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2020年8月3日月曜日

第82話「私は応援」

私は「応援」である。八月一日土曜日午前九時四十五分プレイボール。私応援は高(三)の孫の野球の応援席にいた。孫はあと3試合で高校野球生活を終える。日曜日と月曜日には応援に行けないので土曜日に行った。相手は三浦学園という強いチームだった。野球の試合は孫の学校の野球場であった。横須賀線保土ヶ谷駅からタクシーで1500円位の所にある。映画を見ながら朝までずっと起きていた。八時四十分お世話になっている運転手さんに来ていただいた。グラウンドに着くと、丁度両チームが気合と共にホームベースのところに行き、相方礼をして試合は始まった。先攻は孫たちであった。孫は三塁を守り打順は五番であった。前の晩に食事しに来ていて、観に来たら絶対打つよと言って帰った。一回表孫たちは0点。その裏相手に4点をとられた。孫は第一打席鋭い当たりで、三遊間を抜いてチーム初ヒット。すかさず盗塁に成功した。ウオーヤッタヤッタと拍手。私はネット裏のスタンド真ん中にいた。年配のOBがたくさん来ていた。第二打席カッキーンと、凄いライナーでショートオーバーのヒット。ウオーヤッタヤッタ。しかし、相手はよく打つその後3点、1点と追加点。第三打席は四球で出塁すかさず盗塁したがタッチアウト。8対1のまま最終回、第四打席は満塁であった。カッキーンとセンター前ヒット。ウオ~ヤッタァー、ヤッタァーと大拍手、二打点をあげた。試合は結局8対4で負けた。私は二時には家に帰らないといけないので一試合だけ観た。四打席三打数三安打一四球、二打点、チーム一の成績であった。強い陽射しを受けて顔はヒリヒリとしていた。両手は拍手のしすぎでふくれていた。一打席ごと試合には仕事で来れない息子に、ガラケーで報告した。来てよかった。サイコーだった。小学一年生からずっと野球をしていた孫は、もう野球はしないと言う。保土ヶ谷駅までタクシーに乗って横須賀線久里浜行に乗った。大船で東海道線に乗りかえる。久里浜かとホームで思った。三分間ホームで待ち時間。少年の頃大好きだった先輩の面会に行った。久里浜の特別少年院を思い出した。「特少(トクショウ)」というのは文字通り特別に選ばれた不良少年が行く。当時は初等・中等・準特少、そして特少というランクがあった。久里浜は海のそばなので水泳の教練がある。先輩は水泳が苦手であったので、水泳の教練がキツイと言った。体は小さいがその根性は、すでにヤクザの間では一目置かれていた。十九歳でヤクザの幹部を斬り殺して入っていた。同じ中学の三つ上の先輩だった。久里浜の特少と言えば、羽仁進監督の「不良少年」という映画を思い出す。上映した年キネマ旬報のベスト1位になった不朽の名作だ。久里浜の特少と同じセットを作って撮影した。同じ年黒澤明監督の「用心棒」が大ヒットしていた。映画はこんな少年の言葉から始まる。「俺は銀座を歩いたことがない。護送車の中から見ただけだ」実際の不良少年たちを起用した映画は、監督賞も受賞した。私が生涯見て来た映画のベストファイブに入る。撮影が「金宇満司」さん。後に石原プロモーションで、石原裕次郎さんの名作を撮り続けた名カメラマンである。ホームに久里浜行が入線して来た。空席に座ると隣りに黒い短パンのマスクした外人、その外人と手をつないで座っているのは、ジーンズの短パンの若い日本人女性。なんだか横須賀線ぽい気分になった。石原プロを解散というニュースを思い浮かべた。いずれこの国のリーダーになる人を、今は支えている、ヨットマンでもある名物プロデューサー。調布にあった建築の現場にあるようなプレハブの石原プロ、駐車場にはシャワー付きのロケバス、大きな炊き出し用の鍋、裕次郎さん愛用のボロボロのソファー、映画屋の城はかくあるべしという、二階建てのガタピシの石原プロモーションがイカシていたシビレるような低く太い声の渡哲也さん、ジャケットのサイズが全く私と同じだった、舘ひろしさん。映画大好きの男たちの臭いがたまらない。ずっと野球少年だった孫は、映画の専門学校に行くと決めたようだ。映画屋はいいぞと、私がいつも言っていた影響だろうか。孫の親友は寿し職人になると言う。私応援は少年たちを、応援しつづける。大人は少年を経てしかなれない。私応援は、善良なフリしているつまんない人間は応援しない。不良の方がいいのだ。


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