ページ

2019年12月13日金曜日

「あなたはまだ、帰ってこない」

遂に入ったぞ、「Netflix」に、これで「アイリッシュマン」が見れる。村西とおる監督の「全裸監督」も見れる。ヤッホーなのだ。山田孝之が全裸監督を演じ、絶賛されている。ナイスですね、ナイスですねと言いながら、女性の裸体と男性の裸体のくんずほぐれずを撮り続けた村西とおるは、自称公称50億の借金を抱えた。だがしかし、この男はこの世に男と女がいる限り、人間の動物的欲望が絶えることはないと、撮って、撮って撮りまくった。借金取りは金を回収しないうちは決して命はとらない(たっぷり保険金などがある場合は別だが)、生かさず殺さず、高い利子をとり続ければいい。これまた、ナイスです、ナイスですなのだ。山田孝之という役者は、生き様も演技力も凄い。「闇金のウシジマくん」なんて山田孝之のためにあったような映画だ(原作は劇画マンガ)。まい日オムライスにたっぷり赤いケチャップをのせながら、借金の取り立てを命じる。女性とは不思議な生き物で、どんなに頑迷な女優も、監督から芸術のため、芸術のため、君の裸のシーン、くんずほぐれずのシーンが必要なんだ、君しか演じられないんだよ、と三日三晩言われると、99.9%は落ちる(裸になりますと決意する)と言う。女優と監督が恋に落ち、愛に落ちるのは芸術のためという言葉にある。「アイリッシュマン」は私の大好きな監督マーティン・スコセッシの近作だ。3時間半ぐらいの長さで、ハリウッドも余りに予算がかかると、手を出さなかったのを、「Netflix」が資金を出し制作した。アイルランド系マフィア、そのマフィアよりも力があると言われた、全米トラック協会(組合)のボス、ホッファーの話がある。ホッファーはある日こつ然と姿を消した。ある映画では、ホッファーはウィンナーソーセージにされてしまった。ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ、大好きな俳優ばかりだ。出張先の仙台から帰る列車の中で、「風と共に去りぬ」の主人公スカーレット・オハラはなぜレット・バトラーに捨てられたか、それについてのことを読んだ。スカーレット・オハラは好きだった男にもフラレた。美しいのに、呈しいのに、知的で行動力があるのに。読むとレット・バトラーは、その全部が気に入らず、プライドの高さも気に入らない。この女と一緒になんてやってられねえと、去って行ってしまった。ということであった。風と共に去ったのは、レット・バトラーか、それともスカーレット・オハラにとって他に違う何かがあったのか。解説はそれを示していない。「明日があるわ」。アメリカの男は強い女性を好む。しかし朝から晩までアイ・ラブ・ユーを言わねばならない。まい日朝のキッスをしないと、裁判で離婚訴訟に負けると言う。よこしまな私は列車の中で考えた。村西とおる監督がスカーレット・オハラに挑んだら、どうなったであろうかと。ナイスですね、ナイスですね、ゲージュツです、ゲイジュツですと。と、バアーンと散弾銃の音、村西とおるが、スカーレット・オハラに撃たれて、ボロボロになって床に転がっている。夥しい血の中で、ナイスでしたと言って笑う。この頃著しい不眠症のせいで、レンドルミンといいちこが、私の脳内をクリエイティブする(?) 私自身は全然ナイスではないのだが、映画があれば安定剤の役目をしてくれる。現在午前三時四十四分十三秒。女流作家の自伝映画を見終わった。1945年ドイツ降伏、パリ解放、愛する男はずっと待っても帰って来ない。ヒトラーが自殺したと聞きながら小説を書く。続々と収容所から人が帰ってくる。愛する男は帰って来ない。スパイだったのか、密告者だったのかは分からない。あるいは収容所のガス室で死んだのか。全編文学的言葉が続く(2時間)。実に見応えがあった。一人の女流文学者の、愛する男に込める強い愛が尊い。題名は「あなたはまだ帰ってこない」。作家は20世紀最大の女流作家と言われたマルグリッド・デュラス、「愛人/ラマン」が有名だ。愛とは何か(?) と悩んでいる人にはぜひ見てほしい。すばらしい文学作品だ。の日本にはできない。すでに文学作品は絶滅的だからだ。文学者も生原稿で書くことがなく、PCで打つようになり(または口述)、劣化している。全然ナイスではないのだ。全裸になれ芸術のために。我が身をさらし出せ。純文学はそこから生まれる。 


0 件のコメント: