。(昨夜「野火」という旧日本兵の映画を見た)夜の銀座にはすっかりごぶさたしている。夜の蝶たちの水といえばお客さんだ。今ではスマホやケータイを二つも三つも持って、きっと来てね、絶対ね、と和服姿で声を発しているママさんやホステスさんの姿がなつかしい。赤い灯、青い灯がなつかしい。差し押えますよと言った市役所の女性の声がなつかしい。今度はきっと家に来て赤紙をペタペタ貼ってほしい。46800円になるほどのモノはないはずだから。ちなみに日本国の国民のタンス預金は1000兆円だとか。桜は見る間もなく散っている。 春をながめる余裕もなく 夏をのりきる力もなく……泉谷しげるの名曲春夏秋冬を歌っている。春の海は強い風を楽しむように大きく波立っている。むかし古川ロッパという名コメディアンがいたが、コロナ禍も六波となり、七波に向っている。(文中敬称略)



2022年4月2日土曜日

つれづれ雑草「賛成と反対」

「暴力は最後の理性である」こう言った賢人は誰だったか忘れてしまった。否いなかったか、インテリヤクザの親分だったかも知れない。過日アメリカのアカデミー賞授賞式で、主演男優賞を見事受賞した、ウィル・スミスが自分の妻の脱毛症に対する侮辱だとして、司会者のコメディアンを平手打ちした。映画..ジェーンに引っかけてジョークを飛ばした。脱毛したウィル・スミスの妻のヘアースタイルをGIカット(軍人のヘアー)みたいだねと言ったのだ。私は思う、私だったらきっと頭突き一発、パンチ数発、蹴り二発位は入れただろう。そして受賞を返上して、一年程留置所入りだ。決して許されないのが暴力行為だが、一家一族、一門の人間、まして親や兄弟姉妹、女房子どもが大衆の面前で笑いの種にされたら、へらへらしている場合ではない。世が世でもし武士社会の日本であったら、果し合いを申し込んで恥を晴らすか、その場で斬り殺して、腹を切っただろう。もしそうしなかったら、恥辱を晴らさない弱腰として、閉門蟄居の上一族断絶とされただろう。私は思う。いつからかこの国は、何もかもがヘラヘラ社会となってしまった。例えば自分の上司が、部下が取引き先から、バカだアホだと言われても、泣く子とスポンサーにはかなわないと、ヘラヘラ笑って帰る。例えば自分の子がコケにされ、親の顔が見たい、お里がしれるなんて言われて帰って来ても、仕方ない我慢だ、あの家の方が学歴が高く、一流会社の役員だ、ウチは安月給のペーペーだからなと。私は武士道を札讃しているのではない。友人、知人、先輩、後輩、あるいは自分の会社の社員が、いかにスポンサー、クライアントだろうと、そこまで言われることはないという場合は、怒りを表現して恥をかかせたことへの対価を払わせねばならないと思い、ずっとそうして来た。怒らない人間にはヘラヘラ歯を出して笑ってんじゃないと怒った。私の後輩の女性に自慢の男がいた。長身で美男、空手をやっていた。一緒に歩いていれば人もうらやむ二人だった。が、ある夜、会社の飲み会があり、二次会へと向かった。夜の新宿である。美男美女のカップルに、不良たちが声をかけ、女性の手を一人の男が引っぱった。会社の仲間も七人いた。引っぱられた女性は自慢の彼氏の名を呼んだ。だがその彼氏がとった行動は、仲間にヤバイよ、警察を呼ぼうよであった。ズルズル逃げ腰だった。やめろよと言って、不良の手から女性を守ったのは、飲み会の中みんなから、いちばんモテない男と言われていた小柄な男だった。不良たちはその男の殺気に気負されて、その場から去った。結婚間近といわれていた。美男と美女は、一緒にならなかった。女性の方から弱虫の男はサイテーとなったのだ。空手は使ってはいけないんだと言い訳をしたそうだが、お坊ちゃんの黒帯だったのだ。空手を使わなくても、体を張って守る気力を女性は感じたかったのだ。その姿勢を見せた、小柄な男の株はグンと上がったのはいうまでもない、カッコいい人になったのだ。この話と同じような事はいくらでもある。ウィル・スミスをアカデミー協会は脱会させるとか言っているらしい。本人は暴力はいけなかったと謝罪している。ハリウッドに暴力はいらない! なんて会員たちは言っているが、ハリウッド映画の殆どは暴力肯定の映画だ。この矛盾に対して論議しなければならない。ジョークを飛ばしたコメディアンのセンスに対してもだ。大衆の面前で、オイハゲ、イエ~イ、次もいいハゲの役待ってるぜ、ユーのワイフに円型のハゲがある、これ以上悩ますなよ。イエ~イ。なんて言われたら、ヘラヘラ笑ってられないはずだ。日本のサラリーマンよもっと理不尽に対して怒れよと言いたい。朝、昼、夕方までは、何を言われてもナメクジみたいにちぢまっている人間に限って、夜、酒が入る程に元気一杯となる。俺はよ、やるときはやる、言う時は言うぜ、知ってんだろ、ウィッ、ヒクッとしながら、あいつなんて目じゃないよ、俺はよォ、ウィッ、ヒクッとでかい声を出す。そしてカラオケに行くと、もう絶好調だ。次の日の朝、あいつと言っていた上司に、又酒臭いな、キミは本当に使えないね。なんて言われて青菜に塩みたいになって夜を待つのだ。アナタ、昨夜どこで寝たの、帰って来ないなら電話してよ、まさか公園のベンチかなんかじゃないでしょうね。ち、ち、違うよ、◯╳君が深酒しちゃって、仕方ないからカプセルホテルに泊ったんだよ。なんて電話で人のせいにするのだ。私は、ウィル・スミスの平手打ちに大賛成、謝罪には大反対。女房をオチョクラれて黙っていられるか。アバヨアカデミーが正解だな。3031日奥多摩に取材に行って来た。花粉症は最高潮で、鼻はグズグズ、目はショボショボ、クシャミを連発しながらも、いろんな人と会って来た。長い長い石段の上の神社に行った。ヤマトタケルノミコトは、この御嶽の山の中で狼に命をたすけられたという伝説がある。男は女性を守る狼でなくてはならない。(文中敬称略)




2022年3月26日土曜日

つれづれ雑草「天敵ブタ草」

 花はどこへ行ったの……。という反戦歌がある。私ははどうなっちゃったの……。という花粉症になっている。友よ答えは風の中に舞っている……。という反戦歌がある。友よスギ、ヒノキは風の中を舞って、私の鼻の中に目の中に舞い込んでいる。戦争を知らない子どもたち……。という反戦歌がある。ブタ草の恐ろしさを知らなかった私の鼻の中に、目の中にその恐ろしさが入り、ブタ草と戦争状態だ。私は完全に集中力を失った。ブタ草、スギ、ヒノキが私の花粉症の最大の敵と分かった。くしゃみ一発ルル3錠なんていうCMがあったが、くしゃみ一発から花粉症は拡大する。列車の中で一発を突然やったら、隣りに座っていたオジサンのおしりがビョコンと上がった。ビックリしたのだ。ある女性が好きだった男が嫌いになったと言った。その原因は、SEXをしている最中に男が思いっ切りでっかいくしゃみをしたのだ。そのいきおいで合体していた体と体は、別離した。男は鼻からしょぼしょぼと鼻水をたらしていた。その間抜けた姿と、我が身の恥ずかしさに、このヒトとは別れようと決めたとか。原因はその夜、部屋の中をゴージャスにしようと、たくさんのユリの花を飾っていた。愛しはじめた男は、ユリの花が発する強烈な臭いが大敵であった。ユリ花粉症だったのだ。そうして男と女は別れた。やってられないのが原因だった。ちなみにあるアンケートによると、女性が嫌いな男は、いきなり大きなくしゃみをする奴、というのが第一位だった。ビックリしたなあもう嫌! となるからだ。私は目がかゆくなり、こすると目の中は小石が入ったようにゴロゴロとする。そしてしゃぼくれまくる。鼻の中からは終りなきがごとく鼻水が出る。下を向くとボタボタとなるので、運動会で使うハチマキのようにした布で鼻をしばるのだ。こんな姿は人に見せられないのだ。一週間前はそんな状態だったので休筆した。現在、本当は服用したくない(医師からは止められている)コンタックの強力なやつを服用している。他にナザールというスプレー式の点鼻薬を一日数回使用している。私の住んでいるところには、鎌倉山周辺のスギ花粉が飛散して、私の住むところに集結するらしい。何故か今年は酷い。列車の中で何人か、ビックリしたなあと飛び上がらせている。ファ、ファ、ファ、ファックションとなる。北朝鮮からはICBMが飛んで来た。あと200キロ位長く飛んでいたら、青森、秋田などは、ビックリしたなあもうどころでなく、全滅しているかも知れない。北朝鮮の裏で中国から、ミサイル開発のための資金がバンバン入っているはずだ。ロシアのプーチンはもう後がない。SNSの時代に古い戦略と戦術で攻めても勝てない。タレント出身のウクライナの大統領は、SNSの使い方が上手い。世界を味方にする。タレントとは才能という意味だ。世界から軍資金や武器弾薬を集めている。プーチンの作戦は、旧ソ連流の数と力で押すだけで、無能で無差別だ。この地球上にあるどの国にも必ずチャイナタウンがある。華僑が世界中の情報を持っている。それは巨大なクモの巣のように広がり、繋がっている。祖国のない民だったユダヤ人が、世界中に広がって、世界中の情報を手にしてきたのと同じだ。プーチンの命は習近平次第だと思う。習近平が見切りをつけたら終りとなるだろう。中国と組んだロシアンマフィアは世界最恐だ。ニュース番組を見ていると、テレビ局というのはどの局も、コメンテーターに同じ人間を起用する。オリジナリティがない。コロナの時は白鷗大学教授の岡田晴恵さんが、各局で引っぱりだこ。ロシア vs ウクライナになると、慶応大学教授の廣瀬陽子さんが出ずっぱりだ。テレビ局にプライドがなくなったのだ。各局、金太郎飴みたいに同じコメンテーターが出てくるのだ。この頃、政権べったりの政治評論家田崎史郎がまったく出てこない。実は下手を打った(失敗をした)のだ。ある野党政治家にメールをしたら、絶対に秘密を守らねばならない、政界、官界、マスコミ、ネタ元などの名が全員に一斉メールされてしまったのだ。その数約300人という。これにて信用大失墜となり、出番がなくなっている。今頃はきっと大きなくしゃみをしているだろう。田崎はもう終りだなという噂に。春はウララだが、気分は鼻づまりだ。スキッとしない。仕方ない今日もコンタックを服用する。NATO加盟国は30だが、中国一国のために動きを抑えられている。気がつけば地球サイズのクモの巣をつくっているのだ。週末はヤッパ(短刀)を持って、ブタ草刈りをしようかと思っている。がブタ草に逆襲されて鼻づまりで泣きが入って、泪ボロボロかも知れない。25日3回目のワクチンを打った。先生はコロナはまだまだ続く、長い付き合いとなるとのことであった。遅ればせながら話題の作品「ドライブ・マイ・カー」を観た。私には長くて退屈な映画だった。取ってつけたような話を、不自然に足し算をしていた。それが狙いだったのだろうか。村上春樹原作の映画に成功作はない。同じ監督の作品「偶然と想像」の方が格段にいいと思った。濱口竜介監督は天才であることは間違いない。私はブタ草をテーマに短編映画をつくりたい(文中敬称略)





2022年3月19日土曜日

花粉症でダウン

 昨日からの激烈な花粉症で、残念ながら本日は休筆致します。
また近いうちにアップしたいと思います。皆様も体調に気をつけてください。

2022年3月12日土曜日

つれづれ雑草「人の心の中……」

総体重からマイナス40k減量したその人は、現在90kだった。長い人生をやって来て、これほどいい人は世の中にいるだろうか、という人は、正直それほど多くはいない。人間には表と裏があるのが、実は正しい。すごくいい人だと思っていたのに、とか。裏表のない偉い人だと思っていたのに、とか。自分の都合と合わなくなったり、自分の要求に応えてくれなくなったりとかすると、評価を一変させるのが、人間という自分都合主義の生き物である。あれだけやってあげたのに、これだけしかしてくれないと見返りを求める。小さな親切、大きな迷惑という言葉は、こんな人間の心を表わしている。淋しい心の持ち主は、それを癒すために親切をするのだが、何かしらの反応がないと(例えば御礼の品とか、礼状とか、この頃ではメールとか)いい人だと思った人は、恐い人に変わる。130kあったいい人がマイナス40kになっても、いい人の心はもとの130kと同じで、やっぱりいい人のままであった。週末前日、私は多摩市の聖蹟桜ヶ丘というところに行った。130kあった人に会うために。何年ぶりかでお会いすると、炭水化物を徹底的に食べないようにしたら、みるみる減量に成功していると言った。私が糖尿病になったのと聞くと、決してそうではなく、ある手術をしたのを機会に一大決心をして、減量作戦を立て、数年かけて現在90kになっていた。鉄道関係のその人に、相談することがあった。体をユッサユッサしていた130kの頃と違って、フットワークは軽やかだった。うれしいほど相変わらず親切で、いい人であり、繊細で、細心で、斬新であった。たくさんの提案をいただいた。あと20k減量をするんだとか言って笑った。学習院大学卒で、私とはエライ違いの、偉い人の家筋である。話すほど私のこころが狭いことに気付いて、反省しきりであった。昨日3月11日は、11年前の悪夢の日であった。原発の恐怖を全国民が知ったのに、再稼働とか新設せよとかの声が大になっている。過日40年近くおつき合いをさせていただいている、風力発電関係の会長さんとお会いした。この方はフライ級位の体を、毎日ジムに行って保っている。闘志の人、戦う人、ファイティング原田みたいな人である。国家を相手に闘っている。私にとっては雲の上の人。でも実に心やさしい。敬虔なクリスチャンでもあるので、私ごとき者でもお会いしてくれる。日本は風力発電を必要として、原発は必要としない。島国イギリスは、風力発電に全力をかけている。島国日本もそうでなくてはならない。初めてお会いした時は、近寄りがたき人であったが、夢とロマン、国家百年の計を持っていた。今も火の玉のように熱い心を持っている。大事業の成功を祈るのだ。ウラジミール、ウラジミールと、オフェリア、オフェリアみたいに言い寄ったのは、安倍晋三元総理だが、そのウラジミール・プーチンは、あろうことか原発に向って攻撃を命じている。国民が一致団結してゲリラ化したら、いかなる大国もそれを制することはできない。今、ロシア兵は俺たちは何のために侵略しているのか、と思っているはずだ。大義なき戦いだからだ。有名な広島のヤクザ戦争、仁義なき戦いにも、全国制覇を狙う、大組織を広島には入れない、という大義があった。ロシアは自国の兵士を多数殺すと、国内が統治できなくなるので、シリアなどからの傭兵を投入すると作戦変更している。私は織田信長を殺した張本人は、豊臣秀吉であって、それを裏で動かしていたのは、堺の商人や博多の商人だと思っている。明智光秀はうまいことのせられてしまったのだろう。プーチンの目が泳いでいるのは、身の危険を感じているからだろう。ロシアにいる大富豪たちは、もう次を考えているはずだ。それにしても日本の政治家たちは、どこで何をしているのだろう。全くその存在を感じない。とりわけ野党は、何の運動も発信もしていない。世界とつながっていないのだ。韓国の大統領選の投票率は70%以上、その理由は投票日を休日にしているのだ。それも連休がとれない水曜日と決めている。日本も国政選挙の投票日を水曜日にして休日にすればいい。選挙の年は無くてもいい旗日を一つ減らせばいいのだ。この国はアタマを使わない国なのだと思う。14日は誰が決めたかホワイトデーだ。バレンタインデーでウキウキさせてもらった人は、キッチリお返しをしないと、ブラックマンデーになってしまう。女性の心は決して寛大ではない。義理を欠いては生きてはいけない。チョコとしたミスが、命取りになる。それほど女性は恐ろしいのだ。女はそれを許さないそんな映画があった気がする。板チョコ痛チョコにならないように。



2022年3月5日土曜日

つれづれ雑草「いないかね俠客」

きのうの夕刊、ある新聞広告の見出し。マスク越しの声もよく聞こえる「高性能集音器」、猫背・補正、肩スッキリ、腰スッキリ、背筋ピーン「背中サポートベルト」、股下が選べる「ジャージスーツ」、首を伸ばしてスッキリ「製首ストレッチャー」、巻いて安心、脱腸サポータ「腸あんしん」、その夜、男の元気「すっぽん顆粒」。「近頃、独自の人生観を持たない日本人が多くなったという。若者はその日その日の充実感が得られたら、それでよしとする。中年になると保身と利益を重視して、生きていくというだけの、現実を優先させる。初老の人々は、趣味を大事にして、うるおいとゆとりある生活を望み、自然に情緒を求める。さらに年老いると、ひたすら健康と長寿を願うようになる。こうした傾向が強まったことから、日本人は確固たる人生観を持たなくなったのだそうだ。」(笹沢左保)私の頭の中のイメージでは、ロシアのプーチン大統領が、ロシアの大富豪たちの雇った殺し屋、あるいは軍人たちに、ハチの巣のように撃ち殺される姿が浮かぶ。日本はかつて中国に殴り込みをかけて、満州国をつくってしまった。アジア諸国でやりたい放題の悪業を重ねた。80年ほど前である。イギリス、フランス、オランダ、スペイン、アメリカなどは世界中で悪業の限りをした。ロシアは救いがたい事をしているが、欧米列強のしてきた事は、ロシア、中国、北朝鮮などに意見を言う資格はない。先住民の皆殺し、軍事介入、侵略、占領植民地化。もし言うならば、演説のはじめにまず自分たちの過去の過ちを認めた上で、してもらわねばならない。世界は未だに総括をしていない。脱腸状態で腸あんしんと言えない。ロシアの暴挙で、テレビはコロナ関係のニュースはサブとなり、ロシア一色、ウクライナ一色となっている。当然岸田内閣はオレたちはついているとなる。ルビコン川を渡ったプーチンは、もう後戻りできない。カサエル(シーザー)は結局元老院に殺される。ブルータスお前もか、とメッタ刺しとなる。賢者は歴史に学び、愚者は今に学ぶという。(むかしのことなんか知ったこっちゃない。今さえよければいいんだよ)いつまでもあると思うな親と金というが、人間という生き物は、自分だけは違うと思っている。一度は絶対死ぬのに、いつまでも生きたいと願う。100歳の老人が三度目のワクチンを細い腕に注射してもらって、これで安心して長生きできますと言う。嫁はその横に立ち苦笑する。朝おどろくほどどっさり「便秘改善薬」とか、骨盤矯正開脚180度「整体院」なんてものもある。ある人に合う靴も、別の人には窮屈であるという。人生、人それぞれ。あらゆるケースに適用する人生の秘訣はないという。「目、目を見ず、指、指をささず」誰でも自分の事はよく分からないものである。私などはその見本だ。赤紙一枚で戦場に行くと、気のいい肉屋さんも、やさしい魚屋さんも、たのしい学校の先生も、凶悪な殺人犯となってしまう。戦争は絶対にしてはいけない。腸かなしいことになってしまう。昭和の時代この国はカーキ色の軍服を着た国だった。安倍晋三元総理が、核を持ち込んだっていいではないか、論議に値すると言った。どこまでも脱腸的なのだ。深夜故工藤栄一監督の名作、東映製作の「十一人の侍」を見た。正統派時代劇の教科書のようなすばらしい映画だ。ずっとむかしの作品だから、天下無双の剣士も、武士の鑑も、お殿様もお姫さまも、奥方さまも、みんな故人となっている。しかし映画は不滅だ。みんな映画の中で生き続けている。その後、故溝口健二監督の不朽の名作雨月物語を見た。世界中の監督たちが、溝口健二監督を徹底的に学んでいる。何度見てもすばらしい映画だ。後日語ることにする。背中が痛い。「背中サポートベルト」の広告を読む。深呼吸をするために窓をあけた。明け方に見る梅の花は、もうすぐ春ですよと言っていた。これから故伊藤大輔監督の「大江戸五人男」を見る。主演は大ファンであった故阪東妻三郎だ。幡随院長兵衛を演じる。俠客は江戸の大スターだった。いないのかなあ命を張ってプーチンを止める世界を舞台の大俠客は。(文中敬称略)




2022年2月26日土曜日

つれづれ雑草「情念の女性」

前回書いた、アンドレイ・タルコフスキーの作品「ノスタルジア」の中で訂正すべきことと、より詳しくすることがありそれを記す。ノスタルジアとはNOSTALGHIAが原題である。又この作品がタルコフスキーの遺作と書いたが、正しくは「サクリファイス」が遺作であった。「ノスタルジア」は本来病名であった。(私は病んだ国と解釈した)遠征軍の兵士が懐郷の思いに駆られて戦闘業務に支障をきたすような事態。自らの源泉から遥かに離れてしまい、そこに帰れなくなってしまった者――その人間が苦しまなければ死に至る病気、これこそがこの映画で描いた「ノスタルジア NOSTALGHIA」であると言う。(解説・池澤夏樹)戦争と平和はコインの表と裏と書いたが、独裁者と化したプーチン大統領は戦争を選んだ。戦争が長期化すると兵士はノスタルジアという病になる。プーチンはロシアそのものが病んでいることを戦争によって証明した。国民に向って戦争開始を宣言したプーチン、その顔は自信に満ちたものでなく、不安に満ちていた。私はその目が誰かに似ていると思った。それは世に伝わる織田信長の目だ。狂気は不安と背中合わせであって、行動を狂わせる。いつの世の独裁者も誰も信じることができなくなり、何もかも焼き尽くすことによって、心の安定を得る。疑い深い怪物となり滅びる。それは必ず側近、身内などの反乱、裏切りに会う。秦の治皇帝、ローマの帝国のシーザー、織田信長、ナポレオン、毛沢東、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニなどなどみんな極度の不安神経症であったはずだ。毛沢東は周恩来あっての自分だという事が分かっていたから、末期の癌に冒されていた周恩来を治療に専念させることなく、死ぬまで側から離さなかった。不安神経症の独裁者は、当然不安神経症の部下ばかりに囲まれる。殺られる前に殺るとなり、多くの明智光秀やブルータスを生む。これは今の世の中も同じだ。人類の歴史、人間の歴史とは、群れを生みはじめた時から、食べ物の奪い合い、土地の奪い合い、権力の奪い合いの歴史だ。紀元前数千年前から今の世まで続いている、戰、侵略、混交、新たな人種の誕生、そして又、戰、侵略、混交を繰り返す。人類そして人間の歴史は混血の歴史でもある。世界各国民族はそうして誕生した。ロシア人の人には申し訳ないが、そのむかし日本人はロシア兵のことをロスケと言って嫌った。それはズル賢くて、汚い手を使う侵略者だった。中国人は日本兵のことをと言ったのと同じだ。「戦争と平和」をトルストイが書き、「罪と罰」をドストエフスキーが書いたのは、それを生む国だったからだ。最後のロシア皇帝は、一族もろとも殺されて亡んだ。プーチンは何を恐れているのか、それは自分自身だろう。我が日本国は戦争と平和なんて関係ないとばかり、相変わらずバラエティやバスの路線旅や、クイズ番組、食べ物番組のたれ流しだ。予算委員会で野党の蓮舫氏から、岸田総理、こんなことよりロシア侵攻、国家安全保障会議の方がと言われて、えっ、あっそうとなり、それじゃこれにて流会となった。まるでマンガの世界だった。久々に篠田正浩監督の映画「鑓(やり)の権三」を見た。近松門左衛門作であるから、心中とか情念の果ての悲しい結末となる。戦のない太平の世、武士たちは自慢の武芸も発揮できない。鑓の権三とは、の使い手であり美丈夫で、若侍の間でもひと際目立っていた。格式ある武家の一族がいた。美しい女性と娘二人息子が一人いた。主人は江戸に勤めに行っていた。親戚筋から年頃の長女への嫁入り話があった。その相手は鑓の権三であった。美しい母親は茶道や催事における諸事作法を教える一門であった。鑓の権三は催事の取り仕切りを命じられ、古来から伝わる作法を、美しい母親へ習いに来た。夜のことである。一門に伝わる巻き物を読み聞かしながら、美しい母親は、娘と等しきほどの若侍に、日頃からの熱い想いを語り、鑓の権三にせめて一度だけと迫る。情の深い女性は一度火がついたらもう後には戻らない。鑓の権三は拒みつづける。二人は組んずほぐれずとなる。障子に映る二人の影を見てしまう男がいる。かねてより娘に想いを持っていて、その夜忍び込んでいたのだ。そこで見た影の動き、庭に投げ捨てられた帯を取ると、不義密通ありと申し出る。一家一門は閉門となる。何もなかった二人だが、逃げて、逃げて、いよいよ金も無くなり刀まで売る。江戸から帰った一家の主人は、不義密通の二人を討つべく、義兄と共に二人を探す。殺さねば一家一門の恥が晴らせない。逃げ疲れた二人はある日一度抱き合う。そして遂に京の橋の上で……。鑓の権三を若き郷ひろみ、情念の女性を岩下志麻が演じる。男と女も、行きつく先は、戦争と平和である。但し近松物に平和はない。(文中敬称略)




2022年2月19日土曜日

つれづれ雑草「わかるかなあ~」

先年亡くなったロシアの大巨匠に「アンドレイ・タルコフスキー」という人がいる。大作家トルストイやドストエフスキーに並び称される人だ。その監督の遺作に「ノスタルジア」という作品がある。タルコフスキーは難解を極める監督で有名であり、水の表現をする。カンヌ国際映画祭の受賞常連者で、「ノスタルジア」もこの作品の創造における審査員特別大賞を受賞している。ノスタルジアとは帰りたくても帰れない故郷(タルコフスキーは亡命していた)であり、病んでいる国と同意義でもある。つまりタルコフスキーの帰りたい故郷ロシアは、病んでいて帰れないのだ。この長編の映画のラストは息をするのも忘れるほど、圧倒的なメッセージ性に満ちている。現在ロシア vs NATO=アメリカの一触即発の戦争状態、又、その先が見えない人類に対して、一人の敬けんなクリスチャンは、民衆に向って大演説をする。そして全身にガソリンをかけて焼身する。つれづれなるままにその演説を、映画を見ながら、止めては書き、止めては書いたのでそれを書く。「語りかけるのは誰か、私の頭脳と肉体は、同時に生きられない。だから一個の人格にはなりえない。私は同時に無限のものを感じることができる。我々の時代の不幸は、偉大な人間になれないことだ。我々の心は影に覆われている。無意味と思えることにも耳を傾けよう。例えば排水溝のことや、学校の壁や、アスファルト、奉仕活動に忙しい人や、虫の声にも耳を貸そう。我々の視覚と聴覚、そのすべてで感じることが、我々の大いなる夢の始まりなのだ。だれかが叫ぶべきだ。ピラミッドを作ろうではないか。重要なのは完成ではない。願いを持続することなのだ。我々はあらゆる意味で、魂を広げるべきだ。まるで無限に広がるシーツのように。もし君たちが進歩を望むなら、一つに混じり合うことだ。健全な人も、病む人も、手を取り合うのだ。健全な人よ、あなたの健全が何になる。人類はすべてが崖っぷちに立っている。転落する運命にある。それを直視し、ともに食べ、眠る勇気がないなら、我々にとって、自由は何の役にも立てない。いわゆる健全な人が世界を動かし、破滅に直面する。人間よ! 従うのだ! 君の中の火に、そして灰に、灰の中の骨に、骨と灰に。私はどこに存在するのだろう。現実にも空想にも存在しない。太陽が夜中に昇り、夏に雪が降れば、強者が滅びて、弱者が生き延びるだろう。混とんとした世界を統一するのだ。自然を観察すれば、人生は単純だとわかる。母よ、母よ、風は軽いものだ。私がほほえめば、風はそっと動く。原点に戻ろうではないか、単純な原点に。道を間違えた場所まで戻るのだ。愚かな人間よ、君たちがさげすむ、愚か者から、恥を知れとののしられる。さあ、ここで音楽を、巨大な像の横に組み立てられた演説台の上で、男は頭からガソリンをかけ、ライターで火をつけ、火だるまとなる」難解なタルコフスキーの、黙示録だ。わかるかな~、わかんねえだろうなあ。私は何度か見る内に少しわかって来た気がする。現在のウクライナ情勢、世界的なコロナウイルス禍、健全な人をプーチンなどの権力者に置きかえてみる。世界を動かしている、資本家に置きかえてみるのだ。「わかるかなあ~、わかんねえだろうなあ」で大人気を得た松鶴家千とせ師匠が亡くなった。八十四歳であった。CMに出演してもらったり、私の主催のパーティに、南州太郎師匠とともに出演してもらった。出演を依頼しにとある団地の公園に行った。アフロヘアーの中にちっちゃな目をパチクリして、何んで俺なの、わかんねえなと言った。俺が英語だった頃、弟は単語だった。妹は英文法で、母親はグラマーだった。わかるかなあ、わかんねぇだろうなあ……(?)。マアこんなかんじでと頼んだ。南州太郎さんは、私にとって神に近く、ただひとこと、おじゃましますでいいですと頼んだ。大巨匠タルコフスキーも、大師匠松鶴家千とせさんも、その存在は地球の財産だった。心より合掌する。死は分かりやすい。もう起きることはないのだ。となるだけだ。但し国の死は、そう簡単ではない。思考せよ、徹底的に思考せよ。オリンピックの裏で進んでいる世界情勢を。カーリングで床掃除をするのを見ながらでもいい。戦争と平和は、コインの裏表なのだ。