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2022年2月26日土曜日

つれづれ雑草「情念の女性」

前回書いた、アンドレイ・タルコフスキーの作品「ノスタルジア」の中で訂正すべきことと、より詳しくすることがありそれを記す。ノスタルジアとはNOSTALGHIAが原題である。又この作品がタルコフスキーの遺作と書いたが、正しくは「サクリファイス」が遺作であった。「ノスタルジア」は本来病名であった。(私は病んだ国と解釈した)遠征軍の兵士が懐郷の思いに駆られて戦闘業務に支障をきたすような事態。自らの源泉から遥かに離れてしまい、そこに帰れなくなってしまった者――その人間が苦しまなければ死に至る病気、これこそがこの映画で描いた「ノスタルジア NOSTALGHIA」であると言う。(解説・池澤夏樹)戦争と平和はコインの表と裏と書いたが、独裁者と化したプーチン大統領は戦争を選んだ。戦争が長期化すると兵士はノスタルジアという病になる。プーチンはロシアそのものが病んでいることを戦争によって証明した。国民に向って戦争開始を宣言したプーチン、その顔は自信に満ちたものでなく、不安に満ちていた。私はその目が誰かに似ていると思った。それは世に伝わる織田信長の目だ。狂気は不安と背中合わせであって、行動を狂わせる。いつの世の独裁者も誰も信じることができなくなり、何もかも焼き尽くすことによって、心の安定を得る。疑い深い怪物となり滅びる。それは必ず側近、身内などの反乱、裏切りに会う。秦の治皇帝、ローマの帝国のシーザー、織田信長、ナポレオン、毛沢東、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニなどなどみんな極度の不安神経症であったはずだ。毛沢東は周恩来あっての自分だという事が分かっていたから、末期の癌に冒されていた周恩来を治療に専念させることなく、死ぬまで側から離さなかった。不安神経症の独裁者は、当然不安神経症の部下ばかりに囲まれる。殺られる前に殺るとなり、多くの明智光秀やブルータスを生む。これは今の世の中も同じだ。人類の歴史、人間の歴史とは、群れを生みはじめた時から、食べ物の奪い合い、土地の奪い合い、権力の奪い合いの歴史だ。紀元前数千年前から今の世まで続いている、戰、侵略、混交、新たな人種の誕生、そして又、戰、侵略、混交を繰り返す。人類そして人間の歴史は混血の歴史でもある。世界各国民族はそうして誕生した。ロシア人の人には申し訳ないが、そのむかし日本人はロシア兵のことをロスケと言って嫌った。それはズル賢くて、汚い手を使う侵略者だった。中国人は日本兵のことをと言ったのと同じだ。「戦争と平和」をトルストイが書き、「罪と罰」をドストエフスキーが書いたのは、それを生む国だったからだ。最後のロシア皇帝は、一族もろとも殺されて亡んだ。プーチンは何を恐れているのか、それは自分自身だろう。我が日本国は戦争と平和なんて関係ないとばかり、相変わらずバラエティやバスの路線旅や、クイズ番組、食べ物番組のたれ流しだ。予算委員会で野党の蓮舫氏から、岸田総理、こんなことよりロシア侵攻、国家安全保障会議の方がと言われて、えっ、あっそうとなり、それじゃこれにて流会となった。まるでマンガの世界だった。久々に篠田正浩監督の映画「鑓(やり)の権三」を見た。近松門左衛門作であるから、心中とか情念の果ての悲しい結末となる。戦のない太平の世、武士たちは自慢の武芸も発揮できない。鑓の権三とは、の使い手であり美丈夫で、若侍の間でもひと際目立っていた。格式ある武家の一族がいた。美しい女性と娘二人息子が一人いた。主人は江戸に勤めに行っていた。親戚筋から年頃の長女への嫁入り話があった。その相手は鑓の権三であった。美しい母親は茶道や催事における諸事作法を教える一門であった。鑓の権三は催事の取り仕切りを命じられ、古来から伝わる作法を、美しい母親へ習いに来た。夜のことである。一門に伝わる巻き物を読み聞かしながら、美しい母親は、娘と等しきほどの若侍に、日頃からの熱い想いを語り、鑓の権三にせめて一度だけと迫る。情の深い女性は一度火がついたらもう後には戻らない。鑓の権三は拒みつづける。二人は組んずほぐれずとなる。障子に映る二人の影を見てしまう男がいる。かねてより娘に想いを持っていて、その夜忍び込んでいたのだ。そこで見た影の動き、庭に投げ捨てられた帯を取ると、不義密通ありと申し出る。一家一門は閉門となる。何もなかった二人だが、逃げて、逃げて、いよいよ金も無くなり刀まで売る。江戸から帰った一家の主人は、不義密通の二人を討つべく、義兄と共に二人を探す。殺さねば一家一門の恥が晴らせない。逃げ疲れた二人はある日一度抱き合う。そして遂に京の橋の上で……。鑓の権三を若き郷ひろみ、情念の女性を岩下志麻が演じる。男と女も、行きつく先は、戦争と平和である。但し近松物に平和はない。(文中敬称略)




2022年2月19日土曜日

つれづれ雑草「わかるかなあ~」

先年亡くなったロシアの大巨匠に「アンドレイ・タルコフスキー」という人がいる。大作家トルストイやドストエフスキーに並び称される人だ。その監督の遺作に「ノスタルジア」という作品がある。タルコフスキーは難解を極める監督で有名であり、水の表現をする。カンヌ国際映画祭の受賞常連者で、「ノスタルジア」もこの作品の創造における審査員特別大賞を受賞している。ノスタルジアとは帰りたくても帰れない故郷(タルコフスキーは亡命していた)であり、病んでいる国と同意義でもある。つまりタルコフスキーの帰りたい故郷ロシアは、病んでいて帰れないのだ。この長編の映画のラストは息をするのも忘れるほど、圧倒的なメッセージ性に満ちている。現在ロシア vs NATO=アメリカの一触即発の戦争状態、又、その先が見えない人類に対して、一人の敬けんなクリスチャンは、民衆に向って大演説をする。そして全身にガソリンをかけて焼身する。つれづれなるままにその演説を、映画を見ながら、止めては書き、止めては書いたのでそれを書く。「語りかけるのは誰か、私の頭脳と肉体は、同時に生きられない。だから一個の人格にはなりえない。私は同時に無限のものを感じることができる。我々の時代の不幸は、偉大な人間になれないことだ。我々の心は影に覆われている。無意味と思えることにも耳を傾けよう。例えば排水溝のことや、学校の壁や、アスファルト、奉仕活動に忙しい人や、虫の声にも耳を貸そう。我々の視覚と聴覚、そのすべてで感じることが、我々の大いなる夢の始まりなのだ。だれかが叫ぶべきだ。ピラミッドを作ろうではないか。重要なのは完成ではない。願いを持続することなのだ。我々はあらゆる意味で、魂を広げるべきだ。まるで無限に広がるシーツのように。もし君たちが進歩を望むなら、一つに混じり合うことだ。健全な人も、病む人も、手を取り合うのだ。健全な人よ、あなたの健全が何になる。人類はすべてが崖っぷちに立っている。転落する運命にある。それを直視し、ともに食べ、眠る勇気がないなら、我々にとって、自由は何の役にも立てない。いわゆる健全な人が世界を動かし、破滅に直面する。人間よ! 従うのだ! 君の中の火に、そして灰に、灰の中の骨に、骨と灰に。私はどこに存在するのだろう。現実にも空想にも存在しない。太陽が夜中に昇り、夏に雪が降れば、強者が滅びて、弱者が生き延びるだろう。混とんとした世界を統一するのだ。自然を観察すれば、人生は単純だとわかる。母よ、母よ、風は軽いものだ。私がほほえめば、風はそっと動く。原点に戻ろうではないか、単純な原点に。道を間違えた場所まで戻るのだ。愚かな人間よ、君たちがさげすむ、愚か者から、恥を知れとののしられる。さあ、ここで音楽を、巨大な像の横に組み立てられた演説台の上で、男は頭からガソリンをかけ、ライターで火をつけ、火だるまとなる」難解なタルコフスキーの、黙示録だ。わかるかな~、わかんねえだろうなあ。私は何度か見る内に少しわかって来た気がする。現在のウクライナ情勢、世界的なコロナウイルス禍、健全な人をプーチンなどの権力者に置きかえてみる。世界を動かしている、資本家に置きかえてみるのだ。「わかるかなあ~、わかんねえだろうなあ」で大人気を得た松鶴家千とせ師匠が亡くなった。八十四歳であった。CMに出演してもらったり、私の主催のパーティに、南州太郎師匠とともに出演してもらった。出演を依頼しにとある団地の公園に行った。アフロヘアーの中にちっちゃな目をパチクリして、何んで俺なの、わかんねえなと言った。俺が英語だった頃、弟は単語だった。妹は英文法で、母親はグラマーだった。わかるかなあ、わかんねぇだろうなあ……(?)。マアこんなかんじでと頼んだ。南州太郎さんは、私にとって神に近く、ただひとこと、おじゃましますでいいですと頼んだ。大巨匠タルコフスキーも、大師匠松鶴家千とせさんも、その存在は地球の財産だった。心より合掌する。死は分かりやすい。もう起きることはないのだ。となるだけだ。但し国の死は、そう簡単ではない。思考せよ、徹底的に思考せよ。オリンピックの裏で進んでいる世界情勢を。カーリングで床掃除をするのを見ながらでもいい。戦争と平和は、コインの裏表なのだ。




2022年2月12日土曜日

つれづれ雑草「道、物語り」

そうして、こうして、こうなったと、雨音を聞きながら思った。家の前を通る子どもたち、幼稚園児、小・中・高校生(すぐ隣りにアレセイアという学校がある)みんな、みんな、みんなマスクをしている。自分がガキだった頃を思い出した。朝になると、と~ふ、と~ふ、納豆、納豆の声と共に、ラッパの音がした。末っ子の私はお鍋を持って、おとうふ三つと納豆を六つ買う役であった。新聞配達のおじさんが、新聞をいっぱいたすきがけにして持って、一軒一軒新聞を配達する。その足音は強かった。同時刻には牛乳配達のお兄さんが、自転車に白い牛乳瓶をたくさん積んで、一軒一軒牛乳箱に入れていく。その音はガラスとガラスがぶつかり合うので、ガチャン、ガチャンと騒がしかった。家の前の一本の道。そして朝が始まった。一本の道は運動する場であり、遊び場であった。缶けり、面子、ベーゴマ、キャッチボール、馬とび、コマ回し、女の子はゴム飛びや、石けりをしていた。みんなでダルマさんが転んだをした。夏には金魚売りの人が荷車を引いて、金魚え~金魚と、大きな声を出して歩いた。風鈴売りのおじさんは、色鮮やかな風鈴を鳴らしながら、荷車を引いていた。冬にはたき火をして、イモやクリ、ドングリを焼いて食べた。ご近所の家で畳替えがあると、一本の道に畳屋さんが来て、太い針を太い腕で畳に刺していた。ヒジでギューギュー太い糸をしぼり上げた。布団の打ち直しの季節になると、布団屋さんが、うすい茶色い紙で打ち直した布団の綿を、いくつも包んで運んでいた。新築や改築をする家があると、大工さんたちが来て、長い木材をカンナで削っていた。木の香りはいい香りだ。カンナくずをもらって、たき火に使った。電線工事があると、赤線が切り落とされる。ずっと、ずっと工事について行って、道路に落ちた赤線を集めて、くず屋さんに売りに行った。10円は大金でコロッケが三つ買えた。魚を売る人がいろんな魚を持って売り歩き、包丁を使って、刺し身や切り身にしていた。一本の道は、ご近所同士が顔を合わせ、声をかけ合う場所であった。今、一本の道にはマスクの人間が通るだけだ。文明が発達しすぎて、大きなものを失って来た。便利すぎて逆に不自由になった。監視カメラがそこら中にあって見張っている。竹馬の友という言葉があったが、それは一本の道で友だちと、竹馬の高さを競い合った仲だ。現代社会ではスマホの友であろうか。私は現代文明を好まない。徹底的に嫌悪している。当然多くの人に多大な迷惑をかけまくっている。私はいくつになっても、少年の風を愛す。一本の道が生む物語りの方を愛すのだ。文明を拒否している種族がうらやましいと思ったりしている。私は縄文時代がいちばん、この国が幸せだったのではないかと思っている。故岡本太郎画伯は一度お会いした時、縄文時代のままでよかったんだよと言った。有名な太陽の塔は、縄文そのものだ。こんな思いを強くしているのは、きっとコロナ禍の中で、多くの人を失ったからだろうか。人間がどんどん言葉を失っている。仕事柄一日中テレビをつけていて、多くのCMを見る。心に響く言葉、心に刺さる言葉、言い得て妙な言葉、心を揺らす言葉がない。たった一行、たったひと言で、大作家たちから、ワシらには絶対書けないと言わせた言葉がない。いい言葉のない広告は、いい商品ではない。10年前ある広告団体の50周年記念イベントで、選ばれたプロフェッショナルと一般の人々が、この50年でいちばんいい、と思った広告の言葉として選んだのは、ダントツで、仲畑貴志氏が書いたチョコラBBのものだった。それは、桃井かおりさんが河辺にしゃがんでつぶやいた。「世の中バカが多くてつかれません?」であった。このエーザイのCMはすぐにクレームがついて流せなくなった。と、バカをおりこうさんに変えて流した。「世の中おりこうが多くてつかれません?」書き手にとってどっちにしても、疲れる世の中を書いた。変更して流すことを許した。スポンサーは偉いと思った。あれから10年今どんな言葉が選ばれているのだろうか。一本のCMで世の中を斬ってほしい。もうすぐバレンタインデーだ。昨年ゴディバというチョコレートの名門ブランドが、新聞全ページ広告で、日本は、義理チョコをやめよう。こんなキャッチフレーズの広告を出した。その通り、愛のない変てこな義理チョコはやめよう。マスクなしの子どもたちが、家の前の道を歩ける日はいつ来るのだろうか。アメリカのワクチンメーカーの売り上げが超、超倍増して5兆円近い。これからも期待できるだと、つい本音を言って喜んでいる。アメリカの薬品マフィアは何んでも有りだ。おそらくウイルスの犯人はこの国だろう。国会では、おバカと、おりこうさんぶっている人間が、二年以上同じ問答をして、三年目に入っている。臭い匂いは元からたたないとダメという格言がある。それにしてもガキの頃の一本の道の物語りがなつかしい。その頃は東京都杉並区天沼三丁目六〇〇番地である。そうして、こうして、今日も朝が来た。昨日金曜日は、「嫌国記念日」であった。梅の花がポッ、ポッと咲きはじめた。私たちはワクチンの治験者になっている。数年後きっと驚くような副反応の結果が出てくるだろう。「無」はありえない。そしてこれから、アフリカの最貧国からコロナは広がり始めるのだ。ウイルスに国境はない。一本の道にチンドン屋さんが来て、チラシを配りながら、お店の開店を告げて回った。その後をずっとついて行った。広告屋人生の始まりだった。私はチンドン屋でありたい。




2022年2月5日土曜日

つれづれ雑草「たこ焼きの惨劇」

桜折るバカ、梅切らぬバカという。バカにとっても耳の痛い言葉がある。小庭に二本の梅の木があるのだが、いつも来てくれていた植木屋さんが、何があったのか来なくなった。私は庭仕事などまったくできない。梅は伸び放題に伸び、せっかく実った梅の実は、ポトン、ポトンと落ちた。昨年の年末いい植木屋さんを紹介された。二人で来て梅の枝をバチンバチンと切って、スッカスカにした。ヘエ~こんなに切っちゃうのと言えば、こうしないと木がもたないと言った。ビートルズヘアーから、GIカットみたいになった。今朝その梅の木に、白い花が米粒ぐらいの大きさで咲いていた。亡き母と今住んでいる小さな家の小さな庭に、梅の木を植えようと言い、母と植木屋さんで一本1500円で買った。それはゴボウほどの太さだったが、今では大人の太モモほどになっている。40年近い月日が経っている。その頃来ていた植木屋さんご夫婦に、小さな桜の木を植えてよと言ったら、少々吃音のおじさんは、ダ、ダ、ダンナ、桜の木は学校や公園に植えるもので、家に植えてはダ、ダ、ダメだよ、桜は散ってしまうからエ、エ、エンギがワ、ワ、ワルイと叱られた。私は花が好きである。愚妻と一緒になった時、家の中に一輪でもいいから花をと言った。貧しき中にも花一輪は、亡き母が行なっていた。私は雑草の花、名もなき花が好きだ。木下恵介監督の名作に「野菊の如き君なりき」というのがある。少年と少女の儚き恋の花は野菊あった。札拝のときには百合の花を、瞑想には蓮を、戦いに行く時には菊をと言われる。(菊と薔薇のケースもある)菊根性と言われる女性がいる。菊はとても辛抱強くて長く生きる。嫁に行った時、その家にいる姑や小姑にイビられイジめられても、あの娘は、菊根性があるから心配ないと言われた。堅気の男は菊根性を持っていない。飲み屋に行って、会社や、上司や、部下や、取引き先の悪口を肴にして、グダグダ飲むだけだ。金筋のヤクザ者には、菊根性を持った筋者がいる。親分、兄弟分、舎弟のために命を張って、長い刑期に耐えている。近頃では死刑や無期となる。東京藝術大学を生んだとされる、岡倉天心の名著「茶の本」の中に、私が短編の映画の主題にした言葉がある。人は獣悲しいかな、私たちは、こんなにも花を友としながら、その実、獣であることから抜け出していないことも隠せない事実だ。かぶっている羊の皮を剥いでみれば、たちまち、その下に隠れていた狼が牙をむくだろう。人は十歳で獣、二十歳で狂人、三十歳で落伍者、四十歳で詐欺師、五十歳で犯罪者といわれてきたが、それは獣でありつづけたということだろう。(原文ママ)花にとっていちばんの花器は、いかなる人間国宝の陶芸品や、アーティストの作品ではなく、大地なのだ。私はその日ある有名なホテルのロビーにいた。丁度フロアに大きな生花、というよりモニュメントを創っていた。どこぞの山の中でブッタ切ったか、チェンソーで斬り落としてきた、太い木、曲がった木、奇怪にからみ合った木、掘り出された大きな根。それらはすでに自然の色はなく、金粉、銀粉を吹きつけられている。塗のようなもので、厚化粧をほどこしている。それらの木に、さまざまな花が散りばめられている。あるいは接着されて行く。数人でそれをやっていたのを見て、私は言った。誰れの作品か知らないけど、バカバカしいねおつかれさんと。こんなものを華道とか称している。ハナバナしく総理大臣になった男は、したり顔で言ったもんだ。コロナ対策は最悪の事態を想定して、早日早日に手を打たねばならない。私は前総理みたいな下手は打たないと。だが現実はメッタメタ、後手後手のオロオロ状態である。何度も書くが、なんで医学者でもない尾身茂の意見を聞くのか。野球でも先発ピッチャーが打たれたら、ピッチャーは交代だ。バカアホが三年目を迎えているのに、ツルミあっている。何故なら、彼らにとってコロナほどオイシイ利権はないのだ。一本の木を長生きさせるために、植木屋さんは迷うことなく、枝を切り落とす。政府の分科会メンバーは、全員切る! 私は思った。故田中角栄ならそうしただろうし、もっと大胆な発想をして、決断と行動をしたであろう。(それが何かは分からない)今日の昼、テラスモールのカメラのキタムラに行った。階段下に、たこ焼きの銀だこがある。数人並んでいた。小さな椅子があり、そこで焼きたてのたこ焼きを二人の高校生が食べていた。何を焦ったか一人の男子学生がたこ焼きをスポッと飲み込んでしまった。ギャ~アヂ~とノド、胸、背中が熱いとのたうち回った。みんな何事かとビックリ、人の輪が大きくできた。水だ、水だ水だと言って、友達がペットボトルを渡した。私はそれを見ながら、そうだ久々にたこ焼きを買って帰ろうと思った。学生はまだ倒れており、警備員と、どこかのオジサンに救助されていた。コロナ禍はいよいよ身近になって来た。この政権もこのままだと、一年で終りになるかもと思う。戦さの最中に、人の話を、聞くだけ聞いていたら、手おくれで全滅だ。(文中敬称略)



2022年1月29日土曜日

つれづれ雑草「着物とバーベキュー」

江戸時代、将軍家武芸指南役は、柳生家だった。その柳生家に今も残る「家訓」がある。それは意外にも、ビジネスマンへの処世訓みたいであった。(一)小才は、縁に合って、縁に気づかず。(二)中才は、縁に気づいて、縁を生かさず。(三)大才は、袖すり合った縁をも生かす。この三つであった。現在世界中がブロック社会となり、人と人が出会って、時間を共にすることが難しくなっている。過日、海岸にいたらキンキンキラキラの着物を着た若い女の娘が、三人、五人と、江の島をバックに、友だちと撮影会をやっていた。そうか成人式かと思った。その側で七、八人がバーベキューをしていた。子どもたちはハシャイでいた。和服の女の娘の周辺に、ウインナーソーセージとか、牛肉、鳥肉、タマネギ、マイタケなどをジュージュー焼く臭いが着物と白いふさふさのショールに染み込んでいた。三人の女の娘が、私が立っている木製の踊り場のところに来た。三人とも白いマスクをしていた。私がマスクをしていると、みんな美人に見えるね、と言ったら、えっ、やだぁ、ギャハハハと和風ではない笑い声を発した。マスクを外してみてと言ったら、ヤダ、ヤダ、絶対ヤダと言って離れて行った。おいしそうだねバーベキュー、ウインナーソーセージは赤いのじゃないとダメだよと言ったら、人工着色だからダメよと言った。三十代の二人の男性はきっとパパさんだろう。一緒に食べませんか、ビールどうぞと言った。海の側はこんなことはフツーである。はじめて出会ったサーファーたちが、バーベキューに参加したりする。私はありがとうね、でも今日はいいから楽しんでと言って、そこから歩き出した。観光用の地曳き網の船はずっと陸上げ状態だ。知り合いの漁師が、コロナ、コロナでやってらんねえ、昼間からスナックでカラオケばかりだよ、と言っていたのを思い出した。海岸の砂の上を歩いて、一人の釣り人のところに行った。ルアーで投げ釣りをしている人に、何か釣れましたかと聞くと、六十代の上品な釣人は、カレイが一匹と言って、白いクーラーボックスを開けて見せてくれた。オッいい型をしているカレイが、ペタッとボックスの下にへばりついていた。30メートルから50メートル投げるだけで、意外な大物が釣れると言った。私はいっとき投げ釣りをしていたが、五十肩痛が進行、思い切り投げると側頭と首筋が猛烈に引きつるようにもなり、投げてはイテ、イテ、イテテとうずくまってしまった。でもってせっかくいい竿とリールを、平塚の鍼の達人&釣りの名人からプレゼントでもらったが、新品のままである。上州屋という釣り道具屋さんが、情報を発信しているとかを聞いた。どこで、何が、どんなルアーでと。私は以前仕事をたくさんさせてもらっていた自称釣り名人が、今度船で葉山沖に出て、大物釣りをやりましょう。渋谷の上州屋に行ってください、リールを頼んでおきましたからと言った。もう一人行く人は、広告代理店の本物の釣り名人だった。上州屋に行くと、E・ヘミングウェイが名作老人と海で釣った、大物クラス(500ポンドもOK)用のPENNのリールだった。値段を聞いたらビックリ仰天した。代理店の人に言ったら、え~と言った。(当然自分で払った)で、葉山沖に行った時、釣れたのは水深250メートル位にいた、顔付きの悪いシマガツオとか言う誰も食べない30センチ位の魚二匹だけ。そのリールは一度しか使っていない。置き物として、私の仕事場の机の下にある。釣りは人の縁と同じで、魚に縁のある人はよく釣って、縁のない人はあまり釣れない。私はあまり縁がない。犬はリードを持った瞬間に、この人は本当は犬好きではないと分かるらしい。私は愛犬家のつもりだったが、飼い犬にしょっちゅう咬まれた。縁がなかったのだろうか。それでも、一頭は十三年、一頭は十六年ビミョーな関係をつづけた。愚妻はガブリ、ガブリ咬まれても、決して怒らなかった。私は消毒液を持って渡したのだが、そんな愚妻が不気味に感じた。犬だってストレスがたまってんのよ、仕方ないわよと言っていた。子どもたちは猛犬に触れるのを恐れた。愛は見破られる。犬は頭がいいから、嫌、嫌散歩している私を許さなかったのだ。愛犬学の専門家の友人に教えられると、私は犬にとってすこぶる迷惑な人間であった。犬と人間の出会いも縁なのだろうか、それとも愛の学習か。海辺にあるサイクリングロードでは、愛犬家たちが朝な夕なに仲良く散歩している。一月が終り、二月となる。コロナ禍はいつ終わるのか、誰も知らない。いよいよ縁遠い関係ではなくなって来た。縁とは合性である。もとは縁の近かったロシアとウクライナが、もめている。「戦争と平和」人類の永遠のテーマだ。「ウイルスと人類」も同じ。政権の支持率アップには、戦争がいちばんである。イギリスのジョンソン&フランスのマクロン&アメリカのバイデン&ロシアのプーチン。





2022年1月22日土曜日

つれづれ雑草「赤いリンゴ」

とある刑務所で二十歳の成人式があった。一人の男が仮名で語った。少年の頃から非行ばかりしていた。両親はいない。幼い頃から施設で育った。十六歳の時好きな女の子ができ一緒に暮らし始めた。日雇いのような仕事で食いつないできた。十八歳の時、籍を入れ正式に結婚した。妻のお腹の中には子が宿っていた。稼がねばならないと飲食店に店員として入った。しかしコロナ、コロナで店は開けたり閉めたりだった。そしてその店は閉めたままになった。突然言われて失業した。どこかに入らねばと焦った。いっそ半グレかヤクザ者にと思ったが、生まれて来る子の事を思うと、正業につきたかった。そんな時ある工事関係の仕事の広告が目に入り面接に行った。社長はいい人でとりあえず採用してくれた。十人位の会社だがみんないい人だった。しっかりがんばれば、正社員になり健康保険もつく、妻はよろこんだ。ある日の夜、会社でみんなと酒を飲んだ。トイレに行こうと思って事務机の横を通ると、経理の人の机の上に一万円札が見えた。酒に酔っていたが、やはり小さな頃からの悪いクセが出てしまった。一万円札は七枚あった。気がつくとポケットに入れてしまっていた。何喰わぬ顔で酒を飲んでいたら、大きな声がした。ここに置いていた金がない。先輩の男は真っ赤な顔して、お前さっきトイレに行った時、盗んだだろうと言った。盗んではないと言ったが、先輩は殴って来た。非行ばかりしていた悪いクセがここでも出て、先輩の顔や腹を何度も殴ってしまった。怪我が大きく救急車が呼ばれた。そしてパトカーも来た。手錠をかけられ連行された。結局暴行傷害罪で一年半の刑となった。妻は身重の体で近所の洋品店にパートに行っていたが、コロナでお客さんが全然来なくなって閉店して失業した。刑務所内で二十歳になった。所内の背広とネクタイ、それにYシャツ、靴下と靴を用意してくれた。講堂内には三十人近くいた。突然名を呼ばれ二十歳の夢をと言われた。緊張で何も言えなかった。早く出たいですと言ったら、みんなが笑った。こんな話の中にもコロナがある。誰れの言っている事を信じていいのかが分からない。かつての日本軍のように、命令系統がバラバラだから、尾身茂なる人間は、大好きな麻雀を徹夜でやり過ぎたのか、今頃になってステイホームなんか意味がない、人流より人数だなんて言い始めた。腹を切れ、腹をと思った。テレビに出て来るのは、毎度お馴じみの医師会か医師たち、余程ヒマなのかまい日出演できる。本当に始末が悪い。政府や報道機関のいいなりだ。もうおマエ達の顔は見たくないと、声を大にして言いたい。恥を知れ恥をと言いたい。私たちのような芸を売る仕事は、いいダンナ(クライアント)からお座敷の声がかからないと、踊るに踊れない。裏社会では勝負することを踊るなどと言う。芸人は芸で戦うしかない。小さな庭の空池に、一個100円で買って来たリンゴを4分割にして放り投げる。すぐに小さな鳥が来てリンゴをつつく。次にもう少し大きい鳥が来ると、小さな鳥は逃げる。その次にもっと大きい鳥が来ると、その鳥は逃げる。最後にもっと、もっと大きな鳥が来る。結局いちばん大きな鳥が、いちばんたくさんリンゴを食べてしまう。一般社会と同じだ。私はそっと身を隠してそんな風景を見ている。愚妻が鳥がたくさん来て、フンをいっぱいするから、リンゴをやらないでと言うが、私はフンと言って無視をしている。あと二ヶ月もすれば鳥たちはピタッと来なくなる。土に落ちたフンは土を育てる。どこぞに落ちたフンもやがて乾き、風に乗って運ばれ土を育てる。大都会にはツバメもスズメも姿がない。カラスさえも姿が少なくなった。銀座を歩いていると、あったはずの名店がいくつも店を閉めている。又、やけに貼り紙が多い。読めば殆どが、閉店をしますの予告だ。遠く離れたトンガでドカアーンと大爆発があった。夜中に映画を見ていたら、私のガラケーが、大きな音を出し津波警報を何度も出した。日本国がドーンと救援金を出すと思っていたら、出したのはわずか一億円程度だった。安倍晋三、菅義偉、二人の総理大臣がコロナ対策で、てんやわんやした。元凶は尾身茂たちのでたらめだ。このままだと岸田文雄総理も、てんやわんやになってしまう。そういえば、むかし獅子てんや・瀬戸わんやという漫才コンビがいたが、とても面白かった。今の政府のてんやわんやは、すこぶる面白くない。何故もっと科学的な人たちでチームをつくらないのかと思う。生物学者、人類学者、人間行動学者、考古学者、歴史学者、物理学者、民俗学者など、政府のいいなりにならない、お金を欲しがらない在野の人々を集結して、10年先、50年先、100年先までを見据えなければならない。とり急ぎ、尾身茂一派を退場させよ。マイナスオーラを発散しすぎだ。刑務所で成人式を迎え、やがて世に出る若者は、親子三人で幸せにやって行けるだろうか。私たちも今サバイバルゲームの中にいる。体が許す限り、踊るだけ、踊ってやる。(文中敬称略)


2022年1月15日土曜日

つれづれ雑草「文化後進国」

その地には、決して無くならないものがある。例えば北海道なら阿寒湖これがないとアカン。青森三内丸山遺跡、秋田きりたんぽ、岩手一関常堅寺(ご住職夫婦がいい)、山形さくらんぼ園、宮城松島、福島鶴ヶ城、新潟魚沼コシヒカリ、栃木那須高原、茨城日光国立公園、群馬下仁田ネギ、千葉銚子港、埼玉佐野ラーメン、長野千曲川、山梨ぶどう園、神奈川とんかつ大関と紅がらのそば(地元なので二つ)、富山ホタルイカ、静岡富士山(山梨にも有)、石川兼六園、愛知名古屋城、福井越前ガニ、岐阜郡上八幡、滋賀琵琶湖、三重志摩半島、奈良奈良漬、和歌山紀の川、京都嵐山、大阪通天閣、兵庫神戸牛コロッケ、鳥取砂丘、島根出雲大社、岡山林源十郎商店(社長が熱い)、広島原爆ドーム、山口松下村塾、香川さぬきうどん、徳島室戸岬、愛媛道後温泉、高知明神のカツオ、福岡屋台村、大分宇佐神社、熊本熊本城、宮崎日南海岸、佐賀嬉野茶、長崎ちゃんぽん、鹿児島桜島、沖縄ホテル・フォールームス(親友が経営している)。私は仕事のおかげで日本全県に行っている。そのおかげで全県に一人は知り合いがいる。マグロの漁師、トド漁の射撃名人、お寺のご住職、陶芸家、考古学者、染職作家、和紙づくりの達人、メガネ職人、左官の天才、切り絵の名人、木工づくりの変人、マタギの頭領などなど多種多様の人たちと交流している。さて、東京の話だが、東京といえば神田の岩波ホールだ。神田は日本中の探究の徒とか、学究の徒が古書店に来る。知の倉庫の街だ。一月十四日の新聞に「岩波ホールが七月に閉館する」という記事があった。その背景は、観客層が高齢化して、若者たちがパソコンやスマホで映画を見るようになり、これ以上経営が成り立たない。岩波ホールのようなミニシアターは良質な作品、小さな国の作品、政治的に揺れていてやっと作れた作品、文学、哲学、反戦、宗教や性についてとかを追った作品。非暴力や人間の暴力性を、徹底的に追求した骨太の映画を世に問う場所であった。あなたが肉マンを買いにいって買ったら、肉が入っていなかった。ラーメンを食べに行ったら、チャーシューが入っていなかった。おでん屋さんに行ったら、カラシがなかった。吉野家の牛丼を食べに行ったら、紅しょうがなかった。その時はあなたはきっと心を乱すだろう。私ならきっとオリヤー何してんだと怒るだろう。カレーライスに福神漬(赤いのがいい)は、絶対の関係なのと同じだ。東京・神田神保町・岩波ホール。1968年に開館した岩波ホールは、日本のミニシアターの巨星だった。良心の館であったのだ。私の密かな理想の死に方は、岩波ホールで映画を見ながらであった。一人ポツンいちばん前の席で。バカヤローなこの文化後進国は、韓国の10分の1しか文化予算を使わずに、どうでもいいことに莫大な金を使う。神田神保町とは、文字通り、さまざまな神の意志を保つところなのだ。文部大臣の顔が浮かばない、文化庁の長官は見たこともない。それ位軽量な扱いをしているのが、この国の政治文化なのだ。7月までに未だ時間がある。閉館反対! 俺がパトロンになる。そんな経済人を見てみたい。例えば渋沢敬三のような人物を。日本の民俗学者たちのパトロンになって、柳田国男や宮本常一を育てた。渋沢敬三は第一等の人物だ。神田には、古書店、岩波ホール、そしてカレーライス、これはいわば日本国憲法なのだ。責任者を呼んで来い! だ。私から映画を取ったらタンメンから野菜を抜いたスープメンみたいな、人間になってしまう。新作映画にトライしているのだが、イメージがふくらみすぎて、ふくらんだ夢が破裂しそうだ。コロナ禍の正確な情報が分からない。聞く力を言う総理大臣は、このところ美食三昧だ。誰の話を聞いてんのだ。しっかりしろ! といいたい。ネットフリックス配信の新聞記者を昨夜から今朝まで一気に見た。第一話から第六話まで(約六時間)、米倉涼子が実によかった。ハイヒールを履いていない、ファッションは地味、顔もそれなりのメイクであった。日本の資金ではとても作れない、鋭く深く内閣官房の闇を追っていた。政治はオドロオドロだ。私たちは監視されている。本日の朝七時〇三分、お雑煮を作ってもらった。でも、オモチは抜いてもらった。つまりトリ肉野菜汁だ。これから身内の納骨のために出発する。コーヒーを一杯、そういえば、クリープを入れないコーヒーなんてそんなCMがあった。岩波ホールのない神田なんて。立ち上がれ江戸っ子よ。(文中敬称略)



2022年1月7日金曜日

つれづれ雑草「寅年」

令和四年400字のリングが鳴った。年末年始はひたすら修行僧の如く映画を見た。私の心情は葉隠と同じで、一日一死朝起きたらそこに死有りの気持ちでやって来た。俺たちに明日はないという映画があったが、俺には明日はない。だから今日やることは今日やるのだ。明日という字は、明るい日と書くのね、なんてヒット曲があったが、世の中にすっかり明るい日はなくなってしまった。大晦日の楽しみであった、総合格闘技の試合も強い外国人がコロナ禍で来日できずマッチメイクがメタメタになった。現役の日本人vs引退していた日本人の試合などで、中継時間が一時間以上も残ってしまった。会場に行った人は、金返せであったろう。現在世界のプロスポーツのマネーランキングのトップは、総合格闘家UFCのチャンピオンだ。全盛期のタイガー・ウッズをも超える。年収約197億円。人間は残酷を好む動物で、人と人がボコボコ殴り合い、ビシバシ蹴り合い、ギューギュー首や関節を絞め合い、血みどろになるのを見て興奮する。いっそどちらかが死んでしまったら大拍手なのだ。一人のスターは、少年院を出て、喧嘩番長となり格闘家になった。そして人気ユーチューバーにもなり、登録者数は200万人以上となり、年収10億円を稼いでいると言う。会社も8社やっているとか。路上で殴り合い、蹴り合いをすれば、暴行傷害で少年院か刑務所送りだが、リングの上ではすべてが許され(ルールはある)勝ち続ければ大金が入るのだ。年末に行なわれた紅白歌合戦などという、時代外れのNHKの看板番組の視聴率が、34%位だったとか。かつては80%を超え、70%台を普通にとっていたが、この頃は40%台をウロウロ、結果、大惨敗といえる。おそらくNHKをはじめ外注先の何人かが、どこぞに飛ばされるか、閑職に追われ座敷牢生活となるだろう。私はいつ見たか思いだせないほど見ていないが、ある映画のシーンの中で見た。倉本聡脚本、故降旗康男監督、木村大作撮影という名コンビ、故高倉健主役である。何度も見たのだが、年をまたいで映画監督を志す18歳の若者に見せた。舞台は真冬の北海道だ。倉本聡は冬が得意だ。それと手紙だ。北海道警の刑事である高倉健が、増毛駅前にある桐子と書かれた赤提灯の店に入る。雪は深く静かだ。客はいない、カウンターだけの客。座ると左奥に小さなテレビがあり、そこに紅白歌合戦が流れている。桐子という和服の女が、お銚子の酒をつぎながら言う。私この歌大好きなの、 お酒はぬるめの 燗がいい 肴はあぶった イカでいい 女は無口な ひとがいい……。故阿久悠の作詞による、名曲「舟唄」と、倉本聡の言葉とがしみじみと行き交う。女はポツンと言う。年の瀬になると、札幌ススキノのホステスさんの自殺が増えるのを知っている(?) どんな男もこの頃になると、自分の家に帰ってしまうからね。と、まあこんなやりとりが交わされる。この映画「駅 STATION」が上映された頃の紅白歌合戦は視聴率は74.9%だった。645年は大化の改新と中学時代に教った。2022年は退化の怪新の年となるだろう。文明は進化し、人間は退化する。コミュ症人間が大繁殖し、人と人の間は、人______間位に広がる。あいさつもできない。ハガキ一枚が書けない関係となる。進化論のダーウィンもまったくついていけないほど人類が退化する。つまるところマスクをした類人猿に帰って行くのだ。北朝鮮が冬の花火のようにミサイルを発射した。でもって私は確信した。目の前に映る金正恩は影武者であると。よく見ると、ビミョーに違うところがある。激太りした糖尿病の人間が、顔色ツヤツヤに激ヤセしたという例は、皆無に等しい。おそらく妹とその一派が実権を持ったのだろう。人間のクローン化などは、カップラーメンをつくる位にカンタンらしい。2日と3日箱根駅伝のランナーに声援を送った。監督が乗っている大きなボックスカーから、いいぞ、いいぞ、ここでお前は男になるんだ、ここでお前は神になれるんだ。そんな大声が聞こえた。コロナ禍の第六波がやはり来た。経済団体の賀詞交歓のパーティのニュースを見た。企業名は知っていても、大将の名は知らぬ人ばかりだ。天下国家を語る人間は一人もいない。今年は寅年。フーテンの寅さんの年だ。寅さんは旅先から葉書を出す名人であった。昨年、私は身内、恩人、身内、師匠、友人、身内と、春先きから年末まで不幸の連続だった。そのため、喪中の葉書が間に合わなかった。年賀状をいただいた方々に、心よりお詫びを申し上げる。この場をかりて、皆々様にとって幸多き年でありますようにとお祈りする。体調専一に。労働者諸君、今日も元気に働いているかい。寅さんの声がする。あ~嫌だ嫌だ、初代おいちゃんの声もある。私は最終ラウンドまでファイティングポーズをとりつづける。場末の芸人としてもっと芸を磨いて行く。人生の勝負はマイッタといったらそれで敗けとなる。虎は死んで皮を残す。人は一代、名は末代という。一日一日この言葉を大切に生きる。時には鬼にもなり、時には仏になって行く。(文中敬称略)



2021年12月25日土曜日

つれづれ雑草「良いお年を」

400字のリングは、2021年の最終ラウンドとなる。今年あなたの目は何を記憶しているだろうか。あなたの耳は何を記憶しているだろうか。あなたの口は何を記憶しているだろうか。あなたの体は何を記憶しているだろうか。権力、腐敗、隠蔽、堕落、絶望、失望、不信、不況、不安、虚言、暴言、消毒、疫病、感染、監視、殺人、狂気、成長、歓喜、憤怨、富裕、貧困、格差、混乱、幸福、底辺、権利、欲望、閉店、自粛、未練、怨念、謀略、選挙、勝利、敗北、不正、正義、発明、発見、天才、恋愛、賛美、醜悪、放火、道連、自殺、親子、兄弟、姉妹、別離、絶縁、借金、地獄、快楽、倒産、解消、不倫、大食、飲酒、肥満、卑怯、密告、悲哀、運命、宿命、寿命、宗教、奇蹟、人間。書き始めたら終りなき、この身に出会った二文字の群れだ。一年365日、一日24時間がもうすぐ終わり、丑から寅へと干支が変わる。アンソニー・ホプキンス主演の映画ではないが、日本人は怒りを忘れた羊たちの沈黙となっている。自浄装置が壊れてしまった国家はどこへ行くのだろう。世界一高給取りの日本の政治家は、世界一働く政治家になってくれるだろうか。権力の走狗となっている経済人たちは、少しは存在感を出してくれるだろうか。パンドラの箱の中に残っていた希望の二文字を持たねばならない。地球上の生き物で希望が持てるのは人間だけなのだ。夢が見れるのは、人間だけなのだ。今年見た映画の中でいちばんいいと思った作品を記す。台湾映画の「ひとつの太陽」だ。一人の不良少年が犯罪を犯して少年院に入る。悪ガキたちに激しい暴力を受けながらも、少年は黙々と耐えつづける。そして戦う時は、戦う。ある日食堂で食事をしているとき、院内放送で少年に退院する準備をと放送される。刑務官に見張られながら食事をしていた悪ガキたちが、ある歌を歌いだす。一人二人三人と歌は広がる。その歌は沖縄のミュージシャン喜納昌吉が歌った「花~すべての人の心に花を~」だった。詞は台湾バージョンになっている。 花の心は蕊(しべ)に隠れ 盛りを逃す 君の心は季節を忘れ 扉を閉ざす 私と手を取り合い 太陽と月の歌を 共に聞こう 昼夜は巡る 昼夜は巡る 人生の喜びは あとどれほどか 春は過ぎ また訪れる 花は枯れ また咲き誇る 君が望むなら 君が望むなら 心の海に 夢の船を浮かべよう……。小さな体の少年の根性は、いつしか悪ガキたちからリスペクトされていたのだ。ある人は言う。この地球で平等なのは一つだけだ。それはひとつの太陽だと。少年を見捨てたと思っていた父親は、究極の決断をして少年の更生を支える。無言の愛だ。年が終り、年が来る。ひとつの太陽が、きっとみんなに陽を当ててくれるだろう。沈黙する羊は、戦う寅となるだろうか。地球が氷河期になった時、地の底で生きつづけたのは、逞しい植物たちだった。ひとつの太陽は平等だ。花は咲き誇る。その日がきっと来る。みなさんよいお年を迎えてください。友よ答えは風の中を舞っている。メリークリスマス。



2021年12月18日土曜日

つれづれ雑草「12という数字」

12月は一年の内で最も嫌いな月である。少年の頃、亡き母が一生懸命働いて稼いだお金を卓袱台の上に出して、これはお米屋さん、これは魚屋さん、酒屋さん、布団屋さん、肉屋さんと、たまっていた支払い金を封筒に入れて行く。無尽とかいってご近所さんから借りていた金を入れる。目の前のお金がどんどん消えて行った。嫌な月なんだと思った。それを引きずっている。気がつけば私自身も長い長い間、12月は支払いに追われつづけてきた。給与と賞与を支払いつづけてきた。一人二人だった頃の会社がなつかしい。ガボッと揃えることもなかった。チョコットだった。一人で始めたら一人に帰る。これが芸人の掟と思っている。鮭は川を上り産卵する。奇跡的な旅をしたあと、生まれた川に帰ってくる。そこで産卵する。その死骸は分解され、海洋で得た栄養分を運ぶことで、川や陸地の栄養分となる。産卵前に熊やキツネ、鳥たちに食べられた鮭も、排泄物が森のなかで木々の栄養分となり、その木々は落ち葉となり大地を育む。森から生まれる水は集まり川となり、水生昆虫やエビなどの小動物を育てる。産卵から生まれた鮭の子たちは、それらを食べて生まれた川を出て奇跡の旅に向う。そして母なる川に帰ってくる。一つ一つの命が大自然を育てるのだ。人間はこの営みを忘れてはいけない。自らを生んでくれた母を大地や川と思いつづけねばならない。母とは命なのだ。それじゃぁ父はとなるが、これは存外役に立つものでない。射精は小さな花と書いた人がいたが、そんなものである。長澤まさみが主演女優賞を受賞した「MOTHER マザー」という映画を見ると、幼い兄妹がどうしようもない母親だが、決して離れない姿に涙する。少年の頃見た映画に「日本の母」というのがあった。終戦して何年か経った頃の物語だ。現代社会に置き換えられる。年老いた母を三人の子たちは、たらい回しのようにして面倒から逃れようとする。息子、娘、嫁たちは自分たちの生活が大切だから。ある雪の夜、老母は老人保護施設の前で倒れてしまい施設に救われる。やがてシベリアの捕虜生活から、やっと日本に帰ってきた末っ子の男が、母を見捨てた兄や姉をなじり倒す。そして施設にいた老母を見つける。お母さんもう心配ないですよ、僕がしっかり守りますよと言う。今の世はちっとも豊かになってはいない。むしろ精神構造は貧しくなっている。一度立ち止まり、富のことばかりで生きてないかを考えねばいけない。アマゾンの原住民たちの方が、全然心が豊かなのだ。鮭に学べよ人間たち。12という数字には興味ある。Zodiac(ゾディアック)は12宮、太陽と月とおもな惑星の中を運行する獣帯(星座の何なっている)。カレンダーは何故12月まで、時計は何故12時から始まるのか、干支は何故12種か、キリストの使徒は何故12人か、一ダースはなぜ12個か、考えるといろいろある。花札も12月までだ。探せばきっとまだまだある。嫌な12月も残り少なくなってきた。ザ・ヘビーセイムオーを聞きながらこれを書いている。私の親愛なる友が、19日矢沢永吉さんのライブコンサートに行くと聞いた。人生はロックンロールだ。石は転がって丸くなったり、砕けてしまうが、転落こそ生なのだ。人の心をゆさぶる生きた言葉はそこから生まれるのだ。鮭の人生はロックそのものなのだ。つまんない名誉を追ったりしている人間は、遠くから見ると実にむなしく、富ばかり追っている人間は実にかなしい。とはいえ12月はまったなしなのだ。ソフトバンクの孫正義さんの顔つきが、すっかり変わってしまって見える。亡き母を苦しめた金貸しの顔だ。気分を変えるために、ちあきなおみの「紅とんぼ」を聞く。 新宿駅裏 赤とんぼ 想い出してね 時々は……。いい歌だよこの曲は。人間の本当の愛、やさしさがある。五年間やっていた小さな飲み屋を閉める歌だ。本当にお世話になりました、ツケなんて忘れていいのよ、今夜はみんなで歌ってねと。誰ももらってくれる人がいないから、故里に帰るのよと歌う。美空ひばりと並ぶ天才。ちあきなおみは、愛する男、郷鍈治を病気で失ったあと、歌うことも、顔を出すことも一切芸能活動をやめた。見事と言うしかない、男と女の愛だった。広尾駅の側で郷鍈治が喫茶店“COREDO”をやっている時に、時々店に行った。日活のスターだった宍戸錠の弟郷鍈治はスターにはなれなかったが、大歌手の心を手にした。ゴッツイ顔であった。いい顔とはこんな顔である。肺がんにより五十五歳没であった。午前三時を過ぎた。若者たちの間では静かな昭和ブームだ。私は演歌が流れる時代をと思っている。いい演歌は、いい文学である。で、故船村徹がギター片手に歌った名曲「別れの一本杉」を聞く。 泣けた 泣けた こらえ切れずに 泣けたっけ……。もうすぐ12月とお別れだ。(文中敬称略)