苺を贈っていただいた。
ピッタリ形が揃っている。近頃の温室栽培のものとは違うのだろう。大きく無骨で不揃いの苺である。
いかにも自然と共に生き抜いた苺だけが持つ誇りに満ちている。一口、二口、三口位要さないと食べきれない(四個分が一つになった大きさ)。極上の旨さである。
「長崎さちのか」と書いてある。
一パックに十個堂々として入っており食べる者にしっかり心して食べよと語りかける。
「苺」という文字を見る度に亡き母を思いだす。
「草冠に母」と書くからだろうか。雑草の逞しさと優しさに満ちていた母の愛を感じるのだ。
子供の頃、苺を食べる時、ガラスの中鉢の中に苺を五〜六個入れてスプーンの裏でよくつぶし牛乳を入れる、そして又よくつぶす。牛乳がうすい桃色になるとまずその桃色をすする。
そして形のなくなった苺と共にひと匙、ふた匙と食べる。兄弟六人であったから一人五個とすると六十個は必要だったわけだ。
苺は今は高級果実だがあの頃はそれ程でもなかった。
が、しかし貧乏な家庭には飛び切りのデザートであった。人間は漢字と言うのを本当に上手にこさえて来たと思う。
一文字を見ただけで楽しかった過去と会えるのだ。「苺」なんともいい文字でありませんか。一度苺を牛乳に浸してスプーンの裏でつぶしていたら何をしてるのかと不思議な目で見られたのです。久々に食べ応えのある苺に出会い嬉しかったのである。
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