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2012年5月15日火曜日

「ローソク入れ」


一輪挿し

花瓶


深夜の楽しみといえば映画を観ながら本を読み、合間に落語を聞きながらチビチビ一杯飲む。
凄味はチーズとかハムとかソーセージ。時々鯖の水煮缶とかツナ缶もいい。
時々コンビーフとかクラッカーもいいし、時々さきイカとかスルメの細切りをジックリ味わうのもいい。
時々何にもなくただ飲むだけなのもいい。
お気に入りのバカラのグラスにあの娘訪ねてなんて思い出にひたるのもいい。
 酒と思い出ほど似合うものはない。

秋田で病院を経営している義兄が褒章を受けたのでその御祝いを買いに丸の内にあるバカラの本店に行った。
時計を見ると午前104318秒であった。
広い売り場にお客は私一人であった。

いつ見ても、何を触ってもバカラグラスはいい。
指でパチンと弾くとバカラしか出せない、いい音がカキーンと響く。
ギザギザの花瓶とギザギザの一輪挿しを買い求める。
 精算している間バカラグラスを手にしているとグラスの底に思い出がキラキラ光っていた。

目の前に大きな鏡があった。誰だそこに座っている人相の悪い男は。
グレーのスーツにハーレーダビットソンが描いてある。
アロハシャツと黒のベストを着ている男は、随分と歳をとったではないか。
思い出は振り返っても、もう思い出はつくれないか。いや、これからだぜといって鏡の男にいった。
そこには昔若かった私が居た。

細長い品をいいグラスだねといって口にする真似をしたらお客さんそれはローソク入れですといわれた。
知ったかぶりで何度恥をかいて来た事か。

2012年5月14日月曜日

「侠客」




もうどうにもこうにもやってられネェよ、何しろ俺たち渡世人(ヤクザ者とも云う)の仕事というか生きている証しといえば喧嘩と博打だからな。
キリストじゃあるまいし、右の頬を殴られたら左の頬を出せなんて訳にはいかない。

一度でも下手を打ったら(男を下げたら)渡世人として生きてはいけネェからな。
この頃じゃ半グレの方が俺たちよりハネてる(儲けている)し暴対法にも引っかからネエからやりたい放題だ。

と、電話の向こうで話をするのは男を売り物にしていた高校の頃よく遊んだ先輩だ。
近々稼業を辞めるという。まあ歳も歳だしその方がいいんじゃないのかなといった。
暴対法がじわじわ効いてきている。
男と男の勝負に命をかける男が居なくなるのは淋しいものだ。

中学を卒業する時に将来は何になりたいかというのを書かされた(生活指導の先生に)私は三州吉良の侠客、吉良常の様になる、と書いたらなんだ「吉良常」とは、といわれた。
先生尾崎士郎の「人生劇場」読んでないの?そこに出て来る吉良仁吉の流れを組む侠客だよといった。

何を考えてんだ君はといわれた。
話が通じそうもないので知らなきゃいいですよといってやった。
この生活指導に一度思い切り殴られた事があった。その積年の恨みを卒業間近の時に晴らした。理科の実験室の裏で生活指導はゴメン許せなどといって謝ったが時すでに遅しであった。母親が学校に呼び出されたのはその数日後だった。

やられたらやり返す。これは我々人間に与えられた等しき権利だ。
電話の向こうの先輩は奥さんの田舎に帰って果物とか野菜を作るらしい。
きっとウメエの作って送るからヨオといって電話を切った。
夏になったら一度いってみようと思う。とんでもない位喧嘩に強く、女性にモテた。
この人に男とはを教えてもらった。決して道を外さない筋を通す人だったがんばれ侠客。

2012年5月11日金曜日

「伝説の人」




ドン!ゴロゴロ!ピカッ!バリバリと天は割れた。
ザァーと雨が落ちてきた。

510日午後二時頃であった。
私は浦安に敬愛している友人、原田徹宅に居た。原田さんはCM界の伝説の演出家だ。
日本中は勿論、世界中の広告賞のグランプリを文字通り総ナメした。
その生み出す映像の世界は、時に美を極め、時には詩情に満ち、又時には壮大なスケールで歴史のロマンを造り出した。

受賞の数は三百を優に超え、未だ誰の追従も許さないでいる。
私はこの大演出家と三十余年あらゆる作品をご一緒させていただいた。
特にキリンビールのラベルに描かれている伝説の聖獣麒麟のロマンを追った作品はその名の通り伝説の作品として語り継がれている。ビール発祥の地エジプトからトルコ、タイ、中国、ネパールの山の中、そして日本へ。
シルクロードを舞台にCMではおよそ考えられない作品であった。

足かけ7年このシリーズは続いた。
私は当時第1企画のスーパープロデューサー&プランナー立花守満氏(抜群の人)とコンビを組んで、企画とコピーを参加させていただいた。数ある作品の中でもひと際愛着のある作品であった。
勿論あらゆる国内外の広告賞のグランプリを受賞した。

コンピューターグラフィックのない時代、全て実写であった。
原田徹はトレードマークの日本陸軍の軍帽を被りヨーイスタート、ハイカットを繰り返した。
一分一秒に命をかけたその人が、今一分一秒も止まぬ激痛と闘っている。

六十歳から七十歳になった十年は正に病魔とのデスマッチであった。
パーキンソン病他、これでもか、これでもかという病が津波の如く原田徹を襲った。
一日1833錠を毎日服用しているという。パーキンソン病で全く文字を書けなくなった時、リハビリのメニューにぬり絵があった。もともと金沢美大で油絵を学びその絵は見事であった。
先生やトレーナーたちが少しずつリハビリをしてくれた。

一ヶ月に一度か二度はどうですか?と電話を入れていた。そして私は原田徹にいった。
「原田さん、個展をやりましょう。私がキチンとプロデュースして実現しますから、それを目標に絵を描いて下さい」と。はじめは気乗りが薄かったが段々と絵描きの本性が現れて来た。

そして一枚、又一枚、ぬり絵、線画、水彩、そして油絵とすすんだ。
百人一首はなんとその長さ21メートル、源氏物語、平家物語は圧巻である。
なんと120号の油絵まで生まれていた。浦安の市民ホールのギャラリーを借りて実行する。

ガラゴロピカピカ光る空の下、原田邸で奥さん立ち合いの上打合せする。もうお互いに涙の物語だ。
「やりましたね」といえば、「やっとここまで来ました、絵を描く事でこんなにリハビリが出来るなんて」と奥さんはいう、「絵を描く様になったら一日一日本当に元気になりました」と。

杖をつきながら市民ホールへ一緒に行き、奥さんと、一緒に同行してくれたデスクの女性と会場の申込をしてもらった。
後は広い空間にどうディスプレイするかだ。空間デザイナーの友人に協力をお願いする。
浦安のホールから帰るため車に乗ると杖をついた原田さんと奥さんがずっと、ずっと手を振ってくれた。
豆粒みたいになるまで。

この凄絶なリハビリの歴史は原田さんのご家族、とりわけ奥さんの支える心、そして根気よく励まし導いてくれたお医者さん、看護師さん、精神面を支えてくれたカウンセラー、リハビリのトレーナーの方々の伝説だと思った。

やっぱり原田徹は凄かった。

麒麟伝説の第一弾、ナイル河篇のナレーションコピーは亡き杉浦直樹さんが読んでくれた。
ブースの中で杉浦直樹さんは泣いていた。
ナレーションコピーは次の様な言葉であった
 「遥か昔闘いに明け暮れた男たちは母なる河に永遠の優しさを求めた。それは明日への願いだった。角を持ち獅子のたて髪をなびかせ炎の翼を広げ伝説の麒麟は天を駆けた。一枚のラベルにもロマンがある。キリンビール」


皆さんビールの美味しい季節です、一番美味しいビールはキリンビールです。一杯いっぱい飲んで下さい。

2012年5月10日木曜日

「富士と住職とヘリコプター」


平和公園仏舎利塔


5月8()午後一時半頃御殿場にある平和公園にいた。
そこに巨大「仏舎利塔」がある。地元出身の三徳の会長堀内定良さんが私財を投じて開いたという。
インドのジャワハルラール・ネール元首相から贈られた仏舎利塔がある。海外から沢山の人が来る。

何故私はそこに居たかといえば、3.11で亡くなった方々を悼むモニュメントをアートディレクターの浅葉克己さんと鉄のアーティスト小谷中清さんと制作しているのだ。
東北に行きたくても行けない人々が日本の象徴である富士山を背景に一本のお線香を手向けるそのモニュメントを制作しているのです。

私が独立した42年前からお付き合いを頂いている日本一良質な羽毛布団を作っている「東洋羽毛」さんという会社があるのです。そこの宣伝・広報などを担当している太田えつ子次長(旧姓神谷さん)の実家が御殿場で、廣智山大乗寺という450年の歴史を持つお寺だと聞いていたので、当代の住職さん神谷高義様に会いに行ったのです。

大乗寺


神谷住職は太田さん、むかし神谷さんのお兄さんである。
三千坪の敷地の中に、江戸大工平内大隅(へいのうちおおすみ)の技を残す本堂がある。
「こんにちは〜」と私と小谷中さん、デスクの上原君。「いやーいらっしゃい」と住職さん。
私服なのでまるで住職さんでない。応接室には本格的コーヒーマシンがあり4種類も選べる。

で、エスプレッソをいただく。日本間、座布団、日本茶、和菓子を連想していたのでかなり意表をつかれた。
代官山のブティックのオーナーの様な美人で笑顔が印象的な奥方が来る。もしかしてお釈迦様の若い頃はこんな人ではなかったのではと思う位、実に佇まいのいい23歳の息子さん、住職さんの跡継ぎだ。


それじゃ色々見て回りますかとなり住職さんの運転するBMWに乗せていただく。
はじめに富士霊園を見る、次にここ十年程行ってないが仏舎利塔に行ってみようとなった。
その場所に行き、お線香をあげたりしていると空にヘリコプターがグルグル旋回して来た。
 住職さん「おっ○×さんだ」と手を振るではないか。ヘリは直ぐ上だ。

住職さん携帯をかける、なんでも先日このヘリで東京に行って来たとか(東京まで30分)「あのさ〜今家のえつ子の知り合いが×○□△の話で来てるのな」などと話す。そしてあの人は少年の頃とんでもない暴れん坊であったがここの上人さんに二年間預けられインドなどに行き修行をし実業家になったとか。大変な男だから是非会ってくださいとなった。


で、ヘリポートへ行くとヘリの側にその人と、その友人(仏舎利塔の取り仕切りの人)。
住職さん「どこ行ってたの」その人「下田まで寿司食べに行ってたんだよ」(ヘリで20分)とかなり会話がヘリコプター状態になって頭の中がクルクルしてきた。そこに地元の建設会社の人がその人に挨拶に来る。
そして電動の薪割り貸してくださいなどというではないか。その人「ああなんでも持ってけよ」と。ヘリの格納庫の中には色々ある様だ。その人コーヒーを勧めてくれる。

何しに来たのといわれたので、カクカクシカジカと応える。私と同じ年であった。
お互いに親不孝を重ねたので話はズンズン弾む。一時間、二時間おれもよぉ〜相当変わってっけどアンタも相当変わってんね、でもいい話だ、オレに出来る事があったら何でもするよ、あんた御殿場の変人会に入る?っていうから是非にと応える。ヘリ乗らないかいというから今度是非と応え、又、お会いすることを約し別れの途に着いた。車が見えなくなるまで手を振ってくれていた。

ブルージーンズに白いコットンシャツ、むかし石原裕次郎がやっていた様にシャツの下を縛っていた。
赤いリングシューズが中々に決まっていた。きっと喧嘩に明け暮れていたのだろう、目は鋭く手はゴツかった。
私には分かるのだ。ガッチリと握手したその手で男の歴史が。
小谷中さんは何から何まで奇跡的ですね、十年振りで行った処に偶然ヘリが飛んで来て手を振って色んな人達と会えるなんて。私は応えた、この頃ね奇跡的な事が私の回りで起きてるんだ、だからきっとこのプロジェクトは成功するよと。

神谷住職はもともとはアート指向であったとか、フランスに留学して学んだと聞いた。
どうりでアーティストの名が次々と出た訳だ。林の中にある「蕎林」のおそば。日本で初めてハム・ソーセージを作ったという「二の岡ハム」。和菓子「虎屋」のとらや工房、東山旧岸邸(岸信介)などなどを案内してくれた。


「オッなんだ」といい運転席から対向車線を走っている車に手を振るではないか。
「オーイ」なんて誰かと思えば息子さん。なんとこれから私が住む茅ヶ崎で檀家さんのお通夜があるとか。
いやはやこれ程充実していた一日はこの頃少ない。更に驚いた事に御殿場にカーマニアが集まる処がある。
そこには日本で有名なスーパーカーのコレクターがいるとか。そこに私がかつて一緒に仕事をしていた電通のクリエイティブディレクターがよく来るんだと。へぇーっといえばタイヤ4本取りに来る様にいっておいてくれなんてヘリのオーナー。

5月9日朝一枚の葉書を書いた。「御殿場でヘリコプターに乗っている怪人がタイヤ4本取りに来いって」と。

2012年5月9日水曜日

「あるチャーハン」



賄い(まかない)メシはお店の人たちが食べる自分たちの食事の事。

その日私は人形町のとある店に入った。ユニークなカツ丼が有名な定食屋風の店である。
歴史も古く洋食のはしりでもある。テレビや雑誌、新聞などでよく紹介される。

私と連れの二人で入ったのは午後1時を少し過ぎていた。
連れは有名なカツ丼を、私はミックスフライの様なものを頼んだ。
お店には小柄で元気で口達者のおばちゃん、これから寄り合いに出掛けるというおやじさんと厨房には息子さんだ。

私たちが入った時は4人掛けのテーブルに3組入っていたが、私たちが食べている頃は勘定を済ませて出ていった。
その頃私たちの隣のテーブルに一人のずんぐりとした男が座った。どうやら息子らしい。
厨房では賄いメシのチャーハンを作っていたらしく、それを一皿、二皿、三皿と盛って出した。
 私たちが未だ食べているのにおばさんと息子はそのチャーハンを食べ始めた。

 いつか友人の板前が云っていた言葉を思い出した。
ランチタイムの終わりの頃に来たイケスカナイお客、気に入らないお客、顔なじみでないイチゲンの客が入って来たら営業時間内でも賄いメシを食べてやるんだ、つまりはどうせテレビか新聞を見て来た客だろ、だからそれ程大切じゃないって事、あんたたちはウチにとってどうでもいいお客という事の意思表示なんだと。
 この気質は下町の店、特にグルメ情報なんかでチヤホヤされた店に多いらしい。

私は隣で賄いメシを食べ始めたおばちゃんにこう言った「おばちゃんそれ賄いメシだろ?旨そうだからちょっと味見させてくれる」と。鼻柱の強そうなおばちゃんは一瞬顔色を変えた。
なんて事言うんだいこのお客はと顔に描いてあった。息子らしき36歳位男はキョトンとした。

お客の前で自分の亭主の事をウスでノロマだなんてこれ見よがしにいうおばちゃん、私たちはお客だよ、その隣で賄いメシを食うとは嫌みだよ、それも営業時間内に。私は気に入らなくて結構だが私の連れに失礼だろうと思ったのだ。
折角私を連れて来てくれたのに。

幾らといったら2900円ですと、旨かったよチャーハンと付け加えた。
つまりテレビや新聞雑誌で提灯記事書かれて自惚れれてるなよ、食べた料理は全然フツーそこいらの定食屋の方が数倍旨いよという事だ。フライに着いていたキャベツなんてナッチャナイっていうの。
三段作りの変なカツ丼で有名な処、是非午後一時過ぎに行って見て下さい。 
145分を過ぎた頃賄いメシを食べ始めたらそれはきっとイケスカナイ客だなの意思表示です。
アレコレウルセイババアが一人います。

2012年5月7日月曜日

「ファクタとファクト」




「ひとたび悪事に手をつけたら、最後の仕事も悪の手にゆだねる事だ」シェークスピア「マクベス・第三幕 福田恒存訳」小沢一郎なる悪党が特捜なる悪党と戦った結果は勝負なし、相方黒星だったから。

一連の大マスコミ報道の中でただ一誌だけこの問題を冷静に書いていたのが「月刊誌ファクタ」だ。
あのオリンパス事件もこの雑誌が炙り出した。大磯の先生から勧められ購読を始めたのだ。

「ファクタ」では今年の二月二十六日にすでに小沢が無罪になると書いていた。
Why 何故、それはファクタは広告収入に頼っていないからスポンサーのバイアスがかからない、又、責任編集人の阿部重夫の軍団が五体を存分に使い徹底取材を重ね検証する。そして逃げも隠れも出来ないファクト(真実)を冷静に書く。

一歩間違うとホームから突き落とされたり、階段から突き落とされたり、一服盛られたりするのが当たり前の世界だ。
警察でハイ自殺です、で直葬されたりするケースの中に闇の力が動き真実を追っている人間を自殺に見たてるケースが今までゴマンとあるはずだ。その中で「ファクタ」は得難い雑誌だ。
全体の文章もばらつきがなく、よく書き上がっている。

情報協力者からや官僚からの密告待ち、リーク待ち、殆ど外部に外注しっ放し、五体をどっぷり悪の池に沈殿させてしまっている大マスコミの主筆、論説委員、解説委員たち。

例えば時事通信の田崎史郎、言葉も手も震えている(アル中か)、出て来ただけでこの世が真っ暗になる日経新聞の田勢康弘。もの凄くとか圧倒的にとか最大級の言葉を連発する役立たずの岸井成格は毎日新聞だ。
裏の裏は裏だったと裏ばかり語る後藤謙次。野球の解説者みたいになってしまった朝日新聞の星浩。
不潔極まりなく訳知り顔で語る政治“穴”リストこと伊藤惇夫。
テキ屋のオッサンみたいな政治評論家屋山太郎、競馬の予想屋よりも当たらない選挙予想の福岡政行教授、あのツルツル坊主の政治評論家三宅久之がテレビから引退した。

お前もらみんな身を引けといいたい。
何しろこの世の一番の悪なのだ。言論の自由は大切だが、言論のお買い上げ、言論の身売り、言論の放棄、言論の宿酔は国を滅ぼして来たのだ。「ファクタ」の記事には命がかかっている。生身の刀の様な凄味がある。

マクベスは悪事をした後幻聴に襲われた。
「もう眠りはないぞ!マクベス」大マスコミの連中が被災地で瓦礫一つ動かしている姿を見た人はいない。

ある日青山のコムデギャルソンで古館伊知朗が品定めをしていた。
きみたち報道ジャーナリスト?は枕を高くして眠ってはいけないのだ。
体制に組している一番の悪なのだからと、言ったか言わないか?

五月九日果たして無罪?となった悪人小沢一郎を検察に代わる弁護士は再び被告(控訴)に出来るか。
大地は怒り大竜巻を起こした。迷惑を受けるのはいつも市井の民だ。
連なる休みを終え、連なる明日へと向かう。

2012年4月27日金曜日

「ハシブトガラス」

ハシブトガラス
 


♪〜カラスのヤロー飛んでみな、トンビの間抜け目気をつけろバカなこの世のかんしゃく玉だぁ〜と歌ったのはマイトガイアキラこと小林旭、歌の題名は“ダイナマイトが150トン”150トンのダイナマイトでどれくらい凄いか想像もつかない。
 きっと作詞した人間もまるで分かっていないで書いたのだろう。

争いというやつで、カラスのヤローがとんでもない事をしてくれた。
せっかく抱卵をしている佐渡島の木の上のトキの卵をいとも簡単に取っていってしまったのだ。
あれだけほっトキなといったのに(サブー)。

ハシブトガラスだ(カラスではなくガラス)。
世の中にはこのガラスみたいに人の大切な物を簡単に取っていってしまう嫌な奴がいる。
 例えば大切にしている思い出、大切にしていた友情、大切にしていた想い人、などなど殺しても殺し足らない嫌な奴だといいながらふと鏡を見るとなんと自分自身ではないか。

想えば沢山の人々を傷つけて来たものだとつくづく想う今日この頃だ。
“あとの後悔先に立たず”それも役目の内と想っている。

昨年平塚の七夕様ですくって取ってきた小さな金魚がぐんと大きくなった、ずっと大切にしたからだ。
小さな鉢の中のハゼの気に芽が出て来た、ずっと大切にしてきたからだ。

小さな庭に小さな春が来た。
おっとガラスのヤローが隣の家の屋根の上に2羽、カワイイ金魚を捕られてなるものか。
ガラスは煮ても焼いても食えない嫌な奴だぜ。
ハシブトガラスのヤローザマーミロ、遂にトキが生まれたぞ。
そのトキが来たのだみんなでオメデトウのトキの声をあげよう。


ブログは連休につき、お休みいたします。
みなさんもよい連休をお過ごし下さい


2012年4月26日木曜日

「特殊なバカ」




遊んでばかりいると「遊び人」になる。
野球ばかりしていると「野球バカ」になる。

梶原一騎の名作マンガに「空手バカ一代」がある。
何事もその事ばかりしていると○△バカとか××バカとかいわれる。

ならば勉強ばかりしていると何になるかと孫に聞かれた。私の答えは本物のバカになるといった。
孫たちはよろこんで遊びに夢中になった。

幼、小、中、高、一貫校そして東大、そして高級官僚へ。
こういう人達は特殊な環境で育った特殊人間と見た方がほぼ間違いない。
勿論中にはあいつあんなにスポーツしてあんなに遊んでいるのになんで現役で東大へ等という超特殊人間もいる。
その特殊人間を銀座、赤坂、六本木、西麻布と夕方から朝方まで連れ回ると実に可愛い事に気付く。

ほとんどがマザコンだ。
姿、形、顔よりもオッパイが大好きなのだ。父は大嫌いで乳が大好きが多い。
なんでオレは勉強ばかりしていたんだ、お前はいいな、こんな楽しい夜を毎日送っているのか、オレと替われよなどといってオッパイバレー(胸の谷間)に顔を埋めてしまう。
よし、オレ歌うぞといって歌い出した曲は映画「人間の証明」の主題歌だった。
ママアイリメンバーと歌う我が友はとんでもない音痴なのであった。

2012年4月25日水曜日

「ライヴは戦場」


北野里沙さんのブログより


ビーナスがマイクを持って新宿三丁目のライヴ会場に現れるとどうなるか。
それはそこに居た人間にしかわからない。

東京音大声楽科卒26歳、身長は173㎝位、聞いてはいたがとにかく美しい姿から美しい声が聴く人の心の琴線を揺り動かす。ライヴ会場は50人位でギッシリだ。丸椅子が20程あっただろうか、座れない人は当然立って聞く、小さなカウンターがありドリンクを出していた。

その日は5人と一組がステージに立った。
お目当ての北野里沙さんは3番目、ライヴ会場の側で待機していたら所属事務所の社長と共に挨拶に来てくれた。
リハーサルが終わったからと。知人の広告代理店の社長に挨拶が終わると店を後にした。
元巨人軍投手、現役のボクシングチャンピオン、和歌山出身のエクボのかわゆい女性(23歳)と代理店関係の社長それと私。
所属事務所の社長は“とんぼ”で大ヒットを出した頃の長渕剛を手塩にかけていたとか、現在は大物シンガーの仕事をしているという。

6時に集合した我々は6時半頃から一杯飲み始めた。
ステージは7時50分からだと聞いた。

お刺身、焼き鳥一本、玉子焼、ポテトフライ、温野菜などガッツリと食べた。
クラシカルポップスというニューカテゴリーを聴く身にしては極めて不謹慎な事であったが、とても空腹であったのだ。
許したまえミロのビーナスと心の中でいっては食べた。

クラシックを地下のライヴで聴くなんて生まれて初めてであった。ライヴは何より歌手を育てる場所だ。
東急文化村オーチャードホール、サントリーホール、NHKホールなんかよりぐいぐいにいいのだ。

一曲、二曲、三曲歌い終わる度にライヴ会場独特の乾いて不調和な拍手が起きる。
三畳位のステージにはドラムとキーボードと電子ピアノだけ。薄暗い中に赤褐色のライトがデカダンな感じでぼんやり光っている。会場の人間の顔は暗くて誰が誰だか顔面不明だ。そんな中にビーナスの声は染みわたる。
ピアニストは多分音大あたりを優秀な成績で出た一流アーティストだろう、上品で上質だ。例えは悪いが上野の森にたむろしているホームレスの群れの中にビーナスが現れて歌っている、そんな感じだ。

北野里沙をネットで調べて下さい、きっと近々日本を代表する歌い手になるはずです。
最後に歌った曲は仙台の八軒中学校の合唱部が歌った“あすという日が”であった。

ライヴは生き残りをかけた戦場への第一歩、ビートルズが育ったのはリバプールの小さなライブからであった。
ボブディランはベトナム戦争の戦場であった、正に命を掛けたライヴであった。きっとベトコンたちも聴いていたのだろう。“いくつ鉋弾を撃ったら戦いは終わるの?”そして友よ答えは風の中に吹かれているんだと。

北野里沙さんを聴いていてボブディランのパートナーだったジョーンバエズの戦う心と気高さを感じた。
全身がノコギリの様にギザギザしてしまっているこの国、長引く経済戦争でヘトヘトになってしまっているこの国の民を救ってもらいたいと思った。そうだ早速作詞してみよう。

この国を救うのは決して経済ではない、それは言葉だ。クラシカルポップスの反戦歌だ。
もうお金を追うのはやめよう、愛こそ求めようと、人の心はお金では買えない。
答えは財布の中にはない。(でもやっぱり欲しいのだが?)

2012年4月24日火曜日

「詩人と死人」


東京拘置所


その男の体は不自由だが言葉は自由だ。

両方の足を引きずりヨタヨタとトボトボと歩く。
黒い羽毛服、黒いタートルネック、黒いジーンズそして黒い目出し帽、男の名は芥川賞作家辺見庸という。

この世には大別すると明るく楽しい陽気な分かり易い言葉の人間と、暗く重く陰気で難しい言葉の人間だ。辺見庸は後者だ。作家であり詩人でもある。

かつては記者であった。
目にするもの、耳にするもの、手にするもの、口にするもの、皮膚が記憶しているもの、脳の中に入り込み沈殿したもの又は脳の中は居心地が悪いと出ていった記憶を文字もしくは言葉という操り人形を使って表現する。

辺見庸はいまある死刑囚の俳句を一冊の本にして出版すべき事を行っている。
死刑囚の名は三菱重工爆破事件の大道寺将司だ。あの事件から40年が経っている。

あの日私は三菱重工広報室に打合せに行く予定になっていた。
爆破音は銀座の仕事場にも聞こえた。27歳の時であった。
三菱重工の知人たちが何人か大怪我をした。
大道寺将司の俳句を全て一冊の本にして出版すべく辺見庸は足を引きずり東京拘置所に通っている。

辺見庸は石巻で生まれ育った。
そこは辺見庸の記憶の風景を全て津波が持ち去っていた。
地震、津波、放射能、一切の言葉を受け付けない被災地の現状、辺見庸はそこに生と死を一日の内に必ず見る死刑囚を見たのだろうか。

五七五わずか17文字の中に人間という生き物が背負った業苦が見えるのだ。
亡き母に獄中から送った大道寺の手紙は一万通を超えるという。