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2015年3月17日火曜日

「地球の水」






ある映画を見た。
功成り名を遂げた医師はウィスキーと睡眠薬を一緒に飲まないと眠れない。
メイドが一日の終りにその二つを飲むように渡して終わる。

老医師は悪夢にうなされる。日々うなされる。
夢はシューリアリズムの世界だから定められたものは一つもない。
一匹の蟻を殺したことが増大し怪獣となって襲われる。
一匹の蛙を捨てたことで、ブラックホールに吸い込まれて行く。
一羽の蝶の羽根を取ってしまったことで、砂漠に投げ捨てられる。

悪夢にうなされた人間がいちばん何を欲するか、Water(水)である。
アメリカで何人も人を殺した人間が死刑になる前に、何か欲しいものはないかといわれる。その答えは、死んだら生き返る、その時は一杯の水が欲しいと。
30人もの若い女性を殺した人間に最後に何がほしいかとの言葉に、31人目の若い女性が欲しいと答えたとか。そして水が一杯飲みたいと。

さてこの一杯の水は、極めて欲望的であり文学的であり哲学的である。
水とは、快楽の水であり、権力であり、凶器であり、性的欲望であり、殺人的行為である。 

315日(日)友人の写真家がある撮影を依頼された。
会費一人6000円、約4時間、男が女体を縛りに縛り、女は苦痛と共に絶頂に達すという。お客は息を殺し最大級の快楽を得る。
大会社の社長、医師、判事、検事、弁護士、一級建築士、公認会計士、一等航海士、高級官僚、代議士など社会的には名士が参加するという(いつも超満員とか)。
金も名誉も手にいれた人々にとって秘密の自分を人に見せることはできない。
それがまた快感なのだ。

汗びっしょりになって水を飲む姿は快感に満ちているという。
友人の写真家はその一部始終を撮る。
但し世の中に出ることはない。実は悪夢ほど正確なものはない。

この頃よく二つの夢を見る。一つは私と仲間を裏切った男と、私に礼節を失っている男。その二人が炎熱地獄で叫んでいる。水を一杯下さいと。
今、私はその水を二人に運んでいる。重い水はとても重い、早く持っていってあげたいのだが地獄の道は針の山で痛く、血の海はドロドロとして泳ぎ切れない。
熱い水がどんどん蒸発してしまう。早く持っていってあげねばならない。
可愛がっていた二匹の犬が来て私を必死に持ち上げようとしてくれている。

「純愛とは」



人生とはコインの裏表であることを日々知る。
北陸新幹線に沸いた先日、石川県は二つのニュースで盛り上がった。

一つは勿論東京から金沢まで一気に一時間半近く短縮されたこと。
いかに速く走るかの結果であった。

一つは石川県能美市出身の鈴木雄介(27)選手が競歩で1時間1636秒の世界記録を樹立した。陸上の五輪種目で日本選手が世界記録を出したのは2001年に高橋尚子選手が女子マラソンで世界記録を出して以来。
男子では1965年の重松森雄選手のマラソン世界以来50年ぶりとか。
いかに速く歩くかの結果であった。いかに速く走るかと、いかに速く歩くか。
それが同じ日、同じ県で記録となった。

♪〜夕焼けこやけの赤とんぼ 追われて来たのはいつの日しか…赤とんぼを愛し、自然を愛し続けていた東大卒の先生が教え子ともいえる女性を殺害してしまったとか。
会わずにいればよかった者同士が会ってしまうのが世の中だ。
赤とんぼはもう仲良く飛ぶことは出来ない。

一人は土に還り一人は刑務所の中に入ってしまう。
真実がいずれ分かってくるのだろうが、先生と教え子とは、宿命的に恋愛感情を交わす、そして終着駅が見えない運命線に向かって走りだす。
それは純愛であることが多いのだが、純愛には死の臭いが付いて離れない。
赤い血が似合うのだ。赤とんぼの研究者であったのも実に象徴的で。
塩からとんぼやオニヤンマではドラマは成立しない。
人間から発生する「愛」ほど血に飢えたものはない。

オーストラリアの原住民、アボリジニーは16歳になると荒野に一人放り出される。
そしていかに生き残るかを自ら学んで行く。照りつける太陽の下で水を求め、食料を求めて行く。そして本能を鍛えて行く。
そんなアボリジニーの少年の前に一人の美しいイギリス少女が現れる。
生まれながらの野性と、生まれながらの品性が、運命線の上を歩き出す。
生き物は何でも殺して食う若者と、虫も殺せぬ処女は黄土色の大地を歩く。
勿論新幹線は走っていない。そんな映画を見たのを思い出した。
題名が思い出せない。
カンガルーが挽き肉にされて出てくるのが最初のシーンであった気がする。
進化する文明と、原始にこだわる人間を対比させたかなり哲学的映画だったと思う。

2015年3月13日金曜日

「ドローン」




「冗談じゃない」と「冗談がない」。
「が」が入ると大違いだ。

先日友人たちとこの頃はいい冗談がないネという会話に花が咲いた。
日本人からいい笑顔が消えてしまったな、やっぱり3.11以後笑ってはいけないという気持ちが大きくなったのが大きな要因かもしれない。
だがそんな時こそひとの心をくすぐる上質のジョークは生まれるはずだ。

デザインや広告やCMなど私に近い業績も洒落たユーモアやジョークに富んだものが少なくなった。テレビのお笑いも無理矢理笑いをとるものや、命がけでやることに対する笑いが多い。言葉→コトバ→ことばのジョークがなくなっている気がしてならない。

雑誌アエラのダジャレも初代のコピーライターが亡くなってからすっかり質が落ちてしまった。表紙の撮影も坂田栄一郎さん以外の人だとガクンと質が落ちる、やっぱり違うんだよなぁ〜という話にもなった。
ビートたけしの毒も弱くなった。明石家さんまは騒音化している。
もともと日本人はジョークが苦手な国民だ。

国会のやりとりを見ていた。
野党が痛々しいほど必死で政府を攻めているようだが、軽くいなされていた。
役者が違うところがあった。
そんな中で委員長の大島理森さんの声が実に味わいがあった。
時に間延びし、時に叱り、時にいい加減的、投げやり的であり、そしてビシッとシメていた。これに上質なジョークが加わったら名委員長になると思う。
野党に一人位ジョークがいえるのがいないものだろうか。

朝からずっと呼び出されたのに、ほとんどへの字の口を開かなかった、麻生太郎財務大臣なんかは座っているだけでジョークぽかった。役者が何枚も上だった。
「ジョーダンがある」日常を目指したいものだ。

そんな中で「線虫」でガンを見つけるその精度も高いとかの話を聞くと医学者や科学者の発想力がジョーダンじゃないことを知る。
人のウンコで腸の難病を治す治療が外国では本格化しているとか。
人間の命に“運”が向いて来ているのかもしれない。

土星に生命体があるなんてことを一日中研究している人にはきっとモノ凄い冗談力があるのだろう。先日床屋さんでナショナルジオグラフィック(確か二月号)という世界的雑誌を見ていたら、月面上陸したのはアメリカの大ウソだと特集していた。
映画みたいにセットを組んで行った大芝居だと。
ジョーダンもこれ位になるとスケールが大きい。

三月十五日(日)に世界の面白CM集という番組があるらしい。
これは楽しみだ。ジョークを学んで見ようと思っている。

無人航空機のネーミングが「ドローン」というのもジョーダンが効いている。
お金を貸した相手は必ず“ドローン”すると決まっている。
ズラカルとかフケルとかバックレルとかと同意語がドローンなのだ。

さあ、ジョーダンを本気でやろう。
かつて政党CMが大流行であった。その中で超秀作のジョーダンがあった。
公明党のCMで時代劇の設定だった。代表の名が「神崎武法」さん、座敷の中で密談をしているのを、ふすまを開けてひと言いった。「そうは、いかんざき!」
このCMを超えているのは未だにない。

あと一ヶ月で地方選挙が始まる。ウソっぽい公約やマニフェストより、歴史に残るひと言を期待している。思い切りバックレたものを。

2015年3月12日木曜日

「最高のデザイン」




昨日三月十一日、魔の日本列島の映像や、今後の原子力発電問題や核燃料などの最終処理問題について、各界各層の専門家が日本列島の地図の形を指しながら語った。

私は常々思っていたことがある。
地球上で最も絶妙なデザインは「日本列島の配置」である。
手を大きく開いた堂々たる形の北海道、そこから鳥が飛んで行っている様な、歯舞、積丹、国後などの北方領土、本州の頭は陸奥湾を斧で守るような下北半島、本州全体は龍が如くの形となっている。

間延びしそうな位置に緊張感を出す能登半島、その先には佐渡ヶ島がある。
千葉や伊豆半島は全体を美しく保つ、琵琶湖に一服させ下に広がる紀州の形、中国地方の横長を絞まらせる、離島の島後、島前。くびれて割れた下腹を支える四国四県。
中国地方との間を取り持つ淡路島、本州の尻尾はなだらかに細る山口県、そことつながる九州はまるで拳を強く固めたようである。

入り組んだ有明を抱きかかえる島々、五島、対馬列島は大陸への句読点のようである。
九州の先端には、鹿児島湾、明日への希望を放つような種子島や屋久島。
そして美しい南西諸島があり、沖縄が他国文化への入り口のように配置されている。

これ程の絶妙なデザインは地球上の如何なるデザイナーやクリエイターでも不可能だ。
四方八方海の中にあるこの国を今は原子力発電所が囲んでいる。
大自然が与えてくれたこの国を、大自然を滅ぼす原子エネルギーが抱え込んでいる。

私はこの皮肉をずっと考えていた。地球儀を見てほしい。
日本国以上に美しい絶妙の国はない。3.11を風化させてはならない。
それはこの国自体を風化させて行くことになる。
思想信条は別にしてみんなで守っていかなければならない。
しばし日本地図を見つめてほしい。

2015年3月11日水曜日

「豆の入っていない枝豆」




昨日、日本のグラフィックデザイン界の巨匠二人と、パルコの伝説の広告の全てをプロデュースしていた友人と会った。

浅葉克己さんとは午後一時半から二時四十分まで。
相変わらず圧倒的な仕事を大好きな卓球と共に続々と制作していた。
若い頃からボクは二兎を追うものは一兎をも得ずといわれていたが、十兎を追うものは三兎ぐらいは得られると思っていた。という文章を読ませてもらって大いに共感した。
まるで千手観音のような多彩な仕事もその考えから生まれているのだ。
青山の浅葉克己デザイン事務所はデザインの博物館となっている。

午後五時から六時三十分まで神宮前の増田屋というおそば屋さんにいた。
巨匠井上嗣也さんは友人のお墓をデザインしたことを話し出した。
相変わらずポケットの中に文庫本を二冊入れていたようだ。他には何もなし、才能だけはあふれるほど持って座っていた。

もう一人は對馬寿雄(ツシマヒサオ)さんだ。
パルコ誕生時代から定年まで日本の超一流クリエイターをプロデュースした人だ。
青森県出身、武蔵野美術大学卒、何より「ねぷた祭」を愛する。
万事控え目でありながら大胆で細心、斬新な発想の人だ。
この人に仕事を頼まれて断った人はまずいないだろう。

井上さんはビール一杯、焼酎一杯、板わさ+カツオのタタキ、シメに「たぬきそば」を食した。對馬さんはビール一杯とカツオのタタキ、シメに「ざるそば」を食した。
私はウーロン茶だけで応対した。話は濃密に弾んだ。デザインや映画や本の話は楽しい。

体重30kg位、バストなし、ヒップなし、全身板みたいなメガネをかけた女店員さんがいいキャラクターだった。
まるで豆の入っていない枝豆がメガネをかけているみたいだった。
むかしを語り、今を語り、夢を語った。

今日は嵐になるかもしれないから早く帰ろうとなり、六時四十分頃に別れた。
お金を払う時、枝豆みたいな女店員がシャーペンを使って何か書こうとした。
芯が出てるか確認する時、指に鋭く触れた。
姿カタチには全く似合わない声で。痛え、痛え、やっちまったといった。
やっぱりいいキャラクターだった。
ふとこの枝豆女性を起用した短編映画が頭に浮かんだ。

2015年3月10日火曜日

「ドドンパな雨、ビビンバな夜」




LGBT6兆円市場!なんてニュースを見た時、LED以上の新しい電球が出来たか(?)と思ったLPG以上の新しいエネルギーが生まれたか(?)と思った。

実は全然の大違いで正直ビックリした。
L→レズビアン、G→ゲイ、B→バイセクシュアル、T→なんだったかな〜、確か何とかいっていた性同一性障害だったかと思う。その頭文字がTであった。

調査によると日本人の20人に1人がこの「LGBT」なんだと。
欧米ではもう当たり前の産業なんだと。東京渋谷区で近々パートナー証明が認められるとかでその道の人たちは大注目している。
女性同士(同志かも(?))の結婚とか、男性同士の結婚とかが認められると全ての産業は活性化する。
その市場規模が6兆円近いと見てすでに信じられない様々ビジネスが働き始めている。
信じられないセミナーが満杯、乾杯、性一杯となっている。

何だかよく分かんない。 
20人に1人とは人口の5%の人々、この人たちは高収入、高学歴、共働きなんだという。
先進8カ国(G8)の中で「LGBT」を認めない国は、日本だけ。

次のニュースには笑ってしまった。
韓国で今大流行の事、「甲の横暴」「乙の逆襲」。
「甲」とは大企業とか、社長とか、上司とか、地位の高い人たち。
この「甲」の横暴を、そうでない人たち「乙」が逆襲する。

「乙」が「甲」を徹底的にバカにし、コケにした歌詞をカラオケ教室で唄いまくる。
教室内はまるで万華鏡の中のように極彩色の衣装の老若男女たちだ。
手品師のような服を着たカラオケの先生の指導で唄いまくるのだ。
♪〜あのバカ、あのアホ、あのマヌケ、まるで私の事を唄っているのだ。

これはきっと日本にも上陸して来るかもしれない。心から楽しそうだ。
韓国料理のビビンバとは「かき混ぜる」のことだ。
かつてドドンパとか、ルンバとかが大流行した。
“甲ヒールンバ”とか、久々に大ヒットしそうではないか。

昨夜はアタマの上をドドンパのような雨が降っていた。
アタマの中はビビンバクッパ状態になってしまった。
白い梅の花が雨、風と共に去って行く夜は、マツコ・デラックスが一層巨大増大であり「LBTG」の時代の象徴に見えた。余りに存在感があり過ぎたので恐くなってテレビを切った。

2015年3月9日月曜日

「序曲」




歴史はつくった者によって滅ぼされる。
この教えは全て当たっている。歴史上、王朝、帝国、王政、帝政と呼ばれたもので滅びなかったものはない。

ローマ帝国、ブルボン、ロマノフ王朝、ナポレオン帝国、モンゴル、トルコ、インカ、大日本帝国。近くはチャウシェスク、フセイン、カダフィ。

人間の歴史は興亡の歴史でもある。この日本国が争いのない時代だったのは縄文、弥生時代でしかない。世界中で争いがなかったのは有史以来ない。
違った言語と習俗の民族と、違った宗教を持つ民族が仲良しになることはありえない。

56歳の女性未亡人代議士と40代の既婚の代議士が仲良しになる、そんなことは帝王にとってどうってことはない。

ロシアの野党のリーダーが恋人と一緒のところで暗殺された。
圧政者にとってはちょいと射的でもして来いなのだろう。

韓国に駐在する大使が80針も縫う斬り傷を負った。
あの国の権力者から見れば浅手の傷位にしか思っていないだろう。

三島由紀夫が市ヶ谷のバルコニーの上で、君たち自衛隊が決起する時が来たんだ、と絶叫した時、隊員たちの殆どは冷静であり、共感せず、何をエラソーなことをいっているんだ上から降りて来いと怒鳴った。

だがしかし今、三島由紀夫が同じことをやったら、現在の自衛隊員はなんというのだろうか。文民統制より制服統制に共感してしまうのでは、と強く思う。

織田信長は自分がいる安土城の天守閣の下に、時の天皇を呼ぼうとした。
つまり自分の方が神に近いのだと位置づけるために。
歴史のことなので作り話か真実かは定かではない。

人間という生き物は対称形である。両目、両耳、両足、両手(不自由な方は別として)。つまり絶えず善と悪、嘘と真実、黒と白などをしっかりと他人の話を聞き分別しなさいとなっている。

独裁者が滅ぶ時は片方ばかりしか機能しない。
そしていちばん近くの者からの告げ口と決まっている。
“側近”という生き物は手柄を欲しがり、嫉妬に狂う生き物を言う。
ユダはすぐ側にいる。
オセロは、イアーゴーのひと言で破滅した。

いま日本国はシェークスピア劇場の中にいる。
我々は滅びの笛を聞きはじめたのかもしれない。
数奇な運命の序曲として。

珈琲店で新聞を読んでいたら、就活中らしき若者がこういった。
オレ絶対自衛隊に入るわ。本物の銃バンバン撃てるしカッコイイじゃんと。
(文中敬称略)

2015年3月6日金曜日

「便利過ぎ」






銀座には美しいトイレの店が多い。
和光とか、ティファニーとか、資生堂パーラーとか、

但し便利すぎて便意、尿意が、えっ、おっ、と立ち止まる。
ドアを開けた瞬間に頼みもしないのに便器のフタがニューと上に上がる。
イヤダネーこういう過剰のシステムは、さらにゆったりのんびり思索しながら少しばかり腰を上げると、いきなりジャーと流れてしまう。
大事な行為の途中に水を差す大変迷惑なシステムだ。

健康を調べるには、その日の便の色、便の量、便の様子などをしかと見て判断する。
あら、それなのにほんの少し腰を浮かしただけでその貴重な姿を一気に流してしまう。
早い話無駄なことなのだ。二度流すのだから。
それにやたら押しボタンの表示が多い。

オバアちゃんはそれがよくわからなく、突然トイレから出て来た。

ちょっとすみません流したいんだけど、どのボタンを押せばいいのよ。大きな字で「流す」と書いてくれてあればいいのに。

マッタクオバアちゃんは正しい。

便利はいいが便利過ぎは、不便ということにもなるのだ。ウォシュレットの水のいきおいが強すぎて服を濡らしてしまったレディ&ジェントルマンを何人も知っている。
とにかく気安く腰を浮かさないことが重要なのだ。

その日、ある店で買い物をしてカードにサインをしていたら、オバアチャンがブツブツいいながら私の前に座ったのです。

2015年3月5日木曜日

「天気は晴朗なれど」




「ホンジツテンキセイローナレドナミタカシ コウコクノコウハイコノイッセンニアリ カクジイッソウ フンレイ ドリョクセヨ」
こんな一本の電信から日本海海戦ははじまったとか。

私といえば、ホンジツテンキセイローナレドアタマイタシ キモチワルシ  カゼトカフンが合体となって私に攻撃を仕掛けている。

太田胃酸いい〜クスリですを飲む、昨日美味しいものを食べ過ぎたようである。
あまりにも楽しき夜を過ごしたせいかもしれない。
クシャミとグシャミの連発で鼻がパンパンとなりイテエなのだ。

フンレイドリョクするには何をすべきかと思い、布団の中で「辰巳芳子」さんの著作、「食に生きて」を読む。

この本をご恵送して下さったのが、私の大尊敬する稀代の名文家、「佐藤隆介」先生だ。構成とあったが文章はまぎれもなく佐藤先生のものだ。
本年で九十歳となる料理家辰巳芳子さんから聞き取ったものであろう。

池波正太郎氏の高弟第一、その名文は例えていうなら、奥入瀬を流れる清流であろうか、一言一句に無駄はない、修飾語は一切なし、ただ漢字とひらがなとカタカナが絶妙の句読点によってその流れを見事にする。新潮社から販売中、ぜひ読んでいただきたいと思うのです。私も書く字奮励努力の体制にその身を起すとする。

2015年3月4日水曜日

「闘魚『ランブルフィッシュ』」




日本中に夜の街がある。
この街の中で浮き沈む「マチ」がいる。
「タニマチ」という人たちだ。

有名人、著名人、芸能人やスポーツ界の人々にお金をつぎ込んで沈んで行ってしまう人々だ。自分を大きく見せたい、自分を価値ある人間として見せつけたい。
バブル全盛期の頃、私はタニマチをゴマンと見て来た。
膨らんだ風船は必ずパンと破れる。

昨日までのタニマチはタチマチ借金の追い込みにかけられる。
夜の街ではそんなことを飛んだとか、沈んだとか、溶けたという。
金の切れ目が縁の切れ目で、金のないタニマチは街に存在できない。
人は自分のどこについて来ているのか判断しなければ深手を追う。
自分の金について来ているのでは(?)と正しく疑うことが何より大切なのだ。
♪〜今日もこうして飲めるのはみんな◯☓さんのおかげです 今夜も◯☓さんありがとう…。ヨ~オ、あんたが社長、あんたが会長、あんたが大将なんて持ち上げられてついつい気分が良くなってしまう。

その夜、私は友人とある会員制のBARで飲んでいた。
夜十二時近い、閉店まであと少し、十一時半で1女性は帰ってしまう。
この頃お客さんもケチンボでタクシー代のチップもくれない。
だから電車に間に合う時間に帰る。一人、二人、三人と帰って行った。

と、そこに大相撲の元横綱がタニマチ三人に連れられて入って来た。
かなり酔っていた。ウィー、ヒクッ、ヒクッ、ウィーとでっかい体をピクピクさせた。
なんだおりゃ〜女はいねえのか、これから飲み直しだ、呼び返せ、これから店は貸し切りだと大声を出した。

タニマチは私のことをよく知っていたので、目と手でスマン、スマン、スンマセンとシグナルを送った。
元横綱は飛び切り酒癖が悪いというのを知っていた。
また、タニマチが借金の追い込みにあっているのも知っていた。
レジャー施設のオーナーと、不動産業の社長、保険会社の役員であった。
元横綱はふんぞり返り、でっかい体に着ていたでっかい背広を脱いでウィスキーをがぶ飲みし、でっかい声で騒いでいた。

残っていたのは私と友人、なじみの客のお医者さんの三人だった。
でっかい“スモウトリ”に静かにしろと友人は言った。
大きな声でなく、小さくでもなかった。バーテンダーとママさんがオロオロ、オロロンとした。元横綱がバカヤロー白鵬なんかオレとやったらイチコロだグアファファと笑った。勿論、当然元横綱の方が強いとタニマチがいった。
友人がウルセイからカラオケを唄うといった。
元横綱は静かになりもの凄いイビキをかき始めた。

昼間は水の抜けたプールのような街は、夜ネオンに灯がつき始めると、水を得た魚のように活き活きと動き出す。赤、青、黄色のドレスの女性たちはメールを送り、携帯をかけながら速足で歩く、高価な着物を来た女性が素足でベンツやBMWを運転し駐車場に消える(プロの女性は酒は飲んだフリ)。夜の街は極彩色の熱帯魚が泳ぐプールとなる。一夜の内に何人ものタニマチがこのプールの中で溺れて沈む。
♪〜夜がまた来る 思い出連れて 
俺を泣かせに 足音もなく…私はこの歌が好きである。闘う魚を、あるアジアの国では「ランブルフィッシュ」という。F・フォードコッポラ監督の映画の題名でその名を知った。主演は若かりし頃の“美しいミッキーローク”だった。最高にいい映画だ。週末にぜひおすすめです。