その地には、決して無くならないものがある。例えば北海道なら“阿寒湖”これがないとアカン。青森“三内丸山遺跡”、秋田“きりたんぽ”、岩手“一関常堅寺”(ご住職夫婦がいい)、山形“さくらんぼ園”、宮城“松島”、福島“鶴ヶ城”、新潟“魚沼コシヒカリ”、栃木“那須高原”、茨城“日光国立公園”、群馬“下仁田ネギ”、千葉“銚子港”、埼玉“佐野ラーメン”、長野“千曲川”、山梨“ぶどう園”、神奈川“とんかつ大関と紅がらのそば”(地元なので二つ)、富山“ホタルイカ”、静岡“富士山”(山梨にも有)、石川“兼六園”、愛知“名古屋城”、福井“越前ガニ”、岐阜“郡上八幡”、滋賀“琵琶湖”、三重“志摩半島”、奈良“奈良漬”、和歌山“紀の川”、京都“嵐山”、大阪“通天閣”、兵庫“神戸牛コロッケ”、鳥取“砂丘”、島根“出雲大社”、岡山“林源十郎商店”(社長が熱い)、広島“原爆ドーム”、山口“松下村塾”、香川“さぬきうどん”、徳島“室戸岬”、愛媛“道後温泉”、高知“明神のカツオ”、福岡“屋台村”、大分“宇佐神社”、熊本“熊本城”、宮崎“日南海岸”、佐賀“嬉野茶”、長崎“ちゃんぽん”、鹿児島“桜島”、沖縄“ホテル・フォールームス”(親友が経営している)。私は仕事のおかげで日本全県に行っている。そのおかげで全県に一人は知り合いがいる。マグロの漁師、トド漁の射撃名人、お寺のご住職、陶芸家、考古学者、染職作家、和紙づくりの達人、メガネ職人、左官の天才、切り絵の名人、木工づくりの変人、マタギの頭領などなど多種多様の人たちと交流している。さて、東京の話だが、東京といえば神田の“岩波ホール”だ。神田は日本中の探究の徒とか、学究の徒が古書店に来る。知の倉庫の街だ。一月十四日の新聞に「岩波ホールが七月に閉館する」という記事があった。その背景は、観客層が高齢化して、若者たちがパソコンやスマホで映画を見るようになり、これ以上経営が成り立たない。岩波ホールのようなミニシアターは良質な作品、小さな国の作品、政治的に揺れていてやっと作れた作品、文学、哲学、反戦、宗教や性についてとかを追った作品。非暴力や人間の暴力性を、徹底的に追求した骨太の映画を世に問う場所であった。あなたが肉マンを買いにいって買ったら、肉が入っていなかった。ラーメンを食べに行ったら、チャーシューが入っていなかった。おでん屋さんに行ったら、カラシがなかった。吉野家の牛丼を食べに行ったら、紅しょうがなかった。その時はあなたはきっと心を乱すだろう。私ならきっとオリヤー何してんだと怒るだろう。カレーライスに福神漬(赤いのがいい)は、絶対の関係なのと同じだ。東京・神田神保町・岩波ホール。1968年に開館した岩波ホールは、日本のミニシアターの巨星だった。良心の館であったのだ。私の密かな理想の死に方は、岩波ホールで映画を見ながらであった。一人ポツンいちばん前の席で。バカヤローなこの文化後進国は、韓国の10分の1しか文化予算を使わずに、どうでもいいことに莫大な金を使う。神田“神保町”とは、文字通り、さまざまな神の意志を保つところなのだ。文部大臣の顔が浮かばない、文化庁の長官は見たこともない。それ位軽量な扱いをしているのが、この国の政治文化なのだ。7月までに未だ時間がある。閉館反対! 俺がパトロンになる。そんな経済人を見てみたい。例えば渋沢敬三のような人物を。日本の民俗学者たちのパトロンになって、柳田国男や宮本常一を育てた。渋沢敬三は第一等の人物だ。神田には、古書店、岩波ホール、そしてカレーライス、これはいわば“日本国憲法”なのだ。責任者を呼んで来い! だ。私から映画を取ったらタンメンから野菜を抜いたスープメンみたいな、人間になってしまう。新作映画にトライしているのだが、イメージがふくらみすぎて、ふくらんだ夢が破裂しそうだ。コロナ禍の正確な情報が分からない。“聞く力”を言う総理大臣は、このところ美食三昧だ。誰の話を聞いてんのだ。しっかりしろ! といいたい。ネットフリックス配信の“新聞記者”を昨夜から今朝まで一気に見た。第一話から第六話まで(約六時間)、米倉涼子が実によかった。ハイヒールを履いていない、ファッションは地味、顔もそれなりのメイクであった。日本の資金ではとても作れない、鋭く深く内閣官房の闇を追っていた。政治はオドロオドロだ。私たちは監視されている。本日の朝七時〇三分、お雑煮を作ってもらった。でも、オモチは抜いてもらった。つまりトリ肉野菜汁だ。これから身内の納骨のために出発する。コーヒーを一杯、そういえば、“クリープを入れないコーヒーなんて”そんなCMがあった。岩波ホールのない神田なんて。立ち上がれ江戸っ子よ。(文中敬称略)
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