九月一日午前一時二十五分十八秒になった時、そうだ月を見ようと思い外に出た。月がいちばん大きいという記事を思い出したのだ。日をまたいだが確かに月が大きく輝いていた。いつもは電池が切れた懐中電灯みたいのが、新しい電池を入れたばかりのように煌々としていた。星たちはいつもよりはるかに多くその月に従っていた。あるいはその夜空を演出していた。ふと「ツキノワグマ」という言葉を思い出した。先日牛60数頭を襲ったという、体重330kg凶暴な巨大熊を猟師が射止めた。その数日後のニュースを見ていると、五十歳位の見栄えの悪いオッサンが、これはやわらでウマイ! ウマイ! と巨大熊を食べていた。人間はやっぱり地球上でいちばん凶暴なのだ。一日の朝辻堂駅西口にあるコンビニで新聞を買ってレジに向うと、一人のご婦人が私の前に並んでいた。アップルジュースの紙パック(小さいの)とコロッケ二個、から揚げ棒を一本買っていた。前の晩ご主人と夏の夜の営みをしたのだろうか、マッタリとして全身から気が抜けている。女性は後姿に物語が出る。髪は乱れサンダルを履いた足は広いガニ股だった。真夏の甲子園大会の決勝戦は、九州に出張している最中で見れなかった。佐賀空港に着くと、慶應高校が8対2で仙台育英高校に勝っていた。私は慶應の応援団のウルセーのが嫌いなので、友人の写真家やお世話になった出版社の編集長がいる、仙台育英を応援していた。勿論“おかやま山陽高校”も。ケイオー、ケイオー、陸の王者ケイオーを大集団で連呼され続けると、ウルセーとなるのだ。後日慶應の監督が、その応援の激しさを大学生の応援のようですまなかったと、スポーツマンらしい記事を読んで、素直にオメデトウと思った。自宅に帰り試合のダイジェストを見ると、実にいいチームであった。巨大熊の話に戻ると、西麻布の「またぎ」の店主が亡くなったことを教えてもらった。身長180センチ以上、体重90kg位、マタギ界の王、狙撃の王者があの世に旅立っていたのだ。キジ、シカ、イノシシ、ラストに熊鍋、味噌味の中に入った“すいとん”が絶品だった。私の親愛なる友とは射撃仲間であった。広島出身岸田文雄がアメリカの足の先までなめている。軍産国家アメリカのポンコツを、命じられるママに買わされている。世界中に第三次世界大戦への火種が生まれている。私は三島のファンではないが、三島由紀夫が生前書き残した通りになっている。この国は極東の片隅で衰え滅びていくだろうと。セントラルパークの中にトランプタワーは建てないだろうと、新進気鋭の経営思想家「斎藤幸平」がインタビューに応えていた。つまり神宮外苑の樹々をブッタ切って、高層ビルを建設する。名目上は神宮球場や秩父宮ラグビー場の建て替えが主目的だというが、やっているのは13年間かけてSDGsの時代の真逆の事業だ。世界では街路樹を増やす時代なのだ。銀杏の樹は水分を多く含み、防災に役立つのだ。日本人は怒りを忘れ、すっかり羊たちの群れになってしまった。私が20歳となり堅気の仕事を始めた「西武」と「そごう」が大安売りセールで売り出されて、外国資本に買われてしまった。久々にストライキという言葉が躍動している。ガンバレ労働組合よ。1970年代はサブカルチャーが花開いた。寺山修司、唐十郎、土方巽、全共闘、六本木族、みゆき族、野獣会、ヴァンジャケット、サイケデリックアート、旧体制打破とばかりに、前衛芸術がメッセージを世に送り出した。雑誌アンアンやノンノンが出版された。平凡パンチ、ポパイ、ブルータス、マガジンハウス全盛となった。銀座のマガジンハウス本社の側に、編集者たちが深夜作業を終えて、あるいは仕事の途中で、一杯飲み、いっぱいおでんを食べた。地下一階の「舟よし」のおやじも先年この世を去った。飲み仲間の女性エステシャン(インディバ式)と虎の門病院に見舞いにいったら、気がついたらこんなに高い病院に担ぎ込まれていたよと笑った。店の中で倒れていたのだ。実に魅力ある人であった。店のカウンターに私の書いた下手な本や、映画のフライヤー(チラシ)を置いてお客さんに、コノヒトのだよと宣伝してくれた。得意だったのはなんといっても、ボラの卵でつくる“カラスミ”だった。黄金色の大きなチンポコみたいのが、店内にズラリ、ズラリとぶら下がっていた。一ヶ月以上かけて作る、その味絶品、一ケ五千円~一万円であった。先日、新富町のおすし屋に仕事仲間といたら、ワァ~ビックリと、一緒に見舞いに行った、エステシャンの女性が声をかけてきた。男性と一緒だった。オ~、久しぶり、以前よりもっと美人になっていた。舟よしでは深夜、とりの唐揚げをいくつも食べていた。ストレス食いなの、太ったっていいのよと言っていた。今、私は脈絡のないことを書いている。九州で活躍している友人や後輩と、アッとオドロク仕事をしている。否、またやったんですか、イケナイジョーダンを真面目にやっている。スバラシイ経営者の方と出会った。深夜の風は、その昔女と別れ話をしていた時と同じように、ぎこちない初秋の肌触りであった。十九の終わりに私は夜の世界を卒業し、昼の世界に入学した。有線放送から西田佐知子の歌う“灯りを消して”が流れていた。(文中敬称略)
0 件のコメント:
コメントを投稿