私は「明日」である。私明日のことは、明日に聞いてみないと分からないと、古人は言う。石原裕次郎さんは、♪〜 明日は明日の風が吹くと歌った。名作「風と共に去りぬ」のラストシーンで、スカーレット・オハラは、夕陽の中の木に向かい、明日があるわと気丈に生きて行く覚悟をする。ある哲学者によると、私明日がさてどうなるかはコインを投げて、裏表で決めればいいのだと言ったとか。私明日にとって、明日は生涯初めて相手にする敵である。コロナウイルスという見えてない敵だ。「明日地球が滅ぶとも、今日リンゴの木を植える」確かそんなすばらしい言葉を遺した人がいる。私明日は佐賀県出身の人と交わりが多い。明治新政府の中で、大久保利通が、その頭脳の鋭さで徹底して正義を追求をする姿に、恐れを感じた。それは江藤新平初代司法卿である。大久保はいずれ目の上のタンコブとなると思い、正義感の強い江藤新平に、新政府内のデタラメぶりをリークして、“佐賀の乱”を起こさせた。佐賀県人は少々短気で、曲がったことを許さない。で、かなりプッツンして四方八方とぶつかる。佐賀鍋島藩はいち早く海外の近代兵器を取入れ、その強さは最強とも言われた。私明日は、日本の明日を見抜いていた佐賀人が好きである。武士道の教え「葉隠」を生んだ。その佐賀人の中で、「明日地球が滅ぶとも木を植える」、を実践している人を知った。五月三十一日(日)東京新聞朝刊で。その人の名は「鶴田正明」さん八十四歳。十年前から広葉樹を苗から育てて一本づつ植えた。その数は一万本を超える。「環境芸術の森」と名付けて約10年前から公開している。初代で造園業を始め全国大会で数々の賞に輝いた。高校球児だった愛息を病気で失った。十七歳であった。絶望感の中で、人と自然の関わりの重要さを強く感じた。木を植えることで、協力者に感謝の気持ちを示すことを思い立った。心の中で亡き息子さんと語り合っているのだろう。鶴田正明さんは購入した土地を少ない親族や支援者たちと、石を掘り起こし、木の苗を植え、恐れ果てた山を変えていったと言う。(新聞記事より抜粋)佐賀県唐津市の山の中腹でのドラマだ。私明日は明日のために、今できることをコツコツとやるしかないと思っている。自分にしかできないことを、自分でやりつづけるのだ。今日久々に東京へ出る。日本は世界一の森林国である。もっと、もっと山を、森を、そして木々を大切に育てなければ、また大洪水になるだろう。梅雨がはじまり雨の日が多くなるだろう。災害に見舞われると体育館などの避難場所に人が密集する。私明日はこの国の持っている宿命を見る。私明日と共に仕事をしている仲間に、新しい生命が誕生する。明るいことも、夢のようなこともたくさん生まれる。明日と言う字は“明るい日と書くのね”という歌もある。すでにオギャーと元気に生まれた命も、スクスクと育っている。赤ちゃんの泣き声と共に仕事をする職場があってもいい。小さな子どもがヨチヨチ歩き回る、そんな職場が明日なのだと、私明日は思う。
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